Cells at Work
初恋なんて
リンパ管の入り口で赤毛の赤血球を見かけたのは、本当に偶然のことだった。
出撃命令に備えつつ空いた時間でナイーブ共を鍛える、その訓練のちょっとした休憩時間中。キラーT細胞軍の班長である俺としてはナイーブ共と親睦を深めてもいいのだが、下手に馴れ馴れしく接してその後の訓練までなあなあになっては困るし、そもそもナイーブ共からしてみれば「怖い教官」の俺とずっと一緒では気が休まらないだろうからと、俺は気を利かせてわざわざリンパ管と血管の境界付近にあるドリンクコーナーまで足を運んだわけだ。
そこで見かけたのが、二酸化炭素の箱が乗った台車を押しながら地図を片手にきょろきょろふらふら、いかにも迷っていますという動きをした例の赤血球。ソイツはまだ血管側にいたが、俺はピンときた。
アイツ、この分じゃまたリンパ管に迷い込む気だな。
正確に言えば、アイツ自身にはわざと迷い込んでやろうという意図や悪意は全くない。アイツはただ道を覚えるのが極端に苦手なだけだ、それは俺も知っている…知りたくて知ったわけではないが。
だが、いかなる理由であっても赤血球がリンパ管に立ち入ることは許されない。出撃命令が無い時に俺たちT細胞が境界線を越えられないのと同じだ、それがこの世界の決まりだ。そして、決まりを破ろうとする奴がいるならばキラーT細胞として見過ごすわけにはいかない。
「…おい、そこの赤血球」
「はっ、はいい!?」
今回はあくまで未然の防止だからと、怒鳴らず普通に声をかけただけなのに、その赤血球はあからさまにビクッとした。ついでにソイツが押していた台車もガタリと音を立てて揺れる。
あー、これは相当怖がられてんな。日々の積み重ねと言うべきか、先日も迷ってここに来て怒られたその経験が今ようやく功を奏したと言うべきか…どうせならリンパ管が近くなった時点でもっと気を引き締めてほしいものだが。そうすれば俺だってこんな手間をかける必要もなかった。
…なんてことを思っている間にも、目の前の赤血球は大慌てでぺこぺこと頭を下げ始める。
「ごめんなさいごめんなさいっ、すぐ行きますっ失礼します!」
「いや、まだ間違えてねーだろ」
「…へっ?」
素早く方向転換して駆け出そうとした赤血球だったが、間抜けな声を漏らした直後にピタリと止まって振り向いた。その顔には「どういう意味ですか」と書いてある。
まさかとは思うがコイツ、自分が血管にいるのかリンパ管にいるのかなんて関係なく、反射的に謝っていたのか?
がん細胞のように存在意義からして世界の理 に反している奴は例外だが、今のコイツの場合は「まだ」境界を越えていないのだから堂々としていればいいのに。リンパ球から声をかけられて怯えるのは結構だが、何事も謝れば済むと思っているのであれば浅慮にも程があるだろう。
未然の防止なんて余計な気を利かせたのが間違いだったと内心で後悔しつつも、こうなった以上仕方がないから説明してやる。
「お前はまだ間違えてねーよ、このアーチよりそっち側はまだ血管だ。だから謝る必要もねぇ、堂々としてろ。くぐって来たらすぐ追い返すがな!」
「あ、そっか…」
最後の部分を強調して言ってやったのに、目の前の赤血球はそれについては全く怯えなかった。代わりに返ってきたのは、ようやく理解しましたと言わんばかりの独り言。声をかけただけで怖がったくせに肝心のビシッと決めた部分では怖がらないとは、度胸があるんだか無いんだかよく分からない。
つーかこの反応、そもそも自分の現在の立ち位置すら分かっていなかったのかよ。浅慮どころかただの阿呆だ。
やはり関わり合いになるんじゃなかった、もう少し泳がせといてリンパ管に侵入してきた時に初めて怒鳴るべきだったと思いかけて…ふと、何かとコイツを気にかけている好中球のことを思い出した。
こんなのを毎回相手にするなんて、あの馬鹿は一体何を考えているんだか。無駄に疲れるだけじゃねぇか。しかもアイツは自分から進んで世話を焼きに行っている節がある。例えばナイーブ共なら鍛えてやれば心強い味方になる見込みがあるが、コイツは非戦闘員だ、それとこれとは話が全く違う。
好中球には先日忠告してやったがどうにも改善の兆しは見られねぇし…仕方ない。リンパ管に侵入しないよう忠告して終わりにするつもりだったが、せっかくの機会だ。
「今、時間あるか」
まぁ、酸素ではなく二酸化炭素を運んでいる時点で、少しくらいなら時間はあると公に示しているようなもんだが。台車の上の箱を一瞥して、念のため尋ねる。
すると赤血球もその視線の意味を察したらしく、若干顔を引きつらせながらも素直に答えた。
「あ、ありますけど…」
「なら少し寄ってけ。…お前も何か飲むか」
当初の予定だったドリンクコーナーを指さして問いかける。いくらリンパ管側にあるとはいえ、自分だけ余裕で茶をすするというのも変な話だと思ったからだ。
赤血球はそれを視線で追いかけ、おずおずと答える。
「えっと、じゃあ同じのをお願いします…」
「同じのでいいのかよ。赤血球なんだしお前はココアな」
「えっ!?あ、ありがとうございます!」
ドリンクコーナーに向き直った瞬間、俺の背中に届く嬉しそうな声。それを無言で受け止めながら紙コップを二つ用意して、片方には冷たいお茶を注ぎ、もう片方にはココアを入れてやる。
好中球なら「同じの」という言葉を真に受けてお茶を渡したかもしれないが、俺はアイツとは違って気遣いのできる男だからな。
「ほらよ」
リンパ管と血管の境界線を挟んで並び立つ。互いにこの線を越えて踏み入ることはできないが、線の上空はセーフ判定と言ってもいい。
手渡すと、ソイツは両手で受け取った。
「ありがとうございます…」
「…ふん」
礼ならさっき聞いた。それなのに二度も言うなんて、やっぱりコイツはどこか抜けている。
そんなことを思ったけれど指摘するのも馬鹿らしくて、黙って茶をすする。ちらりと赤血球の方を見やれば、糖分を摂取して上機嫌なのか、その表情はすっかり緩みきっていた。単純な奴だ、俺がわざわざ呼び止めた理由なんて見当もついていないのだろう。
一息ついたところで、俺は何でもない風を装って話を切り出す。
「それで、本題だが。アイツとはどこまで行ったんだ?」
「…へ?アイツって…?」
「好中球だよ。お前が肺に行く時、道案内してもらってた」
「あぁ!白血球さんですね!えーっと、白血球さんとは胃の見学に行ったでしょ、それから小腸にも…」
「いや、その『行った』じゃなくて」
「え?」
指折り数えながら報告する赤血球を途中で止めれば、ソイツは間の抜けた顔で俺を見た。
つーかよくそんな馬鹿正直に話せるな。コイツらが小腸でホノボノしてたのは俺も知ってるが、胃にも行ってたのかよ。粘膜一枚隔てた向こうは胃酸の海だぞ?
