Cells at Work
呼び方の話
「白血球さーん!」
体内のパトロール中、突然遠くから声がした。聞き覚えのある…いや、もう聞き慣れている声だ。
辺りを見回せば、赤い帽子とジャケット、トレードマークのように赤い髪の毛が一房ぴょんと立った赤血球が大きく手を振っている。それが俺に向けられたものだと理解するまで、今や数秒もかからない。片手を顔の高さまで上げて合図を返すと、彼女は腕の振り方をさらに大きくしてから、こちらに向かって駆けてきた。
実際のところ、この辺りには他の白血球も数人見受けられる。彼らも散歩がてらパトロールをしたりその道中でお茶を飲んだり、各々自由に動いている状態だ。特に一緒に行動しているわけではないが、赤血球の大きな声は彼らにもじゅうぶん聞こえる範囲のはず。
だが、彼女の呼びかけに反応したのは俺だけだった。もしかしたら俺が見逃しただけでちらりとは反応したのかもしれないが、赤血球が来るまで足を止めて待つ白血球は俺以外いない。自分が呼ばれたのではないと分かったら興味を失うのは誰でも当然の反応ではある、が。
…赤血球の言う『白血球さん』は白血球全体というより、俺のことを指してるのか。
今になってそんな当たり前のことに気付いた。
俺たちは普段、個体を識別して呼ぶ時には帽子についたプレートに刻まれている番号を使う。俺なら1146番、特によく一緒に活動する白血球ならそれぞれ2048番、2626番、4989番というように。しかし彼女から呼ばれる時は番号ではなく「白血球さん」という単語だけで、他のどの白血球でもない俺のことだと――無意識のうちに、思っていた。
だが一度でも意識してしまうと、なかなか無意識には戻れないもので。
「こんにちは白血球さん!姿が見えたので、思わず呼んじゃいました!」
「あ、あぁ…」
「ん?白血球さん、どうかしましたか?」
何も知らない赤血球は、少し不安そうに俺の顔をじっと覗き込んでくる。身長差のせいで俺の方から見れば上目遣いになっていることに、きっと彼女は気付いていないのだろう。感情が顔に出ないよう、口を引き結んでどこか遠くを見つめると。
「あのー、白血球さん…?」
赤血球はおそるおそる呼んだ。…まずい、今度は真顔すぎて怖がられたか?白血球はその仕事柄、普通にしていても怖がられることが多い。内心焦りながらも平静を装って尋ねる。
「どうした?」
「えーと、なんだかいつもの挨拶じゃないので、その…」
赤血球は言葉を途切れさせながら、違和感の理由を告げる。言われてみれば、確かに今回は赤血球の挨拶に曖昧な返事をしただけだ。怖がられているわけではないことに安堵しつつ赤血球の話を「そういや、そうだったな」と肯定し、いつも通り挨拶しようとして。
「よう、せっけっ…」
そこで、止まった。よく考えたら赤血球の帽子のプレートにも「AE3803」という個体番号が書かれてある。
赤血球を助けた時――つまり肺炎球菌と戦った時には、緊急事態で自己紹介どころではなかったため「赤血球」と呼んだ。その呼び方がすっかり定着していたから、今まで疑問に思ったこともなかったが…
俺だって、赤血球全体ではなくこの赤血球のことを『赤血球』と呼んでいた。
俺の方こそ、何も考えないままに。
「……」
「え!?なんでそこで止まるんですか!?」
赤血球が叫んだことで、つい呆 けてしまっていたことにハッと気が付いた。自分が何かマズイことをしたから俺が止まったのではないか…と慌てて心当たりを探す赤血球は通常運転で、他の赤血球はそんな風に騒がないはずなのに、なんだかすごく俺の知っている赤血球らしくて。
「よう、赤血球」
「…はい!白血球さん!」
番号ではなくいつも通り呼んでやると、彼女は満面の笑みを浮かべて嬉しそうに俺を呼び返した。
fin.
