Cells at Work

視線

視線を感じた。嫌悪とも好奇とも違う視線だ。
別に、視線を向けられること自体は珍しくもない。街中で細菌と戦闘になれば良くも悪くも市民の目を引く。
遠巻きに、事態の行方を見守るように。野次馬と言えば聞こえは悪いが、もっと避難すべきか、それともひとまず危機は去ったのか、戦えない細胞たちはレセプターを持たないから各々で確認する必要がある。
その過程で、外敵とはいえ俺たちが相手を一思いに殺す、むごい光景に皆が顔を引きつらせるのもよくあることだった。怖がり、ひそひそと囁き合う声。しかしそれが普通の反応だ、今更傷つくこともない。
どう思われようと、これが俺の仕事なのだから。

だが、後ろから届いた視線は周囲のそれらとは何かが違う気がした。
決して惨劇に興味津々というわけではないけれど、無関心とは正反対のそれ。周囲の細胞たちの感情がマイナスだとするならば、その視線に含まれる感情はプラスとまではいかなくてもニュートラルで…というか、そもそも感情以前に何が起きたのか把握しきれておらず、呆然と成り行きを見つめているだけのようにも思える。
頬に付いた返り血を拭いながらちらりと盗み見れば、座り込んだ体勢のままの赤血球がいた。先ほど細菌に狙われていた奴だ。
新人…だろうか。一人でいる様子からして研修中ではなさそうだが、少なくとも細菌と出くわしたのは今回が初めてなのかもしれない。だとしたらショックを受けるのも無理もないだろう。
とはいえ、普通ならばこれ以上巻き込まれたくなくて、すぐさま現場から退避するものだが。細菌に襲われかけたなら尚更だ。
周囲を見る限り、視認できる範囲に生きている細菌はいない。だから急いで避難を促す必要もない…けれど。
まるで動くことすら忘れたかのような赤血球に、俺は半分ほど牽制の意味も込めて尋ねる。

「オイ…何見てる?何か用か」

問われた赤血球はそこで初めて我に返ったらしく、しゃきっと立ち上がった。
しかし、そのまま逃げるように立ち去るかと思ったのに、なぜか彼女は律儀に答えを探している。
用件があるなら早口で言い逃げても構わないのに、俺たちだってそんな態度をとられることくらい、もう慣れているのに。それでも彼女は視線を逸らすことすらせずに立ち尽くしたまま、口の中で言葉になりきらない音を転がしている。
対峙した彼女の、制服と同じ赤い髪が風にそよぐ。琥珀色の瞳が不安げに揺れる。しかしそれを印象的だと思うよりも先に、戸惑い混じりの声が届いた。

「た…助けてくれてありがとうございます。危ないところを…」
「礼はいい。仕事をしただけだ」

まさか殺しきれずに逃げた細菌の目撃情報では、と身構えていたのもあって、突っぱねるような返事が口をついて出た。助けた細胞から声をかけられる場合、大抵は「他の場所でも似た被害が出ている」といった追加の救援要請であることが多いからだ。
…けれど、待ってみても追加の情報が出てくる気配はない。むしろ用件は済んだとばかりに彼女は口を閉ざして、だけどニュートラルな視線をじっと向けてくる。見返りを求めていない、だけど血まみれの免疫系に対して悪い印象を持ってはいないような…いや、初対面の相手にそれは求めすぎか。
自嘲したところでふと、返す言葉を間違えたことに思い至った。いくら気を張っていたとはいえ、赤血球の丁寧な礼に対して俺の返事はあまりにも素っ気なく聞こえてしまわなかったか。礼もそこそこに逃げる細胞が普段は多いから、外敵を殺すことには慣れていても助けた細胞への応対は慣れていないから…なんて言い訳じみた理由を並べてみても、目の前の赤血球にはどれも関係のないことだ。
周囲の喧騒が遠く聞こえる。まだ細菌がいるかもしれないのに妙に気が緩んでしまって、なんだか不思議な感覚だ。
視線は尚もこちらを向いている。

「…いや、まあ…どういたしまして」

「わざわざ…」なんて言葉を付け加えれば、赤血球も驚いたように返事をした。意外そうなその声に、俺はますます対応を誤ったと痛感する。
彼女は本当に見返りを求めていないのだ。ただ助けられたから感謝しただけで、それは他の細胞と何も変わらない。それなのにせっかくの厚意を突き返して、後からやっぱり受け取りますなんて、図々しいにも程があるだろう。
こんな時、俺ではなく同じ好中球でも人懐っこい同僚であれば、もっと上手い返しができたんだろうか。だが俺は生憎そんな器用さを持ち合わせていない。
これ以上特に話すことも無いので、倒した菌を引きずって戻る。なんとなく、彼女の前で細菌の後処理を始めるのは憚られた。
次にいつ会うかも分からない、会ったところで互いに覚えていないような相手なのに。もう会うことがない以上、目の前で貪食してどう思われようが別に構わないはずなのに。
振り返らなくても分かる、背中に感じるあの視線。
胸の奥では妙な温かさだけが燻っていた。



fin.

(原作1巻10ページ4コマ目の白血球さんの「……」と序盤の目つきの悪さが好きだ!2巻3巻と赤血球ちゃんと交流していくことで、次第に雰囲気が柔らかくなっていくのも含めて好き。)

2019/08/12 公開
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