いや、そんなこと今はどうでもいい。俺が確認しておきたいのは…
「あー…『付き合ってんのか』ってことだよ」
「え…?付き合っ、て…?」
「先に言っとくが『どこそこに行くから暇なら付き合ってぇー』みたいな意味じゃねーからな。『恋人なのか』ってことだ」
先手を打って単刀直入に訊けば赤血球はさすがに意味を理解したらしく、ぼふん!と音が立ちそうなほどの勢いで顔を真っ赤に染め上げた。続いて、首をぶんぶんと横に振る。
「えっ、えええええ!?いえいえいえいえ!そんなっ、違います!白血球さんとは全然そんなんじゃなくてっ、会えた時にちょっとお話したりお茶を飲んだりする程度で!そりゃあ白血球さんにはいつも助けていただいて私はお世話になりっぱなしなんですけど、本当に偶然会うだけで、付き合ってるわけじゃなくてですね…!」
「ふーん」
俺の正直な感想は「どうでもいい」だった。自分から話を振っておいて何だと言われるかもしれないが、一言で否定すれば済む内容を無駄に細かく話されて、どうでもいいと思わないわけがない。冷めた相槌が漏れる。
…しかしまぁ、こんなに必死に「そんなんじゃない」と否定されて、アイツが聞けば少なからずショックを受ける発言じゃないのか。いや、でもアイツは馬鹿だから『付き合ってないぞ?何を勘違いしてるんだ、キラーT』とか平然と言うかもな。目の前の赤血球ほど慌てないにしても、発言の内容はコイツと同じことをペラペラと喋るのだろう。あぁ、心底どうでもいい。
「た、確かに白血球さんはズバーッと細菌を倒してくれて、いろんな組織や細胞さんのお仕事をいっぱい知ってて、かっこいいですけど…」
あ、なんか今イラッときた。どうでもいい話を長々と聞かされたせいだろうか、絶対そうだ。
俺だってウイルス感染細胞やがん細胞をブッ潰すし、他の細胞の仕事も胸腺学校時代にしっかり勉強して知っているというのに、よりにもよって好中球の至極どうでもいい当たり前の話を長々と聞かされたんだ。俺が当たり前にしていることを好中球もやっているからと言って好中球だけ褒められて、イラつかないわけがない。
どうでもいいと思っていたが、このまま話を切り上げるのも気に食わない。至極冷静に、意地の悪い質問を投げかけてやる。
「…ほーう。で?お前は今後アイツと付き合いたいとかはあるのか?」
「へ…はひぃっ!?」
「今は、付き合ってねぇのは分かった。じゃあ今後はどうなんだ?アイツには後で訊くとして、お前の方は」
「いやその、違いますっ、だからそういうのじゃなくてですね!?」
赤血球は再び顔を赤くすると、先程よりも激しく首を横に振った。そして、舌でも噛むんじゃないかと思うほどの早口で否定の言葉を述べる。
「白血球さんのことは好きですけど、でもそういう好きじゃなくて、私の中では先輩や血小板ちゃんや好酸球さんに向ける好きと同じっていうか!あっほら、マクロファージさんみたいな!たくさんお世話になっているので、いつか一人前の赤血球になって恩返しができたらいいなぁって気持ちです!」
「お、おう…そうか。マクロファージさんと同じ…」
「はい!」
思わず気になった箇所を繰り返せば、赤血球は間髪入れずに快活な返事をしてきた。
…なんつーか、この言い分はさすがに、アイツが聞けば相当ショックを受けるんじゃねーの?マクロファージさんと同列というのは免疫系としては光栄だが、恋愛対象という意味では見事なまでに保護者枠だ。今ここにアイツがいないことを残念に思いながら、それでも少しだけ同情する。
でも、やっぱり馬鹿だからアイツも『血小板や同僚を気にかけるのと同じだ』とでも言うのだろうか。…同じなわけねーだろ、血小板や同僚を物陰から見守るか?
