世界渡航

 夏帆の両親――高野栄作と清美は、2人ともごく普通の会社員だ。
 同じ職場で知り合い、栄作の一目惚れから始まったお付き合いを経て結婚。数年後に夏帆という子宝を授かった。
 その2人は今、娘の友人の両親と共に病院の待合室で娘の無事をひたすらに祈っていた。

「――木野宮さん、大丈夫よ、きっと。夏帆が凪ちゃんを庇ったって目撃した人から聞いたし、夏帆も……っ」
「高野さん……」

 母親同士で慰めあうも、やはり不安は離れない。
 清美は気丈に振る舞っているように見えるが、膝の上で組んだ手は力の入れ過ぎで白くなっている。
 微かに嗚咽をもらしていた凪の母は、緊急手術を行っている娘と、娘同然の夏帆の無事をただ祈るしか出来ないでいた。

「――先生! どうなんですか、あの子達は!」

 暫くして待合室に、栄作の声が響く。
 はっとして立ち上がった母親達の目の前を、看護師が押すストレッチャーに乗せられた凪が慌ただしく通り過ぎて行く。
 駆け寄った凪の母は、娘に涙ながらに声を掛ける。けれど凪の双眸は固く閉じられていて、開く気配はない。

「木野宮さんにお伝えして下さい。凪さんは外傷も少なく、1週間もすれば退院可能です。ですが、夏帆さんは……」
「どういう事ですか先生、私達の娘は大丈夫なんですよね!?」

 眼鏡の外科医に掴みかかりそうな清美を、栄作が抱いて止める。
 苦しそうに眉を寄せる外科医は、彼らに残酷極まりない事実を告げた。

「車に跳ねられた際、頭部に出来た傷が深いのです。割れたガラス片が数個刺さっていたので、数針縫いました」

 それに、と前置きした上で外科医は眼鏡を押し上げて言葉を続ける。
 医師曰わく、手術は困難を極めた。最善を尽くしたが、大脳皮質と呼ばれる五感及び記憶や言語を司る範囲に傷が遺ってしまうかもしれない。
 感情を感じさせない言葉に、夫妻は背中に直接氷を放り込まれたような言いようの無い悪寒に襲われた。

「つま……り、後遺症が残る、と仰りたいのですか……?」
「清美」
「ッ、あんまりです! あの子に、夏帆に罪は無いんですよ! それどころか、被害者で!!」
「落ち着け!」

 栄作の何かに耐える強い口調に、清美は両手で顔を覆って泣き崩れた。

「夏帆に会わせて下さい」
「分かりました。夏帆さんは集中治療室に搬送しました。こちらからどうぞ」

 栄作の願いを、外科医は迷う事無く聞き入れた。手術室の脇から集中治療室へ繋がる扉を開け、特別に夫妻を招き入れる。
 顔を上げられない清美を支えながら、栄作は外科医に会釈して扉をくぐった。

 *

 ――こぽり、ゆらり。こぽり、ゆらり。

(何だろ、コレ……)

 辺りが暗イ。自分が瞼を閉ジているから暗イノカ。
 カラダが動かなイ。腹に浮遊感が掛かり、ただひたすらに墜ちて行く事だけ分かる。

 ワカラナイ、コレは現か幻か。

(まァ、いっか……)

 別に気にする事でもない。墜ちるのなら、いっそ果てまで墜ちて――

(……墜ち、て? どこに。いや、それ以前に)

 ここはどこだ。今まで自分は何をしていた。
 思い出せ。思い出して、この幻から抜け出せと躯が叫ぶ。

(――?)

 下で一瞬何かが光った。閉じた瞼越しでも届くチカッチカッと点滅する物が、脳を刺激する。
 視神経に力を注いで強引に瞼を開けば、さほど距離はないと視認出来た。

(あ、)

 更に墜ちて近付いてみれば、発光源は鎖の付いた黄金色の卵だった。指先が触れた途端、卵に変化が起きた。
 パカリと蓋が開く。そこには、見覚えのある1枚の写真が収まっていた。
 毛先が跳ねた髪を肩まで伸ばした自分と、下ろせば腰に届くほど長いポニーテールの少女が肩を寄せて笑っている。
 一条の光が脳裏を駆け抜けるのを感じた。

(うちと……凪だ)

 見間違える筈がない。これは高校の入学式の時、正門前で撮った写真なのだ。
 手に取った金色――ロケットを、胸の前でぎゅっと握りしめる。大切な親友を忘却しなかった安心感と、自身への不甲斐なさが混ざり合う。
 数秒か、数分か。暖かく満たされた感覚に浸りながら、夏帆は鎖を首に掛けた。
 そうして在るべき場所に戻った宝物を指で一撫でして、現在の状況を確認する。

(浮いてる、か。気泡が昇って行くな……。って、ここ海中!?)

