Cells at Work
CheerS
血管の壁の更に上の方、天井近くにある辺縁プール。天井を支える太いパイプや梁の上など、一般的な細胞はあまり来ることのない場所だが好中球は例外で、細菌の来ない平和な時にはここで少しの間休むことが多い。俺も背中を壁に預けつつ足はパイプの上に投げ出して、今まさに体を休めているところだった。
…が、目を閉じてもなかなか眠れない。ついさっき細菌を倒したばかりで、気が立っているのかもしれない。
好中球は皆、外敵がいる時は殺し屋として血気盛んになるが、普段の性格は穏やかで戦闘時の気性を引きずることは少ない。俺もいつもはそうだ。
しかし今回の敵は緑膿菌だった。特に珍しくもない菌で難なく倒せるが…時折ふと、それこそ一人で休んでいる時なんかには、初めて緑膿菌に対峙した時を思い出してしまうことがある。おもちゃのナイフで立ち向かって、結局何もできなくて、最終的には好中球先生に助けてもらっただけの苦い記憶。あの時俺が細菌を倒したわけでもないのに律儀にお礼を言ってくれた子は、無事に大人になってどこかで働いているのだろうか。
普段は外敵の駆除に忙しいため思い出には浸っていられないが、最近――何かと危なっかしくて目が離せない赤血球と交流するようになってからは、今みたいにふと思い出すようになった。それでも思い出の輪郭は曖昧で、仕事が始まれば残像すら無いけれど。
そんなことをぼんやり考えていると、突然下の通路から声が届いた。
「あっ、白血球さーん!」
緊急時でもないのに免疫系をわざわざ大声で呼ぶ奴はあまりいない。それにこの声はもう何度も聞いている。彼女が先輩の赤血球ではなく「白血球さん」と名指しで呼んだのだ、間違えることはない。起き上がって下の通路を覗くと、赤い髪の毛が一房ぴょんと跳ねた赤血球がこちらに向かって両手を振っていた。
上にいる俺に気付いたということは、また前を見ずに歩いていたのか。つい親心が顔を出すけれど、それでも見つけてくれたことに対する嬉しさの方が大きくて片手を上げる。
「よう、赤血球」
「そんな高いところで、何してるんですかー?」
赤血球は大きな声で呼びかける。その様子に他の赤血球が何事かと彼女を見て、次に彼女の視線の先を追って俺を見て…好中球だと気付くと思わずぎょっとしてから、関わり合いにならないようにと足早に通り過ぎていった。免疫系は何かと怖がられているから俺はその反応にも慣れている、が。
「ちょっとな、休憩中だ」
「お疲れ様ですー!」
赤血球は周りから訝しげな視線を向けられていることなど気付いていないようで、勢いよく頭を下げたりジャンプしたり、大きな身振り手振りで意思を伝えようとしている。彼女の手はもちろん、台車にも荷物はない。配達を終えた後の休憩時間だろうか。それならまたいつものように話をしよう、とごく自然に考えて…
ふと、思いついた。
「…お前も来るか?」
「えっ?」
赤血球は循環プールの真ん中で動きを止めた。それから俺の提案を理解するまでに数秒。その間にも他の赤血球は彼女を避けるようにそこだけ二手に分かれ、彼女の側を通り過ぎてからはまた合流して血液の流れを作っていく。
このまま彼女を循環プールに立ち止まらせて、上と下で声を張り上げて話すよりは、もう少し近くで…隣に並んで話す方がいい。天井近くの辺縁プールまでわざわざ来るような赤血球はあまりいないけれど、ここも血管の中だから来ること自体は問題ないはず。多少高さがあるだけで、本質的には血管の壁に寄り掛かるのと同じようなものだ。
もちろん俺が降りていってもいいのだが、それをすれば彼女は「仕事でもないのにわざわざ来させてしまった」と繰り返し謝罪するだろう。そしてその行動が更に注目を集めてしまう。まぁそれもいつも通りと言えばそうだが…外敵のいない今は落ち着いて赤血球の話を聞きたいと思った。
「ほら、そこの壁にあるはしごから上ってこれる」
近くの壁づたいに伸びているはしごを指で示す。血小板たちが壁や天井を直す時に使う備え付けのものだ。ごく稀に免疫系が高さのある敵を上からナイフで刺し殺すために使うこともある。俺がいる場所のちょうど真横に設置してあり、高さも十分届いている。
赤血球はそれを見た後もう一度俺の方を見て、こくんと頷いた。そしてはしごに駆け寄り、一瞬ためらうように止まったもののすぐに上ってくる。他の赤血球ならこうはいかないかもしれないが彼女は勇気がある…というか、普段からどこか抜けてて工事中の穴へ落ちそうになったり細菌に狙われやすかったりするため、はしごを上る程度なら案外すぐに覚悟を決めたようだ。
一段ずつ踏みしめるようにゆっくりと、赤血球が上がる。俺もはしごの近くまで進んで赤い帽子に手を伸ばすと、彼女は不安混じりの真剣な面持ちで手を取った。そのまま引っ張り上げる。
「あ、すみません…」
「いや」
「えっと、お邪魔します…」
「あぁ」
赤血球は無事辺縁プールに着くと、どこか居心地悪そうに並んで座った。そして繋いでいた手を離し、上体を捻って両手を壁に付ける。ぺたぺたと探るように、あるいは手が吸盤になったかのように。落ちそうになった時に掴むところを探しているようだが…壁はどこも平らで、それがますます赤血球の不安を煽り立てたのか彼女は今にも叫び出しそうな顔をしていた。
思えば赤血球が血管の壁近くを歩いたり壁に寄りかかったりすることはあるが、同じ壁際でもこんな高い場所にわざわざ来ることは滅多にない。それゆえ目立たない場所でもあるのだが…このままでは壁を触っている間に本当に落ちてしまいそうだ。赤血球にしてみれば、これでは休憩どころではないだろう。
「…俺に掴まるか?この場所は慣れてて落ちることもないし」
「はっ、はいい…!」
赤血球は悲鳴に似た返事をすると、震える手をなんとか壁から引き剥がして、その勢いのままに俺の胴体に両腕を回した。どうやら彼女にとっては命懸けの心地らしい。
「おい、大丈夫か…?」
「はいっ大丈夫です、すみません支えてもらって!」
「いや…本当に駄目なら無理しなくても…」
赤血球は相変わらず動けないのか大きく頭を下げることはなかったけれど、代わりに声で空元気ぎみに謝っている。しかしそれを謝るならばそもそも俺がこんなところに誘ってしまったのが悪いわけで。
やっぱり今からでも普通に下で話した方が良いかもしれない…と思い直しかけた、その時。
「ん…?」
突然、小さな声と共に赤血球の謝罪が止まる。
何事かと思い目線だけ向けると、赤血球は相変わらず俺にしがみついたままだが、おそるおそる目を開けていて。
次いで、感嘆の声を上げた。
「わぁ…っ!綺麗ですね、ここからの景色!」
一瞬で怖さが吹き飛んだのか、赤血球はとても楽しそうに笑う。その瞳はきらきらと輝いて本当に子どものようだ。
