何気ない日常

 定期試験とは、中高生にとっての地獄である。これを苦なく終えられる学生は、全国どこを探してもそうそういないだろう。
 そして、ここにも例に洩れない学生達が存在した。

「お前ら、今回は中間より大分点数が下がったぞ! 赤点の奴は夏期補習会の紙を配布するからな、ちゃんと来るように!」

 夏の暑さが日差しとなって学生達に襲い掛かる7月の中旬。
 ある私立高校の教室では、男性教師の説教が響いていた。
 生徒に試験の解答が返却される中で、彼らは返された点数に一喜一憂しながら席に戻っていく。

「――次、高野。お前は基本が出来るんだから、ケアレスミスを無くせ。+が÷に見える時点とか、勿体ないぞ」
「はは…、すんません。気を付けまーす」

 彼女――高野夏帆に返却された数学の点数は、決して良い点だとは言えない。

(――まあ、赤点じゃない分いっか)

 兎に角、彼女にとってはそれが最優先だった。しかし、やはりそこそこの点数は取りたいと思う。
 そんな事を考える彼女には、身近な所に“良い例”が存在した。

「今回の最高点は85点! 取ったのは木野宮!」

(やーっぱりか。凪って頭良すぎ)

 周りの同級生から驚愕や讃辞の言葉を投げ掛けられている親友に目を向ける。妬む気持ちはこれっぽっちも無い。彼女が日々勉学に励む姿を、夏帆は誰よりも近くで見てきたからだ。
 高野夏帆と木野宮凪は、今年で16歳。生まれの時期も近く、家も隣同士だ。近所の主婦達からは姉妹と見られる事も多々あり、実際幼なじみよりも家族と言って差し支えない程親しい。
 昔から家族ぐるみで付き合ってきた仲なので、両親同士の仲もかなり良かった。

(運動ではビミョーーに勝てるけど、それでも短距離走だけだし。勉強なんか現国で若干ってぐらいだしなぁ)

 だからと言って、だ。もう一度言っておくと、夏帆はそんな自分を卑下するつもりはなく、また凪を妬む気持ちはない。
 互いに足りない部分を分かっているから。
 幼い頃から不満は盛大にぶつけ合い、時に殴り合いまで発展した時もある。

(……なーんて、な)

  物思いに耽っていたら、いつの間にか授業は終わったらしい。
 終業を告げるチャイムが鳴り、担任の号令で解散となった教室にはまばらに生徒が残るのみとなった。

「相変わらずの理系頭脳だよな。どーすりゃそうも高得点叩き出せんのやら」
「――夏帆。そっちこそ、現国トップクラスじゃない。羨ましいよ」

 夏帆にポニーテールを引っ張られて振り向かされる凪。が、彼女からの口から文句は出ない。
 2人にとってはこれくらい日常茶飯事の事であり、スキンシップの1つ。
 ポニーテールをくいくいと引っ張る夏帆のしたいようにさせつつ、凪は自分の現国の答案用紙に夏帆の物を照らし合わせる。

「夏帆、ここの読みって何?」
「あーこれ? 黒子と書いて“ほくろ”。
じゃ、うちからも。数学でさ、このβって何度なん?」
「私も悩んだよ……。αが25度だから最終的にβは40度でね」

 ふむふむ、とお互いに答えの埋め合わせを行っていく。
 と、そこに横槍を入れる人物が……。

「あらあら。謎の部分はワタシが教えてあ「引っ込め数学魔人」むっ、人の善意を無碍にするなんて!」

 ウェーブした長髪を揺らして現れたのは、“数学同好会”の会長、宮園深雪。
 事ある毎に凪を部員に引き込もうと勧誘しに来る、数学好きである。……そのくせ、数学の点数は凪に劣るが。
 どうでもいいが、この数学同好会は部員が1人。宮園のみなので、彼女は目を付けた生徒をしつこく入部させようとしている。

「木野宮さん、アナタも是非私の同好会に参加しない?」
「ううん、私は部活動には入らないから……」

 やんわりと断る凪だが、彼女が断りを入れるのは通算7目。最終的に、毎回夏帆が話をぶったぎって終わらせている。
 今日も今日とて傍観していれば無理やりにでも入部させられそうな雰囲気に、夏帆が動いた。

「宮園さん、あんた限度って知らないのか? 諦めなよ、いい加減」
「いーえ、高野さんが何と言おうとワタシは諦めませんっ。ワタシと木野宮さんが並べば学園1の秀才少女が……ふふふ」

(――ぶれない変態だ、こいつ)
(私、苦手なんだよね……彼女)

 口元に手を当て、明後日の方を向いて笑う宮園に引く2人。
 今の内に、と静かに筆記具と答案用紙を鞄に詰めて、忍び足で教室を抜け出した。

 宮園がそれに気付いたのは、3分後の話……。



「ふぃーっ、なんとか抜け出せた!」
「ありがと、夏帆」
「なんのなんの。うちらの仲じゃん」

 ニッと笑う夏帆。そして、ほい、と無造作に肩の高さまで右手を上げる。凪はその意味を一瞬で悟り、同じように上げた手を親友の手に打ちつけた。
 ――ぱんっ。ハイタッチの乾いた音がした後、どちらともなく少女達は吹き出す。教室でのやり取りを思い出したからだった。
「ハハっ……。にしても、凪の断り方にも毒が混ざってきたな。うちじゃなきゃ気付かないだろうけどさ」
「私にだって我慢の限界くらいあるよ。言葉に関しては夏帆みたいに手足が先に出たりしないし。オブラートは要るしね……?」
「ぷっ……、黒ッ! 後半メチャメチャ黒かったって今のセリフ!」