ともかく、確実に分かったことは一つ。コイツらは片思いにすらたどり着いていなかったということだ。しかも、そのことに本人も気付いていない。お互いに気付かないままホノボノしてやがる。
たったそれだけの、しかし揺るがない事実を前にして、妙な徒労感が押し寄せる。恋人同士ならホノボノが許されるのかと問われればそれはまた別問題だが、コイツらはそれ以前の話だから余計に質 が悪い。あぁ、何だか酷く疲れた。
「き、キラーT細胞さん…?」
しゃがみ込んでがっくりと項垂れた俺の頭上から、気遣わしげな声が降ってくる。心配しているのは本当なのだろう、だがまだ心のどこかで怯えているような声音だ。
…俺ではなく好中球に対してであれば、怯えなど入る余地もなく百パーセント心配で占められたはずのそれ。
多分コイツ自身は、自分の中にそんな区別が存在していることすら無自覚なんだろう。「免疫系を怖がらない赤血球」なんて巷で密かに噂になっていても、実際はあくまでも好中球というフィルターを挟んで免疫系を見ているだけで、それは要するに――。
思い至った結論に舌打ちをする。唐突な行動で赤血球は余計に怖がるかもしれないが、知ったこっちゃねぇ。非戦闘員で命拾いしたな、殴りかからないだけ良いと思え。
苛立ちを押し殺すように、真顔ですっくと立ち上がった。真正面から対峙すれば、赤い帽子が視界の下に見える。
「…一つ忠告しておく」
「はい…?」
「いいか、初恋は実らないもんだ。残念だったな!」
コイツらが恋だと自覚していないのであればちょうどいい。ここで先に釘を刺しておけば、これ以上ホノボノホヤホヤが進行することもないだろう。指をさし、大声でたっぷりと凄みをきかせながら告げてやる。
赤血球は突然のことに目を丸くしながらも、やはりピンときていないのか俺の言葉をそのまま繰り返した。
「…え?残念…?」
「今後お前がアイツを好きになろうが、それは叶わないってことだ!」
「えぇっ!?」
「そんなに驚くことか?好中球と赤血球、殺す側と殺される側!仕事が違えば立場も違うんだよ!」
「うっ…。それは、そうですけど…」
「ふん。分かったらアイツとホノボノしすぎねーように、テメーもせいぜい気を付けるんだな!HAHAHA!」
そうだ、考えてみれば簡単な話だ。これまでは同業ということもあって好中球にばかり説教していたが、それで直らないのならば、アイツと一緒に休憩する赤血球にも伝えておけばいいだけのこと。我ながら名案だ。むしろどうして今まで気付けなかったのか、当たり前すぎて笑えてくる。
しかし当の本人はやっぱり鈍いらしく、しばらく呆然とした後、困ったように片手を上げた。 もう片方の手に持ったココアの液面がわずかに揺れる。
「あの、キラーT細胞さん」
「何だよ」
「じゃあ、キラーT細胞さんは恋、したことあるんですか…?」
「…はぁ!?ななっ、何でそうなるんだよ!?」
「ひいっすみません!だって『初恋が実らない』なんて、どうして知ってるのかなぁって…!」
「あー…。一般論だ、よく言うだろ。普通そうなんだよ」
適当にごまかして茶をすする。まったく、とんでもねー論理の飛躍だ。危うく俺まで被弾するところだったぜ。
だが、怯えて謝ったはずの赤血球は何を間違えたか、続けて爆弾を投げた。
「じゃあキラーT細胞さんも、初恋は叶わなかったんですか?」
「ごほっ!?」
思わず咳き込んでしまって、せっかく飲んだ茶を台無しにしたことを悟った。いや、それに関しては今はどうでもいい。
どうしてそこに話が飛ぶ、コイツの思考回路はどうなってやがる!?コイツ、まさか赤血球の皮をかぶった樹状細胞か!?
思わず身構えたが、こちらにまっすぐ向けられた赤血球の眼差しは真剣だ。俺をからかってやろうという気概は見受けられない。それどころか、琥珀色の瞳が揺れる様子はどこか不安そうにも見える。
…一応コイツはコイツなりに考えて、本気で訊いているってわけか。それならば、本気の相手にはこちらも本気で返すのが礼儀ってもんだ。内心で覚悟を決め、努めて冷静に話す。
「…そうだな」
「そう、ですか…」
「まぁ、恋っつーか…ちょっと可愛いと思った程度だけどよ。胸腺学校で見かけて…でもすぐ脱落したよ、ソイツ」
「脱落…」
「あぁ。今思えば、その時の俺は見る目がなかったってことだ」
「……」
「皆そういうもんだろうよ、初恋なんて」
そこに甘酸っぱいなんてものは無い。あの時行動していれば…なんて後悔も無い。例えば俺が相手に気持ちを伝えていたとしても、T細胞として使えないソイツがこの世界からいなくなる事は必然だったから。この世界はそうして成り立っている。
初恋なんて大抵そんなもんだ、過ぎ去ってしまえば感傷すら無くなる。何も始まっていなかった頃の胸の高鳴りも、全てが終わってしまった時の失恋の痛みも、時間が経つにつれて綺麗さっぱり消えてしまう。
それなのに、目の前のお人好しはまるで自分の身に降りかかったことのように沈痛な面持ちになって、控えめに相槌を打って、それでも耐え切れなくなって俯いて…やがて意を決したように顔を上げた。
「…あの、キラーT細胞さん」
「んだよ」
「私が好きでいると、白血球さんも…『脱落』しちゃうんでしょうか」
「は?」
突拍子もない質問に思わず間の抜けた声が出る。いや、でも本当に何言ってんだコイツ。
『脱落』というのはあくまで胸腺での話、つまりはそこで育つT細胞たちの話だ。骨髄で育ってきた好中球に俺らと同じ『脱落』という制度があるのかは不明だし、あったとしても既に骨髄から出てはたらいている以上、それは適用されないんじゃねーか?
だが、コイツは至って真面目な様子で言葉を続ける。
「恋、とかその時の気持ちとか、私はまだ分からないですけど…キラーT細胞さんの言うように相手を可愛いなって思うのが恋なら、私の思いも…白血球さんをかっこいいって思うのも、そうなんでしょうか」
…俺に訊かれても。
そんな身も蓋もない返事が一瞬過 ったけれど、コイツが本当に確認したいことは多分それじゃない。
コイツの気がかりはただ一つ。自分の気持ちが恋という名前かどうかなんて関係なく、ただ「自分の気持ちのせいで好中球に迷惑がかからないか」が心配なだけだ。恋だと認めてしまったら、好中球に迷惑がかかるんじゃないか。その最たる例が未熟胸腺細胞にとっての『脱落』…赤血球にとっての溶血や体外流出であり、好中球にとっては敵を殺せなくなること。
…同業者でもない他人のことをわざわざ考えて心配してやる時点で、コイツの問いに対する答えなんか既に出ているだろうが。俺は甘さなんて絶対持たねぇから、教えてやるつもりはさらさらないけれど。
