BO-BOBO
レム
森の中を、木々の間を、走っていく。
息が荒い、呼吸が苦しい、でも必死に足を動かす。帽子をかぶった『彼』の背中を追いかける。
手は繋いでいない。私たちはそんな関係じゃない、手を引かれなくてもついて行ける、いざとなったら各々で判断して二手に分かれ逃げ延びる。信頼しているがゆえの決断だった。
何から逃げているのか。そのことを考えた途端、攻撃が飛んできた。遠距離の無差別攻撃、私たちを狙っているのは確かだけど一発に狙いを込めたものではなく、この程度なら走りながら避けられる。おそらく放った奴とはまだ距離があるはず。瞬時に判断してまた走る。
私たちの行く先は、彼がなんとなく分かっているようだった。…いや、たぶん私も分かっている。分かっているけれど、分かりたくなくて、怖くて、考えないようにしている。でもそれももうすぐ終わる。
彼がふいに速度を緩めて、立ち止まる。私も追いついて隣に並ぶ。休まず走ってきたせいで息が苦しい。でも、この胸が締め付けられるような苦しさは、たぶん走ったせいだけじゃない。
「…ここに飛び込めば、きっとお前は助かる」
彼が示したのは、滝つぼの中に微かに見える虹色の渦――いつか聞いた話を信じるのならば、時空の歪み。この中に入ると全く別の世界へ飛ばされる…なんておとぎ話みたいだけど、この時の私はそれ自体については受け入れていた。それはきっと、似たような原理のものを以前見たことがあるから。曖昧な記憶の中、玉座に腰掛ける赤い髪の男の姿がふと思い出される。
ただ、虹色の渦の存在を受け入れることはできても、これからのことを受け入れるのはまた別の話で。
「…嫌、です」
ぽつりと零れた言葉に、隣の彼は怪訝そうな表情を浮かべた。鋭いながらもこちらを窺うような視線が投げられて…でも、それはすぐに分からなくなってしまう。
代わりに滲んでいく視界。絞り出した声が微かに震える。
「だって、お別れかもしれないんですよ…?」
「…今はそんな事を言っている場合じゃ、」
「分かってます、でも…!」
でも、嫌だ。怖い。気持ちが溢れて止まらなくなる。
飛び込むことが怖いんじゃない。私が何よりも恐れているのは…!
「もう二度と会えないかもしれない、なんて…怖くないんですか…!?」
私は怖い。そんなの、怖くて悲しくて堪らない。
一緒にいたい。例えば百年経っても、世界が変わってしまっても、ずっと一緒に。
「…すぐに追いつくさ」
優しい声はすぐ耳元で聞こえた。
直後、包まれるように全身で感じるぬくもり。抱き締められている、と数秒のタイムラグの後に気付く。少しだけ早い心臓の鼓動が伝わる。私のも、彼のも。
「後から俺も行く。でもまずはお前を逃がすのが先だ」
「後からって…それなら、一緒に行っても」
「悪い、それはできない」
私が続けるであろう言葉を即座に拒否して、ゆっくりと体を離した彼は、だけど腕までは離さなかった。私の両肩を掴んだまま向き合って、穏やかに告げる。
「情けないが、俺の力ではあいつらを倒すのは難しい。…だが、足止めくらいならできる。一矢報いてやるよ」
好戦的な色を含んだ瞳が、先程攻撃を飛ばしてきた方角へ向けられる。勝算はほとんどないと彼は言うけれど、だからといって負けるつもりなんてない、強い意志。
その横顔に嫌な予感を覚えた。彼をこのまま行かせたら絶対に後悔する。相討ちを狙いに行くなんて文字通りの自殺行為だ。私の方が力不足なのに逃がしてもらって結局彼を生け贄にしてしまうような、限りなく絶望に近い感情が私の中を駆け巡っていく。
…それなのに。彼を止めることができないのはきっと、これが最善の策なのだと私も心のどこかで分かっているから。分かりたくないと必死に否定しても、彼に宥められて、最終的には従ってしまう。
それもこれもきっと、彼のことを――
「…見つけてやるよ。お前を、必ず」
まるで誓いのように投げられた言葉。どうせここでお別れなら、せめてはっきりと記憶に焼き付けておきたくて、私は涙を拭って顔を上げる。
