つかず離れず

 ――“大きすぎる力は、人を不幸にする"。

 これは、うちの好きなとあるゲームの登場人物が口にした言葉だ。初めてこの言葉を聞いた時、うちは感銘を受けた。
 人間は欲深い生き物だから、際限なく膨らんだ願いはいつしか欲望に変わる。過去を振り返りはすれど、止まろうとはしない。
 力を手に入れると使いたくなるのは仕方ない。けど、力の在り方は持ち主によって決まる。
 それだけは、忘れてはいけない。

 *

 巨大な黄金色の満月が、静まり返った世界を照らす。人気の失せた影時間特有の静寂の中を、1人の人間が駆け抜けて行た。
 その背後に追従するのは、明らかに人間ではない体躯の存在。銀色の髪を月明かりに靡かせながら、それは時折周囲に視線を走らせる。

「……間に合いそうか、これ?」

 ぽつりと呟く夏帆。常人には聞き取れない呟きに、背中の存在は肯定とも否定ともとれる沈黙を貫く。
 夏帆は影時間に入ると同時にアパートを出て、巖戸台分寮を目指して走っていた。遠くから聞こえる剣戟の音が、“始まった"事を物語る。
 とは言っても、こちらはあくまで様子見だ。積極的に大型シャドウ『マジシャン』を討つ気は微塵もなかった。
 寮の近くに到着すると、建物の外壁を上るマジシャンが視認できた。

「…………うへぇ、ありゃ無理だ。ゆかりが動けないのも納得」

 マジシャンを形成する、大量の手。多数存在する手が外壁を一歩上る度に、マジシャンの躯から黒い雫が落ちる。地面に落ちた雫は、みるみるうちに両手を生やして異形となった。

「『臆病のマーヤ』だったか。本体倒さないと無限に湧くんじゃないか……?」

 アメーバかヒュドラ? と内心げんなりしつつ、物影に隠れて屋上へ上がった大型シャドウの動向を音を聴く事で把握する。
 暫く屋上に意識を向けていると、辺りに轟く、咆哮が夏帆の鼓膜を震わせる。夏帆は努めて平静を保ち、南無阿弥陀仏……と呟いて身を乗り出した。ちなみに、念仏に意味は無い。
 次いでこちらまで届く、何かが切り裂かれる音。背筋に悪寒を感じた為、反射的に耳を塞ぐ。
 少しすると、マジシャンの気配はしなくなった。初めてシャドウに襲われたあの夜以降、多少シャドウの気配に聡くなったらしい。
 恐いもの見たさに、恐る恐る体を物影から現す。

「やっぱこっわーー……、猛烈に回れ右して帰りたくなってき……なぁっ!?」

 回れ右をしようとした次の瞬間、夏帆の視界で驚くべき事態が発生した。屋上が静かになったかと思うと、そこから何か――否、誰かが落下したのだ。
 屋上から聞こえる少女と思しき悲鳴。そしてこの場合、落下する該当者など決まっている。

「ばっきゃろー、選択肢ねーじゃん! なにいきなりBADENDまっしぐらなんだよーー!?」

 泣き声に近い叫び声を上げた夏帆は、咄嗟にアストライアを召喚してしがみつき、最速の疾走を命じた。あの寮は4階建てだ。打ち所が悪ければ最悪、命を落としかねない。

(知らん! うちは知らんからな、事後処理その他諸々アフターケアは任せましたよ美鶴先輩!?)

「――アストライア、投げろ!」

 落下地点まで、このままの速度で駆け抜けても間に合わない。そう判断した瞬間、考えるより先に動いた口が、分身に自らを投げろと命じていた。
 そして、夏帆は弾丸に近い速度で投擲される
。コンマ1秒でも違えば、両者が大怪我を負う状況。だが、夏帆はその荒業を実行し――

「※#£ヰ!」

 意識を失った少女を空中で見事に受け止め、後頭部からド派手に地面へ激突した。
 アスファルトの地面までは残り数メートルしかなかったが、抱えた少女が予想外の落下速度を伴っていた事も関係していたのだろう。
 ゴンッ! と脳内で頭蓋骨が割れんばかりの打撃音を響かせる。言語化不能の悲鳴を最早気力のみで押し殺し、なんとか身を起こして腕の中の彼女を横たわらせた。
 アスファルトに女の子を寝かせるのはどうかと思ったが、バタバタと複数の足音が近付いてきたので、夏帆は急いで立ち上がる。
 月光に照らされて、どこか苦しげにも見える表情で眠る彼女にごめん、と小さく謝罪を残し、さっきまで隠れていた物影に迅速に駆け込んだ。

