Cells at Work

Suppress

新型コロナウイルスとの戦いの終盤、世界中に降り注いだ写真には、見慣れた日常の光景が写っていた。共に戦う仲間がいて、何気ない日々を支える細胞もいて、守りたい平和な暮らしがある。
抑制性サイトカイン。名称は骨髄球の頃に勉強して知っていたけれど、実際に自分がその現場に立ち会ったのはあれが初めてだ。正直、活性化を促す通常のサイトカインを受けた経験がある身としては、こんな使い方もあったのかと驚くくらいには心穏やかになれるものばかりだった。それこそ、黒歴史と同様の扱いで即座に処分するには惜しいくらいに。
そんなわけで、自分の近くに飛んできた写真を俺はまだ手元に置いているんだけど。

「なぁ1146番。これ、この前拾ったんだけどさー」

細菌駆除の後始末が一段落つき、返り血も洗い終えた様子の同僚に、ふと思い立って声をかける。4989番、とこちらを見て律儀に答えたそいつは、裏返しの写真用紙を見て一瞬ぎくりと身構えたけれど、確認しないわけにもいかないので素直に受け取ってくれた。そっと表に返して、それからわずかに目を見開く。

「赤血球?」
「あ、やっぱり赤血球ちゃんだった?髪型から、そうかなーとは思ったんだけど」

通常のサイトカインではないことに拍子抜けしたのか、あっさりと予想通りの答えが聞けた。もっとも、1146番は不特定多数の赤血球だろうが特定の誰かさんだろうが「赤血球」と呼ぶから、判断がつきにくいところではある。けれど赤血球の制服を着た細胞を見てわざわざ「赤血球?」なんて普通は確認しないし、俺が「赤血球ちゃん」と呼んでも特に訂正してこないから、まあ合っているのだろう。
手元を凝視する1146番の横から、ばれない程度に覗き込む。俺が手渡したのは、1146番とお馴染みの赤血球ちゃんが並んで歩く、二人の後ろ姿の写真だった。実を言うと二人とも、識別番号どころか表情も写っていない。手がかりはそれぞれの制服、背丈、髪型や髪色くらいで、この世界にいる血球の数を考えれば他人の空似の可能性も充分にあった。
だけど、非常時でもないのに好中球の隣に赤血球がいて、並んで歩いてくれる。その事実だけで、該当する相手はほとんど限られていた。新型コロナウイルス騒動を経て、免疫系も非免疫系も少しは相互理解が進んだと思いたいけれど。
すると突然、1146番が再び口を開いた。写真に写った白い背中に指をさす。

「…と、こっちの奴は…?」
「は?え、分からないの?マジで?」
「分かるも何も、顔も識別番号も写っていないだろう」

じゃあ4989番は知っているのかとでも言いたげに、わずかに不満を含んだ正論が投げられる。いやいや、どう考えたってお前だろ。骨髄球の頃からずっと同じ班を組む友人の後ろ姿をここで見間違えるはずもない。
それに、赤血球ちゃんがいくら免疫細胞に偏見がなくて迷子になりやすいとはいえ、好中球なら誰にでも道案内を頼む、なんてことはないだろう。あの子が「白血球さん」と呼ぶ相手はただ一人に決まっている。だから仮に自分の背中を見慣れていなくても、赤血球ちゃんのほうが分かれば自ずと答えは絞られるはずだ。それなのにこいつは…と内心呆れていると、1146番の次の矛先がこちらに向いた。

「というか、なぜ4989番が赤血球の写真を持ってるんだ?」
「え、だから抑制性サイトカインの時…」

言いかけて、ある可能性に気付く。1146番の話しぶりから推測するに、こいつの抑制性サイトカインは赤血球ちゃんの写真じゃなかったのかもしれない。
うわーマジか、と頭を抱えそうになるけれど、同時に面白いと感じてしまった。俺はてっきり、こいつの元には赤血球ちゃんが降ってきているものだと思っていたから。
さすがに直球で訊いては追い討ちにしかならないので、1146番の手元からぱっと写真を奪い返しつつ、それとなく探りを入れる。

