Cells at Work
彼の表情
白血球さんって表情が豊かなんですよ。と、最近見つけた事実を話せば大抵の場合、にわかには信じられないといった反応が相手から返ってくる。
例えば後輩ちゃんからは、戦闘時に豹変するのは表情豊かとは違うと思いますよ、と真面目かつ冷静な口調で説明された。戦っている時じゃなくて普段の話だよ、と訂正を加えるけれどすぐさま先輩からも、あの好中球に表情なんてあるの…?と訝しげに返された。二人とも、白血球さんとは面識があるけれどよく知らないのかもしれない。そう思ってもっと彼の良さを伝えようとしたけれど、まあアンタが一番表情豊かよね、と頬をむにむにと撫で回されて話は有耶無耶になった。
ならば白血球さんのお友達で同僚の皆さんは分かってくれるかもしれない、と考えたけれど、実際の反応はいまいちで、三人揃って首を傾げられた。あいつ、俺ら四人の中でも一番無表情じゃね?とは2048番さんの談。とびきりまずい細菌でも顔色一つ変えずに貪食するし、と4989番さんが続ける。汚れを流す時なんかも礼は言うけど特に笑顔は無いよな、と2626番さんが締めくくった。気心の知れた仲だとそういうものなのかな、とは思うものの、何かが腑に落ちない。
形の掴めないもやもやを抱えながらも循環に戻り、肺へ向かう。二酸化炭素の載った台車を押して進んでいると、道の先で白い後ろ姿を見つけた。見慣れた背格好と片手に持ったお茶、パトロール中だけど気を張りすぎてはいない、ゆったりとした歩き方。
「白血球さん!」
反射的に呼んでしまってから、人違いだったらどうしようと思い至った。好中球課の制服だから白血球であることには違いないのだけれど、免疫細胞に助けを求める事件が起こったわけでもない。後ろ姿だけで帽子の識別番号も確認できていない、声も聞けていないのに「白血球さん」だと思うなんて、勇み足ではないかと不安がよぎる。
けれど、そんな心配は一瞬で吹き飛んだ。首をわずかに動かして必要最小限の動きで視線を向けた彼は、間違いなく1146番の白血球さんで、こちらを認識すると体ごと振り向いて立ち止まってくれた。
「赤血球。お疲れさん」
「白血球さんこそ、お疲れ様です」
駆け寄って、隣に並んでまた歩き出す。同じ方向に進んでいて、知り合い同士で声もかけたのにわざわざ別々に行く必要もないと思ったから、当たり前にそうしたけれど、思えば道案内でもないのに一緒に歩くなんてなかなか珍しい状況だ。でも白血球さんも私が隣に来たことには何も言わないで、私が追いついたのを見て歩き始めたわけで…と、まとまらない考えを巡らせていると。
「その荷物…肺に行くところか」
お茶を飲みながら何気なく、白血球さんが尋ねる。声につられて思わず見上げれば、前髪で隠されていないほうの瞳と目が合った。
「そうなんです!…道、合ってますよね?」
ここは何度も通って覚えた道のはずだけど、自信がある時に限って間違えるのだから私の方向音痴は油断ならない。念のため訊き返すと、白血球さんは虚を突かれたような顔をした後、黒目をわずかに細めて、ふっと笑みを零した。
「ああ、合ってるぞ」
言葉だけではぶっきらぼうで無愛想なはずなのに、その声音と表情は優しくて、道の確認以上の情報を伝えてくる。道を間違えていないことへの驚きとか称賛とか、だけど道を訊いてきたことに対する励ましとか、安心させたい気持ちとか…それから、私が照れたり恥じらったりすることを見越しての、ほんの少しのからかいとか。
「えへへ、それなら良かったです」
表面上はほっとしたような声を出しながら、進行方向に顔を向けて、なるべく自然に目を逸らす。たったこれだけの会話で嬉しくなって、もっと見ていたいのに見続けたらキャパオーバーになりそうで、せめてこの循環が終わるまでは仕事に集中しなければと密かに気合いを入れ直す。
もし彼が本当に無表情なら、こんな気持ちにはならない。白血球さんの持ついろんな感情を教えてくれて、それに伴って私の中で忙しなく変わったり増えたりする感情にも気付かせてくれる、彼の表情。初めて出会った頃は私も迷子で余裕が無かったけれど、いつからか無意識に目を惹かれて、その変化が分かるようになっていた。
戦う時の雄叫びや鬼気迫る姿は一旦置いておくとしても、その他にも予想外の事態に出くわした時は彼だって驚くし、目や口を見開いて相応に慌てたり、大きな声で懸命に他の細胞を説得したり仲裁したりする。トゲトゲした細菌から攻撃を受けた時は痛がる素振りを見せなかったけれど、それとは別に曲がり角で台車とぶつかった時は、とても痛そうにしていた…どちらも私の不甲斐なさが原因なんだけど。