 水泳は苦手な夏帆だが、息苦しさは微塵も感じない。どうやら意識だけのようだと結論づけてから、気休め程度に身なりを整えておく。
 ついでに、試しに動いてみれば。

(どわっ……っと、やけに簡単に動くなぁ)

 軽く方向転換しただけで、その場で縦に1回転、いわゆる前転をした事に驚く。
 試しに体を下に向け、伸ばした両足を緩く上下させて海水を蹴る。
 たったそれだけで、推進力を得た体は、ぐんっと下に潜っていく。

(…………深い)

 一体どこまで潜る羽目になるのか、検討がつかない。
 なら、潜れる所まで潜ってみよう。



 1週間後。ニュースでは、事故について頻繁に報道されていた。

 ――容疑者は、酒を飲んだ帰りに歩くのが面倒だったので車を使った。ブレーキとアクセルを踏み違えたと供述しており、警察は……

「やれやれ、死ぬかと思ったし」
「……夏帆の大馬鹿、阿呆、考えなし」
「わーー、言われようが凄まじい。泣いていいすか?」

 意識を取り戻した夏帆を待っていたのは、泣きはらして目を真っ赤にした凪と、母の清美からの抱擁だった。
 両親と凪、彼女の両親にもどれだけ心配を掛けたか自覚していただけあって、夏帆は何も言わずにそれを受けた。

「2人とも、無事で良かった……」
「おばさん、ご心配おかけしました」

 集中治療室から普通病棟に移された夏帆は、凪と同じ部屋に通された。
 見舞いに来た両親4人と担任が挨拶を交わした後、担任は仕事の残りがあるからと早々に学校へ戻った。

「はい夏帆、先生がくれたゼリー」
「ん、サンキュー」

 ベリッと蓋を剥がしつつ凪に礼を言う。まだ、固形物が食べられるまでには回復していない。

(早く白米が食べたい)

 それが、夏帆の今の欲だった。3大欲求に数えられる食欲が、猛烈に夏帆の中で暴れているのを彼女は実感する。

「母さん、いつになったら固形物許可出るん?」
「当分出ないわよ。内臓にダメージが溜まってるって話だから、ゼリーとかプリンで我慢しなさい」

 見舞い客の椅子に座った清美に宥められ、咥えたプラスチックのスプーンを上下に揺らして不満を表す。
 そこへ、替えの点滴パックを乗せたワゴンを押して入ってきた看護師が

「木野宮さん、高野さん、本日の面会時間は間もなく終了です。また明日、来て下さいね」
「そうですね。凪をお願いします」
「夏帆、静かに寝てなさいよ」
「言われなくてもそうしますよーー」

 退室間際の清美に釘を刺され、頬を膨らませた夏帆は本格的に不貞寝を決め込む。
 凪に背を向ける形でベッドへ横になれば、お母さん心配してたよ、と看護師に囁かれて気まずくなった夏帆であった。

――それから更に1週間後。ようやく点滴の外れた夏帆は、凪と共に携帯ゲーム機に打ち込んでいた。

「うりゃっ、この!」
「夏帆、15分だけだからね」
「了解了解、分かって……であぁあ!?」

 プレイゲームはレース系のソフト。
 注意を促す凪との会話に気を取られたのか、背後からアイテムで狙われた夏帆の操作キャラ。
 ぼちゃん、とマシンごと水に沈んだキャラの脇を、CPが歓声を上げながら疾走していく。

「おのれ桃姫……ぶっ飛ばす!」

 落下による時間ロスで最下位付近まで転落した事にぶるぶる拳を震わせ、夏帆は怒りを露わにする。
 一方で凪は順調に順位を上げており、慣れた手つきでカーブを曲がりきった。この辺りに性格の差が出るのだろう。

「うっし大砲! ふはは、退け雑種どもー!」
「(夏帆、笑い方が完全に……)」

 隣のベッドから聞こえる小声の高笑い。報復と言わんばかりに、大砲化した自身のキャラで他のCPを容赦なく跳ね飛ばして行く。
 ちょっとうるさいな、と凪は数秒思案して、夏帆の操作キャラがアイテムを取得するタイミングを見計らい……