綺麗な景色といっても、俺が見た限り特別な何かがあるわけではない。俺たちの下には循環プールの大通りがあって、その先には多くの血管の出入り口が集まるちょっとした広場、更に遠くにはビルや工場が立ち並ぶ区域。普段と変わらず細胞たちがそれぞれの場所ではたらいているだけの、何てことのない風景だ。
それでも赤血球はこの眺めを初めて見るせいか、興奮した様子できょろきょろと辺りを見回している。
「あっ、あれ好酸球さんですよね?」
そう問われて赤血球の目線をたどると、確かにピンクの制服とツインテール、大きな二又の槍が見えた。周りにいる一般細胞に「可愛い」などとからかわれているのか、真っ赤になった頬を両手で押さえて首を横に振っている。近くには暗い色のレインコートに身を包んだ好塩基球さんも静かに佇んでいた。
そこから少し先の通路まで視線を向ければ、大きな筒状の武器を抱えて元気に駆けていく青い制服。
「向こうから来たのは…B細胞だな。記憶さんもいる」
彼は新型の武器を自慢したいのか、通りがかる一般細胞に片っ端から声をかけていた。そして追いかけてきた記憶さんが、自身のおかげで抗体が作れるのだと補足している。まぁ要するに、二人とも皆から褒めてもらいたいのだろう。
「あっちにはマクロファージさんもいますよ!」
赤血球は次に通路の反対側を指差した。そこにはレンガ造りの建物があり、大きな窓からは確かにマクロファージさんたちが集まっているのが見える。そして遅刻でもしたのか大急ぎで玄関に駆け込むのは、黄色い防護服と黒いガスマスクの単球さん。
そのコミカルな動きに赤血球はくすりと笑い、他にも知り合いがいないかとまた楽しそうに探し始める。片方の手はまだ俺の上着を掴んだままだが体勢は割と安定しているし、何より片手を離して指差すことができる程度には慣れてきたらしい。いや、知り合いの姿をたくさん見つけて一時的に怖さを忘れているだけかもしれないが…まぁそうだとしても、とりあえずは一安心だ。
俺も同じ方を向いて、赤血球の眺めている景色を視界に捉える…が。
「ん?あっ、おい待て、伏せろ!」
「ぎゃあっ!」
咄嗟に彼女の頭を押さえて体勢を低くさせた。赤血球には申し訳ないが、二人とも今まで座っていたパイプにしがみつくような形になる。
下ではキラーTとNKが言い争いながら歩いていた。レセプターが反応せず他のT細胞戦闘員もいないことから、おそらく単独でのパトロール中に偶然会ってそのまま喧嘩に発展したのだろう。どちらも「売られた喧嘩は買ってやるし自分からも相手に売りつける、やられた分は倍にしてやり返す」性格のため、引き下がるどころかエスカレートして今に至ったのだとなんとなく想像がつく。
幸いにも二人は相手を攻撃することに夢中で上は見ていなかったらしい。二人ともこの世界で共にはたらく仲間だが、キラーTに見つかれば免疫系はどうだの心のナイフがこうだのと色々面倒なことになるから今回ばかりは喧嘩中で助かった。勘の鋭いNKが気付かなかったのは意外だったが、彼女も誰かとつるんだり交流したりするタイプではない。性格柄むやみに赤血球を脅してしまう可能性を考えると、やっぱり俺たちに気付かなくて良かったと思う。
好戦的な免疫細胞二人が通り過ぎ、さらに見えなくなるほど遠くなったのを確認してから身を起こす。赤血球のことも手を取って助け起こすと、彼女は素直に疑問符を浮かべた。
「いきなりどうしたんですか、白血球さん?」
「いや、ちょっと暴漢…じゃなくて、その…この状況が見つかると面倒な奴がいたから…」
「えっ、そうなんですか!?私、降りましょうか?」
「いや、いい。それより…そうだな、今日の仕事はどこに行ってきたんだ?」
せっかくの休憩時にこのままキラーTの話を続けるのも面白くないし、何よりこれで楽しく過ごしていた時間が終わってしまうのは勿体ない。多少無理矢理ながらも話題転換を図る。
はぐらかしたことを追及されるかと思ったが赤血球は特に気にしていないらしく、返事の代わりにぱぁっと表情を明るくした。それから今日の仕事のこと――具体的には届け先までの道のり、初めて見たという景色、途中で会った血小板たちの仕事ぶりなどを、彼女の感じ方と合わせて次々に話していく。その時の興奮を思い出しているのか、助け起こした時に繋いでそのままになっている手が時折ぎゅっと握られる。彼女が楽しいと思った時、驚いた時、擬態語を使う時…つまりは無意識なのだろう。でもそれが赤血球の気持ちを直に伝えてくるようで、なんだか心地よい。
最初に会った時は迷子で、その後も逆走しそうになったり人波に押されて落とし物をしたりと危なっかしく放っておけなかったが、最近はだいぶ道を覚えてきたらしく一人で循環することも多くなってきたようだ。
「…すごいな、お前は」
初めて一人で循環した時のこと、後輩の指導をしていた時のこと…今までの出来事を思い返してぽつりと呟く。重い荷物や狭い通路でも文句を言わず笑顔で酸素を届けたり、地図を正しく読み解こうと頑張っていたり、どんな時でも赤血球は挫けずに努力し続けていた。
しかし赤血球は自身の長所を自覚していないのか、賛辞を受け取るどころか笑顔で返してきた。
「すごいのは白血球さんの方ですよ!」
「え?」
「いつも怖い細菌と戦ってて、私も何度も危ないところを助けてもらって…白血球さんはすごいです」
「それは、まぁ、仕事だから…」
何とも歯切れの悪い返事をつい口走ってしまう。
細菌を殺すのも赤血球を守るのも、それが俺の仕事だからだ。この世界を維持するために必要なことで、当たり前のこと。周囲から感謝されればそれはそれで嬉しいが、そういった言葉がなくても俺はずっとこれが俺の仕事だと思ってきた。感謝どころかむしろ他の細胞たちから怖がられていたとしても、それも含めての仕事だ。
赤血球が「すごい」と思ってくれた、その気持ちを否定したくはない。だが細菌殺しのプロフェッショナルである好中球が細菌と戦うこと自体は、特にすごいことではないはずで。
それでも赤血球は微笑みながら言葉を続ける。
「私は赤血球なので、敵が現れたら逃げるしかできないんですけど。でも、心の中ではいつも白血球さんのことを応援してるんです」
「…たまに、声に出てる時もあるんだが」
「…えへ」
微笑みが照れ笑いに変わった。赤血球自身も心当たりがあるらしい。そしてそれが場合によっては危険な行為であることも。
黄色ブドウ球菌が大群で攻めてきた時など、戦闘能力を持たない赤血球は最前線からは逃げたものの、少し離れたところで俺たちに声をかけ続けていた。冷静に考えれば、細菌が俺たちを倒しきってしまえば真っ先に狙われそうな、決して安全とは言えない場所。
しかしそれを今更責める気にはなれなかった。その時だけではない。初めてがん細胞と戦った時だって、彼女が戦場にいることにぎょっとしながらもその応援が嬉しかったのだから。
「赤血球」
「はい…?」
「お前も、すごい奴だよ」
