Cells at Work

雲丹と栗

今日も世界は平和に夜を迎えた。
日中と比べて世界全体の活動量が低下し、深部体温が下がり、多くの細胞たちにとって六時間から八時間程度はゆっくりできる時間帯。そのせいか、通路の照明も一段暗く設定されている。意識があるため完全に真っ暗ではないけれど、体が眠りに就いて無意識でもある状態。
特にここ最近は熱中症への警戒がずっと続いていて、夜になっても暑さで寝苦しい日々だったから、ここまで穏やかな時間は久しぶりだ。日中よりも人通りの少ない血管の通路を、お茶を片手に歩く。

「あっ、白血球さん!」

後ろから声をかけられて振り向けば、すっかりおなじみの赤血球が台車を押しながら駆け寄ってきた。こんな時間でも遭遇できたことに少し驚くけれど、悪い気は全くしない。

「よう、赤血球。今日は夜の配達か?」
「はい!夜は心拍数が安定しているので、そこまで大忙しではないんですけど。白血球さんこそ、パトロールですか?」
「あぁ、俺たちも似たようなものだな。夜でも細菌が侵入してくることはあるから、定期的に見回ってるんだ」
「そうなんですね。お疲れ様です!」
「うん。赤血球もお疲れさん」

いつもと変わらない、何てことのない会話を交わして隣に並ぶ。逆方向に行くわけでもないのに、わざわざ離れて歩く理由はないからだ。知り合いなのだから尚更。
…だが、ふと気付いた。いつの頃からか、この距離感が当たり前になってしまっていることに。
そもそも本来はこう頻繁に会えるものではない。同じ職種ならともかく、俺たちは好中球と赤血球、免疫系と非免疫系だ。キラーTだったら「殺す側と殺される側」と表現するだろうか。俺としてはその区分にこだわるつもりはないが、彼女と出会う前はこだわるも何も相手の方から一線を引かれ、恐れられていた。それが当たり前だと思っていたのに、赤血球と交流して、いつしか隣同士の距離が「当たり前」に変わっていた。
お茶を啜るふりをして、小柄な赤血球の背格好を眺める。帽子から覗く赤い髪。運んでいるのが二酸化炭素だからか、ゆっくりとした足取り。仕事内容の違いは理解しているつもりだけれど、それでも非免疫系はあまりにも無防備だ。
…いつかキラーTから忠告を受けたように「細菌すら殺せなくなる」つもりはない。赤血球を守るためには、脅威となる細菌は殺さなければいけない。戦って守ることが俺の仕事だ。
けれど、彼女に近付き過ぎてはいざという時に戦えない…本当に万が一の時に「殺せない」。あくまでも可能性の話だが、キラーTの忠告に込められた意味は俺も分かっている。ただ、なるべくなら考えたくないだけで。

「白血球さん…?」

しばらく黙っていたせいか、赤血球が心配そうに見上げてくる。
けれどこんな考え事を赤血球にまで背負わせたくはなくて、俺は何でもないように目を伏せた。幸い、内面が表情には出にくい方だと自負している。取り繕うことくらい造作もない。

「…いや。赤血球は、今日はどこを回ってきたんだ?」

普段するような話を振ってやれば、赤血球は一瞬だけ目を見開いた後、俯いて困ったように唸った。
もしかして今日通った道を思い出しているのか…?と不安に思ったところで、彼女は再びぱっと顔を上げる。いつもと変わらない、やる気に満ちた笑顔だ。

「えっと、今日は鼻腔を通りました!それで、辺りから香ばしい匂いがしたんです!木の実を少し焼いたような感じの…。それから、果物の甘い香りもしました!」
「うん」
「あとですね、鼻腔にある甘味処の期間限定メニューに、白玉だんごが登場したんですよ!私はまだ食べたことないんですけど、もちもちして美味しいって先輩から聞いてて!」
「そうか」

白玉だんごは俺も食べたことはないが、少し前に4989番から話は聞いていた。なんでも、赤血球の帽子のように中央がへこんでいるのだとか。
…そんなことを頭の片隅で考えているうちに、俺の相槌がいつの間にか上の空になってしまったのだろうか。赤血球はハッと表情を強張らせると、急に意気消沈する。

「あっ、すみません!せっかく一人で循環できたのに、仕事と関係ない話ばっかりで…」
「いや、そんなことはないが…」

正直、仕事と関係ない話だなんて全く思わなかった。むしろ、彼女は道に迷いやすいから、次来た時の目印になる発見がたくさんできて良かったじゃないかとさえ思っている。
しかし赤血球本人としてはその時の匂いや食べ物の話ではなく、体内組織やその仕組みについてなど、彼女の後輩がするような立派な話ができれば良かったのにと思っているのだろう。その気持ちは分からなくもないが、それでも俺は赤血球自身が感じたことを知りたくて、話半分になっていたとしたら申し訳なくて、当たり障りのない返答をする。

