3期25話カイノノ
太陽に背を向けて
夜は残酷なほど早く明けてしまった。
昨日カイトの部屋でひとしきり泣いて、落ち着いた頃を見計らって軸川先輩が帰るよう促してくれて、それでも自室ではまた涙が溢れてきて…止めるように目を瞑って一晩が過ぎた。
今日は平日。いつも通りの日。昨日の名残で目は少し痛いけれど、いつも通りの日なのだ。共働きの両親は朝早く出勤してしまったから、自分も早く支度して行かないと。冷たい水で顔を洗って、髪を束ねて気合いを入れる。そのまま制服に着替えれば完全に学校モード。台所に行って炊飯器の蓋を開けると、湯気と共にいつも通りの量のご飯。…カイトのぶんも含めた、いつも通りの量だった。
「そっか、いらないんだ…」
うっかり言葉にしてしまえば、先程入れたはずの気合いはあっさり萎んでしまった。自分のぶんもあるのに、それすら食べる気が起こらない。しかし、だからといって炊飯器の中に放っておくわけにもいかないから、結局いつも通りおにぎりにして鞄の中に入れる。
学校に行きたくないと思うのは、久しぶりだった。
高等部に入るまでは、学校に行きたくない日も人並みにあった。友達に迷惑をかけた次の日、陰口を言われた日、苦手な授業のある日。だけど今となってはどれも遠い昔のことのようだった。
それはきっと、カイトがいたから。カイトがイギリスから戻ってきてからは、学校に行きたくないなんて思う暇もなかった。カイトが学校に馴染めるように幼馴染みの私が側にいなきゃ、カイトはパズルバカで時々周りが見えなくなるからお目付け役として見張ってなきゃ、そんな思いが知らないうちに原動力になっていた。
だけど今は、それが無い。
「カイト…」
今、どこにいるんだろう。
パズルに熱中しすぎて寝食忘れてないかな。
…カイトには、やっぱりパズルしか見えていないのかな。
「はぁ…行かなきゃ」
黙っていると泥沼のように沈んでいきそうな思考から無理矢理抜け出して、身支度を再開する。毎朝の慣れた作業だ、時間はかからない。ただ最後に、昨日軸川先輩から持たされたパズルを鞄に入れるかどうかだけは少し迷った。主の消えた部屋に唯一残された、カイトが作ったパズル。学校で見たら悲しみを思い出して泣いてしまうかもしれない。けれど仲間たちになら解き方が分かるかもしれないし、何よりカイトの物だから側に置いていたい。…結局、後者の可能性の高さと気持ちの強さに従うことにした。
学校に着いてしまえば後は淡々と進んだ。同じ学年のギャモン君は昨日のことを気遣ったのか昇降口で私を見つけるなり声をかけてくれて、そのまま教室まで一緒に入ってくれたけれど、カイトのことは訊いてこなかった。私がカイトと登校しないことで気付いたのかもしれないし、昨日あの後軸川先輩から事情を聞いてあるのかもしれない。教室では案の定クラスメートから「大門君は?」と訊かれたけれど、私が答えるより先にギャモン君が「パズルの調査だ」とか何とか理由をつけてくれた。それまでもPOGやオルペウス・オーダー、マスターブレインとの戦いなどで称号持ちの欠席や早退は頻繁にあったから今更疑問に思う人はいない。そんなわけで、カイトの不在について私が何か口にすることはないまま、授業に入っては終わり、それを繰り返して、あっという間に昼休み。日常はこんなにも淡白だったかと錯覚しそうになるくらいだ。
「にゃーお」
ふと気が付くと、足元から声がした。授業が終わったばかりの教室にいつ忍び込んだのか、机の下から綺麗な毛並みの黒猫が存在を示すように小さく鳴き声を上げる。猫は私の視線に気付くとひらりと窓から跳んで木々を伝い、ある一点へ向かって降りていく。しばらく目で追っていたけれど、その行く先が分かると私もすぐに駆け出した。
「…ノノハの案内ありがとう。お疲れ様」
薄暗い廊下を隔てた扉の向こうから、声が聞こえる。生き物に語りかける時の穏やかで落ち着いた声。扉を開けると、声の主は黒猫を抱き寄せたまま振り返った。
「入って、ノノハ」
「アナ…」