手を繋いだままこちらを見上げる赤血球に、俺は優しい声音で再度伝える。だが彼女は一瞬不思議そうな顔をした後、首を横に振った。
「そんな、私なんて!道に迷ってばかりですし!」
「まぁ、それはそうだが」
「う…」
赤血球は図星を突かれて分かりやすくしゅんとする。しかし俺はそれも彼女らしいと思った。滅多に感情の出ない制御性T細胞さんとは違う、かと言って慌てて誤魔化すヘルパーT司令官や怒るマスト細胞とも違う、彼女の素直さを体現したような反応。
思わず口元が綻んだのを自覚しながら、俺は言葉を続ける。
「でも、お前は一人で循環しようと頑張っているだろう?重い荷物を持って体中を巡った」
「それは…赤血球の仕事で、いつまでも半人前じゃいられないですから…」
「出血性ショックの時も、お前は諦めなかった」
「…それだって、皆がそれぞれの場所で頑張ってるから、私も私の仕事を…って、思って…」
確かに赤血球の言う通り、この世界ではたらく細胞たちは皆、違う役割を担っている。例えば赤血球には酸素を運ぶという仕事があり、好中球には細菌を殺すという仕事があり、一般細胞には分裂増殖してこの世界を維持するという仕事がある。それらは決して互いに代わることはできない。貴賎も優劣もなく、この世界のために必要で大切な仕事だ。
しかしいつでもその思いを忘れずにいられるかは、最終的には本人の意志の強さに委ねられる。
どんなに不利な状況だろうと諦めず、自分の仕事に誇りを持ち続けること。他の細胞たちの仕事を知り、どんな時でも互いを認め合えること。それは言葉以上に難しいことであり…きっと、道に迷わないこと以上に大切なことだ。職務を全うする上で絶対に必要なことではないが、細胞たちが互いにギスギスせず穏やかに過ごす上では欠かせないこと。
「誰もが頑張っているから…か。そう思えているのなら、お前はもう立派な赤血球なんだろうな」
「え…?」
俺の言葉に、赤血球は期待と戸惑いの混じった表情を見せた。一人前の赤血球になりたい、だから立派だと言われてとても嬉しいのだけど、自分がその言葉を受け取ってしまって本当にいいのか、躊躇う気持ちも捨てきれないでいる…そんな表情。
だけど彼女にこそ、受け取ってもらいたいと思った。自分の仕事に誇りを持つのはもちろん、様々な組織や細胞の役割を積極的に知ろうとする、それぞれの仕事を大切なものだと思ってくれる彼女だからこそ。
だから…俺は赤血球が受け取りやすい言葉に言い換えて、伝える。
「いつもお疲れさん」
「あ、ありがとうございます…」
照れたようにはにかんでから、赤血球は少しだけ俯いた。琥珀色の瞳が困ったように逸らされる。柔らかそうな赤い髪が揺れて、血色の良い頬を隠す。その瞳も髪も肌も綺麗だと、赤血球と交流するようになって度々思うようになった。きっとこれからも思うのだろう。
「赤血球」
静かに呼べば、再び顔を上げてくれる。そんな赤血球をこれからも守りたい、そして危機が去った後はまた交流したいと思うから。
「また一緒に、お茶でも飲もうな」
「…はい!」
赤血球は元気よく返事をして嬉しそうに笑う。その様子にほっと安堵した瞬間、ふと重要な事柄が頭をもたげる。俺から提案しておいて後出しするのも何だが…。
「えっと…すまん、外敵が来た時はそれどころではないが…それ以外なら、時間も取れるから」
「はい、もちろんです!」
「さっきのように、遠慮せず声をかけてくれ」
「はいっ!」
「あー、その…、この世界が暑くなった時なんかは、俺の方がついお茶を遠慮してしまうこともあるが…」
熱中症になった時に水分補給の大切さを痛感したとはいえ、もしも再度同じ状況になったら俺は同じ選択をしてしまうのだろう。好中球は毎日が戦場だ。体温が平熱より高くても低くてもどんな状態でも戦えるよう、いくらか丈夫にできている。そんな俺が冷たいお茶を貰うよりも、体の小さい血小板や体温調節のため暑い中でも血管内を歩く赤血球、戦闘能力を持たない一般細胞が飲んだほうがいい。きっとそう思ってしまう。
すると赤血球はそんな俺の思いを汲んだのか、頼もしく宣言する。
「分かってます。それでも、もし会えたらお誘いしますね」
「あぁ。頼む」
「それと…」
「ん?」
「暑い時だけじゃなくて、出血性ショックの時みたいにこの世界が寒くなった時も…いや、もうそんなことが起きなければそれが一番なんですけど!」
「うん」
「皆それぞれ自分の仕事を頑張ってて、近くにいない時でも…白血球さんのこと、応援してますから」
「…うん」
「本当は、もっと具体的に元気の出る何かができればいいんですが…魔法とか活性化させる物質とか…」
「……」
思わず表情が固くなる。赤血球に悪気はなく知らないだけなのだろうが、箱いっぱいの「元気を出す、活性化させる物質」を腕に抱えた不敵な笑みが脳裏によぎって背筋が凍った。
もちろん彼女がそんな意味で言ったわけでないことは分かっている。赤血球にとってはただ、応援しかできないことがもどかしいのだろう。
赤血球が一人で循環すると決めた際に、俺がどんなに助けてやりたくても些細なことしかできなかったように。彼女の代わりに重い荷物を運んでやることも、狭い毛細血管を通って彼女の代わりに届けてやることも、ヘモグロビンを持たない好中球にはできないように。
それでも、赤血球は一人で仕事ができたことを嬉しそうに報告してくれた。道案内の後に貰うお礼の言葉も悪くないが、彼女が俺に頼らず循環した後に話す言葉も…良いものだと、その時初めて気付いた。俺が道案内することだけが応援じゃない。見守るだけでも…赤血球にしてみれば「俺がどこか赤血球の知らないところでパトロールしていた」だけでも、彼女の中ではそれが彼女への応援になっていたのだと初めて知った。
だから、今度は俺が伝える番だ。
「…大丈夫だ。お前の応援は、いつも届いてる」
赤血球の顔を真っ直ぐに見て告げる。気の利いた言葉は思い付かないけれど、代わりに思ったままのことを。柔らかい表情になっているのが自分でも分かった。
彼女は大きな目を更に見開いて、それからまた嬉しそうにふわりと笑う。
「…私も、」
「ん?」
「私も、届きました。白血球さんがくれた応援」
「…そうか」
そうか、ちゃんと届いたんだな。
言葉にすればそれだけの、事実確認のようなものにしかならない。だが確実にそれ以上の温かい何かが、胸の奥で優しく広がっていくのが分かる。それが何なのか、どういう感覚なのかは曖昧すぎて表現できないけれど…例えるならインフルエンザで生じる悪寒とは真逆に位置するもの。おそらく赤血球がくれたもの。赤血球と何度も交流していくうちに芽生え始めた、温かい何か。
殺してばかりの俺には無縁に思えた「それ」を感じながら、赤血球の笑顔を眺める。いつまでもこうしていたいと思える、静かで穏やかな時間が流れていく。
…が、その静寂は案外すぐに邪魔された。
微かにカタカタと音がする。これは…遊走路の鉄格子を外す音だろうか?