「そんなことはないけれど…その、もうすっかり秋だと思ってな」

ぽつりと呟くと、赤血球はそこに含まれる意味を見極めるかのようにじっと見つめてきた。
…と言っても、俺にしてみれば特に深い意味は無くて、ただ秋だと思ったから言ったまでだが。さすがに困って視線を逸らし、次の話題を探す。できれば先程の俺の言葉はその通りの意味しかないという説得力を持たせるような、秋らしい話題を…としばし考えて、思い至ったのはいつか聞いた話。

「外の世界では、秋の夜に月を見るんだそうだ」
「つき…ですか?」
「あぁ。俺も聞いた話でしかないが、夜の暗い空を月の光が照らすらしい。で、それを見て楽しむ季節がちょうど今の時期だと」
「へー、きっと綺麗なんでしょうね…!」

赤血球は夜を迎えたこの世界と重ね合わせたのか、日中よりも一段暗い照明を見上げながらうっとりと言葉を零した。
思えば彼女の仕事は、この世界の恒常性を維持する仕事だ。全身へ酸素を運び、二酸化炭素を回収する。この世界の光を生み出す元になる仕事。

「…そうだな」

ただの相槌ではなく、心からそう思えた。
殺す側と殺される側以前に、俺たちは同じ体内ではたらく仲間だ。それならば、赤血球が仕事を通してこの世界を守るように、俺も愚直に戦って、遊走して、細菌を貪食するだけ。そうすることで大切なものを守るしかない。
キラーTが暗に指摘するような事態がこの先起きないとは限らない。けれどその時だって、俺は俺の仕事を全うするだけだ。赤血球が楽しいと思ったこの世界を、赤血球が愛したこの綺麗な光を守ることが、俺の仕事だ。

「…もしかしたら、表皮付近まで行けば見られるかもしれないぞ。月の光」

ふと、熱中症になる直前の世界の光景を思い出して話す。あの時も日光が表皮を照り付けていた。同じ理屈なら、この体が月を見る時には、運が良ければその恩恵に預かれるかもしれない。月の光は太陽の光ほど強くないというけれど、暗い夜において光源である以上、皮膚に全く届かないわけではないのだから。

「本当ですか!?」
「まぁ、今夜はこの体が眠りに就いたから難しいと思うが…秋はしばらく続くだろうから、そのうちな」
「そう、ですか…。そのうち…」
「あぁ」

だから、自分の仕事を毎日謙虚にこなして、またこうして夜を迎えて、そうやってこの世界の平和を維持できれば…いつか本物の月を見ることができるかもしれない。
その時、隣には赤血球がいてほしいと思った。彼女はなぜかトラブルに遭いやすいから。そんな彼女が隣にいるということは、溶血も体外流出もしていないということだから。
――彼女と見る月は、綺麗だと思うから。

「赤血球」

今晩は月を見れないと知ってしゅんと落ち込む彼女に、なるべく優しく声をかける。が、そんなのは予想外だったのか、赤血球は反射的に背筋を伸ばした。

「は、はいっ!?」
「少し、散歩でもしようか」

夜はまだまだ長い。特に真夜中は、日中と同じ一分が体感ではもっと長く思える時間帯だ。まるでこの時間がずっと続くと錯覚してしまいそうなほどに穏やかで、平和で、ほんの少し下がった気温が心地よい。
正面から彼女をしっかり見据えて提案すると、赤血球は今度こそぱぁっと顔を綻ばせた。

「…はいっ!」

素で嬉しいことが分かる元気な返事。…これではさっき「いつもと変わらない」と思っていた彼女の笑顔が、本当はそうではなかったのだとバレバレじゃないか。
気付いてしまって思わず苦笑する。分かりやすい赤血球に対してではない、表情に出にくいと思い込んで結局隠しきれていなかった俺自身に対してだ。
おそらく赤血球なりに不自然な沈黙を察して、踏み込んでいいものか迷って、俺が普段通りに話を振ったから合わせてくれて…たぶん、少し傷ついて。それでも健気に楽しい話を探してくれた、なんて希望的観測が過ぎるだろうか?
だけど、仮にそうでなかったとしても。好中球と赤血球という立場を軽々と飛び越えて隣で笑ってくれる、その優しさが好きだと思った。



fin.

(題名は、ずっと真夜中でいいのに。の同タイトル曲から。元の曲はずとまよのキャラクターのハリネズミについて歌ったものですが、歌詞に「赤血球」という単語が出てくることと、歌詞の内容が白血球さんっぽいなぁと思ったので白赤で書きました。秋の夜長に聴いていたい穏やかな曲です。)

2019/09/13 公開
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