Cells at Work

ねじり編みのミサンガ

休憩中、赤血球の右手首にふと目が留まった。いつものようにベンチで彼女の左隣に座って、お茶を飲んでいた時のことだ。
白い軍手の端から、薄いピンク色の糸くずが出ている。いや、糸一本というよりは、束になった房の端、とでも言えばいいのだろうか。手首の内側で、だから彼女が台車を押していた時には全く気付かなかったが、紙コップを持って口元に運ぶその動作の中で見つけてしまった。
赤いジャケットと帽子に、白い軍手、黒のインナーシャツ、青いズボン。制服のどこにも使われていない色を不思議に思って、例えば彼女自身も気付かずついたゴミならば教えてやらなければ、程度の軽い気持ちで声をかける。

「赤血球。手首のそれは、」

指摘した途端、こちらが最後まで言い終わらないうちに、彼女はびくりと飛び退ける勢いで反応して、左手で件の右手首を掴んだ。ほんのわずかに出ていただけの糸の房はあっという間に隠れてしまう。大げさに動いた反動で紙コップのお茶が零れるのではと心配もしたが、いくらか飲んで量が減っていたからか、幸い被害は出ずに済んだ。

「あぁあ、えっと、これはですね!」
「…うん」

赤血球のあまりの動揺ぶりに、ただの糸くずかと思ったことは伏せて、相槌を打つにとどめる。次の言葉を待っていると、赤血球はひとしきり唸って逡巡した後、観念したように紙コップを横に置き、軍手の裾を捲ってみせた。
先ほど見た薄いピンク色の糸の全体図、赤血球の手首をぐるりと一周する華奢な輪が現れる。糸の束の結び目がいくつか連なって飾りのように見えるそれは、端にいくらか短い房を残して固く結ばれていた。

「今、赤血球たちの間でひそかに流行してるんです。ミサンガって言うんですけどね」
「へえ、そうなのか」
「一応仕事中なので、軍手の下に隠していたんですが…!」

そこまで言ってまた慌てそうな気配に、なるほど赤血球が焦ったのはそのせいか、と合点がいく。思わず「いいんじゃないか」と告げる。仕事に真面目で、自身を未熟だと思い込んでいる彼女のことだ、まだ半人前なのに仕事と関係ないものを身につけていたことを知られるなんて、と自責の念に駆られてしまうに違いない。だから先手を打って言葉を繋ぐ。

「それがあると頑張れる、お守りみたいなものだろう?俺は構わないと思うぞ」
「で、でもでも、私なんかまだ時々道に迷ってしまいますしっ、仕事に私情を持ち込むなんてやっぱり不純だったのではと…!」

思いがけない肯定を得られてぱあっと表情が明るくなった赤血球だが、次の瞬間には自身を律するようにぶんぶんと首を横に振り始めた。…それを言われてしまえば俺のこの状況はどうなんだ、パトロール中に足を止めて茶を飲んでいるんだが、とは思ったものの言わないでおく。

「仕事中だろうと、気の休まる時間は大切だ。…それとも、結んだはいいが外せなくなったのか?」
「あっ、いえ、むしろ逆です!願掛けをしながら結ぶんです!」
「へえ、願掛け…」

同じ言葉を返しながら、改めてまじまじと赤血球の右手首を見てしまう。ただの糸束というよりは、どう作られたのか、ねじれが繰り返されて飾りのように編まれている。どことなくDNAの螺旋みたいだと思った。ねじれながら続く螺旋構造は細胞にとって馴染みがあるから、願掛けが流行するのも一理ある気がする。よく知らないまま咄嗟にお守りと表現したけれど、あながち間違いでもないらしい。これに願い事が込められているということか。彼女は何を願ったのだろう、さすがに訊くのは野暮だろうか。
しかし赤血球は、俺の視線を別の意味に捉えたらしかった。はっと何かを思い出した様子で、今度はその手でウエストポーチをごそごそと探り始める。
そうして「もしよければ」と前置きしながら彼女が取り出したのは、同じ色と飾りでもう一本の、まだ輪になっていないミサンガ。

「白血球さんもつけますか?あの、私が作ったものでよければ!」
「赤血球が作ったのか?」
「はい。と言っても、私は一番簡単なものしか作れないんですけど…」
「いや、充分すごいよ」