この付近の遊走路は一つ。赤血球が上ったはしごを挟んで向こう側の壁にある、ちょうどこの辺縁プールに直通の出入り口だ。
小さな音が続く。すぐそこに何かがいるのか?
緊張が走る。睨んでいると赤血球も疑問符を浮かべながら同じ方を見て…次の瞬間、鉄格子がガタリと大きな音を立てて外れた。
「うぎゃあぁぁぁあっ!?」
悲鳴と同時に繋いだ手が勢いよく押されたかと思えば、すぐ近くに赤血球がいた。そして再び胴体に回される、繋いでいない方の腕。どうやら突然のことに赤血球は怖さが再来したらしく、叫び声を上げながら最初のように俺に掴まってきたのだと、俺はワンテンポ遅れて理解する。
赤血球の動転ぶりから、まさか細菌が襲来したのかと一瞬思った…が、そもそも細菌は遊走路には入れない。入ろうとしても蓋が開かなかったり、ただの壁になったりするはずだ。つまり外敵ではない。ならば、とりあえず赤血球を落ち着かせるのが先だ。彼女の背中に手を当て、宥めるようにさすってやる。
「ふぇ…?はっけっきゅう、さん…?」
「大丈夫だ。遊走路から来るのなら敵じゃない」
「あ…なんだ…。ビックリしたぁ…」
はーっ、と安堵の溜め息を漏らす赤血球。一人で循環できるようになってきたとはいえ怯えた時の挙動は相変わらずのようで、やっぱりまだ目が離せないな。
微笑ましく思って眺めていたその時、…そろりそろりと控えめに、遊走路から顔を出している2626番が手を上げた。
「…あのー。俺の存在、気付いてる…?」
「……」
数秒、沈黙。
そして。
「うわあッ!?」
「ひえぁっ、白血球さん!?」
思わず叫んでしまった。それで赤血球を更に驚かせてしまったのは申し訳ないが、それどころじゃない。
なんで2626番がいるんだ!?いや2626番は遊走路を通ってきただけだ、別に悪くない。でもいつからいたんだ、どこから聞いていたんだ!?
だが俺の混乱に追い討ちをかけるように、別の声が遊走路の中から響く。
「何だよ、早く行けって!後ろ詰まってんだよ!」
「あれ、もしかしてお邪魔だった?」
「……いや…」
2626番が辺縁プールに降り立った後、顔を出したのは2048番と4989番。だからなんでいるんだ。
絞り出した否定の声には説得力なんか微塵もなかった。
…はずだった、のだが…。
「いえいえっ、そんなことないです!休憩してただけですし!」
明るい声でそう言いながら、赤血球はぶんぶんと首を横に振る。確かにその通り、二人で話しながら休憩していただけでお邪魔とかではない。だがそこまで必死に否定されると…さすがに凹む。
俺があらゆる事態に落胆する中、4989番の声が心なしか遠く聞こえた。
「休憩?…こんなところで?」
「……。はい、こんなところで…」
「……」
赤血球は苦しまぎれに言う。しかし一般的に、赤血球がこんな暗くて落ちそうな場所で休憩するなんて話は滅多にない。そしてここへ来させたのは間違いなく俺だ。バツが悪くなって、俺も思わず目を逸らす。案の定三人は揃って何とも言えない顔をしたが、それ以上深くは追及してこなかった。
全員が黙った後、しばらくしてから赤血球がおずおずと尋ねる。
「…あの、ところで皆さんどうしてここへ…?」
「あー、俺らも休憩?」
「お前らの見学ー」
「要するに野次馬だな」
「えぇっ!?わ、私たちのって…!?」
「あはは、冗談だってー」
「おい」
赤血球をからかって遊ぶ三人に短くツッコミを入れると、ようやく彼らは本題に移った。
「この前修理に出したナイフ、今日が受け取り日だったろう?」
「忘れてんじゃないかと思って呼びに来たんだよ」
「ん?あぁ、そういやそうだったな」
言われて時刻を確認すれば、ちょうど日付が変わる頃だ。時間厳守というわけではなく取りに行ける時で構わないのだが、せっかくなら細菌が来る前に受け取っておきたい。そんなことを考えていると、赤血球もあっと声を上げる。
「じゃあ白血球さん、私もそろそろ仕事に戻りますね!」
「そうか。すまない赤血球、落ち着いて休憩できなかったかもしれんが…」
「いえいえ、景色もお話も楽しかったです!」
「一人で降りれるか?」
「はいっ!」
繋いでいた手が離れ、赤血球がはしごを掴む。そのまま足をかけて彼女が安全に降りれる体勢になったのを見届けてから、俺も遊走路の縁を掴んだ。
「じゃあ、またな。頑張れよ、赤血球」
「はい!白血球さんも頑張ってください!」
また新しい一日が始まる。
願わくば今日もこの世界は平和で、皆が幸せな「良い日」であるように。
fin.