旧校舎、第二美術室。高等部を卒業してもなお、変わらない空気が流れているアナのアトリエ。促されるままに足を踏み入れると、たくさんの絵が壁際に立て掛けられている。私にはパズルの解き方や難易度が分からないように絵画の見方も技法も詳しくは分からないけれど、どの絵も温かい印象だ。そういえばカイトがPOGと戦っていた頃もアナは絵を描いていた。太陽の絵。そしてアナはカイトと皆が離れてバラバラになることを「太陽が遠くへ行く」と表現していた。あの時は、カイトを一人にするわけにはいかなくて、たとえ遠くへ行っても私だけは追いかけるつもりでいたけれど…。
「…ねぇアナ。『太陽』は今、どこにいる?」
アナだったら、もしかしたら。
一抹の望みをかけて尋ねる…けれど。
「太陽は空の上。皆を温かく照らしてる」
返ってきた言葉はそんな、当たり前で当たり障りのない事実。
期待と違う答えに落胆してしまうけれど、アナはそれすらお見通しといったような優しい眼差しを崩さないで続ける。
「…ノノハの上は今、雨。悲しくて冷たくて…。だけど、その雲の陰に太陽はある。アナが思うに、天気雨」
「天気雨…?」
意図が分からず聞き返しても、アナは頷いて言葉をさらに重ねる。
「ノノハ、太陽に背を向けて。そうすればきっと虹が見えるから」
虹。
それが何の比喩なのかそれとも比喩じゃないのか結局分からないけれど、アナの絵と同じく明るい希望のようなものを感じる。七色に輝く光が心に灯って、傷つかないよう淡々としていた心が温かく柔らかくなっていく。アナの言葉を借りるなら「心がほわほわになる」ということなのかもしれない。
「すごいね、アナは…」
素直に告げると、アナはほっとしたように微笑む。
「ノノハ、ようやく笑った」
「えっ?私、もしかして笑えてなかった?」
ギャモン君やクラスメートに心配かけないように、いつも通りでいたはずなのに。言われてみれば、正確には笑えていないというより、ぎくしゃくした作り笑顔になっていたかもしれない。アナに見破られていたことに照れ笑いを浮かべると、アナは途端に浮かない表情を見せた。
「ううん、アナも同じ気持ちだから。…時間は、動いてる」
.
夜は残酷なほど早く明けてしまった。
昨日カイトの部屋でひとしきり泣いて、落ち着いた頃を見計らって軸川先輩が帰るよう促してくれて、それでも自室ではまた涙が溢れてきて…止めるように目を瞑って一晩が過ぎた。
今日は平日。いつも通りの日。昨日の名残で目は少し痛いけれど、いつも通りの日なのだ。共働きの両親は朝早く出勤してしまったから、自分も早く支度して行かないと。冷たい水で顔を洗って、髪を束ねて気合いを入れる。そのまま制服に着替えれば完全に学校モード。台所に行って炊飯器の蓋を開けると、湯気と共にいつも通りの量のご飯。…カイトのぶんも含めた、いつも通りの量だった。
「そっか、いらないんだ…」
うっかり言葉にしてしまえば、先程入れたはずの気合いはあっさり萎んでしまった。自分のぶんもあるのに、それすら食べる気が起こらない。しかし、だからといって炊飯器の中に放っておくわけにもいかないから、結局いつも通りおにぎりにして鞄の中に入れる。
学校に行きたくないと思うのは、久しぶりだった。
高等部に入るまでは、学校に行きたくない日も人並みにあった。友達に迷惑をかけた次の日、陰口を言われた日、苦手な授業のある日。だけど今となってはどれも遠い昔のことのようだった。
それはきっと、カイトがいたから。カイトがイギリスから戻ってきてからは、学校に行きたくないなんて思う暇もなかった。カイトが学校に馴染めるように幼馴染みの私が側にいなきゃ、カイトはパズルバカで時々周りが見えなくなるからお目付け役として見張ってなきゃ、そんな思いが知らないうちに原動力になっていた。
だけど今は、それが無い。
「カイト…」
今、どこにいるんだろう。
パズルに熱中しすぎて寝食忘れてないかな。
…カイトには、やっぱりパズルしか見えていないのかな。
「はぁ…行かなきゃ」