「そんなん知るか。自分で考えるんだな」
「う…」
「でもまぁ。『脱落』に関して言えば、あんまりホノボノし過ぎてるとそうなるだろうな」
「…じゃあ、私やっぱり…」
迷惑なんでしょうか。
赤血球のそんな言葉が、敵の動きを読む時と同じように予測できてしまって…そんなつまらない予測をしてしまった自分自身に対して、盛大に溜め息をつく。
まったく、コイツと話しているとどうにも調子が狂う。素直で案外聞き分けが良くて、決して反 りが合わないわけではないのに、一番肝心なところが伝わらない。
「そういうことじゃねーよ」
「え…?」
「いいか?俺はホノボノ『し過ぎてると』っつったんだ。完全にするなとは言ってねぇ」
「…はい?」
「戦わない奴はホノボノしてていいんだよ、それが平和ってモンだろ?お前ら以上にぐにゃぐにゃ締まりのない奴もいるし」
「あっ、ヘルパーT細胞さんですか?」
「まぁな」
一番肝心なところは説明が必要なくせに、これに関してはあっさり当てちまうのか。やっぱりコイツの基準はよく分からん。
そういや肺炎球菌を一匹取り逃がした騒動の時、コイツも緊急速報のモニターを見てたんだっけか。コイツの中であのぐにゃぐにゃ司令官の印象がどうなってんのか、興味はあるがそれはともかくとして。
「うちの司令官みてーに、いざとなったらすぐ切り替えられるんなら別に構わねぇさ。他の好中球だってそういうのが居 んだろ。ただ、アイツは…アイツがホノボノし始めたのは、テメーと交流するようになってからなんだよ」
これまでの好中球は滅多に隙を見せなかった。戦闘時はもちろんだが、戦闘後でもアイツは勝利の喜びを見せることはない。ウイルス感染細胞を駆除した後はさすがに弔いの気持ちから手を合わせていたが、それでも表情が変わることはほとんどない。比較的穏やかなパトロールの時でさえ、アイツはいつ見かけても常に緊張感を保っていた。
それがいつの頃からか変わった。戦闘時に腕が立つのは今のところ同じだが、それ以外の時は表情が目に見えて柔らかくなった。
一体何がきっかけか…それは案外すぐに気付いた。がん細胞を討伐し終えた直後、まだ死体の残る凄惨な現場であるにも関わらず、躊躇いなく足を踏み入れる一人の赤血球。抗原提示能もないくせに免疫細胞たちを呼び集めたソイツが近付いてから、好中球の纏う雰囲気は柔らかいものへと変化していった。管轄外の余計な仕事をした赤血球に礼を述べて、がん細胞と何を話していたのか追及されると困ったように取り繕って…その様子を見ていれば本人たち以外は誰でも、嫌でも気付く。
目の前の赤血球が、あの好中球を変えたのだ。
「テメーといると安らぐんだろうよ。戦い終わった後、そういうのは必要だ。俺たちT細胞も互いを称え合って団結を再確認するからな。だがあまりにも度が過ぎれば、それは致命傷になりかねねぇ!テメーだって、好中球が見境なく交流するあまり細菌すら殺せなくなったら嫌だろう!?」
「そっそれは、確かに…嫌、です…」
赤血球は突然話を振られたからか、少ししどろもどろになりながらも肯定した。寂しそうな表情で手元のココアに視線を逃がした様子を見るに、ただ単に「細菌を殺せない好中球」が嫌なのか、それとも「見境なく交流する」の部分も引っかかったのか…コイツの持つ感情が本当に恋だとすれば後者の可能性が高い気もするが、そこは触れるとまた面倒なことになるので放っておく。
「それに、もしもテメーがこの世界に危害を加えるようになったとして、その時にかつて交流していた仲間だから殺せませんでしたーじゃ済まねぇ!そんなことをすればあっという間にこの世界全体が終わる!」
「はっ、はい!それはもちろん、私だってこの世界に危害を加えるまで生きていたいとは思わないですし!」
「いい心がけだ。だから日頃からホノボノし過ぎねぇことが大事になる!適度な距離感、節度を持った行動、万が一本当に殺す側と殺される側に立った時にはその運命を受け入れる覚悟!」
「距離感、行動、覚悟…!」
「あぁそうだ、馴れ合うだけじゃ何の得にもならねぇ!間違っている時は厳しく叱る、それで印象付けて次に繋げてやる!褒めるだけじゃ駄目だ!」
「厳しく叱る、褒めるだけじゃ駄目…うん?」
「あ?何だよ」
律儀に復唱していた赤血球の言葉が、なぜか不意に途切れた。人がせっかくこの世界の真理を説いてやっているというのに、本当に何なんだ。
訝しげな視線を向ければ、目の前のソイツは一人で首を傾げながら躊躇いがちに、しかし何かを確認するようにぽつりぽつりと零す。
「いえ、あの…なんだかそれって、私に対するキラーT細胞さんの接し方みたいだなぁって、思いまして…」
「…はっ!?なななっ、何言ってんだテメー!」
言われた瞬間意味が分からなくて、反応がワンテンポ遅れた。…いや、言われた瞬間でなくても理解したくない。よく分からねーが理解してはいけない気がする、拒絶反応を起こしてでもその言葉の受け取りは断固拒否する!
それなのに俺の意思とは関係なく顔に熱が集まる、何故だか変な汗まで吹き出してくる。あぁクソッ、何なんだよ本当に!?別に、俺は、そんなつもりで言ったんじゃねぇ!あくまでもナイーブ共を鍛える時と同じことを言っていただけだ!あの馬鹿じゃあるまいし、こんな無能な赤血球のことなんか、俺は全く、絶対に、間違っても気にかけてなんかいねぇ!あんなホノボノ球の感情と一緒にされてたまるかってんだ!
「俺はテメーのために言ってんじゃねーよ、この世界のためだ!いいか自惚れんな、断じてこれは恋なんかじゃねぇからな!」
「ふぇっ!?こっ、恋!?何で!?」
「だから違うっつってんだろ!わざわざその単語だけに反応すんな!」
「すすす、すみません!いきなり恋なんて言われたものだからつい…!」
「だから繰り返すんじゃねぇ!休憩終わりだ、さっさと行け!赤血球がリンパ管に近付くんじゃねー!」
「はっ、はいいっ!失礼しましたーっ!」
俺が勢いに任せて怒鳴れば、赤血球は慌ててココアを飲み干し台車と共に逃げる。今更だとか関係ねぇ、やっぱりアイツがリンパ管に来るとロクなことがねぇ!やり場のない怒りをぶつけるつもりで、空になった紙コップをぐしゃりと潰すけれど、そんなことで顔の火照りが収まるはずもなく。
そういやアイツ、飲み終わった紙コップも持って行っちまったな。ドリンクコーナーと一緒にゴミ箱もリンパ管側にあるとはいえ、預けてくれれば捨ててやるくらいのことはしたのに…と、今はもうアイツの姿が紛れて分からない血管の方を眺めてふと思った瞬間、ずっと遠くでカメラのシャッター音が聞こえた。
fin.