「~~~~ッ!!」

 寮生全員が、少女の元へ脇目も振らずに向かって行く様子を見届けて一安心する。安心した所為か、忘れていた後頭部の痛みが急速に蘇ってたまらず膝を付いた。
 指先が僅かに触れただけで、過去に経験した事のない激痛が走る。頭の神経が素手で引きちぎられるような錯覚を覚えた。
 そのあまりの痛みに声も出ない。これは瘤が出来るなんて軽い症状では治まらないだろう。

「死ぬって……! 事故った時以上にくっきり三途の川が視えたぞコレ……!」

 軽率だったと思いながらも、桜が無事ならいいかと無理矢理プラス思考に持っていく。
 数分後、経過が気になった夏帆は、後頭部を押さえながら三度(みたび)物影から様子を窺う。
 どうやら、彼らは話し合いの末に一旦寮に戻る事にしたようだ。銀髪の少年が呼び出したペルソナが桜を抱え、静かに浮遊する。

(やれやれ……、フラグ回避)

 夏帆はこちらの存在が露呈しなかった事に心底安堵して、ずるずると建物に背を預けて座り込む。脱力感が酷く、動く気にならない。

(影時間が明ける前には……帰らない、と、な……)

 体を動かそうとした途端に、視界がぶれた。どうやら、無茶な強行軍に精神はとっくに限界を超えていたらしい。

「やば……」

 視界が明滅し、力の入らなくなった体が傾く。意識が落ちる直前に独りでに召喚陣が浮かび、アストライアが姿を現した。
 気の利く半身に礼を言う暇も無い。もたれかかるようにして体を預け、夏帆は意識を手放す。
 そんな夏帆を横抱きにしたアストライアは一度だけ巖戸台分寮を振り向き、安息庵を目指して上昇、滑空する。金色の瞳には、どこか呆れたような光があった。

 *

「おはよう……」
「あ、高野さん、おは……よ……?」

 次の日、登校して来た夏帆を見たゆかりは、同級生の姿を見て思わず上げかけた手を止めた。
 それもその筈だ。夏帆は目深に冬物のニット帽を被り、僅かに帽子の下から包帯が顔を覗かせているのだ。驚かない筈がなかった。
 本人は、いたた……と呟いてしきりに後頭部を押さえている。ゆかりには何があったかは分からないが、怪我でもしたのかと心配になって訳を訊くと……

「うん? 実は昨日の夜に、ちょっとドジ踏んじゃってね。盛大に後頭部ぶつけちゃったんだ」

 もう痛いのなんの。そう笑って、夏帆は鞄から1限目の教材を取り出す。誤魔化された気もしたが、ゆかりにはそれ以上突っ込む事が躊躇われた。

(昨日の……夜、)

 昨夜の体験を思い出し、視線は自然と夏帆から今は居ない桜の席に移る。自分をシャドウから救ってくれた、最低限の礼も言えていない。
 思い出すと、あの状況で役に立てなかった歯がゆさと、彼女に対する申し訳なさが込み上げてくる。

「――ぃ、おーい岳羽さんってば」

 ぼんやりしていたゆかりは、顔の前で夏帆が手を振っていた事に漸く気付いた。

「あ、えと、何?」
「特には。ただ、ずーっと呆けてるから、こっちも気になってね」

 授業始まるよと着席を促され、ゆかりはざわついた気持ちのまま席に戻る。結局、その日の授業を全て聞き流して彼女は部活へ向かったのだった。
 ――教室から若干覚束ない足取りで出て行くゆかりを、夏帆は机に頬杖しながら見送る。

(……思った以上にキてたっぽい?)