「――天罰、発動」
「い゛ぃッ!?」

 あらかじめ凪が取得していたアイテムにより、彼女以外の全員に落とされる雷。無情にも直撃した夏帆を、凪が踏み潰して進む。

「反則だー! しかもエグい!」
「知らない」

 ――結果。レースは凪がトップ、夏帆は最下位という悲惨な成績で終了した。
 レースが終わって凪が時間を確認すると、時刻は消灯の10分前。
 2人が入室したのは小児病棟なので、巡回の看護師がそろそろ回って来る時間帯だ。

「寝るよー」
「何故勝てないし……毎回毎回…」

 既に丸くなった布団の下からは、夏帆の独り言が洩れる。こうなれば放置するのが得策だと凪は判断して、自分もさっさと横になり目を閉じた。
 早くも隣から聞こえる凪の寝息が、しばらく聞けなくなるとは夢にも思わず。

 *

「――あー……よく寝た」

 朝、夏帆は鳥のさえずりで起床した。パジャマから外出着へと手早く着替え、窓を開ける。
 広がる風景は、病室から見ていた風景ではない。窓から吹き込む風を受けながら、夏帆は憂鬱な気分のまま重いため息を吐いた。

「…………帰りたい」

 ここでの生活に慣れれば慣れる程に沸き上がる、望郷の念。窓の外からは商店街を一望でき、遠くには“私立月光館学園"の校舎が見えている。
 ――突拍子もない話だ。窓枠に頬杖を突いた夏帆は、己の運の無さを呪う。何の因果か、それとも人智を超えた存在からの悪戯か。現在の夏帆の居場所は“辰巳ポートアイランド"。いつぞや親友と話していた“ペルソナ"の世界だった。

「“気が付いたらトリップしてました"……。体験してみると、楽しくも何ともないな、冗談抜きで」

 朝から続くノンストップの愚痴は、止まる気配を見せない。その理由は、原因不明のトリップに加えてもう1つ。こちらの世界に来た初日に起きた、ある事件が原因だった。
 簡潔に言えば、イレギュラーシャドウに襲われ、殺されかけたのだ。恐怖と混乱に囚われながらも応戦したが、あの時の夏帆は最も重要な事実を忘れていた。
 “シャドウに対抗しうるのは、ペルソナ使いのみ"。彼女はすぐに追い詰められ、自分が詰んだ事を悟る。しかし人間の生存本能からか、機転を利かせて道連れ覚悟で最後の反撃を試みた。

「最後の最後で、まさかのペルソナ使いにレベルアップだもんな……。はぁ、勘弁してよ……」

 正直、謎が多すぎて考えるのも億劫だ。それでも、あの生死を賭けた瞬間に夏帆の中ではある決意が生まれた。

 “元の世界に必ず帰るまで、何がなんでも生き延びる。"

 強引に割り切るしかなかった。こうなってしまった以上、諦めるしかないのだと。そうでもしなければ、自我を保っていられない。
 そうして、今は――

「――私だよ。起きてたら開けてくれ」

 ドアをノックする音と、隔たれた向こうから女性の声が聞こえた。意識を思案中だった我が身の境遇に関する疑問に一旦キリをつけ、夏帆はドアノブを回した。

「おはよう。調子良さそうじゃないか」
「はい、おかげさまで」

 影時間の明けた後に行き倒れた夏帆を救ったのは、後に主人公達の手助けをする『古美術 眞宵堂』の店主だった。彼女はかつて桐条の元で働いていた研究者であり、ペルソナを発見した人物でもある。

「朝食を用意したよ。食べられるかい?」
「ありがとうございます。頂きます」

 頷いた店主に続いて、リビングに入る。トーストにハムエッグ、サラダ、コーンスープにミルク。焼きたての食パンにジャムを塗りながら、店主は夏帆にある話を持ちかけた。

「これから、どうするつもりだい?」
「……分かりません。行く宛が無い以上は、どこかにアパートでも探そうかと」
「難しいと思うよ、私は。親元を離れている学生なら、学生寮に入っているのが普通。第一、あんたは学園の生徒じゃない」

 突きつけられた変えようのない現実に、すっかり消沈した夏帆は同意するしかない。トーストを口元まで持って来るか来ないか、そんな微妙な位置で動きを止めた少女に店主はある提案を持ち出した。

「これ、読んでごらん」
「“月光館学園高等部 転入手続き" …………転入手続きィ!?」

 さり気なく差し出された1枚の書類。夏帆は驚きのあまり、素っ頓狂な声を上げて正面に座る店主を穴が開く程凝視してしまう。

「勿論、転入試験はあるよ。保護者には私の名前を使った。あんたが落ち着くまで、私が面倒見るさ」
「け、けど! そこまで迷惑は」
「困ったら難しい事は大人に全部放り投げて良いんだよ、子供ってのは。……ま、元桐条の私が言っても説得力なんかないだろうがね。好きに決めればいい」