彼は滅多に見せない柔らかい眼差しで、仕方ないと言わんばかりに微笑んだ。
「眠ってばかりの奴のことを、俺が間違うわけがないだろう?」
…ハッと目を開けると、そこは見慣れた私の部屋だった。
まだ暗い室内。でも真っ暗闇ではなく、カーテンの隙間からは薄い紺色が漏れている。あと一時間もすれば日の出を迎えそうな程度の、決して明るくはないけれど黒にもなり切れない夜空の色が、いつもより遠い天井にぼんやりと延びる。
微睡みを抱いたまま首だけを動かして壁の方を見れば、背の高くない家具がやけに大きく見えた。その上に乗っている花の置物も、日中なら光を受けてゆらゆら揺れるのに今は動きを止めている。
どうして私はここにいるんだろう、なんてぼんやりと思考を始めた時、隣から聞こえてくる寝息。…あぁそうだ、今日はコイツ泊まっていったんだっけ。それで成り行きで一緒に寝ることになって、布団を床に持ってきて…天井が遠いと思ったのはそのせいか。たぶんここからだといつも使っているロフトベッドすら遠く感じるんだろうな。
だからというわけじゃないけれど、寝返りを打つようにして体ごと彼の方を向く。背景のロフトベッドは確かに遠い。でもそんなことよりも私の目に飛び込んでくるのは、普段の仏頂面からは考えられない程のあどけない寝顔。ていうか何でこっち向いて寝てんの、なんて悪態をつくのは私が素直じゃないからで。
ちなみにハンペンは段ボール箱の中だ。別に何もないけれど「ハンペンの教育上よろしくない」とかいう雑な理由で隔離されている。それを言い出したのはもちろん隣で安らかに眠っているコイツの方。私はむしろ、三人で並んで寝ても別にいいんじゃないかと思っていた。だってハンペンはマスコットだし、ペットみたいなものだし…。そう、あの夢を見るまでは思っていた。
「……」
レム睡眠の中で見た光景を思い出す。
あの時一緒に逃げた彼も、こんな髪の色をしていた。夜空の暗闇に星の光を少しだけ混ぜたような、宇宙の色。そっと手を伸ばして、触れてみる。
「…ランバダ、様」
普段は間違っても絶対にしない呼び方だ。コイツに様付けなんて。でも、呼んでみたくなった。夢の中の私がそうだったから。
未だはっきりせず寝惚けた感情のままに、存在を確かめるように、彼の横髪を何度か梳 く。時々触れる頬は温かくて、いとおしい気持ちが溢れ出す。さっき見た夢のせいだ、こんなにも大切だと思うなんて。
「ん…う…?」
言葉になっていない声を漏らしながら、彼が身じろぎをする。起きるにはまだ早い時間だけど、いっそのこと抱き締めてみようか。夢の中で彼がしてくれたみたいに。そうしたら目の前のコイツはどんな反応をするんだろう、お互いの心音はどんなリズムで聞こえるのかな。
…なんて悪戯混じりに思ったものの、実行には移さなかった。夢の中の二人ならあり得たかもしれないけれど、今の私たちはそんな関係じゃない。それが良い事なのか悪い事なのかは、私にはまだ分からない。夢で見た関係が少しだけ羨ましい気もするけれど、でもこの関係だって向こうの世界からしてみれば望んだ最高の形なのかもしれないし…今の安らげる空間が変わってしまうのは正直怖い。
あぁもう、これじゃあまるで目の前の『彼』に夢中みたいだ。持て余した感情に自嘲しながら、それでも花にあげた水が徐々に浸透していくような感覚を抱いて、大切なそれの輪郭をなぞっていく。
「ん…?レム…?」
「うん。おはよう」
「…あぁ…」
低く掠れた声が私の名前を紡ぐ。寝起きで頭が働いていないのか、彼は半分ほど目を開けてぼんやりと私を確認し、再び目を瞑った。
もうすぐ新しい朝が始まる。夜が明ければ、私たちの関係はまた元通り…何事もなかったかのように続いていく。実際何もない、ただ本当かどうかも分からない夢を見ただけだから。
でも丸っきり同じというわけでもないのだろう。何も知らない頃とは違って、夢を見てしまったから。忘れていた事実を自覚してしまったから。
そんないつもと少し違う朝へ飛び込んでみようか。できれば今度こそ一緒に、普段の私たちらしく相手を巻き込んで。
fin.