 だが、これは彼女自身の問題。自分が気にしても、今はまともな接点すらない。そう思い、無言で帰宅の準備を進める。その時、教室のスピーカーから校内放送のベルが鳴った。
 そこから流れてきた音声は、肩に鞄を掛けて今まさに帰ろうとしていた夏帆の足を止めるのに十分な内容。

《2年F組、高野さん。校内にいたら、職員室まで来てね》

(げっ……鳥海先生? 何も校則違反してないぞ、うち)

 スピーカーに目を向けていたクラスメート達の視線がこちらに集中する。目立つ気のない夏帆は、さっさと済ませて帰る為に早足で廊下を渡り、職員室へと向かう事にした。
 数分後、職員室前までやって来た夏帆は、放送に従った自分に張り手をくらわせたい衝動に駆られた。まあ、担任からの呼び出しをすっぽかす度胸がないのが本当だが。
 職員室前には呼び出し人の鳥海がいて、誰かと話をしている。

「あっ、来た来た。高野さん、こっちよ」

 そう言って鳥海が半歩分、道を開ける。鳥海の前に立っていた彼女は、前日に講堂で行われた生徒代表挨拶でしっかりと記憶していた。いや、元々知っていた。

「――君が、か。ようこそ、月光館学園へ。私は生徒会長の桐条美鶴だ。無理に呼び出してすまない」
「……初めまして、桐条先輩。お会い出来て光栄です」

 桐条美鶴。彼女に担任経由で呼び出された事に驚きながら、差し出された手を握る。2人を見ていた鳥海は、夏帆の肩をポンと叩き、

「桐条さん、何か話があるみたいよ。先生は職員室に居るわね」
「あ、はい」

 閉まった職員室の扉を見つめる。どうしたものか、と夏帆が思っていると、美鶴に声をかけられた。

「大丈夫か? まだ、ここでの暮らしは慣れていないだろう?」
「――ぇ、」

 “ここでの”と言われ、まさか素性を知られているのでは、と夏帆は緊張で僅かに体を強ばらせる。
 それを違う意味でとったのか、美鶴は場所を移そうと言い、廊下の先を目指して歩きだした。
 目の前の背中を見ながら、夏帆は昨日の手伝いの最中に眞宵堂の店主から聞かされた話を思いだす。転入手続きが出来たのは、店主が直接、桐条総帥に掛け合ってくれたからだと。

 ……もしかしたら、娘であり次期総帥の彼女は自分が異世界の人間だと知っているのではないか?

 一抹の不安が胸をよぎる。案内された先は生徒会室だった。適当に座っていいと椅子を勧められ、夏帆は礼を言ってからぎこちなく近くの椅子へ着席する。
 対面に美鶴がパイプ椅子を引き寄せて座り、彼女はどこか気遣うようにテーブルの上で指を組んで

「君の事は、お父様……総帥から聞いていた。シャドウに襲われて記憶喪失とは……、さぞ大変だっただろう」
「……は、ぁ?」

 何じゃそりゃ、とついうっかり声に出しそうになったのをギリギリで堪える。
 そう来たか。身元確認も出来ない人間の素性を調べられないようにするには、うってつけではある。シャドウなどと言う非現実的な存在に襲われ、ショックで記憶がすっぽりとなくなった。
 どう考えても、桐条グループ相手にしか通じない奇策だ。

(便利すぎる……。てか昨日言われた“素性は心配しなくていい”って、こーいう事だったのか!)

 笑って、安心していいと話していた店主の顔が浮かぶ。夏帆の事を知るのは、桐条総帥と自分だけだと、店主は言っていた。漸く、意味が分かった。
 しかし、まるっきり二次元の設定だ。そもそも夏帆からすれば、ここは今も二次元であり三次元なのだが。店主の機転に舌を巻きながら、

「えぇ……と、確か、気が付いたら神社にいたんです。それ以前は……ちょっと、」
「そうか……。君の身の安全はこちらで保証しよう。そうするよう、お父様からも文書が届いている」

(や、なんていうか。バックアップの存在デカくない? 何してんすか武治さん!?)

 何やら大事になってきた雰囲気に腰が引ける。ついでに、夏帆が語尾をもごもごと濁せば美鶴は何やら深読みしてくれたらしい。日本語とは実に良い言語だ。

(しっかし、こりゃあマズくないか……?)