 コーヒーのマグカップから立ち上る湯気越しに、店主は穏やかな眼をしてそう言いきった。そこには、理不尽に嘆き荒れた夏帆の心を受け止めようとする真摯さがある。そして傷を癒やそうとする暖かさに満ちていた。
 まるで母親のような暖かな言葉は、不思議と夏帆の心に染み渡って行く。だが、不安が全て消えた訳ではない。

「……うち、シャドウと戦うのは構わないんです。ただ、ここは故郷とかけ離れ過ぎて、頭が混乱して……。先日お話しした境遇に関しても、」
「落ち着こうか。まずは栄養つけ直して、話は後でゆっくり聞く。大抵の非現実には驚かないよ」
「はい…ッ、頂きます……」

 声に若干の嗚咽を混ぜ、夏帆は再びトーストをかじりだす。店主は静かにコーヒーを啜りながら、内心僅かに苦い思いを感じていた。

(まさか、“別の世界から来ました"なんて……夢みたいだけどあるんだね)

 桐条グループ内では、シャドウとペルソナの研究は部門を分けて行われていた。自分はペルソナ専門の研究をしていたが、シャドウについても多少は知識を蓄えている。
 今日で1週間。あの日偶然テナントの掃除に早朝から来て、本当に正解だったと思う。次の日に目覚めた少女は現状を把握するなり軽くパニック症状を起こしたが、それでも最低限の話は訊く事が出来た。

 ――彼女曰わく、ここは自分の世界ではない。突然化け物――シャドウに襲われて死にかけた、とも。

 初めこそ驚いたが、冗談で済ますには彼女の語った事は現実的過ぎた。加えて自身の経歴もある。普通の大人なら、一蹴しただろう。この転入書類も、総帥に他言無用と無茶を通して郵送して貰った物だ。

「――あの…どうかされました?」
「……大丈夫。もう食べたのかい、早いね」
「美味しかったです。ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げた少女に、店主は気にしなくていい、と微笑んだ。

「さて、詳しく話を訊かせてくれるかな」
「――分かりました。お話しします」

 夏帆はしっかりと店主に頷き、記憶を辿りながら、この世界で体験した最初の出来事を話し始めた。

 *

 ――ふと気が付けば、夏帆は神社らしき場所にいた。辺りを見回せば、社に賽銭箱、背後には小さいながら精巧な造りの鳥居が建っている。一般的な知識と照らし合わせれば、神社と認識するのは簡単。そして頭の隅で漠然と、これは夢だと思った。
 そこは神社にしては珍しく、境内に小さな公園が造られていた。鉄棒にシーソー、ジャングルジム、滑り台。脇にはベンチがあり、遊びに来た子供はここで休憩したりするのだろう。

「懐かしいな~。鉄棒とか未だに逆上がり出来ないし」

 高校生で逆上がりが出来ないってのは、一種の自慢かもしれない(良くない意味で)。久しぶりに挑戦する気になり、試しに軽く鉄棒を握り反動をつけて地面を蹴り上げる。しかし、夢の中でも無駄にリアルに再現されていた。何度やっても悉く逆上がりは失敗に終わる。
 ちくしょう、夢なら夢くらい見させてくれたっていいのに。そうぼやき、逆上がりは諦めた。

「何か他のやるか………ん?」

 遊具に目移りしていると、不意に足元を引っ張られる感覚がして下を見る。見れば、雪のように真っ白な毛並みをもった犬がおすわりしてこちらを見上げている。毛並みも印象的だが、もっと夏帆の目を惹いたのは瞳の色だった。

「――――」

 珠玉を直視した瞬間、ざわり、と何かが夏帆の中で騒いだ。感覚よりも音に近い、言語化が困難なソレに僅かな吐き気を覚える。
 歪みそうになる視界を気力で立て直し、紅い瞳を見つめ返す。恐る恐る手を伸ばして頭を撫でてやれば、彼(?)は大人しくされるがままに享受していた。
 ……どれほどそうしていただろう。
 鉄棒を始めた時は夕暮れになるかならないかという時間だったのに、空には真珠のような白い満月が昇っていた。

「夢……にしちゃ、長すぎないか……?」

 月を見上げ、夢と仮定するには強烈過ぎる違和感に目を凝らす。同時に、自分の中で生まれかけた1つの仮説に、強引に蓋をする。腕時計を見れば、時間は23時を回ったところだった。
 心配そうに夏帆を見上げる足下の犬。おすわりの姿勢を崩し、一声吠えたかと思うと鼻を右手に擦り付けて来た。そこで初めて、自分の手が小刻みに震えていた事に気付く。