「…何、じゃあお前のところに降ってきた写真はどんなの?」
「えっ」

1146番が喉の奥で小さく声を上げる。その話題を振られるとは思っていなかったらしい。しばらく逡巡した様子で視線を逸らしたけれど、ごまかしても逃れられないと判断したのか、やがて制服の胸ポケットから一枚の写真を取り出した。黒歴史ではないはずなのに、妙にばつの悪そうな顔で差し出してくる。
何をそんなに…と思いながらその手元を見ると、写っていたのはまだ幼い骨髄球の1146番と、その後ろで泣きじゃくる赤芽球の女の子。

「あー、赤芽球を助けたって時のやつ?お前が急にいなくなったと思ったら、先生に連れられて怪我して帰ってきた…」
「ああ」

見せるのを迷っていたわりに、1146番は穏やかな声音で答えた。
俺は当時の1146番と好中球先生の話で聞いただけだから、その赤芽球を見るのは今回が初めてだ。その時1146番に訊いたことといえば、本物の細菌は怖かったか、好中球先生は強かったか、なんてことばかりで、守った相手が男の子か女の子かなんて考えもしなかった。あるいは、赤芽球がどんな子だったのかを訊いても、1146番があまり語らなかったせいもあるかもしれない。へー、こんな子か。新鮮な気持ちになる一方で、同時にそれ以上の興味は湧かなかった。多分、今更その子の顔や髪色を知ったところでどうしようもないからだ。この世界には血球が大勢いるから、過去の面影だけでは万が一見かけても気付けない。そもそも相手が今、溶血や体外流出をせずに生きているかも分からない。悲しいかな、大人になってそういう判断がつくようになった。
ついまじまじと見てしまったけれど1146番は気分を害した様子もなく、普段より柔らかい表情で言葉を続ける。

「俺に限ったことではないが、優しさを呼び起こすような写真で…この世界のためにはたらいているんだと思い出せる、原点のような場面が降ってきたんだと思う」
「ふーん…」

適当な相槌を打ちながらも、1146番の持つ写真への興味を失った俺は、自分のポケットに入れた写真を思い返していた。大切な友人と、そいつが大切に思っている女の子とが、平和な街中を並んで歩く場面。この光景を守りたいと俺が望んでいるから、あの写真は被写体の二人ではなくこちらへ届いたのかもしれない。…なんて、恥ずかしいから本人には言わないけれど。
しかし。ふと顔を上げて、変わらず穏やかに写真を見る1146番を確認した途端、嫌な予感がよぎった。思わず周囲を見回す。街中だから人通りはあるけれど、あの子はいない。一安心してから、続いて何も気付いていない同僚の説得にかかる。

「…でもさ、水を差すようで悪いけど。その写真、赤血球ちゃんに見られたらまずいんじゃないの?」

その写真というか、その写真を見るお前の表情というか。別に怪しくて通報されるという意味ではなく、はっきり言って赤血球ちゃんと話す時に見せるような顔をしている…それは赤血球ちゃんと出会う前の写真なのに。
1146番は完全に想定外といった様子でぱっと顔を上げた。

「え、何でだ」
「だってそこに写ってるの、女の子じゃん」

確かに免疫系である以上、守る対象の性別や容姿や性格は関係なく、外敵から等しく守らなければならない。だから1146番の戸惑いも仕事人としては正しい。
けれど、写真に撮られて現物が残るとなれば別の問題が生じる。決して1146番の心変わりまでは疑っていないし、実際に赤血球ちゃんと会えば手元の写真のことなんて忘れるとは思うけれど、本人にその自覚がないまま野放しにするのはまずい。