(原作17話「出血性ショック(前編)」で、樹状さんの見ていたアルバムの表紙に「T細胞の失恋」と書いてあったことからできた話。初恋の話題なのは、私が最初「失恋」の字をなぜか「初恋」と見間違えて書き始めたからです。キラーTにとっては、とんだとばっちりだよ!)
2019/07/21 公開
リンパ管の入り口で赤毛の赤血球を見かけたのは、本当に偶然のことだった。
出撃命令に備えつつ空いた時間でナイーブ共を鍛える、その訓練のちょっとした休憩時間中。キラーT細胞軍の班長である俺としてはナイーブ共と親睦を深めてもいいのだが、下手に馴れ馴れしく接してその後の訓練までなあなあになっては困るし、そもそもナイーブ共からしてみれば「怖い教官」の俺とずっと一緒では気が休まらないだろうからと、俺は気を利かせてわざわざリンパ管と血管の境界付近にあるドリンクコーナーまで足を運んだわけだ。
そこで見かけたのが、二酸化炭素の箱が乗った台車を押しながら地図を片手にきょろきょろふらふら、いかにも迷っていますという動きをした例の赤血球。ソイツはまだ血管側にいたが、俺はピンときた。
アイツ、この分じゃまたリンパ管に迷い込む気だな。
正確に言えば、アイツ自身にはわざと迷い込んでやろうという意図や悪意は全くない。アイツはただ道を覚えるのが極端に苦手なだけだ、それは俺も知っている…知りたくて知ったわけではないが。
だが、いかなる理由であっても赤血球がリンパ管に立ち入ることは許されない。出撃命令が無い時に俺たちT細胞が境界線を越えられないのと同じだ、それがこの世界の決まりだ。そして、決まりを破ろうとする奴がいるならばキラーT細胞として見過ごすわけにはいかない。
「…おい、そこの赤血球」
「はっ、はいい!?」
今回はあくまで未然の防止だからと、怒鳴らず普通に声をかけただけなのに、その赤血球はあからさまにビクッとした。ついでにソイツが押していた台車もガタリと音を立てて揺れる。
あー、これは相当怖がられてんな。日々の積み重ねと言うべきか、先日も迷ってここに来て怒られたその経験が今ようやく功を奏したと言うべきか…どうせならリンパ管が近くなった時点でもっと気を引き締めてほしいものだが。そうすれば俺だってこんな手間をかける必要もなかった。
…なんてことを思っている間にも、目の前の赤血球は大慌てでぺこぺこと頭を下げ始める。
「ごめんなさいごめんなさいっ、すぐ行きますっ失礼します!」
「いや、まだ間違えてねーだろ」
「…へっ?」
素早く方向転換して駆け出そうとした赤血球だったが、間抜けな声を漏らした直後にピタリと止まって振り向いた。その顔には「どういう意味ですか」と書いてある。
まさかとは思うがコイツ、自分が血管にいるのかリンパ管にいるのかなんて関係なく、反射的に謝っていたのか?
がん細胞のように存在意義からして世界の
未然の防止なんて余計な気を利かせたのが間違いだったと内心で後悔しつつも、こうなった以上仕方がないから説明してやる。
「お前はまだ間違えてねーよ、このアーチよりそっち側はまだ血管だ。だから謝る必要もねぇ、堂々としてろ。くぐって来たらすぐ追い返すがな!」
「あ、そっか…」
最後の部分を強調して言ってやったのに、目の前の赤血球はそれについては全く怯えなかった。代わりに返ってきたのは、ようやく理解しましたと言わんばかりの独り言。声をかけただけで怖がったくせに肝心のビシッと決めた部分では怖がらないとは、度胸があるんだか無いんだかよく分からない。
つーかこの反応、そもそも自分の現在の立ち位置すら分かっていなかったのかよ。浅慮どころかただの阿呆だ。
やはり関わり合いになるんじゃなかった、もう少し泳がせといてリンパ管に侵入してきた時に初めて怒鳴るべきだったと思いかけて…ふと、何かとコイツを気にかけている好中球のことを思い出した。
こんなのを毎回相手にするなんて、あの馬鹿は一体何を考えているんだか。無駄に疲れるだけじゃねぇか。しかもアイツは自分から進んで世話を焼きに行っている節がある。例えばナイーブ共なら鍛えてやれば心強い味方になる見込みがあるが、コイツは非戦闘員だ、それとこれとは話が全く違う。
好中球には先日忠告してやったがどうにも改善の兆しは見られねぇし…仕方ない。リンパ管に侵入しないよう忠告して終わりにするつもりだったが、せっかくの機会だ。
「今、時間あるか」
まぁ、酸素ではなく二酸化炭素を運んでいる時点で、少しくらいなら時間はあると公に示しているようなもんだが。台車の上の箱を一瞥して、念のため尋ねる。
すると赤血球もその視線の意味を察したらしく、若干顔を引きつらせながらも素直に答えた。
「あ、ありますけど…」
「なら少し寄ってけ。…お前も何か飲むか」
当初の予定だったドリンクコーナーを指さして問いかける。いくらリンパ管側にあるとはいえ、自分だけ余裕で茶をすするというのも変な話だと思ったからだ。
赤血球はそれを視線で追いかけ、おずおずと答える。
「えっと、じゃあ同じのをお願いします…」
「同じのでいいのかよ。赤血球なんだしお前はココアな」
「えっ!?あ、ありがとうございます!」
ドリンクコーナーに向き直った瞬間、俺の背中に届く嬉しそうな声。それを無言で受け止めながら紙コップを二つ用意して、片方には冷たいお茶を注ぎ、もう片方にはココアを入れてやる。
好中球なら「同じの」という言葉を真に受けてお茶を渡したかもしれないが、俺はアイツとは違って気遣いのできる男だからな。
「ほらよ」
リンパ管と血管の境界線を挟んで並び立つ。互いにこの線を越えて踏み入ることはできないが、線の上空はセーフ判定と言ってもいい。
手渡すと、ソイツは両手で受け取った。
「ありがとうございます…」
「…ふん」
礼ならさっき聞いた。それなのに二度も言うなんて、やっぱりコイツはどこか抜けている。
そんなことを思ったけれど指摘するのも馬鹿らしくて、黙って茶をすする。ちらりと赤血球の方を見やれば、糖分を摂取して上機嫌なのか、その表情はすっかり緩みきっていた。単純な奴だ、俺がわざわざ呼び止めた理由なんて見当もついていないのだろう。
一息ついたところで、俺は何でもない風を装って話を切り出す。
「それで、本題だが。アイツとはどこまで行ったんだ?」
「…へ?アイツって…?」
「好中球だよ。お前が肺に行く時、道案内してもらってた」
「あぁ!白血球さんですね!えーっと、白血球さんとは胃の見学に行ったでしょ、それから小腸にも…」
「いや、その『行った』じゃなくて」
「え?」
指折り数えながら報告する赤血球を途中で止めれば、ソイツは間の抜けた顔で俺を見た。
つーかよくそんな馬鹿正直に話せるな。コイツらが小腸でホノボノしてたのは俺も知ってるが、胃にも行ってたのかよ。粘膜一枚隔てた向こうは胃酸の海だぞ?