(スキボタンが押されたお礼に載せていたもの。)
2018/08/05 公開、2022/07/31 収納
「白血球さーん!」
体内のパトロール中、突然遠くから声がした。聞き覚えのある…いや、もう聞き慣れている声だ。
辺りを見回せば、赤い帽子とジャケット、トレードマークのように赤い髪の毛が一房ぴょんと立った赤血球が大きく手を振っている。それが俺に向けられたものだと理解するまで、今や数秒もかからない。片手を顔の高さまで上げて合図を返すと、彼女は腕の振り方をさらに大きくしてから、こちらに向かって駆けてきた。
実際のところ、この辺りには他の白血球も数人見受けられる。彼らも散歩がてらパトロールをしたりその道中でお茶を飲んだり、各々自由に動いている状態だ。特に一緒に行動しているわけではないが、赤血球の大きな声は彼らにもじゅうぶん聞こえる範囲のはず。
だが、彼女の呼びかけに反応したのは俺だけだった。もしかしたら俺が見逃しただけでちらりとは反応したのかもしれないが、赤血球が来るまで足を止めて待つ白血球は俺以外いない。自分が呼ばれたのではないと分かったら興味を失うのは誰でも当然の反応ではある、が。
…赤血球の言う『白血球さん』は白血球全体というより、俺のことを指してるのか。
今になってそんな当たり前のことに気付いた。
俺たちは普段、個体を識別して呼ぶ時には帽子についたプレートに刻まれている番号を使う。俺なら1146番、特によく一緒に活動する白血球ならそれぞれ2048番、2626番、4989番というように。しかし彼女から呼ばれる時は番号ではなく「白血球さん」という単語だけで、他のどの白血球でもない俺のことだと――無意識のうちに、思っていた。
だが一度でも意識してしまうと、なかなか無意識には戻れないもので。
「こんにちは白血球さん!姿が見えたので、思わず呼んじゃいました!」
「あ、あぁ…」
「ん?白血球さん、どうかしましたか?」
何も知らない赤血球は、少し不安そうに俺の顔をじっと覗き込んでくる。身長差のせいで俺の方から見れば上目遣いになっていることに、きっと彼女は気付いていないのだろう。感情が顔に出ないよう、口を引き結んでどこか遠くを見つめると。
「あのー、白血球さん…?」
赤血球はおそるおそる呼んだ。…まずい、今度は真顔すぎて怖がられたか?白血球はその仕事柄、普通にしていても怖がられることが多い。内心焦りながらも平静を装って尋ねる。
「どうした?」
「えーと、なんだかいつもの挨拶じゃないので、その…」
赤血球は言葉を途切れさせながら、違和感の理由を告げる。言われてみれば、確かに今回は赤血球の挨拶に曖昧な返事をしただけだ。怖がられているわけではないことに安堵しつつ赤血球の話を「そういや、そうだったな」と肯定し、いつも通り挨拶しようとして。
「よう、せっけっ…」
そこで、止まった。よく考えたら赤血球の帽子のプレートにも「AE3803」という個体番号が書かれてある。
赤血球を助けた時――つまり肺炎球菌と戦った時には、緊急事態で自己紹介どころではなかったため「赤血球」と呼んだ。その呼び方がすっかり定着していたから、今まで疑問に思ったこともなかったが…
俺だって、赤血球全体ではなくこの赤血球のことを『赤血球』と呼んでいた。
俺の方こそ、何も考えないままに。
「……」
「え!?なんでそこで止まるんですか!?」
赤血球が叫んだことで、つい
「よう、赤血球」
「…はい!白血球さん!」
番号ではなくいつも通り呼んでやると、彼女は満面の笑みを浮かべて嬉しそうに俺を呼び返した。
fin.
(スキボタンが押されたお礼に載せていたもの。)
2018/08/05 公開、2022/07/31 収納
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