これが赤血球と好中球の違いなのか、それとも男女の違いによるものかは分からないが、少なくとも俺には、どういう手順で編まれているのか皆目見当もつかない。それに赤血球がわざわざ作ったものを俺にくれると言うのだ、その事実だけで充分すぎるほど価値がある気がした。仕事柄、制服を着崩すわけにはいかず、その理屈でいくと余計なものを身につけるのもどうかと一瞬だけ迷うが、赤血球がそうしていた通りグローブの下にしまい込んでしまえば支障はないだろう。そこまで考えると、彼女の申し出を断る理由は何もない。
しいて挙げるならば、気がかりは一つ。

「そうだな…赤血球。よかったら、結んでくれないか?」

言いながら、軽く握った右手を彼女の前に差し出す。片手を使って自分で結ぶこともできないことはないが、こういったものは怪我の手当てと同様、誰かに結んでもらったほうが手早く綺麗に仕上がる。一応これでもパトロール中で、何かが起きた時に備えてグローブを嵌めたままでもあるし…だからといって、じゃあ赤血球ならば結ぶために軍手を外させてもいいのか、あるいは軍手を付けたまま結ばせるのか、と追及されると返答に困るのだが。

「えっ!?私が、白血球さんのを、ですか!?」
「ああ。願掛け、というのもよく分からんし…お前のほうが詳しいだろう?」

もっともな理由を追加で付ければ、驚いていた赤血球もすぐに納得したらしく「そうですね、わかりました!」と笑顔で快諾してくれた。紐状のミサンガを両手で持ち直すと、まるで制服の寸法を測る時のように、俺の手首の辺りをぐるりと一周させる。

「えっと、ミサンガは身につけている最中というより、結ぶ時に願掛けをするので…白血球さん、願い事を思い浮かべてください!」
「願い事?…あ、ああ。そうだったな」

赤血球に言われて初めて、結ぶ時点での願い事の必要性に思い至る。正直なところ、彼女が作ってくれた、彼女と同じものを、というだけで満ち足りた心地になっていた。そうか、願い事か。少しの間、考える。
だが、特には思いつかなかった。自分のことは安全にと願ったところで仕方ないし、好中球である以上、生きて帰ることを願うつもりもない。世界のためにはやむを得ない事態もある。ならばこの世界自体の安全や平和な日々を願おうかとも思ったが、それはさすがに大きすぎる願いだ。作ってくれた赤血球には悪いがお守り一つでどうにかなるとは思えず、それこそ気休めにしかならない。
ならばと更に考えて、目の前の赤血球について願うことにした。先ほども「まだ時々道に迷ってしまう」と言っていたことだし、彼女の周囲が安全であるように、できれば道に迷わないように。
こちらの様子を窺って、結んでいいものか測りかねている赤血球に「ああ、いいぞ」と声をかける。上目遣いでこちらをちらりと見た彼女は、それでも願い事の内容までは訊かずに手際よくミサンガの両端を結ぶ。

「…できました!少しゆとりを持たせて結んだので、あとはグローブの下に入れてもらえれば」

ピンポーン♪

彼女が言い終わるか終わらないかという瞬間、鳴り響くレセプターの音。結ぶ時間があっただけタイミングが良いのか悪いのか、判断はつきかねるが細菌はぶっ殺す。

「すまない赤血球、また後で!」

赤血球が何かを言いかけていたことには気付いていた。が、仕事となれば即座に反応してしまうのは好中球の性質だ。謝罪の言葉もそこそこに、投げナイフの要領で的確に紙コップをゴミ箱へ投げ捨て、現場へと駆け出す。
充分な休憩の後だ。もともと負ける気はないが、今回はいつも以上に士気が上がっているのが自分でも分かった。


…☆…


結果から言うと、細菌の駆除はすぐに完了した。
敵のいる方向までは分からないレセプターだが、緑膿菌は一本道の先にいたので探す手間もなく刺し殺し、その断末魔に気付いたもう一体も一撃で仕留める。更に道の先にいた肺炎球菌が鉤爪を飛ばしてくるが、ナイフで弾きつつ間合いを詰め、一撃。
その後、仲間と連絡を取り合って確認したが、どうやらすり傷ほどの大きな傷口ではなかったようで、それ以上細菌が侵入してくることもなければ、血栓のボランティアを募られることもなかった。つまり対処としては良好だ…結果だけを見れば。