「あー、じゃあ考えてみ?例えば、赤血球ちゃんが思い出の写真を大切に持っていたとする」
「非免疫系にサイトカインは関係ないだろう」
「その辺はいいから。初仕事の記念だっていうそれに写っているのは、赤血球ちゃんとお届け先の細胞くん」
「まあ、そうだな。赤血球の配達先は普通、どこかの細胞だ」

1146番は当然のことのように頷く。相手の仕事に理解があるのは微笑ましいが、今重要なのはそこではない。少し間を置いて、たっぷりと強調して言い放ってやる。

「じゃあさ、その写真がツーショットだったらどうよ!?」
「…え?」
「だってそうだろ?俺たちはサイトカインだから大抵隠し撮りだけど、今回の場合は記念撮影なんだから並んで写るものなんだって。知らないけど!多分!」
「……」

架空の写真に対して何を熱くなっているんだと自分でも思うが、1146番はやっと真意を理解したらしい。想像力の乏しさか想像すること自体を無意識に拒否したのか、分からないけれどどちらにせよ相槌が無くなったのをいいことに、更に畳みかける。

「ほらな、ようやく分かったか!初めて仕事した時の思い出ーって言ったら聞こえは良いけど、要はそういうことなの!本人にとっては過去のことでも、客観的に見れば『誰かと写ってる写真』なの!」
「いや、でもそれが励みになるなら…俺は、赤血球が写真を持ってても別に…」
「バーカ、現実に戻れ。今のお前は許す側じゃなくて写真を持ってる側だろ」

そう指摘してやると1146番はハッと目を見開いた。いや、今気付いたのかよ。
それから、例の写真の真ん中あたりに両手をかけて、指先に力を入れて…破るかと思いきや、やはりそこまでは踏ん切りがつかず、数秒固まった後に溜め息を吐いて肩を落とした。真面目すぎる友人はその後もナイフを取り出して写真に向けてみたけれど、しばらく葛藤した末に力なく項垂れる。

「…すまない。後で処分する…」

そうは言うけど絶対しないな。まあ、現に俺だって自分のところに降ってきた写真を捨てていないわけだし、気持ちは分かる。一応、手放しても樹状さんに言えば焼き増ししてもらえるだろうけれど、その時は黒歴史とセットで渡されそうだ。

「じゃあ持っててもいいけど、せめてあの子には知られないようにしろよ?」

正直、免疫系の仕事に理解のある彼女だから、1146番に守られたという女の子に対して特に嫉妬はしないと思うけれど。むしろ仲間を助けてもらえてよかった、昔から白血球さんはすごかったんですね、なんて笑顔を見せそうだけど。
…でも。1146番がその最初の一回を殊更大切にしていることに対して、彼女はひそかにショックを受けるかもしれない。あるいは、今の1146番の思いを誤解してそっと身を引く可能性もある。せっかく良い関係を築いてきた二人の気持ちが、こんなきっかけですれ違ってしまうのは避けたかった。
ひとまず1146番が写真を所持することは見逃してもらって、その内容に関しては秘密にすれば問題ないだろう。そう結論づけて一人で頷いていると、例の写真を元通り胸ポケットにしまった1146番の表情が、急にぎこちなくひきつった。

「…4989番」
「何、やけに悲痛な声出して」
「この写真、既に赤血球も見てると思う…」
「はあ?」
「抑制性サイトカインが降ってきた時、赤血球もすぐ近くにいたから…」
「お前何やってんの!?」

思わず叫んでから天を仰ぐ。うわーマジか。もう面白がる余裕はない。
というかあの騒動でも近くにいたのか、この二人。確かに戦闘の最中、赤血球たちが恒常性を維持するべく行き来していたのは俺もたびたび見かけた。さすがにウイルスの襲来中にまで呑気にパトロールはできないから、本当に偶然居合わせたのだろう。その巡り合わせの強さに感心するやら、呆れるやら。