(タイトルはアニメ1期ED曲から。この曲をフルで聴いた時、最初に思い浮かんだのが「5巻で白血球さんが休んでるような辺縁プールで、二人で並んで座る白赤」だったのでこうなりました。「隣に座って君の話をきかせてよ」の部分が白赤っぽくて特に好きです。)
2018/09/29 公開
血管の壁の更に上の方、天井近くにある辺縁プール。天井を支える太いパイプや梁の上など、一般的な細胞はあまり来ることのない場所だが好中球は例外で、細菌の来ない平和な時にはここで少しの間休むことが多い。俺も背中を壁に預けつつ足はパイプの上に投げ出して、今まさに体を休めているところだった。
…が、目を閉じてもなかなか眠れない。ついさっき細菌を倒したばかりで、気が立っているのかもしれない。
好中球は皆、外敵がいる時は殺し屋として血気盛んになるが、普段の性格は穏やかで戦闘時の気性を引きずることは少ない。俺もいつもはそうだ。
しかし今回の敵は緑膿菌だった。特に珍しくもない菌で難なく倒せるが…時折ふと、それこそ一人で休んでいる時なんかには、初めて緑膿菌に対峙した時を思い出してしまうことがある。おもちゃのナイフで立ち向かって、結局何もできなくて、最終的には好中球先生に助けてもらっただけの苦い記憶。あの時俺が細菌を倒したわけでもないのに律儀にお礼を言ってくれた子は、無事に大人になってどこかで働いているのだろうか。
普段は外敵の駆除に忙しいため思い出には浸っていられないが、最近――何かと危なっかしくて目が離せない赤血球と交流するようになってからは、今みたいにふと思い出すようになった。それでも思い出の輪郭は曖昧で、仕事が始まれば残像すら無いけれど。
そんなことをぼんやり考えていると、突然下の通路から声が届いた。
「あっ、白血球さーん!」
緊急時でもないのに免疫系をわざわざ大声で呼ぶ奴はあまりいない。それにこの声はもう何度も聞いている。彼女が先輩の赤血球ではなく「白血球さん」と名指しで呼んだのだ、間違えることはない。起き上がって下の通路を覗くと、赤い髪の毛が一房ぴょんと跳ねた赤血球がこちらに向かって両手を振っていた。
上にいる俺に気付いたということは、また前を見ずに歩いていたのか。つい親心が顔を出すけれど、それでも見つけてくれたことに対する嬉しさの方が大きくて片手を上げる。
「よう、赤血球」
「そんな高いところで、何してるんですかー?」
赤血球は大きな声で呼びかける。その様子に他の赤血球が何事かと彼女を見て、次に彼女の視線の先を追って俺を見て…好中球だと気付くと思わずぎょっとしてから、関わり合いにならないようにと足早に通り過ぎていった。免疫系は何かと怖がられているから俺はその反応にも慣れている、が。
「ちょっとな、休憩中だ」
「お疲れ様ですー!」
赤血球は周りから訝しげな視線を向けられていることなど気付いていないようで、勢いよく頭を下げたりジャンプしたり、大きな身振り手振りで意思を伝えようとしている。彼女の手はもちろん、台車にも荷物はない。配達を終えた後の休憩時間だろうか。それならまたいつものように話をしよう、とごく自然に考えて…
ふと、思いついた。
「…お前も来るか?」
「えっ?」
赤血球は循環プールの真ん中で動きを止めた。それから俺の提案を理解するまでに数秒。その間にも他の赤血球は彼女を避けるようにそこだけ二手に分かれ、彼女の側を通り過ぎてからはまた合流して血液の流れを作っていく。
このまま彼女を循環プールに立ち止まらせて、上と下で声を張り上げて話すよりは、もう少し近くで…隣に並んで話す方がいい。天井近くの辺縁プールまでわざわざ来るような赤血球はあまりいないけれど、ここも血管の中だから来ること自体は問題ないはず。多少高さがあるだけで、本質的には血管の壁に寄り掛かるのと同じようなものだ。
もちろん俺が降りていってもいいのだが、それをすれば彼女は「仕事でもないのにわざわざ来させてしまった」と繰り返し謝罪するだろう。そしてその行動が更に注目を集めてしまう。まぁそれもいつも通りと言えばそうだが…外敵のいない今は落ち着いて赤血球の話を聞きたいと思った。
「ほら、そこの壁にあるはしごから上ってこれる」
近くの壁づたいに伸びているはしごを指で示す。血小板たちが壁や天井を直す時に使う備え付けのものだ。ごく稀に免疫系が高さのある敵を上からナイフで刺し殺すために使うこともある。俺がいる場所のちょうど真横に設置してあり、高さも十分届いている。
赤血球はそれを見た後もう一度俺の方を見て、こくんと頷いた。そしてはしごに駆け寄り、一瞬ためらうように止まったもののすぐに上ってくる。他の赤血球ならこうはいかないかもしれないが彼女は勇気がある…というか、普段からどこか抜けてて工事中の穴へ落ちそうになったり細菌に狙われやすかったりするため、はしごを上る程度なら案外すぐに覚悟を決めたようだ。
一段ずつ踏みしめるようにゆっくりと、赤血球が上がる。俺もはしごの近くまで進んで赤い帽子に手を伸ばすと、彼女は不安混じりの真剣な面持ちで手を取った。そのまま引っ張り上げる。
「あ、すみません…」
「いや」
「えっと、お邪魔します…」
「あぁ」
赤血球は無事辺縁プールに着くと、どこか居心地悪そうに並んで座った。そして繋いでいた手を離し、上体を捻って両手を壁に付ける。ぺたぺたと探るように、あるいは手が吸盤になったかのように。落ちそうになった時に掴むところを探しているようだが…壁はどこも平らで、それがますます赤血球の不安を煽り立てたのか彼女は今にも叫び出しそうな顔をしていた。
思えば赤血球が血管の壁近くを歩いたり壁に寄りかかったりすることはあるが、同じ壁際でもこんな高い場所にわざわざ来ることは滅多にない。それゆえ目立たない場所でもあるのだが…このままでは壁を触っている間に本当に落ちてしまいそうだ。赤血球にしてみれば、これでは休憩どころではないだろう。
「…俺に掴まるか?この場所は慣れてて落ちることもないし」
「はっ、はいい…!」
赤血球は悲鳴に似た返事をすると、震える手をなんとか壁から引き剥がして、その勢いのままに俺の胴体に両腕を回した。どうやら彼女にとっては命懸けの心地らしい。
「おい、大丈夫か…?」
「はいっ大丈夫です、すみません支えてもらって!」
「いや…本当に駄目なら無理しなくても…」
赤血球は相変わらず動けないのか大きく頭を下げることはなかったけれど、代わりに声で空元気ぎみに謝っている。しかしそれを謝るならばそもそも俺がこんなところに誘ってしまったのが悪いわけで。
やっぱり今からでも普通に下で話した方が良いかもしれない…と思い直しかけた、その時。
「ん…?」
突然、小さな声と共に赤血球の謝罪が止まる。
何事かと思い目線だけ向けると、赤血球は相変わらず俺にしがみついたままだが、おそるおそる目を開けていて。
次いで、感嘆の声を上げた。
「わぁ…っ!綺麗ですね、ここからの景色!」