「……」

細菌の返り血を浴びた己の制服を見下ろす。いつものことながら、真っ赤に染まっている。それは別にいい。慣れていることだし、洗い流せば汚れは落ちる。
問題は、先ほど赤血球に結んでもらったお守りまでもが、返り血に晒されて見る影もなく汚れていたことだ。好中球の真っ白な制服の上では目立ちそうだと思った淡い色でさえ、今となってはどれが制服のパーツでどれがお守りなのか見分けがつかないほど、右腕全体が真っ赤。細菌をナイフで切りつけたほうの腕だ、つまりは返り血に最も近い腕だということを失念していた。その上、レセプターの音が聞こえると同時に出動したから、赤血球のようにグローブの下にしまう時間なんてなかった。というか、そうするはずだったのに頭の中からすっかり抜け落ちていた。

「はあ…」

この上なく順調に細菌を倒したはずなのに、重苦しい溜め息が漏れる。細菌は三体、一人で食べきるには少し多く、加水分解スプレーで溶かそうにも時間がかかる。ならばさっさとマクロファージさんに届けて貪食の協力を仰いで、それから早いところ制服の汚れを落としておきたい。…それで赤血球からもらったお守りも綺麗になるのかは、まだ何とも分からないけれど。何しろ非戦闘員の赤血球が作ってくれたものだ、頻繁に汚れて頻繁に洗う前提の好中球の制服とはわけが違う。見た目では判別がつかないが、制服の縫製に使われている糸と同じ素材とは限らない。
せめて左腕にしておけば…とも一瞬思ったが、左手で細菌を掴んで右手で刺し殺すこともあれば、両手に一本ずつナイフを握って切りつけることもある。いくら考えても結果は大して変わらず、どちらの腕だろうと遅かれ早かれこうなったのだと気付いて、また溜め息が漏れた。一応、投げナイフという攻撃手段もあるが、直接切りに行くのが確実な状況で、投げナイフをわざわざ使うわけにもいかない。
考えていても仕方ないので肺炎球菌の残骸を右肩に担ぎ、二体もいる緑膿菌の残骸は左手で掴んで引きずって運ぶ。息の根は完全に止めたので細菌に意思はないはずだが、垂れ下がった触手の先の鉤爪は俺が歩くたびに揺れて、支える右手首にかつんかつんと小さくぶつかる。グローブをしているので別に痛くはないが、ここにある大事なものを狙っているぞ、と言わんばかりで正直煩わしい。
…後から振り返ってみれば、この選択が良くなかったのだ。


…☆…


それから程なくしてマクロファージさんたちと合流し、細菌の残骸処理は何事もなく完了した。もちろん全部を任せるわけにもいかないのでいくらかは自分でも貪食して、これ以上は細菌の破片や内容物で汚れることもないという段階になってから、ようやく好中球専用の洗い場に向かう。普段ならば何も思考を挟まずに行える一連の流れのはずなのだが、今回はやけに時間の感じ方が長い。自覚も心当たりもあるので、せめて隙は作らないよう意識して無表情を貫いていた。
そうして、今。他に誰もいない洗い場で、冷たい水を頭からかぶりながら、自身から流れ落ちていく汚れをぼんやりと眺める。ようやく人心地ついた気がした。
ありがたいことに、赤血球からもらったお守りは制服と同様の防水加工がされていたらしい。ただ勢いよく水と洗剤をかぶっているだけでも、容易に本来の色を取り戻していく。守るべきはこの世界と細胞たちが第一で、決して手首のこれを優先して死守するわけではないのだが、それでも汚したままでは申し訳が立たない。ほっと息をついて、洗い終えたら今度は忘れずにグローブの下にしまおうと決意する。
考えてみれば赤血球の仕事だって、好中球ほどではないにしろ、予期せぬトラブルで汚れたり、突然ヒスタミンの雨に降られたりすることもあるのだろう。実際、以前には彼女の後輩と共に、細菌の返り血に巻き込んでしまったこともある。だから洗いやすくしているのはある意味必然の、赤血球の心遣いなのかもしれない。それでもありがたいことに変わりはないけれど。…あの時は赤血球にも彼女の後輩にも申し訳ないことをしたな。血しぶきに巻き込んでしまったこと自体もそうだが、汚れを落としたらそれで満足して洗い流しっぱなしにしていた、好中球の悪い癖が見事に出てしまった。まあ、それも今となっては笑い話であり良い思い出だ。
ふっと口元が緩んだのが自分でも分かった。蛇口を捻って水を止める。タオルもそうだが今はお守りだ。グローブを外そうと、右手首に何気なく左手をかけたところで――音もなく、糸の輪が切れて落ちた。