いや、そんなこと今はどうでもいい。俺が確認しておきたいのは…
「あー…『付き合ってんのか』ってことだよ」
「え…?付き合っ、て…?」
「先に言っとくが『どこそこに行くから暇なら付き合ってぇー』みたいな意味じゃねーからな。『恋人なのか』ってことだ」
先手を打って単刀直入に訊けば赤血球はさすがに意味を理解したらしく、ぼふん!と音が立ちそうなほどの勢いで顔を真っ赤に染め上げた。続いて、首をぶんぶんと横に振る。
「えっ、えええええ!?いえいえいえいえ!そんなっ、違います!白血球さんとは全然そんなんじゃなくてっ、会えた時にちょっとお話したりお茶を飲んだりする程度で!そりゃあ白血球さんにはいつも助けていただいて私はお世話になりっぱなしなんですけど、本当に偶然会うだけで、付き合ってるわけじゃなくてですね…!」
「ふーん」
俺の正直な感想は「どうでもいい」だった。自分から話を振っておいて何だと言われるかもしれないが、一言で否定すれば済む内容を無駄に細かく話されて、どうでもいいと思わないわけがない。冷めた相槌が漏れる。
…しかしまぁ、こんなに必死に「そんなんじゃない」と否定されて、アイツが聞けば少なからずショックを受ける発言じゃないのか。いや、でもアイツは馬鹿だから『付き合ってないぞ?何を勘違いしてるんだ、キラーT』とか平然と言うかもな。目の前の赤血球ほど慌てないにしても、発言の内容はコイツと同じことをペラペラと喋るのだろう。あぁ、心底どうでもいい。
「た、確かに白血球さんはズバーッと細菌を倒してくれて、いろんな組織や細胞さんのお仕事をいっぱい知ってて、かっこいいですけど…」
あ、なんか今イラッときた。どうでもいい話を長々と聞かされたせいだろうか、絶対そうだ。
俺だってウイルス感染細胞やがん細胞をブッ潰すし、他の細胞の仕事も胸腺学校時代にしっかり勉強して知っているというのに、よりにもよって好中球の至極どうでもいい当たり前の話を長々と聞かされたんだ。俺が当たり前にしていることを好中球もやっているからと言って好中球だけ褒められて、イラつかないわけがない。
どうでもいいと思っていたが、このまま話を切り上げるのも気に食わない。至極冷静に、意地の悪い質問を投げかけてやる。
「…ほーう。で?お前は今後アイツと付き合いたいとかはあるのか?」
「へ…はひぃっ!?」
「今は、付き合ってねぇのは分かった。じゃあ今後はどうなんだ?アイツには後で訊くとして、お前の方は」
「いやその、違いますっ、だからそういうのじゃなくてですね!?」
赤血球は再び顔を赤くすると、先程よりも激しく首を横に振った。そして、舌でも噛むんじゃないかと思うほどの早口で否定の言葉を述べる。
「白血球さんのことは好きですけど、でもそういう好きじゃなくて、私の中では先輩や血小板ちゃんや好酸球さんに向ける好きと同じっていうか!あっほら、マクロファージさんみたいな!たくさんお世話になっているので、いつか一人前の赤血球になって恩返しができたらいいなぁって気持ちです!」
「お、おう…そうか。マクロファージさんと同じ…」
「はい!」
思わず気になった箇所を繰り返せば、赤血球は間髪入れずに快活な返事をしてきた。
…なんつーか、この言い分はさすがに、アイツが聞けば相当ショックを受けるんじゃねーの?マクロファージさんと同列というのは免疫系としては光栄だが、恋愛対象という意味では見事なまでに保護者枠だ。今ここにアイツがいないことを残念に思いながら、それでも少しだけ同情する。
でも、やっぱり馬鹿だからアイツも『血小板や同僚を気にかけるのと同じだ』とでも言うのだろうか。…同じなわけねーだろ、血小板や同僚を物陰から見守るか?