それに何よりも、一緒に休憩したり、組織の見学をしたりする時。彼は静かながらも表情豊かに私の話を聞いてくれる。道を間違えたとか、工事中の穴に落ちそうになったと報告すれば、彼の黒目はどんよりと濁って、もう過ぎたことだというのに心配の色を帯びる。反対に、迷わず配達できたとか、素敵なものを見かけたという報告には、彼も楽しそうに微笑んで頷いてくれる。数えたわけではないからなんとなくだけど、最近は微笑んでくれることのほうが増えてきたと思う。それだけ私が道に迷わず成長したってことかな、なんて、ちょっとだけ自惚れたくなってしまう。
仕事中は細菌がいなくても常にきりっとした表情でいる一方で、休憩の時にはそれを少し緩めて、穏やかな雰囲気でお茶を飲んでいる。今、隣を歩く彼はその中間のように思えた。斜め上にある顔をちらりと盗み見る。
真横に引き結ばれている口元は、今は少しだけ口角を上げている。帽子の陰にあって光をあまり反射しない黒い瞳は、異常がないか厳格に見回るのと同時に、平和な光景を確認して安堵し、慈しんでいるようにも思えた。前髪に隠れているほうだって、きっと同じ優しい色をしている。
形のないもやもやが、形のないふわふわに変わる。これを説明してほら表情豊かじゃないですか、と言ったところで相変わらず信じてもらえないとは思うけれど、それでも今はいいような気がした。いつもの道を歩きながら、いつもと違う特別感に身を委ねてまた前を向く。足取りは軽く、運搬は手早く。だけど、彼が隣でまったりと和んでいる今の時間くらいは、長く続いてほしいと願う。
白血球さんがお茶をすすって、ほうっと息をつくのが音で分かる。緩く笑っても様になる人。彼がどんな顔をしているか見なくても想像できてしまって、台車を押しながらふふっと笑みが零れた。
fin.
(6巻の新型コロナウイルス回の、ばら撒かれた写真の中にある白赤っぽい後ろ姿について、私は「この髪型は赤血球ちゃん→じゃあ隣を歩く好中球は白血球さんだ、お茶持ってるし」と考えたのですが、もしもこれが白血球さんだけの後ろ姿だったら1146番だと気付けたのか…?→赤血球ちゃんは気付くんだろうな…という思考回路からこの話が生まれました。原作の、話が進むにつれて着実に成長してる赤血球ちゃんが好きです。)
2023/08/29 公開
白血球さんって表情が豊かなんですよ。と、最近見つけた事実を話せば大抵の場合、にわかには信じられないといった反応が相手から返ってくる。
例えば後輩ちゃんからは、戦闘時に豹変するのは表情豊かとは違うと思いますよ、と真面目かつ冷静な口調で説明された。戦っている時じゃなくて普段の話だよ、と訂正を加えるけれどすぐさま先輩からも、あの好中球に表情なんてあるの…?と訝しげに返された。二人とも、白血球さんとは面識があるけれどよく知らないのかもしれない。そう思ってもっと彼の良さを伝えようとしたけれど、まあアンタが一番表情豊かよね、と頬をむにむにと撫で回されて話は有耶無耶になった。
ならば白血球さんのお友達で同僚の皆さんは分かってくれるかもしれない、と考えたけれど、実際の反応はいまいちで、三人揃って首を傾げられた。あいつ、俺ら四人の中でも一番無表情じゃね?とは2048番さんの談。とびきりまずい細菌でも顔色一つ変えずに貪食するし、と4989番さんが続ける。汚れを流す時なんかも礼は言うけど特に笑顔は無いよな、と2626番さんが締めくくった。気心の知れた仲だとそういうものなのかな、とは思うものの、何かが腑に落ちない。
形の掴めないもやもやを抱えながらも循環に戻り、肺へ向かう。二酸化炭素の載った台車を押して進んでいると、道の先で白い後ろ姿を見つけた。見慣れた背格好と片手に持ったお茶、パトロール中だけど気を張りすぎてはいない、ゆったりとした歩き方。
「白血球さん!」
反射的に呼んでしまってから、人違いだったらどうしようと思い至った。好中球課の制服だから白血球であることには違いないのだけれど、免疫細胞に助けを求める事件が起こったわけでもない。後ろ姿だけで帽子の識別番号も確認できていない、声も聞けていないのに「白血球さん」だと思うなんて、勇み足ではないかと不安がよぎる。
けれど、そんな心配は一瞬で吹き飛んだ。首をわずかに動かして必要最小限の動きで視線を向けた彼は、間違いなく1146番の白血球さんで、こちらを認識すると体ごと振り向いて立ち止まってくれた。
「赤血球。お疲れさん」
「白血球さんこそ、お疲れ様です」
駆け寄って、隣に並んでまた歩き出す。同じ方向に進んでいて、知り合い同士で声もかけたのにわざわざ別々に行く必要もないと思ったから、当たり前にそうしたけれど、思えば道案内でもないのに一緒に歩くなんてなかなか珍しい状況だ。でも白血球さんも私が隣に来たことには何も言わないで、私が追いついたのを見て歩き始めたわけで…と、まとまらない考えを巡らせていると。