「なっ…!?」

ここでダメになるのか!?細菌との戦闘にも、返り血にも負けなかったのに!?
しかし戦闘後、細菌の残骸の鉤爪に何度も当たり、洗う時も制服と同じく水の勢いに任せて、丁寧とは言えない扱いをしていたのだ。どう考えても非はこちらにある。後悔先に立たずとは言うが、こんな形で実感したくはなかった。
物は物だ、いつか壊れるものだ。そう割り切ろうと試みても、これは赤血球が作ってくれたもので、DNAの螺旋に形が似ていて、彼女に関する願掛けもしていた。それが切れた、なんて明らかに縁起が悪すぎる。
もちろん、ただのお守りが壊れたからといって、赤血球本人とは何の関係もないはずだが、彼女は今本当に大丈夫なのかと妙な焦りが頭をよぎる。考え過ぎだ、落ち着け、と心の内で言い聞かせるけれど体は思うように動かず、ただのろのろと腕を伸ばして、お守りを拾い上げる。
白いグローブの手のひらの上には、くたりと力尽きた糸束。どうしても未練がましくぼうっと見つめてしまう。…その時、ふいに明るい声が耳に届いた。

「あっ、白血球さん!また会いましたね、お仕事お疲れ様です」

はっと顔を上げれば、赤い制服に赤い髪の見慣れた姿が、台車を押しながらこちらへ近付いてくる。特徴的な一房の跳ねた髪を歩調に合わせて揺らして、笑顔のままで。

「赤血球…」

無事でよかったと思う安心感と、しかしこのタイミングでは会いたくなかったという申し訳なさが、ないまぜになって襲いかかる。せめて手の中のものを隠さなければ、と頭では分かっているのに、体は硬直したまま動かない。
そんな姿をさすがに不思議に思ったのか、赤血球は足を速めて駆け寄ると、あっさり隣に並び立ち、手の中を覗き込んだ。
そして、一言。

「わあっ、ミサンガ切れたんですね!?」

慌てるでもなく、かといってがっかりするでもなく、棘のない、いつもと変わらない明るい声だった。そのことに少しだけほっとする。正直、あのお守りをもうダメにしたのかと幻滅されたり、怒ったり泣いたりされてもおかしくないと思っていた。
だが、赤血球の反応がどうだったとしても、壊れてしまったのは事実だ。心苦しさを覚えながらも、できる限り丁寧に謝罪を述べるべく、重い口を開く。

「…ああ。すまない、せっかくもらったのに…」
「よかったですね、さすが白血球さんです!」
「…うん?」

謝る側がこう思うのも何だが、赤血球の返答につい疑問符が浮かんだ。切れた糸束を見せても彼女にしてはあまり驚いていなかったことといい、どこか互いの認識に齟齬がある気がする。
赤血球はなおも気付かずに「きっと白血球さんがお仕事を頑張っているからですね」とねぎらいの言葉を続けた。その気持ち自体は本当にありがたいのだけれど、手放しで受け取る前に一旦待ったをかける。

「ええと、赤血球。よかった、とは…?」

おそるおそる尋ねると、赤血球は少しの間きょとんとした表情になり、やがて理解が追い付いたのか、納得したように手を打った。

「あっそうだった、さっき言いそびれちゃいましたよね。ミサンガは、切れると願いが叶うんですよ」

あまりにも簡単に付け加えられた最重要事項。結ぶ時に願って、切れた時に叶う。

「そうなのか?」
「はい。もちろん、わざとナイフやハサミで切るのはダメですけど…」
「いや、断じてそれはない!」
「あははっ。分かってますよ、白血球さんはそんな人じゃないって」

思わず勢いづいてしまった否定は軽く受け流して、赤血球は再び穏やかに笑う。その様子を見てようやく、心から、先程のベンチでの時間の続きが戻ってきたと思えた。
そうか。このお守りは切れるのが正解だったのか。縁起が悪いどころか、むしろ良い結果だったのか。
もう一度、手の中の糸束を見る。赤血球からもらった手作りの物が使えなくなるのは惜しいが、俺たち血球がいつか死ぬように物はいつか壊れるもので、でもそれは決して悪いことばかりではないのだと、今度はすっと受け入れられる気がした。…それでも今すぐ捨てるのはもったいないので、制服のズボンのポケットに何気なく手を突っ込むふりをして、こっそりと大切にしまう。
願いが叶うお守り、か。改めて隣に立つ赤血球の様子を見ると、台車の上には先程の休憩時と同じ柄の、二酸化炭素の箱がある。

「…そういえば、赤血球はもう循環してきたのか?」
「はい!肺でガス交換した後、次のお届け先はさっき休憩した所の近くだったので、迷わず行けたんですよ!細菌にも会いませんでしたし!」