「…で、あの子の反応は?」
「いや…別に、普通だったと思うが」
「普通ー?普通って何だよ、普通にショック受けたけどお前に何か言うのも変だからいつも通りに振る舞ってるってか?」
「そ、そんなことは…ない、と思う。多分。本当に普通だったから」

答えるうちに確信が持てなくなってきたのか、1146番の視線が彷徨う。
本当に普通って、それはお前の希望的観測じゃないの、もしくは脈なしじゃないの。…とは、さすがに言えなかった。


…☆…


気持ちを切り替えるためか、1146番はパトロールをしてくると一方的に告げて、話を切り上げていった。さすがに心配なので一緒に行こうかと訊いたけれど、そもそもこの話題を出した原因は俺だから、一人でいいと断られてしまった。まあ、外敵を前にすると豹変するのが好中球だから、仕事に関しては大丈夫だろう。
そうして、俺は1146番とは別方向に歩いていったんだけど。

「4989番さん?」

道の端から聞き慣れた声で呼ばれて、振り返る。「白血球さん」とまでは呼ばれないものの、異種細胞から識別番号をさん付けされる時点で、相手は決まっていた。さっきまであいつと一緒にいたのに俺のほうが会うなんて、余程あいつの運は悪いのか。

「赤血球ちゃん。偶然だね」
「えへへ、さっきそこの細胞さんに荷物をお届けして、この大通りに出たら4989番さんを見つけまして。パトロールですか?」
「うん、まあそんなところ」

二酸化炭素の箱が乗った台車を押して、赤血球ちゃんは嬉しそうに歩み寄ってくる。知り合いとはいえ免疫系にも分け隔てなく接してくれるその様子に、相変わらずいい子だな、なんて少し和んでから、ふと思い立って自身のポケットを探った。

「そうだ、この写真についてちょっと訊きたくて」

1146番に見せたのと同様に、俺は二人が写った写真を差し出す。赤血球ちゃんは何も警戒することなく手元を覗き込んだ直後、ぱあっと目を輝かせた。

「白血球さんですね!」

おお、と思わず感嘆の声が出る。同じ班を組む自分はともかく、彼女も後ろ姿だけで判別できるとは思わなかった。もちろん、そうだったらいいな、なんて期待はしていたけれど。へえ、こいつらお互いの後ろ姿は分かるのか。ついにやにやしそうになるのを堪えて、せっかくなのでもう一つ。

「うん。それで、隣に写る赤血球なんだけど…」

こちらも一応訊いてみると、赤血球ちゃんは少しだけもじもじとしながら、それでも照れ笑いを浮かべて答えてくれた。

「あ…多分、私ですね」
「おっ、やっぱり?」
「はい。背景にこんな感じの建物があるってことは、栄養分を運ぶ途中で道に迷って、案内してもらった時の写真だと思います」

なるほど、根拠はそっちか。続けて当時の会話内容まで説明し始める赤血球ちゃんを眺めながら、これだけ記憶に残ってたらそりゃ一緒に通った道も覚えるよなあ、と頭の片隅で余計な感心をしてしまう。ちなみに内容はいたって真面目な器官や組織に関する話だったので、適度に相槌を打って聞いたものの綺麗に通り過ぎていった。でもまあ、写真を見ても全くピンと来ないあいつよりは良いのかもしれない。

「そっか、やっぱ分かるよなー。実は1146番にもこれ見せたんだけどさ、あいつは自分だと気付かなかったんだよ」
「あはは…自分の背中は難しいですよね、顔も識別番号も写ってないですし」

なんだか同じ正論をつい最近聞いた気がする。示し合わせたわけでもないのにこんなところまで似た者同士なのかと、今度はにやにやを通り越して胸の内がむず痒いような心地になる。1146番が鈍すぎて愛想をつかされるよりは断然いいけれど。
ありがとねー、と軽くお礼を言って写真をポケットにしまう。ちょっとした雑談かつアンケートみたいなもので、ついでに後で1146番をからかうネタ。俺はその程度の認識だったから、これ以上話を広げる気はなかった。
しかし赤血球ちゃんは少し間を置いてから、確認するように言葉を紡ぐ。

