3期25話カイノノ

純粋な気持ち

「時間は、動いてる」

それまで私に「心がほわほわになるおまじない」をかけて優しく穏やかに微笑んでいたアナが、その言葉を境に笑顔を消した。
少しの沈黙の後、決心した顔つきで語る。

「…アナも来年、武者修行に出る」
「えっ、と…?武者修行?って、絵画の?」
「うん。外国で一年間、絵の勉強なんだな」
「それはつまり…留学ってこと?」

確認のため尋ねると、それまでの深刻な雰囲気は一転、アナはようやくぴったりの言葉を見つけたように私を指差し、目を輝かせて叫んだ。

「それだー!」

突然の大声に、私を案内してくれた黒猫がびくりと毛を逆立てる。アナの雰囲気から深刻な話だと思っていたのに、それはアナが「留学」という言葉を度忘れしていたからもやもやしていただけで、話の内容自体はむしろ良い報告だったことに拍子抜けしてしまった。

「あはは…。そっかー、アナは美術の道に進むのね」

確認するように口に出して、アナと過ごしてきた今までの時間を思う。皆と同じようにすらすらとパズルが解けて、時には直感的に答えを見つけてしまうほどの才能の持ち主だけど、それと同じくらい芸術の才能もあって天才テラスでもしょっちゅう何かを描いたり作ったりしていた。そんな姿が目に焼きついているからか、美術を極めるのは自然に思えたしアナらしい選択だ。やっぱり行くとしたら芸術の都だろうか。

「どこに行くかってもう決まってる?」
「それはまだ調整中なんだな。…でも、行かないところは決めてる」

さっき驚かせてしまった黒猫を宥めるように撫でながら、アナは伏し目がちに続ける。



「…パリはイヴのものだから」



アナは相変わらず優しい口調なのに、なんだか重く響いた。決意と慈愛と罪悪感が混ざったような音。

「イヴって…アナのお姉さん、だよね」
「うん」

オルペウス・オーダーと戦っていた頃に私も会ったことがある。幼いアナを救い大切に思う一方で、自分を上回ったアナに憎しみを抱き、残酷なパズルを突きつけた人物。自分より才能のある人を羨ましいと思う気持ちは誰でも潜在的に持っているものだけど、それがレプリカ・リングによって歪んだ嫉妬に変えられてしまった。
それでもイヴさんはアナが大好きで、だからパズルが解かれた後はアナを守り、アナを安心させるために「もう一度絵を描こうと思うの」と伝えて。だけどアナだってイヴさんが大好きだから、それが叶わないことまで瞬時に悟ってしまった。
…それでも。



「イヴお姉ちゃんにはやっぱり、絵を描いてほしい。アナのいちばん好きな絵だから…」



それでも、信じたいのだ。
撫でられて微睡む黒猫を見つめながら、アナは祈りにも願いにも似た言葉を紡ぐ。多くは語らないから半ば推測も混じるけれど…きっとアナは、描きたくても描けない辛さを知っている。そんな相手に描くことを望むのがどんなに残酷なことかも分かっている。
分かった上で、それでももう一度描いてほしい。それはそうすることで許してもらえるとか自分の罪悪感が軽くなるというようなエゴからではなくて、ただただ相手の幸せに繋がるから。相手が頑なに「自分は描かないほうが幸せ、それよりも相手に描いてほしい」と思ってそれを受け入れていたとしても、もっと幼かった頃は「描くことが幸せ」だったはずで、それが心の奥の純粋な気持ちだから。
手を離して遠ざかってしまっては、隔たりはずっと埋まらないままだから。

「…きっと、ノノハも、」

黒猫に向けていた視線を上げて、アナがまっすぐ見つめてくる。純粋で凛とした瞳から目が離せなくなる。

「ノノハとカイトも、お姉ちゃんとアナと同じ」
「同じ…?」
「だから、解いて。ノノハ」

静かな美術室でクリアに響いた声は、教室に置いてきた鞄の中のパズルの存在を見抜いているようで。
「解いてみてくれよ」という文面が、「解いてくれねぇか」と告げる声が、その時のカイトの真剣な表情が、脳裏によぎる。

「…ありがとうアナ、私行くね!」

解きたい。解いてみたい。
湧き上がった気持ちに背中を押されて、残してきたパズルの元へ衝動的に駆け出した。



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