(題名はポルカドットスティングレイの同タイトル曲から。タイトルを知って曲を聴いて、これはもうランレムで書くしかないと思いました。爽やかなのにどこか切なくてとても好きな曲です。)
2018/12/29 公開
森の中を、木々の間を、走っていく。
息が荒い、呼吸が苦しい、でも必死に足を動かす。帽子をかぶった『彼』の背中を追いかける。
手は繋いでいない。私たちはそんな関係じゃない、手を引かれなくてもついて行ける、いざとなったら各々で判断して二手に分かれ逃げ延びる。信頼しているがゆえの決断だった。
何から逃げているのか。そのことを考えた途端、攻撃が飛んできた。遠距離の無差別攻撃、私たちを狙っているのは確かだけど一発に狙いを込めたものではなく、この程度なら走りながら避けられる。おそらく放った奴とはまだ距離があるはず。瞬時に判断してまた走る。
私たちの行く先は、彼がなんとなく分かっているようだった。…いや、たぶん私も分かっている。分かっているけれど、分かりたくなくて、怖くて、考えないようにしている。でもそれももうすぐ終わる。
彼がふいに速度を緩めて、立ち止まる。私も追いついて隣に並ぶ。休まず走ってきたせいで息が苦しい。でも、この胸が締め付けられるような苦しさは、たぶん走ったせいだけじゃない。
「…ここに飛び込めば、きっとお前は助かる」
彼が示したのは、滝つぼの中に微かに見える虹色の渦――いつか聞いた話を信じるのならば、時空の歪み。この中に入ると全く別の世界へ飛ばされる…なんておとぎ話みたいだけど、この時の私はそれ自体については受け入れていた。それはきっと、似たような原理のものを以前見たことがあるから。曖昧な記憶の中、玉座に腰掛ける赤い髪の男の姿がふと思い出される。
ただ、虹色の渦の存在を受け入れることはできても、これからのことを受け入れるのはまた別の話で。
「…嫌、です」
ぽつりと零れた言葉に、隣の彼は怪訝そうな表情を浮かべた。鋭いながらもこちらを窺うような視線が投げられて…でも、それはすぐに分からなくなってしまう。
代わりに滲んでいく視界。絞り出した声が微かに震える。
「だって、お別れかもしれないんですよ…?」
「…今はそんな事を言っている場合じゃ、」
「分かってます、でも…!」
でも、嫌だ。怖い。気持ちが溢れて止まらなくなる。
飛び込むことが怖いんじゃない。私が何よりも恐れているのは…!
「もう二度と会えないかもしれない、なんて…怖くないんですか…!?」
私は怖い。そんなの、怖くて悲しくて堪らない。
一緒にいたい。例えば百年経っても、世界が変わってしまっても、ずっと一緒に。
「…すぐに追いつくさ」
優しい声はすぐ耳元で聞こえた。
直後、包まれるように全身で感じるぬくもり。抱き締められている、と数秒のタイムラグの後に気付く。少しだけ早い心臓の鼓動が伝わる。私のも、彼のも。
「後から俺も行く。でもまずはお前を逃がすのが先だ」
「後からって…それなら、一緒に行っても」
「悪い、それはできない」
私が続けるであろう言葉を即座に拒否して、ゆっくりと体を離した彼は、だけど腕までは離さなかった。私の両肩を掴んだまま向き合って、穏やかに告げる。
「情けないが、俺の力ではあいつらを倒すのは難しい。…だが、足止めくらいならできる。一矢報いてやるよ」
好戦的な色を含んだ瞳が、先程攻撃を飛ばしてきた方角へ向けられる。勝算はほとんどないと彼は言うけれど、だからといって負けるつもりなんてない、強い意志。
その横顔に嫌な予感を覚えた。彼をこのまま行かせたら絶対に後悔する。相討ちを狙いに行くなんて文字通りの自殺行為だ。私の方が力不足なのに逃がしてもらって結局彼を生け贄にしてしまうような、限りなく絶望に近い感情が私の中を駆け巡っていく。
…それなのに。彼を止めることができないのはきっと、これが最善の策なのだと私も心のどこかで分かっているから。分かりたくないと必死に否定しても、彼に宥められて、最終的には従ってしまう。
それもこれもきっと、彼のことを――
「…見つけてやるよ。お前を、必ず」
まるで誓いのように投げられた言葉。どうせここでお別れなら、せめてはっきりと記憶に焼き付けておきたくて、私は涙を拭って顔を上げる。
彼は滅多に見せない柔らかい眼差しで、仕方ないと言わんばかりに微笑んだ。