ともかく、確実に分かったことは一つ。コイツらは片思いにすらたどり着いていなかったということだ。しかも、そのことに本人も気付いていない。お互いに気付かないままホノボノしてやがる。
たったそれだけの、しかし揺るがない事実を前にして、妙な徒労感が押し寄せる。恋人同士ならホノボノが許されるのかと問われればそれはまた別問題だが、コイツらはそれ以前の話だから余計に
「き、キラーT細胞さん…?」
しゃがみ込んでがっくりと項垂れた俺の頭上から、気遣わしげな声が降ってくる。心配しているのは本当なのだろう、だがまだ心のどこかで怯えているような声音だ。
…俺ではなく好中球に対してであれば、怯えなど入る余地もなく百パーセント心配で占められたはずのそれ。
多分コイツ自身は、自分の中にそんな区別が存在していることすら無自覚なんだろう。「免疫系を怖がらない赤血球」なんて巷で密かに噂になっていても、実際はあくまでも好中球というフィルターを挟んで免疫系を見ているだけで、それは要するに――。
思い至った結論に舌打ちをする。唐突な行動で赤血球は余計に怖がるかもしれないが、知ったこっちゃねぇ。非戦闘員で命拾いしたな、殴りかからないだけ良いと思え。
苛立ちを押し殺すように、真顔ですっくと立ち上がった。真正面から対峙すれば、赤い帽子が視界の下に見える。
「…一つ忠告しておく」
「はい…?」
「いいか、初恋は実らないもんだ。残念だったな!」
コイツらが恋だと自覚していないのであればちょうどいい。ここで先に釘を刺しておけば、これ以上ホノボノホヤホヤが進行することもないだろう。指をさし、大声でたっぷりと凄みをきかせながら告げてやる。
赤血球は突然のことに目を丸くしながらも、やはりピンときていないのか俺の言葉をそのまま繰り返した。
「…え?残念…?」
「今後お前がアイツを好きになろうが、それは叶わないってことだ!」
「えぇっ!?」
「そんなに驚くことか?好中球と赤血球、殺す側と殺される側!仕事が違えば立場も違うんだよ!」
「うっ…。それは、そうですけど…」
「ふん。分かったらアイツとホノボノしすぎねーように、テメーもせいぜい気を付けるんだな!HAHAHA!」
そうだ、考えてみれば簡単な話だ。これまでは同業ということもあって好中球にばかり説教していたが、それで直らないのならば、アイツと一緒に休憩する赤血球にも伝えておけばいいだけのこと。我ながら名案だ。むしろどうして今まで気付けなかったのか、当たり前すぎて笑えてくる。
しかし当の本人はやっぱり鈍いらしく、しばらく呆然とした後、困ったように片手を上げた。 もう片方の手に持ったココアの液面がわずかに揺れる。
「あの、キラーT細胞さん」
「何だよ」
「じゃあ、キラーT細胞さんは恋、したことあるんですか…?」
「…はぁ!?ななっ、何でそうなるんだよ!?」
「ひいっすみません!だって『初恋が実らない』なんて、どうして知ってるのかなぁって…!」
「あー…。一般論だ、よく言うだろ。普通そうなんだよ」
適当にごまかして茶をすする。まったく、とんでもねー論理の飛躍だ。危うく俺まで被弾するところだったぜ。
だが、怯えて謝ったはずの赤血球は何を間違えたか、続けて爆弾を投げた。
「じゃあキラーT細胞さんも、初恋は叶わなかったんですか?」
「ごほっ!?」
思わず咳き込んでしまって、せっかく飲んだ茶を台無しにしたことを悟った。いや、それに関しては今はどうでもいい。
どうしてそこに話が飛ぶ、コイツの思考回路はどうなってやがる!?コイツ、まさか赤血球の皮をかぶった樹状細胞か!?
思わず身構えたが、こちらにまっすぐ向けられた赤血球の眼差しは真剣だ。俺をからかってやろうという気概は見受けられない。それどころか、琥珀色の瞳が揺れる様子はどこか不安そうにも見える。
…一応コイツはコイツなりに考えて、本気で訊いているってわけか。それならば、本気の相手にはこちらも本気で返すのが礼儀ってもんだ。内心で覚悟を決め、努めて冷静に話す。
「…そうだな」
「そう、ですか…」
「まぁ、恋っつーか…ちょっと可愛いと思った程度だけどよ。胸腺学校で見かけて…でもすぐ脱落したよ、ソイツ」
「脱落…」
「あぁ。今思えば、その時の俺は見る目がなかったってことだ」
「……」
「皆そういうもんだろうよ、初恋なんて」
そこに甘酸っぱいなんてものは無い。あの時行動していれば…なんて後悔も無い。例えば俺が相手に気持ちを伝えていたとしても、T細胞として使えないソイツがこの世界からいなくなる事は必然だったから。この世界はそうして成り立っている。
初恋なんて大抵そんなもんだ、過ぎ去ってしまえば感傷すら無くなる。何も始まっていなかった頃の胸の高鳴りも、全てが終わってしまった時の失恋の痛みも、時間が経つにつれて綺麗さっぱり消えてしまう。
それなのに、目の前のお人好しはまるで自分の身に降りかかったことのように沈痛な面持ちになって、控えめに相槌を打って、それでも耐え切れなくなって俯いて…やがて意を決したように顔を上げた。
「…あの、キラーT細胞さん」
「んだよ」
「私が好きでいると、白血球さんも…『脱落』しちゃうんでしょうか」
「は?」
突拍子もない質問に思わず間の抜けた声が出る。いや、でも本当に何言ってんだコイツ。
『脱落』というのはあくまで胸腺での話、つまりはそこで育つT細胞たちの話だ。骨髄で育ってきた好中球に俺らと同じ『脱落』という制度があるのかは不明だし、あったとしても既に骨髄から出てはたらいている以上、それは適用されないんじゃねーか?
だが、コイツは至って真面目な様子で言葉を続ける。
「恋、とかその時の気持ちとか、私はまだ分からないですけど…キラーT細胞さんの言うように相手を可愛いなって思うのが恋なら、私の思いも…白血球さんをかっこいいって思うのも、そうなんでしょうか」
…俺に訊かれても。
そんな身も蓋もない返事が一瞬
コイツの気がかりはただ一つ。自分の気持ちが恋という名前かどうかなんて関係なく、ただ「自分の気持ちのせいで好中球に迷惑がかからないか」が心配なだけだ。恋だと認めてしまったら、好中球に迷惑がかかるんじゃないか。その最たる例が未熟胸腺細胞にとっての『脱落』…赤血球にとっての溶血や体外流出であり、好中球にとっては敵を殺せなくなること。
…同業者でもない他人のことをわざわざ考えて心配してやる時点で、コイツの問いに対する答えなんか既に出ているだろうが。俺は甘さなんて絶対持たねぇから、教えてやるつもりはさらさらないけれど。
「そんなん知るか。自分で考えるんだな」
「う…」
「でもまぁ。『脱落』に関して言えば、あんまりホノボノし過ぎてるとそうなるだろうな」