「……ありがとな。優しいよ、お前」
「クゥーン…」

 仮説を確かめる勇気は無いけど。後押しされたら動かない訳にはいかない。よし、と呟いて、彼女は境内から外に出た。
ふらふらと街並みを眺めながら、辺りを探索する。普通の住宅は少なく、視界の半分を占めるのは3階建ての建築物。
 スニーカーを履いている為、足音は大して響かない。人気の失せた通りを早足に通り、いつまでもこの夢が続くのかと考えて。


 ――ガチン、と。何かが止まる音を聴いた。


「――――ぁ、」

 ここはセカイの変化する瞬間。それは資格無き者がハザマに落ちる音。脊髄反射に従い振り向いた先は、ヒトならざるモノの支配に落ちた異形の世界――!

「――――、ッ!!」

 悔いた。かつてない程に後悔した。そして実感した。人間は許容を超えた恐怖に、感情のまま叫ぶ余裕すら無くすのだと。
 叫ばなかったのは、奇跡に等しかった。咄嗟に手を噛み、悲鳴を押し殺して走り出す。

(冗談だろ!? こんなんアリかよ……ッ!!)

 もつれそうになる両足に、脳はひたすら“動け"と命じる。背後から迫る鳥の形をした死の権化、常人なら抗う術すら見いだせない“化け物"が間近に迫っていた。
 その俗称を、彼女は知っている。
 ――シャドウ。力を持たない以上、うちも襲われ殺される。

「――ァ、ッ、冗、談キツ…過ぎる!」

 がむしゃらに建物の角を曲がる。地理を把握していない上に、この時間は人間が一切存在しない。これではなぶり殺しだ。向こうは鷹でこっちは鼠。夢なのかどうかは、この際もうどうだっていい。

 逃げろ、逃げなければ――!

「ぅ、あ゛あ゛あ゛ぁあッ!?」

 キィィ、と金切り声がした。獲物が逃げ回る事への苛立ちか、異形の鳥はその翼を大きく羽ばたかせる。
 直後、左足首を襲った灼熱の業火。肉の焼ける痛みに、ズタズタにされた神経が悲鳴を上げる。アスファルトの地面を無様に転がり、夏帆は背後の何かにぶつかって停止を余儀なくされた。

「い゛っ、あ゛ぁ…ッ!」

 左足を抱え、痛みにのた打つ。焼かれた足首は、動かそうとする度に激痛が走る。

(――ハハ、何だよ…これ、うちが一体……何したってんだ……)

 心が折れた。もう立てない。そんな言葉が頭の中で回る。痛みに耐えようと閉じた目を開ければ、化け物が脚に持ったカンテラを不自然に揺らしていた。
 諦めて死を覚悟して目を閉じようとした、その時。


 ――シャラン……。


「………………そ、か。そーだよな」

 鎖の揺れる澄んだ音。発生源は探さずとも分かった。金色のロケット。親友との写真が収められた、たった1つの宝物。

「死ぬ、なんて……それこそ質の悪い冗談だ…っ」

 まだ動ける。足が焼かれたくらいで生存欲は無くならない。
 背後を見下ろし、先程ぶつかってソレを両手で掴む。狙いは、巨大な月を背にして浮かぶ化け物。唯一の武器を投擲する姿勢に入った事に異常を感じたのか、捕食者は獲物目掛けて急降下を開始した。

「――――」

 自分でも正気とは思えない。こんな自殺行為、どっちが死ぬかなんて考えなくても分かるのに。
 けれど、身体は止まらない。全く、と夏帆は誰に言うでもなく呟いた。

「馬鹿げてるよな。“粉塵爆発"なんてさ」

 夏帆の手から投擲されたのは、石灰の詰まった袋。急降下して来た鉤爪によって引き裂かれた袋は、シャドウを中心にして中身を辺りにぶちまけた。視界を奪われたシャドウは一旦体勢を立て直そうと浮上する。
 それを見て、夏帆はゆっくりと地面にうずくまる。爆発に備え、負傷した左足を押さえた。

「傷は付けれなくても、自分の炎だ。マッチ1本火事の元。カンテラ1個、爆発の元…ってね」

 目の前に、青い光が見える。その向こうで、一気に燃焼速度の高まった火が炎に変わった。
 大気を揺るがす大爆発が起きる。傷の痛みと精神的な疲労に耐えきれなくなった夏帆は、自らの策に苦笑いしつつ、避ける事なく巻き込まれる。
 意識が落ちる直前、何かに護られているような暖かい感覚を覚えながら。
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