黙っていると泥沼のように沈んでいきそうな思考から無理矢理抜け出して、身支度を再開する。毎朝の慣れた作業だ、時間はかからない。ただ最後に、昨日軸川先輩から持たされたパズルを鞄に入れるかどうかだけは少し迷った。主の消えた部屋に唯一残された、カイトが作ったパズル。学校で見たら悲しみを思い出して泣いてしまうかもしれない。けれど仲間たちになら解き方が分かるかもしれないし、何よりカイトの物だから側に置いていたい。…結局、後者の可能性の高さと気持ちの強さに従うことにした。
学校に着いてしまえば後は淡々と進んだ。同じ学年のギャモン君は昨日のことを気遣ったのか昇降口で私を見つけるなり声をかけてくれて、そのまま教室まで一緒に入ってくれたけれど、カイトのことは訊いてこなかった。私がカイトと登校しないことで気付いたのかもしれないし、昨日あの後軸川先輩から事情を聞いてあるのかもしれない。教室では案の定クラスメートから「大門君は?」と訊かれたけれど、私が答えるより先にギャモン君が「パズルの調査だ」とか何とか理由をつけてくれた。それまでもPOGやオルペウス・オーダー、マスターブレインとの戦いなどで称号持ちの欠席や早退は頻繁にあったから今更疑問に思う人はいない。そんなわけで、カイトの不在について私が何か口にすることはないまま、授業に入っては終わり、それを繰り返して、あっという間に昼休み。日常はこんなにも淡白だったかと錯覚しそうになるくらいだ。
「にゃーお」
ふと気が付くと、足元から声がした。授業が終わったばかりの教室にいつ忍び込んだのか、机の下から綺麗な毛並みの黒猫が存在を示すように小さく鳴き声を上げる。猫は私の視線に気付くとひらりと窓から跳んで木々を伝い、ある一点へ向かって降りていく。しばらく目で追っていたけれど、その行く先が分かると私もすぐに駆け出した。
「…ノノハの案内ありがとう。お疲れ様」
薄暗い廊下を隔てた扉の向こうから、声が聞こえる。生き物に語りかける時の穏やかで落ち着いた声。扉を開けると、声の主は黒猫を抱き寄せたまま振り返った。
「入って、ノノハ」
「アナ…」
旧校舎、第二美術室。高等部を卒業してもなお、変わらない空気が流れているアナのアトリエ。促されるままに足を踏み入れると、たくさんの絵が壁際に立て掛けられている。私にはパズルの解き方や難易度が分からないように絵画の見方も技法も詳しくは分からないけれど、どの絵も温かい印象だ。そういえばカイトがPOGと戦っていた頃もアナは絵を描いていた。太陽の絵。そしてアナはカイトと皆が離れてバラバラになることを「太陽が遠くへ行く」と表現していた。あの時は、カイトを一人にするわけにはいかなくて、たとえ遠くへ行っても私だけは追いかけるつもりでいたけれど…。
「…ねぇアナ。『太陽』は今、どこにいる?」
アナだったら、もしかしたら。
一抹の望みをかけて尋ねる…けれど。
「太陽は空の上。皆を温かく照らしてる」
返ってきた言葉はそんな、当たり前で当たり障りのない事実。
期待と違う答えに落胆してしまうけれど、アナはそれすらお見通しといったような優しい眼差しを崩さないで続ける。
「…ノノハの上は今、雨。悲しくて冷たくて…。だけど、その雲の陰に太陽はある。アナが思うに、天気雨」
「天気雨…?」
意図が分からず聞き返しても、アナは頷いて言葉をさらに重ねる。
「ノノハ、太陽に背を向けて。そうすればきっと虹が見えるから」
虹。
それが何の比喩なのかそれとも比喩じゃないのか結局分からないけれど、アナの絵と同じく明るい希望のようなものを感じる。七色に輝く光が心に灯って、傷つかないよう淡々としていた心が温かく柔らかくなっていく。アナの言葉を借りるなら「心がほわほわになる」ということなのかもしれない。
「すごいね、アナは…」
素直に告げると、アナはほっとしたように微笑む。
「ノノハ、ようやく笑った」
「えっ?私、もしかして笑えてなかった?」
ギャモン君やクラスメートに心配かけないように、いつも通りでいたはずなのに。言われてみれば、正確には笑えていないというより、ぎくしゃくした作り笑顔になっていたかもしれない。アナに見破られていたことに照れ笑いを浮かべると、アナは途端に浮かない表情を見せた。
「ううん、アナも同じ気持ちだから。…時間は、動いてる」
.