「…じゃあ、私やっぱり…」
迷惑なんでしょうか。
赤血球のそんな言葉が、敵の動きを読む時と同じように予測できてしまって…そんなつまらない予測をしてしまった自分自身に対して、盛大に溜め息をつく。
まったく、コイツと話しているとどうにも調子が狂う。素直で案外聞き分けが良くて、決して
「そういうことじゃねーよ」
「え…?」
「いいか?俺はホノボノ『し過ぎてると』っつったんだ。完全にするなとは言ってねぇ」
「…はい?」
「戦わない奴はホノボノしてていいんだよ、それが平和ってモンだろ?お前ら以上にぐにゃぐにゃ締まりのない奴もいるし」
「あっ、ヘルパーT細胞さんですか?」
「まぁな」
一番肝心なところは説明が必要なくせに、これに関してはあっさり当てちまうのか。やっぱりコイツの基準はよく分からん。
そういや肺炎球菌を一匹取り逃がした騒動の時、コイツも緊急速報のモニターを見てたんだっけか。コイツの中であのぐにゃぐにゃ司令官の印象がどうなってんのか、興味はあるがそれはともかくとして。
「うちの司令官みてーに、いざとなったらすぐ切り替えられるんなら別に構わねぇさ。他の好中球だってそういうのが
これまでの好中球は滅多に隙を見せなかった。戦闘時はもちろんだが、戦闘後でもアイツは勝利の喜びを見せることはない。ウイルス感染細胞を駆除した後はさすがに弔いの気持ちから手を合わせていたが、それでも表情が変わることはほとんどない。比較的穏やかなパトロールの時でさえ、アイツはいつ見かけても常に緊張感を保っていた。
それがいつの頃からか変わった。戦闘時に腕が立つのは今のところ同じだが、それ以外の時は表情が目に見えて柔らかくなった。
一体何がきっかけか…それは案外すぐに気付いた。がん細胞を討伐し終えた直後、まだ死体の残る凄惨な現場であるにも関わらず、躊躇いなく足を踏み入れる一人の赤血球。抗原提示能もないくせに免疫細胞たちを呼び集めたソイツが近付いてから、好中球の纏う雰囲気は柔らかいものへと変化していった。管轄外の余計な仕事をした赤血球に礼を述べて、がん細胞と何を話していたのか追及されると困ったように取り繕って…その様子を見ていれば本人たち以外は誰でも、嫌でも気付く。
目の前の赤血球が、あの好中球を変えたのだ。
「テメーといると安らぐんだろうよ。戦い終わった後、そういうのは必要だ。俺たちT細胞も互いを称え合って団結を再確認するからな。だがあまりにも度が過ぎれば、それは致命傷になりかねねぇ!テメーだって、好中球が見境なく交流するあまり細菌すら殺せなくなったら嫌だろう!?」
「そっそれは、確かに…嫌、です…」
赤血球は突然話を振られたからか、少ししどろもどろになりながらも肯定した。寂しそうな表情で手元のココアに視線を逃がした様子を見るに、ただ単に「細菌を殺せない好中球」が嫌なのか、それとも「見境なく交流する」の部分も引っかかったのか…コイツの持つ感情が本当に恋だとすれば後者の可能性が高い気もするが、そこは触れるとまた面倒なことになるので放っておく。
「それに、もしもテメーがこの世界に危害を加えるようになったとして、その時にかつて交流していた仲間だから殺せませんでしたーじゃ済まねぇ!そんなことをすればあっという間にこの世界全体が終わる!」
「はっ、はい!それはもちろん、私だってこの世界に危害を加えるまで生きていたいとは思わないですし!」
「いい心がけだ。だから日頃からホノボノし過ぎねぇことが大事になる!適度な距離感、節度を持った行動、万が一本当に殺す側と殺される側に立った時にはその運命を受け入れる覚悟!」
「距離感、行動、覚悟…!」
「あぁそうだ、馴れ合うだけじゃ何の得にもならねぇ!間違っている時は厳しく叱る、それで印象付けて次に繋げてやる!褒めるだけじゃ駄目だ!」
「厳しく叱る、褒めるだけじゃ駄目…うん?」
「あ?何だよ」
律儀に復唱していた赤血球の言葉が、なぜか不意に途切れた。人がせっかくこの世界の真理を説いてやっているというのに、本当に何なんだ。
訝しげな視線を向ければ、目の前のソイツは一人で首を傾げながら躊躇いがちに、しかし何かを確認するようにぽつりぽつりと零す。
「いえ、あの…なんだかそれって、私に対するキラーT細胞さんの接し方みたいだなぁって、思いまして…」
「…はっ!?なななっ、何言ってんだテメー!」
言われた瞬間意味が分からなくて、反応がワンテンポ遅れた。…いや、言われた瞬間でなくても理解したくない。よく分からねーが理解してはいけない気がする、拒絶反応を起こしてでもその言葉の受け取りは断固拒否する!
それなのに俺の意思とは関係なく顔に熱が集まる、何故だか変な汗まで吹き出してくる。あぁクソッ、何なんだよ本当に!?別に、俺は、そんなつもりで言ったんじゃねぇ!あくまでもナイーブ共を鍛える時と同じことを言っていただけだ!あの馬鹿じゃあるまいし、こんな無能な赤血球のことなんか、俺は全く、絶対に、間違っても気にかけてなんかいねぇ!あんなホノボノ球の感情と一緒にされてたまるかってんだ!
「俺はテメーのために言ってんじゃねーよ、この世界のためだ!いいか自惚れんな、断じてこれは恋なんかじゃねぇからな!」
「ふぇっ!?こっ、恋!?何で!?」
「だから違うっつってんだろ!わざわざその単語だけに反応すんな!」
「すすす、すみません!いきなり恋なんて言われたものだからつい…!」
「だから繰り返すんじゃねぇ!休憩終わりだ、さっさと行け!赤血球がリンパ管に近付くんじゃねー!」
「はっ、はいいっ!失礼しましたーっ!」
俺が勢いに任せて怒鳴れば、赤血球は慌ててココアを飲み干し台車と共に逃げる。今更だとか関係ねぇ、やっぱりアイツがリンパ管に来るとロクなことがねぇ!やり場のない怒りをぶつけるつもりで、空になった紙コップをぐしゃりと潰すけれど、そんなことで顔の火照りが収まるはずもなく。
そういやアイツ、飲み終わった紙コップも持って行っちまったな。ドリンクコーナーと一緒にゴミ箱もリンパ管側にあるとはいえ、預けてくれれば捨ててやるくらいのことはしたのに…と、今はもうアイツの姿が紛れて分からない血管の方を眺めてふと思った瞬間、ずっと遠くでカメラのシャッター音が聞こえた。
fin.
(原作17話「出血性ショック(前編)」で、樹状さんの見ていたアルバムの表紙に「T細胞の失恋」と書いてあったことからできた話。初恋の話題なのは、私が最初「失恋」の字をなぜか「初恋」と見間違えて書き始めたからです。キラーTにとっては、とんだとばっちりだよ!)
2019/07/21 公開
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