「眠ってばかりの奴のことを、俺が間違うわけがないだろう?」
…ハッと目を開けると、そこは見慣れた私の部屋だった。
まだ暗い室内。でも真っ暗闇ではなく、カーテンの隙間からは薄い紺色が漏れている。あと一時間もすれば日の出を迎えそうな程度の、決して明るくはないけれど黒にもなり切れない夜空の色が、いつもより遠い天井にぼんやりと延びる。
微睡みを抱いたまま首だけを動かして壁の方を見れば、背の高くない家具がやけに大きく見えた。その上に乗っている花の置物も、日中なら光を受けてゆらゆら揺れるのに今は動きを止めている。
どうして私はここにいるんだろう、なんてぼんやりと思考を始めた時、隣から聞こえてくる寝息。…あぁそうだ、今日はコイツ泊まっていったんだっけ。それで成り行きで一緒に寝ることになって、布団を床に持ってきて…天井が遠いと思ったのはそのせいか。たぶんここからだといつも使っているロフトベッドすら遠く感じるんだろうな。
だからというわけじゃないけれど、寝返りを打つようにして体ごと彼の方を向く。背景のロフトベッドは確かに遠い。でもそんなことよりも私の目に飛び込んでくるのは、普段の仏頂面からは考えられない程のあどけない寝顔。ていうか何でこっち向いて寝てんの、なんて悪態をつくのは私が素直じゃないからで。
ちなみにハンペンは段ボール箱の中だ。別に何もないけれど「ハンペンの教育上よろしくない」とかいう雑な理由で隔離されている。それを言い出したのはもちろん隣で安らかに眠っているコイツの方。私はむしろ、三人で並んで寝ても別にいいんじゃないかと思っていた。だってハンペンはマスコットだし、ペットみたいなものだし…。そう、あの夢を見るまでは思っていた。
「……」
レム睡眠の中で見た光景を思い出す。
あの時一緒に逃げた彼も、こんな髪の色をしていた。夜空の暗闇に星の光を少しだけ混ぜたような、宇宙の色。そっと手を伸ばして、触れてみる。
「…ランバダ、様」
普段は間違っても絶対にしない呼び方だ。コイツに様付けなんて。でも、呼んでみたくなった。夢の中の私がそうだったから。
未だはっきりせず寝惚けた感情のままに、存在を確かめるように、彼の横髪を何度か
「ん…う…?」
言葉になっていない声を漏らしながら、彼が身じろぎをする。起きるにはまだ早い時間だけど、いっそのこと抱き締めてみようか。夢の中で彼がしてくれたみたいに。そうしたら目の前のコイツはどんな反応をするんだろう、お互いの心音はどんなリズムで聞こえるのかな。
…なんて悪戯混じりに思ったものの、実行には移さなかった。夢の中の二人ならあり得たかもしれないけれど、今の私たちはそんな関係じゃない。それが良い事なのか悪い事なのかは、私にはまだ分からない。夢で見た関係が少しだけ羨ましい気もするけれど、でもこの関係だって向こうの世界からしてみれば望んだ最高の形なのかもしれないし…今の安らげる空間が変わってしまうのは正直怖い。
あぁもう、これじゃあまるで目の前の『彼』に夢中みたいだ。持て余した感情に自嘲しながら、それでも花にあげた水が徐々に浸透していくような感覚を抱いて、大切なそれの輪郭をなぞっていく。
「ん…?レム…?」
「うん。おはよう」
「…あぁ…」
低く掠れた声が私の名前を紡ぐ。寝起きで頭が働いていないのか、彼は半分ほど目を開けてぼんやりと私を確認し、再び目を瞑った。
もうすぐ新しい朝が始まる。夜が明ければ、私たちの関係はまた元通り…何事もなかったかのように続いていく。実際何もない、ただ本当かどうかも分からない夢を見ただけだから。
でも丸っきり同じというわけでもないのだろう。何も知らない頃とは違って、夢を見てしまったから。忘れていた事実を自覚してしまったから。
そんないつもと少し違う朝へ飛び込んでみようか。できれば今度こそ一緒に、普段の私たちらしく相手を巻き込んで。
fin.
(題名はポルカドットスティングレイの同タイトル曲から。タイトルを知って曲を聴いて、これはもうランレムで書くしかないと思いました。爽やかなのにどこか切なくてとても好きな曲です。)
2018/12/29 公開
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