「あの…それって、抑制性サイトカインですよね?」
「おっ、よく知ってるねー」
「いえ、先日の新型コロナウイルス騒動の時に私も現場近くにいましたから。それで、白血球さんのところに降ってきた写真なんですけど…」

赤血球ちゃんはそこで言葉を途切れさせた。本人不在の場で訊こうとする罪悪感と、答えが出ることへの恐怖が混ざったような、複雑な表情がこちらへ向けられる。だけどその気持ちの強さ以上に、何か詳しく知っていますか、と琥珀色の瞳が訴えてくる。

「あー、あれね…」
「えっ、4989番さんも見たんですか!?」
「あーいや、この写真を見せた時に話の流れで少しね。ほら、俺だけ見せてあいつのは見ないって不公平だし」

自身の写真の時よりも食いついてきた赤血球ちゃんの勢いに押されて、つい弁解してしまう。正直この流れはまずい。一緒に写っていた子は知り合いですか、白血球さんはどう思っているんですか、なんて訊かれるんだろうか。そんなの俺だって知りたいし、あいつに問いただしてやりたい。
それでもなんとか当たり障りのないように、懸命に絞り出した答えは。

「…初めて他の血球を守った時の思い出なんだって」
「初めて…」

赤血球ちゃんがぽつりと繰り返す。短すぎる一言にどんな感情が乗っているかまでは読み取れなかった。どうか初恋だとは思わないでほしい。いや、俺も正直言ってあれが初恋かなとは思ったけれど、それが現在進行形だとは思わないでくれ。

「だからほら、勘違いしないでね?別にあいつは幼い子が好みだとか、今もその子を引きずってるとかでは全然なくて…えーっと、赤血球ちゃんだって初めての配達とか初めての循環って記念になるものでしょ?」
「それはまあ…勘違いも何も、白血球さんの、血小板ちゃんたちへの普段の接し方を見れば分かりますから…」

必死にあいつをフォローするはずが、ただ墓穴を掘っただけになって赤血球ちゃんに宥められる。だけど必死になってでも、格好悪くてもいいから、赤血球ちゃんに諦めてほしくはなかった。現に今のあいつが好きなのは、思い出の中の小さい子ではなくて、目の前にいる――。
けれど。赤血球ちゃんは、傷ついた様子も見せず綺麗に目を細めて微笑む。

「でも…そっか。白血球さんの、大切な思い出なんですね」

教えてくれてありがとうございます、と律儀にお礼を述べた彼女は、晴れ晴れとした顔で前を向く。確かに表面上は無理をしている気配もなく、いつも通りに見える。あの写真を見ても赤血球は変わらなかった、という1146番の証言は真実らしい。
何と声をかけるべきか迷って、横顔をただ見つめる。柄にもなく黙り込んでしまった俺に代わって、赤血球ちゃんのほうが何かに気付いたようにふと口を開いた。

「さっきの写真、後ろ姿だけで白血球さんだと分かったのは、もしかしたら…守ってもらったからかもしれません」
「守る?」
「はい。細菌が襲ってきた時に、間に入って…こう、盾になるような感じで」

ジェスチャーのつもりなのか、赤血球ちゃんは台車のストッパーを止めて両腕を横に広げてみせた。なるほど、守られる側からすれば背中のほうが印象に残るのか。
…納得しかけて、何かが引っかかった。確かに、他の細胞を守るために敵との間に入るのは立ち回りの基本だが、俺たちはナイフを持って動きながら戦う。両腕を広げてしまうと胴体ががら空きになるから、片手にナイフでもう片腕は細胞をかばうか、敵を捕まえるか、もしくは両手にナイフを持つか。特に1146番は細菌の背後に回って、触手を掴む戦い方をしがちだ。棒立ちでかばうのは骨髄球がするような――。
そこまで考えて、ようやく思い至った。あの赤芽球の子の髪色や顔立ちまでは覚えていないけれど、もしかして。