 美鶴は先程、“シャドウに襲われて”と言った。つまりこの話が始まった時点で、こちらが影時間を理解しており、なおかつペルソナを扱える事が伝わっている事は明白だ。
 仮にS.E.E.Sへ勧誘されたとしても、今の夏帆に加入の意思は無い。自分の身が大切なのだ。それに、死地に赴く度胸もない。
 そんな自分でも八つ当たりだと思う感情を抱いて心中穏やかでいられずにいると、美鶴に体調でも悪いのかと訊ねられた。それには首を振って否定の意を示す。

「高野、これは失礼な質問だろうとは思う。嫌なら答えなくていい。昨夜、君は何をしていた?」
「何、と言われましても、11時には寝ますよ?」

 美鶴の質問は、疑問の形をした確信だ。夏帆は口調が自然と固くなるのを感じる。なにせ、ペルソナ使いだと知られた以上は勧誘されると確信していた。
 その為、彼女の思いを知っていても突き放す。生死を賭けた戦いの当事者になって初めて思った。ヒーローごっこは余所でやれ、と。偽善者と罵られようが、どうあっても親友の元へ、両親の元へ帰るまでは死にたくないのだ。
 美鶴が必死なのは、頭では理解していた。それでも、感情の整理が追い付かない。胃の辺りがムカムカする。何に対してここまで苛立つのかすら、今の夏帆には分からなかった。

「……質問を変えよう。神路を助けたのは、君か?」
「申し訳ありませんが、質問の意味を理解しかねます。神路さんとこちらに、クラスメート以外で何か接点がありますか?」

 何故、こんな回りくどい門答をするのか。嫌気が差してきた夏帆は、呼び出しをすっぽかせば良かったと後悔する。
 本心では、今すぐでもここから立ち去りたいが、相手が相手なだけにそうもいかない。
 それにこの生徒会長は、目の前の後輩が桜を助けたと分かっている。全くもって、サーチ系のペルソナは厄介極まりない。
 雰囲気が悪化し始めた時、下校を告げる鐘が鳴った。夏帆は腕時計を見て安堵する。美鶴は壁の時計を見やり、

「話はここまでにしよう。気を付けて帰ってくれ」
「そうしますね、お先に失礼します」

 夏帆は速やかに席を立ち、美鶴に一礼してから生徒会室を後にした。

 *

 大型シャドウの襲撃は、巖戸台分寮に決して小さくない爪痕を残していった。割れた窓には応急処置としてベニヤ板が張られ、修理を待っている。
 美鶴は玄関前で立ち止まり、襲撃の傷が癒えていない寮を見上げる。問題が山積みになっている現状を考えると、頭が痛い。
 一つ溜め息を吐いて、中に入ろうとドアノブに手を伸ばした。
 ドアノブに手を掛けようとした時、ひとりでに扉が開く。内側から開いた扉の先に立っていたのは、銀髪の髪を短く刈り、ノースリーブの赤いセーターを来た男子学生。
 高等部3年、真田明彦。ボクシング部に所属し、美鶴と同じくペルソナを使役する少年。
 美鶴の様子を見て、真田は微かに眉を顰める。

「――美鶴? どうした、玄関で突っ立って」
「明彦。今日は病院じゃないのか?」

 桐条の専属医から、極力運動を控えるようにと注意された真田は、リハビリを兼ねて暫くは通院する事になっていた。
 その彼が玄関にいるという事は、ラウンジで寛いでいたのだろうか?

「病院なら済ませたさ。それより……お前、大丈夫か?」

 真田に指摘され、美鶴は疑問に思って問い返す。すると

「心当たりのある奴と話す、そう朝に言ってただろ。上手くいかなかったのか、その様子だと」
「……どうやら、彼女は随分用心深いようだ。直球で訊いたが、あしらわれてしまった」
「彼女? また女なのか」

美鶴、ゆかり、桜、そして自分。ただでさえ女性率の高いメンバーに、新たに加わるかもしれない人間も女。そろそろ男のメンバーが欲しいな、と明後日の方を向いて真田は考える。
 一方、またという言葉に気を悪くしたのか、美鶴は若干声音を低くする。明彦、と咎めるように名を呼ばれた真田は、慌てて顔の前で手を振って否定した。

「それで、どんな奴なんだ?」
「岳羽の同級生だ。詳しくは……神路が退院してからだ」

 美鶴が話を締めくくり、2人は寮の内と外へ別れる。しかし、彼らは知らない。その彼女はとてつもなく優柔不断で頑固者なのだ。親友に言わせれば、頑固さは核シェルター並に。
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