「その荷物…肺に行くところか」
お茶を飲みながら何気なく、白血球さんが尋ねる。声につられて思わず見上げれば、前髪で隠されていないほうの瞳と目が合った。
「そうなんです!…道、合ってますよね?」
ここは何度も通って覚えた道のはずだけど、自信がある時に限って間違えるのだから私の方向音痴は油断ならない。念のため訊き返すと、白血球さんは虚を突かれたような顔をした後、黒目をわずかに細めて、ふっと笑みを零した。
「ああ、合ってるぞ」
言葉だけではぶっきらぼうで無愛想なはずなのに、その声音と表情は優しくて、道の確認以上の情報を伝えてくる。道を間違えていないことへの驚きとか称賛とか、だけど道を訊いてきたことに対する励ましとか、安心させたい気持ちとか…それから、私が照れたり恥じらったりすることを見越しての、ほんの少しのからかいとか。
「えへへ、それなら良かったです」
表面上はほっとしたような声を出しながら、進行方向に顔を向けて、なるべく自然に目を逸らす。たったこれだけの会話で嬉しくなって、もっと見ていたいのに見続けたらキャパオーバーになりそうで、せめてこの循環が終わるまでは仕事に集中しなければと密かに気合いを入れ直す。
もし彼が本当に無表情なら、こんな気持ちにはならない。白血球さんの持ついろんな感情を教えてくれて、それに伴って私の中で忙しなく変わったり増えたりする感情にも気付かせてくれる、彼の表情。初めて出会った頃は私も迷子で余裕が無かったけれど、いつからか無意識に目を惹かれて、その変化が分かるようになっていた。
戦う時の雄叫びや鬼気迫る姿は一旦置いておくとしても、その他にも予想外の事態に出くわした時は彼だって驚くし、目や口を見開いて相応に慌てたり、大きな声で懸命に他の細胞を説得したり仲裁したりする。トゲトゲした細菌から攻撃を受けた時は痛がる素振りを見せなかったけれど、それとは別に曲がり角で台車とぶつかった時は、とても痛そうにしていた…どちらも私の不甲斐なさが原因なんだけど。
それに何よりも、一緒に休憩したり、組織の見学をしたりする時。彼は静かながらも表情豊かに私の話を聞いてくれる。道を間違えたとか、工事中の穴に落ちそうになったと報告すれば、彼の黒目はどんよりと濁って、もう過ぎたことだというのに心配の色を帯びる。反対に、迷わず配達できたとか、素敵なものを見かけたという報告には、彼も楽しそうに微笑んで頷いてくれる。数えたわけではないからなんとなくだけど、最近は微笑んでくれることのほうが増えてきたと思う。それだけ私が道に迷わず成長したってことかな、なんて、ちょっとだけ自惚れたくなってしまう。
仕事中は細菌がいなくても常にきりっとした表情でいる一方で、休憩の時にはそれを少し緩めて、穏やかな雰囲気でお茶を飲んでいる。今、隣を歩く彼はその中間のように思えた。斜め上にある顔をちらりと盗み見る。
真横に引き結ばれている口元は、今は少しだけ口角を上げている。帽子の陰にあって光をあまり反射しない黒い瞳は、異常がないか厳格に見回るのと同時に、平和な光景を確認して安堵し、慈しんでいるようにも思えた。前髪に隠れているほうだって、きっと同じ優しい色をしている。
形のないもやもやが、形のないふわふわに変わる。これを説明してほら表情豊かじゃないですか、と言ったところで相変わらず信じてもらえないとは思うけれど、それでも今はいいような気がした。いつもの道を歩きながら、いつもと違う特別感に身を委ねてまた前を向く。足取りは軽く、運搬は手早く。だけど、彼が隣でまったりと和んでいる今の時間くらいは、長く続いてほしいと願う。
白血球さんがお茶をすすって、ほうっと息をつくのが音で分かる。緩く笑っても様になる人。彼がどんな顔をしているか見なくても想像できてしまって、台車を押しながらふふっと笑みが零れた。
fin.
(6巻の新型コロナウイルス回の、ばら撒かれた写真の中にある白赤っぽい後ろ姿について、私は「この髪型は赤血球ちゃん→じゃあ隣を歩く好中球は白血球さんだ、お茶持ってるし」と考えたのですが、もしもこれが白血球さんだけの後ろ姿だったら1146番だと気付けたのか…?→赤血球ちゃんは気付くんだろうな…という思考回路からこの話が生まれました。原作の、話が進むにつれて着実に成長してる赤血球ちゃんが好きです。)
2023/08/29 公開
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