赤血球は堂々と、嬉しそうに報告する。こちらが細菌を処理しているうちに、彼女は彼女で仕事を一つ無事に終えてきたらしい。

「まあ、近くだから迷いようもないんですけどね…」
「だとしても、すごいじゃないか。近くだろうと仕事は仕事だろう?」
「あっ、はい!それもそうですね!近くでも遠くでも、細胞さんにとっては大事な酸素ですし!」

自嘲気味に落ち込んだかと思えば、はっと思い直してまた笑顔になる。赤血球の話はそのくるくる変わる表情も相まって、やはり聞いているだけで楽しい。もっとも、俺が言おうとしたのは、以前の赤血球ならば近くだろうと逆走したり左右を間違えたりして迷っていたことについてだったのだが…本人は妙に良い形で捉えて納得しているし、下手に訂正しないほうがお互いのためだろう。

「それで、今は肺に戻る途中なんですけど、ふと横のほうを見たら、洗い場のところに白血球さんがいたので…」

そこまで言って、赤血球は言葉を止めた。わずかに俯いて、表情が帽子の陰に隠れたと思った瞬間、再び顔を上げた彼女から照れ混じりの笑みが向けられる。

「白血球さんに聞いてもらいたくて、つい声をかけちゃいました」

どきりと、胸の奥が高鳴る。悟られないよう「…そうか」と一言だけ返す。
赤血球の周囲が安全で、できれば道に迷わず循環できるように。あのお守りに込めた願い事は確かに叶ったのだと、急に実感が湧いた。
周囲の様子を窺うふりをしながら、さりげなく視線を外す。余程のことがない限り、こんな好中球専用の洗い場に誰か来ることはないのだが、赤血球の無邪気な笑顔を直視し続けるのにはまだ慣れていなかった。心根のまっすぐな彼女のことだから、こちらが動かなければおそらくずっと、相手のことを見つめ続けることができるのだろう。
赤血球は特に気にした様子もなく、今度は自身の手首に目線を移したり、軍手の裾を捲ってみたりしていたけれど、少ししてから、再びこちらを見上げて口を開いた。

「ところで、白血球さんの願い事って何だったんですか?」
「ん?」

今更それを訊くのか?とも思ったけれど、特に隠すようなことでもない。お守りが切れたのを知っている以上、本当に叶うのかどうかを、彼女も確かめたいだけなのかもしれない。…けれど。

「別に教えても構わないが…赤血球のも訊いていいか?」
「えっ」

対等な交換条件のようにして、お守りを結んだ時には一応遠慮した問いを投げかけてみると、赤血球は面白いくらいにぴたりと動きを止めた。仕事熱心な彼女のことだからてっきり、道に迷わないように、一人前の赤血球になれるように、といった類の願いをためらいなく言うと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
と、そんな推測をしているうちに、動くことを取り戻した赤血球は勢いよく首を横に振って、ついでになぜか一歩だけ飛び退いた。段ボール一箱分の距離が開く。

「や、やっぱり無しでお願いします!」
「そうか?」
「あ、えっと…私のはまだ切れていないですし、その…」

さっきまでのまっすぐな目はどこへやら。赤血球は口ごもりながら視線を彷徨わせ、それから自然と胸元に置いた自身の右手首を、左手で優しく押さえる。彼女のお守りが結んである位置だ。いろいろと粗雑な好中球とは違って、まだしばらくは結ばれたまま大切に扱われるであろうそれ。
赤血球が言いたくないのであれば、これ以上詮索する気はない。元々ただの雑談で、話題の一つに過ぎない。それでいいと納得していたのだけれど、彼女はそれだと申し訳ないとでも思ったのか、小さな声で呟いた。

「いつか、ちゃんと言いますから…」

目線は合わない。けれど、伏し目がちになって、ほんのりと頬を染めたその表情が、やけに可愛らしく思えてしまったのは。

「…ああ。楽しみにしてる」

彼女の抱く緊張と熱が伝染したのだろうか。口では平静を装いながら、胸の奥を巡るどうしようもない期待に気付いてしまって、直視できずに顔を背ける。
…いつか、そんな日が来るといい。今みたいに平和な日々が続いた、その先でまたこうして話せたら。何度でも出会って、やがて忘れた頃に今日の願掛けの話題が出て、実はこんな願い事をしていたのだと互いに打ち明けて…笑い合えたら、幸せだ。
ポケットの中の切れた糸束に触れる。効力抜群のお守りは、二人のささやかで壮大な願いさえも、叶えてくれそうな気がした。



fin.

2022/09/30 公開
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