 ツボにきたのか、夏帆はひーひーと腹を抱えて必死に笑いを殺す。凪は凪で、私の家なら確実に転げ回って笑うんだよ、と誰に説明するでもなく呟いた。



 空が茜色に染まりだした頃、2人は気分転換に行きつけの電気屋に寄っていた。この電気屋は家電用品に加え、娯楽の品も一通りは揃っている。なので、子供だけで入店しても可笑しくはない。

「さーってと、昨日お小遣いは貰ったし。買うか!」
「バ夏帆、なんでPSP持ってないのにP3P買おうとしてるの」
「おぁ、言葉に毒が……。もち、凪のでプレイすんのさ!」
「……………」

 ゲームコーナーにて交わされる会話。凪は額に手を当てて、盛大にため息を吐いた。

(なんで夏帆って、こうも計画性が無いんだろう?)

 しかし、それこそ今更だ。そこをカバーするのが自分だと凪は自身に言い聞かせる。

「あれ? 凪、口元緩んでる?」
「んー、何でもない。破天荒な親友も悪くないかなって、思ったの。はいコレ」

 凪の唇が、自然と緩く弧を描く。親友に世話を焼き、時に焼かれて、平凡な毎日に満足感を感じて穏やかに過ごす。それが1番。
 一方そんな凪の心境を知る由もない夏帆は、差し出されたソレを見て目を丸くした。

「どゆことでしょうか、凪さん? 何故に財布?」
「買うなら新品買ったら? 本体なら持ってるから。私もP3Pはプレイしたいし、割り勘で」
「……なるほどなー。了解、んじゃ行ってくる」

 財布を受け取り、シュタターッと軽快な走りをみせて夏帆はレジへ向かって行った。

「やれやれ、だね。私は家電売り場でも回「ただいま!」……そんな暇もなかった。
――流石に早くない? 夏帆」

 にひひひ、と余程嬉しいのか、怪しい笑いを止めない夏帆をデコピンで黙らせる。「暴力反対!」と小声での抗議もそこそこに、夏帆はレジを指差した。
 そこには、2人が見間違えはしないと断言出来る人影があった。視線に気付いたのか、小さく胸の前で手を振ってくる。

「パパ、また職場内で飛ばされたんだ……」
「補足すると、うちらが騒いでたのも見えてたってさ」
「別にいいよ、見て見ぬ振りしてくれれば」
「だな。んじゃ、帰るか!」

 有り難う御座いましたー。店員(凪の父親)の声を背に、夏帆達は電気屋を後にする。


 ――直後、悲劇は幕を開けた。


「――――!!」


 それは、誰の叫びだったか。何と叫んだのか。
 通行人か、自動扉が閉まる直前に凪の父親が叫んだかの判断は、彼女達には不可能だった。
 事態は一瞬。誰が止められただろう。
 第三者の視点で語れば、それは只の交通事故に過ぎない。されど、当事者にとっては“只の”などと軽く済ませて良い問題ではないのだ。
 青信号で交差点に進入して来た1台の車。ごく普通に通り抜けしようとしたその車に、運転手から見て右方向より“何か”が迫った。

 ――そしてこの場合、それは車両以外にあり得ない。

 素人目にもはっきりと分かる程の無茶な運転だった。信号待ちしていた他の車両の隙間をこじ開けるように交差点に侵入した車両は、真っ白なワゴン車。
 何かから逃げている。そう感じさせる危険極まりない暴走運転で、強引に交差点を左に曲がろうと車体を傾ける。
 時速何十キロも出して走行する車体同士が、互いに避けきれず正面衝突を引き起こした。辺り一帯に、鉄の塊を何トンもの万力でプレスしたような轟音が響き渡る。
 普通車とワゴン車、双方の運転手は自らの車を制御しきれずに車外へと放り出された。

 ――そう、それだけなら。それだけならまだ良かったのだ。

 普通車はその場で車としての機能を大部分無くし、停止する。だがワゴン車は何の因果か、衝突によって割れた車窓の破片を撒き散らし、“横転しかけた状態”であらぬ方向へ滑って来た。
 その不幸の標的は、今し方買い物を済ませた2人の少女達。
 彼女達は、当然我が身にそんな不幸が襲い来るとは思わなかった。故に、その鋼鉄の塊が突進して来る瞬間を呆然と待つほかに――

「っ、きゃ……!?」

 逃げる。凪の麻痺した脳は、そんな単純な動作すら身体に命じる事が出来なかった。棒立ちのまま白の凶器に潰される未来を垣間見た瞬間、彼女は何かに包まれた感触に驚いて息を詰めた。
 それは親友の腕。自らを盾に、微力ながら凪を守ろうとした思いからの行動。頭上に夏帆の顔がある状態で、彼女は聞こえる筈のない言葉を聴いた。


――死にたくないな。それが親友の願い。
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