一瞬で怖さが吹き飛んだのか、赤血球はとても楽しそうに笑う。その瞳はきらきらと輝いて本当に子どものようだ。
綺麗な景色といっても、俺が見た限り特別な何かがあるわけではない。俺たちの下には循環プールの大通りがあって、その先には多くの血管の出入り口が集まるちょっとした広場、更に遠くにはビルや工場が立ち並ぶ区域。普段と変わらず細胞たちがそれぞれの場所ではたらいているだけの、何てことのない風景だ。
それでも赤血球はこの眺めを初めて見るせいか、興奮した様子できょろきょろと辺りを見回している。
「あっ、あれ好酸球さんですよね?」
そう問われて赤血球の目線をたどると、確かにピンクの制服とツインテール、大きな二又の槍が見えた。周りにいる一般細胞に「可愛い」などとからかわれているのか、真っ赤になった頬を両手で押さえて首を横に振っている。近くには暗い色のレインコートに身を包んだ好塩基球さんも静かに佇んでいた。
そこから少し先の通路まで視線を向ければ、大きな筒状の武器を抱えて元気に駆けていく青い制服。
「向こうから来たのは…B細胞だな。記憶さんもいる」
彼は新型の武器を自慢したいのか、通りがかる一般細胞に片っ端から声をかけていた。そして追いかけてきた記憶さんが、自身のおかげで抗体が作れるのだと補足している。まぁ要するに、二人とも皆から褒めてもらいたいのだろう。
「あっちにはマクロファージさんもいますよ!」
赤血球は次に通路の反対側を指差した。そこにはレンガ造りの建物があり、大きな窓からは確かにマクロファージさんたちが集まっているのが見える。そして遅刻でもしたのか大急ぎで玄関に駆け込むのは、黄色い防護服と黒いガスマスクの単球さん。
そのコミカルな動きに赤血球はくすりと笑い、他にも知り合いがいないかとまた楽しそうに探し始める。片方の手はまだ俺の上着を掴んだままだが体勢は割と安定しているし、何より片手を離して指差すことができる程度には慣れてきたらしい。いや、知り合いの姿をたくさん見つけて一時的に怖さを忘れているだけかもしれないが…まぁそうだとしても、とりあえずは一安心だ。
俺も同じ方を向いて、赤血球の眺めている景色を視界に捉える…が。
「ん?あっ、おい待て、伏せろ!」
「ぎゃあっ!」
咄嗟に彼女の頭を押さえて体勢を低くさせた。赤血球には申し訳ないが、二人とも今まで座っていたパイプにしがみつくような形になる。
下ではキラーTとNKが言い争いながら歩いていた。レセプターが反応せず他のT細胞戦闘員もいないことから、おそらく単独でのパトロール中に偶然会ってそのまま喧嘩に発展したのだろう。どちらも「売られた喧嘩は買ってやるし自分からも相手に売りつける、やられた分は倍にしてやり返す」性格のため、引き下がるどころかエスカレートして今に至ったのだとなんとなく想像がつく。
幸いにも二人は相手を攻撃することに夢中で上は見ていなかったらしい。二人ともこの世界で共にはたらく仲間だが、キラーTに見つかれば免疫系はどうだの心のナイフがこうだのと色々面倒なことになるから今回ばかりは喧嘩中で助かった。勘の鋭いNKが気付かなかったのは意外だったが、彼女も誰かとつるんだり交流したりするタイプではない。性格柄むやみに赤血球を脅してしまう可能性を考えると、やっぱり俺たちに気付かなくて良かったと思う。
好戦的な免疫細胞二人が通り過ぎ、さらに見えなくなるほど遠くなったのを確認してから身を起こす。赤血球のことも手を取って助け起こすと、彼女は素直に疑問符を浮かべた。
「いきなりどうしたんですか、白血球さん?」
「いや、ちょっと暴漢…じゃなくて、その…この状況が見つかると面倒な奴がいたから…」
「えっ、そうなんですか!?私、降りましょうか?」
「いや、いい。それより…そうだな、今日の仕事はどこに行ってきたんだ?」
せっかくの休憩時にこのままキラーTの話を続けるのも面白くないし、何よりこれで楽しく過ごしていた時間が終わってしまうのは勿体ない。多少無理矢理ながらも話題転換を図る。
はぐらかしたことを追及されるかと思ったが赤血球は特に気にしていないらしく、返事の代わりにぱぁっと表情を明るくした。それから今日の仕事のこと――具体的には届け先までの道のり、初めて見たという景色、途中で会った血小板たちの仕事ぶりなどを、彼女の感じ方と合わせて次々に話していく。その時の興奮を思い出しているのか、助け起こした時に繋いでそのままになっている手が時折ぎゅっと握られる。彼女が楽しいと思った時、驚いた時、擬態語を使う時…つまりは無意識なのだろう。でもそれが赤血球の気持ちを直に伝えてくるようで、なんだか心地よい。
最初に会った時は迷子で、その後も逆走しそうになったり人波に押されて落とし物をしたりと危なっかしく放っておけなかったが、最近はだいぶ道を覚えてきたらしく一人で循環することも多くなってきたようだ。
「…すごいな、お前は」
初めて一人で循環した時のこと、後輩の指導をしていた時のこと…今までの出来事を思い返してぽつりと呟く。重い荷物や狭い通路でも文句を言わず笑顔で酸素を届けたり、地図を正しく読み解こうと頑張っていたり、どんな時でも赤血球は挫けずに努力し続けていた。
しかし赤血球は自身の長所を自覚していないのか、賛辞を受け取るどころか笑顔で返してきた。
「すごいのは白血球さんの方ですよ!」
「え?」
「いつも怖い細菌と戦ってて、私も何度も危ないところを助けてもらって…白血球さんはすごいです」
「それは、まぁ、仕事だから…」
何とも歯切れの悪い返事をつい口走ってしまう。
細菌を殺すのも赤血球を守るのも、それが俺の仕事だからだ。この世界を維持するために必要なことで、当たり前のこと。周囲から感謝されればそれはそれで嬉しいが、そういった言葉がなくても俺はずっとこれが俺の仕事だと思ってきた。感謝どころかむしろ他の細胞たちから怖がられていたとしても、それも含めての仕事だ。
赤血球が「すごい」と思ってくれた、その気持ちを否定したくはない。だが細菌殺しのプロフェッショナルである好中球が細菌と戦うこと自体は、特にすごいことではないはずで。
それでも赤血球は微笑みながら言葉を続ける。
「私は赤血球なので、敵が現れたら逃げるしかできないんですけど。でも、心の中ではいつも白血球さんのことを応援してるんです」
「…たまに、声に出てる時もあるんだが」
「…えへ」
微笑みが照れ笑いに変わった。赤血球自身も心当たりがあるらしい。そしてそれが場合によっては危険な行為であることも。
黄色ブドウ球菌が大群で攻めてきた時など、戦闘能力を持たない赤血球は最前線からは逃げたものの、少し離れたところで俺たちに声をかけ続けていた。冷静に考えれば、細菌が俺たちを倒しきってしまえば真っ先に狙われそうな、決して安全とは言えない場所。
しかしそれを今更責める気にはなれなかった。その時だけではない。初めてがん細胞と戦った時だって、彼女が戦場にいることにぎょっとしながらもその応援が嬉しかったのだから。
「赤血球」
「はい…?」