「赤血球ちゃん、あのさ」

呼びかけた瞬間、彼女はこちらを向いてにっこりと笑った。あいつと話す時に自然と顔が綻ぶのとは違う、健気だけど頑なな笑顔だ。あの新型コロナウイルス騒動の時に、笑えない被害状況でも配達を続け、皆で励まし合っていた赤血球たちのように。

「いつかその子が成長して、カッコイイ赤血球になったら…白血球さんと、どこかで会えるといいですよね」

まるで他人の幸せを祈るような言い方に、俺は訊こうとしていた言葉の続きを丸ごと飲み込まざるを得なくなった。どうしてそんなことを言うんだよ、なんで今そんな風に笑ってみせるの、あの子は本当は赤血球ちゃんで、もう会っているんじゃないの。
言いたいことは次々に浮かんだ。けれど一般細胞がどれだけ心配しても赤血球たちが配達を止めなかったように、その笑顔より先にはきっと立ち入れない。初仕事の記念にツーショットで写る架空の一般細胞にも、単なる友人でしかない自分にも、踏み込んで追及することはできない。初恋かもしれないとか勘違いしないでほしいだとか、そんな些細なことで右往左往していた心に、がつんと衝撃が走る。
でも、だからといって1146番への思いを勝手に諦めてほしくはなかった。だってあいつは真面目でいい奴なんだよ、思い出の写真でも君に誤解されるなら処分しようと足掻いたり、落ち込んだりするくらい。赤血球ちゃんのことは分かるのに自分のことは分からないくらい。
だから…俺は再びポケットを探って、一度しまった写真をそっと差し出す。

「これ、あげるよ」

顔も識別番号も写っていないけれど、間違いなく二人が隣り合って歩いている、俺の守りたい世界の写真。赤血球ちゃんは驚いて、今度はすぐには受け取らずにわたわたと両手を振った。

「えっ、でも抑制性サイトカインって大事なものなんですよね!?」
「俺はほら、1146番とは連絡を取り合えばすぐ会えるし。赤血球ちゃんとだって、1146番と一緒に行動していれば高確率で会えると思うからさ」

もっともらしいことを言いながら、半分は個人的な希望を込める。どうか、あいつとまた会ってほしい。それに生きている以上、写真で眺めるよりも、本人たちに直接会うほうがずっといい。
重荷を背負わせたくはないから、あくまでも冗談みたいな態度を演じる。嫌だったら断ってもいいよ、戯れ言だってことにするよ。そう予防線を張ってみたけれど、彼女は目を伏せて一拍置いた直後、綺麗な琥珀色の瞳を向けて、また柔らかく微笑む。

「4989番さん…ありがとうございます」

嬉しそうにお礼を言った赤血球ちゃんは、濃い赤色になっているジャケットの、右の胸ポケットに写真をしまった。受け取って丁寧に扱う様子に、心からほっとする。
彼女はきっと、自分の気持ちを諦めてはいない。決意した瞳は今はまだ、誰のことも立ち入らせてはくれないけれど、近い将来には踏み込める奴が一人だけいる。

――いつか、カッコイイ赤血球になったら。

他人行儀に聞こえた言葉が、強い響きを持ってがつんがつんと心に留まる。どうか、できるだけ早くその日が来てほしい。それまでに幾度となく偶然会って、お互いを尊敬して、大切に思って、自分はまだまだだと落ち込むかもしれないけれど、いつか。
そして、真相を知って驚く相変わらず鈍い1146番と、彼の前に堂々と立つ自然な笑顔の赤血球ちゃんを見ながら、友人である俺は告げてやるんだ。
ようやく秘密にしなくて済むな、俺はとっくに気付いていたよ、と。



fin.

(Suppress=抑制する。新型コロナウイルス回の写真がやっぱり好きです。)

2024/03/19 公開
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