「お前も、すごい奴だよ」
手を繋いだままこちらを見上げる赤血球に、俺は優しい声音で再度伝える。だが彼女は一瞬不思議そうな顔をした後、首を横に振った。
「そんな、私なんて!道に迷ってばかりですし!」
「まぁ、それはそうだが」
「う…」
赤血球は図星を突かれて分かりやすくしゅんとする。しかし俺はそれも彼女らしいと思った。滅多に感情の出ない制御性T細胞さんとは違う、かと言って慌てて誤魔化すヘルパーT司令官や怒るマスト細胞とも違う、彼女の素直さを体現したような反応。
思わず口元が綻んだのを自覚しながら、俺は言葉を続ける。
「でも、お前は一人で循環しようと頑張っているだろう?重い荷物を持って体中を巡った」
「それは…赤血球の仕事で、いつまでも半人前じゃいられないですから…」
「出血性ショックの時も、お前は諦めなかった」
「…それだって、皆がそれぞれの場所で頑張ってるから、私も私の仕事を…って、思って…」
確かに赤血球の言う通り、この世界ではたらく細胞たちは皆、違う役割を担っている。例えば赤血球には酸素を運ぶという仕事があり、好中球には細菌を殺すという仕事があり、一般細胞には分裂増殖してこの世界を維持するという仕事がある。それらは決して互いに代わることはできない。貴賎も優劣もなく、この世界のために必要で大切な仕事だ。
しかしいつでもその思いを忘れずにいられるかは、最終的には本人の意志の強さに委ねられる。
どんなに不利な状況だろうと諦めず、自分の仕事に誇りを持ち続けること。他の細胞たちの仕事を知り、どんな時でも互いを認め合えること。それは言葉以上に難しいことであり…きっと、道に迷わないこと以上に大切なことだ。職務を全うする上で絶対に必要なことではないが、細胞たちが互いにギスギスせず穏やかに過ごす上では欠かせないこと。
「誰もが頑張っているから…か。そう思えているのなら、お前はもう立派な赤血球なんだろうな」
「え…?」
俺の言葉に、赤血球は期待と戸惑いの混じった表情を見せた。一人前の赤血球になりたい、だから立派だと言われてとても嬉しいのだけど、自分がその言葉を受け取ってしまって本当にいいのか、躊躇う気持ちも捨てきれないでいる…そんな表情。
だけど彼女にこそ、受け取ってもらいたいと思った。自分の仕事に誇りを持つのはもちろん、様々な組織や細胞の役割を積極的に知ろうとする、それぞれの仕事を大切なものだと思ってくれる彼女だからこそ。
だから…俺は赤血球が受け取りやすい言葉に言い換えて、伝える。
「いつもお疲れさん」
「あ、ありがとうございます…」
照れたようにはにかんでから、赤血球は少しだけ俯いた。琥珀色の瞳が困ったように逸らされる。柔らかそうな赤い髪が揺れて、血色の良い頬を隠す。その瞳も髪も肌も綺麗だと、赤血球と交流するようになって度々思うようになった。きっとこれからも思うのだろう。
「赤血球」
静かに呼べば、再び顔を上げてくれる。そんな赤血球をこれからも守りたい、そして危機が去った後はまた交流したいと思うから。
「また一緒に、お茶でも飲もうな」
「…はい!」
赤血球は元気よく返事をして嬉しそうに笑う。その様子にほっと安堵した瞬間、ふと重要な事柄が頭をもたげる。俺から提案しておいて後出しするのも何だが…。
「えっと…すまん、外敵が来た時はそれどころではないが…それ以外なら、時間も取れるから」
「はい、もちろんです!」
「さっきのように、遠慮せず声をかけてくれ」
「はいっ!」
「あー、その…、この世界が暑くなった時なんかは、俺の方がついお茶を遠慮してしまうこともあるが…」
熱中症になった時に水分補給の大切さを痛感したとはいえ、もしも再度同じ状況になったら俺は同じ選択をしてしまうのだろう。好中球は毎日が戦場だ。体温が平熱より高くても低くてもどんな状態でも戦えるよう、いくらか丈夫にできている。そんな俺が冷たいお茶を貰うよりも、体の小さい血小板や体温調節のため暑い中でも血管内を歩く赤血球、戦闘能力を持たない一般細胞が飲んだほうがいい。きっとそう思ってしまう。
すると赤血球はそんな俺の思いを汲んだのか、頼もしく宣言する。
「分かってます。それでも、もし会えたらお誘いしますね」
「あぁ。頼む」
「それと…」
「ん?」
「暑い時だけじゃなくて、出血性ショックの時みたいにこの世界が寒くなった時も…いや、もうそんなことが起きなければそれが一番なんですけど!」
「うん」
「皆それぞれ自分の仕事を頑張ってて、近くにいない時でも…白血球さんのこと、応援してますから」
「…うん」
「本当は、もっと具体的に元気の出る何かができればいいんですが…魔法とか活性化させる物質とか…」
「……」
思わず表情が固くなる。赤血球に悪気はなく知らないだけなのだろうが、箱いっぱいの「元気を出す、活性化させる物質」を腕に抱えた不敵な笑みが脳裏によぎって背筋が凍った。
もちろん彼女がそんな意味で言ったわけでないことは分かっている。赤血球にとってはただ、応援しかできないことがもどかしいのだろう。
赤血球が一人で循環すると決めた際に、俺がどんなに助けてやりたくても些細なことしかできなかったように。彼女の代わりに重い荷物を運んでやることも、狭い毛細血管を通って彼女の代わりに届けてやることも、ヘモグロビンを持たない好中球にはできないように。
それでも、赤血球は一人で仕事ができたことを嬉しそうに報告してくれた。道案内の後に貰うお礼の言葉も悪くないが、彼女が俺に頼らず循環した後に話す言葉も…良いものだと、その時初めて気付いた。俺が道案内することだけが応援じゃない。見守るだけでも…赤血球にしてみれば「俺がどこか赤血球の知らないところでパトロールしていた」だけでも、彼女の中ではそれが彼女への応援になっていたのだと初めて知った。
だから、今度は俺が伝える番だ。
「…大丈夫だ。お前の応援は、いつも届いてる」
赤血球の顔を真っ直ぐに見て告げる。気の利いた言葉は思い付かないけれど、代わりに思ったままのことを。柔らかい表情になっているのが自分でも分かった。
彼女は大きな目を更に見開いて、それからまた嬉しそうにふわりと笑う。
「…私も、」
「ん?」
「私も、届きました。白血球さんがくれた応援」
「…そうか」
そうか、ちゃんと届いたんだな。
言葉にすればそれだけの、事実確認のようなものにしかならない。だが確実にそれ以上の温かい何かが、胸の奥で優しく広がっていくのが分かる。それが何なのか、どういう感覚なのかは曖昧すぎて表現できないけれど…例えるならインフルエンザで生じる悪寒とは真逆に位置するもの。おそらく赤血球がくれたもの。赤血球と何度も交流していくうちに芽生え始めた、温かい何か。
殺してばかりの俺には無縁に思えた「それ」を感じながら、赤血球の笑顔を眺める。いつまでもこうしていたいと思える、静かで穏やかな時間が流れていく。
…が、その静寂は案外すぐに邪魔された。
微かにカタカタと音がする。これは…遊走路の鉄格子を外す音だろうか?
この付近の遊走路は一つ。赤血球が上ったはしごを挟んで向こう側の壁にある、ちょうどこの辺縁プールに直通の出入り口だ。
小さな音が続く。すぐそこに何かがいるのか?
緊張が走る。睨んでいると赤血球も疑問符を浮かべながら同じ方を見て…次の瞬間、鉄格子がガタリと大きな音を立てて外れた。
「うぎゃあぁぁぁあっ!?」
悲鳴と同時に繋いだ手が勢いよく押されたかと思えば、すぐ近くに赤血球がいた。そして再び胴体に回される、繋いでいない方の腕。どうやら突然のことに赤血球は怖さが再来したらしく、叫び声を上げながら最初のように俺に掴まってきたのだと、俺はワンテンポ遅れて理解する。
赤血球の動転ぶりから、まさか細菌が襲来したのかと一瞬思った…が、そもそも細菌は遊走路には入れない。入ろうとしても蓋が開かなかったり、ただの壁になったりするはずだ。つまり外敵ではない。ならば、とりあえず赤血球を落ち着かせるのが先だ。彼女の背中に手を当て、宥めるようにさすってやる。
「ふぇ…?はっけっきゅう、さん…?」
「大丈夫だ。遊走路から来るのなら敵じゃない」
「あ…なんだ…。ビックリしたぁ…」
はーっ、と安堵の溜め息を漏らす赤血球。一人で循環できるようになってきたとはいえ怯えた時の挙動は相変わらずのようで、やっぱりまだ目が離せないな。
微笑ましく思って眺めていたその時、…そろりそろりと控えめに、遊走路から顔を出している2626番が手を上げた。
「…あのー。俺の存在、気付いてる…?」
「……」
数秒、沈黙。
そして。
「うわあッ!?」
「ひえぁっ、白血球さん!?」
思わず叫んでしまった。それで赤血球を更に驚かせてしまったのは申し訳ないが、それどころじゃない。
なんで2626番がいるんだ!?いや2626番は遊走路を通ってきただけだ、別に悪くない。でもいつからいたんだ、どこから聞いていたんだ!?
だが俺の混乱に追い討ちをかけるように、別の声が遊走路の中から響く。
「何だよ、早く行けって!後ろ詰まってんだよ!」
「あれ、もしかしてお邪魔だった?」
「……いや…」
2626番が辺縁プールに降り立った後、顔を出したのは2048番と4989番。だからなんでいるんだ。
絞り出した否定の声には説得力なんか微塵もなかった。
…はずだった、のだが…。
「いえいえっ、そんなことないです!休憩してただけですし!」
明るい声でそう言いながら、赤血球はぶんぶんと首を横に振る。確かにその通り、二人で話しながら休憩していただけでお邪魔とかではない。だがそこまで必死に否定されると…さすがに凹む。
俺があらゆる事態に落胆する中、4989番の声が心なしか遠く聞こえた。
「休憩?…こんなところで?」
「……。はい、こんなところで…」
「……」
赤血球は苦しまぎれに言う。しかし一般的に、赤血球がこんな暗くて落ちそうな場所で休憩するなんて話は滅多にない。そしてここへ来させたのは間違いなく俺だ。バツが悪くなって、俺も思わず目を逸らす。案の定三人は揃って何とも言えない顔をしたが、それ以上深くは追及してこなかった。
全員が黙った後、しばらくしてから赤血球がおずおずと尋ねる。
「…あの、ところで皆さんどうしてここへ…?」
「あー、俺らも休憩?」
「お前らの見学ー」
「要するに野次馬だな」
「えぇっ!?わ、私たちのって…!?」
「あはは、冗談だってー」
「おい」
赤血球をからかって遊ぶ三人に短くツッコミを入れると、ようやく彼らは本題に移った。
「この前修理に出したナイフ、今日が受け取り日だったろう?」
「忘れてんじゃないかと思って呼びに来たんだよ」
「ん?あぁ、そういやそうだったな」
言われて時刻を確認すれば、ちょうど日付が変わる頃だ。時間厳守というわけではなく取りに行ける時で構わないのだが、せっかくなら細菌が来る前に受け取っておきたい。そんなことを考えていると、赤血球もあっと声を上げる。
「じゃあ白血球さん、私もそろそろ仕事に戻りますね!」
「そうか。すまない赤血球、落ち着いて休憩できなかったかもしれんが…」
「いえいえ、景色もお話も楽しかったです!」
「一人で降りれるか?」
「はいっ!」
繋いでいた手が離れ、赤血球がはしごを掴む。そのまま足をかけて彼女が安全に降りれる体勢になったのを見届けてから、俺も遊走路の縁を掴んだ。
「じゃあ、またな。頑張れよ、赤血球」
「はい!白血球さんも頑張ってください!」
また新しい一日が始まる。
願わくば今日もこの世界は平和で、皆が幸せな「良い日」であるように。
fin.
(タイトルはアニメ1期ED曲から。この曲をフルで聴いた時、最初に思い浮かんだのが「5巻で白血球さんが休んでるような辺縁プールで、二人で並んで座る白赤」だったのでこうなりました。「隣に座って君の話をきかせてよ」の部分が白赤っぽくて特に好きです。)
2018/09/29 公開
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