Phi-Brain
真実の目
弟にその便りが来た時は驚いた。日本にある私立√学園。パズルを採り入れた教育で知られると同時に、これまで天才を数多く輩出してきたあのイギリスの名門校・クロスフィールド学院の姉妹校でもある。
そういった肩書きや名誉には興味がない弟の代わりに、今後必要になるはずの細かな手続きも含めて文書を確認する。広大な敷地には様々な設備がありながらも自然豊かな立地であること、交換留学ではなく√学園に籍を置く形になること、その上でぜひともアナ・グラムを天才として迎え入れたいこと、望むならば旧校舎の美術室をアトリエとして使用できること、称号という制度があること。
そこまで読んで聞かせると、キャンバスに向き合っていたアナはくるりと楽しそうに振り返った。
「思うに、アナがレオレオなら、イヴはキオキオ!」
「…え?」
渾名が分からなかったわけではない。その人物がどんな作品を残したかについても、これまでアナと共に学んできたから知っている。アナが、思いがけず大好きな芸術家の称号を与えられて、嬉しくなっているのも分かる。…けれど。
「アナ。私は一緒には行けないのよ」
「でも、アナに絵を教えてくれたのはイヴなんだな」
レオナルド・ダ・ヴィンチの師匠、アンドレア・デル・ヴェロッキオ。
アナがダ・ヴィンチの称号を得るなら、私には正式なものではなくても師匠の称号を与えたい、だってアナが絵を描くきっかけになったのだから――そんな単純な考えの、子どものお遊びみたいな提案だ。
「…ええ、そうね」
だけど私は、アナの自由な発想を、曖昧に微笑んで流すことしかできなかった。
良くも悪くも、アナは芸術家の作品にまっすぐ向き合う。作者の出身地、時代背景、描かれたモチーフの意味、込められた思い…そういったものはよく覚えている一方、作品から離れたつまらない逸話には、まるで知らないことみたいに無表情を貫いた。
だから、きっとアナに悪意はまったくない。アナの目には、私は良い姉として映っていて、選ばれなかった人間がどんな感情を抱いているかなんて思い至りもしない。理解していても、当時の私は弟が与えてくれた称号を手放しには喜べなかった。
――ヴェロッキオは弟子の描いた天使の絵を見て、その圧倒的な才能を前に、自らの筆を折ったと言われている。
…☆…
オルペウス・オーダーとして戦いを挑み、敗れてリングの外れた私は、POGに保護されることになった。といっても監視の目はそれほど厳しくなく、心身の回復と安定が確認されてからは、敷地内であれば比較的自由に歩き回らせてもらっている。
…もっとも、安定しているのはこの場にアナがいないからで、実際に再会した時にまた「良い姉」でいられるのか、平静を保っていられるのか。当たり障りなく過ごせたとして、もし絵の話題を出されたらどうなってしまうのか。答えは私にも未知であり、結果次第では隔離期間が長引くことも察していた。アナも分かっているから、定期的にある短時間の面会でも絵の話はまだ出せないでいる。腫れ物に触るように扱わないで、アナは気にせずに描いてと望んでも、それだけのことをしてしまったのは私だ。
そんな罪悪感と、それでも未だに残る黒い感情の恐ろしさを抱えながら、私は今日もPOGの書庫へ赴く。さすが頭脳集団、かつてファイ・ブレインの育成を目指していた組織というだけあって、その蔵書はざっと見たところオルペウス・オーダーにも引けを取らない。パズル関連の書物から、数学、建築、かつての天才たちに関する伝記まで、様々な分野の本が所狭しと並べられている。
いつもは適当に選ぶのに、今日はなぜかその背表紙が目に留まった。惹かれるがまま本棚から取り出して、目次を眺めた後、該当のページを開く。
偉大な芸術家の作品を解説した書籍。弟の称号の、師匠とされる人物の項目。何度も見たことのある有名な絵画や彫刻の写真に紛れて、その一文はあった。
――ヴェロッキオは、弟子の描いた絵により筆を折ったという逸話があるが、実際はより興味のあった彫刻に専念していっただけにすぎない。
本人の気持ちなど、今となっては分かるはずもない。たった一文で済むほど、人間の感情は潔いものではない…と思う。そんな簡単な綺麗事だけで生きていけるのなら、私の中に眠るこの黒い感情はなかったことになるのだから。リングに飲まれていたとはいえ、自分も選ばれた天才でありたいと願ってしまったこと、アナを傷つけてしまったことは、今更なかったことにはできない。
…それでも。少しだけ、信じてみたいと思っている自分がいる。一文でまとめられなくても、いつか心から和解できる時が来るのだと。たとえ絵筆を握らなくても彫刻がそばにあったように、それぞれの道を祝福できる日が訪れますようにと。
だって、この称号はアナがくれたものなのだから。正式ではない子ども騙しのお遊びでも、アナがどこまで知っていたか分からなくても、清濁含めてきっと私に相応しい。
ヴェロッキオ――本名ではないその名の意味は、一説によると「真実の目」。本物の才能を見いだした、芸術に対する確かな審美眼を称えられての名前である。
fin.
2021/09/30 公開
弟にその便りが来た時は驚いた。日本にある私立√学園。パズルを採り入れた教育で知られると同時に、これまで天才を数多く輩出してきたあのイギリスの名門校・クロスフィールド学院の姉妹校でもある。
そういった肩書きや名誉には興味がない弟の代わりに、今後必要になるはずの細かな手続きも含めて文書を確認する。広大な敷地には様々な設備がありながらも自然豊かな立地であること、交換留学ではなく√学園に籍を置く形になること、その上でぜひともアナ・グラムを天才として迎え入れたいこと、望むならば旧校舎の美術室をアトリエとして使用できること、称号という制度があること。
そこまで読んで聞かせると、キャンバスに向き合っていたアナはくるりと楽しそうに振り返った。
「思うに、アナがレオレオなら、イヴはキオキオ!」
「…え?」
渾名が分からなかったわけではない。その人物がどんな作品を残したかについても、これまでアナと共に学んできたから知っている。アナが、思いがけず大好きな芸術家の称号を与えられて、嬉しくなっているのも分かる。…けれど。
「アナ。私は一緒には行けないのよ」
「でも、アナに絵を教えてくれたのはイヴなんだな」
レオナルド・ダ・ヴィンチの師匠、アンドレア・デル・ヴェロッキオ。
アナがダ・ヴィンチの称号を得るなら、私には正式なものではなくても師匠の称号を与えたい、だってアナが絵を描くきっかけになったのだから――そんな単純な考えの、子どものお遊びみたいな提案だ。
「…ええ、そうね」
だけど私は、アナの自由な発想を、曖昧に微笑んで流すことしかできなかった。
良くも悪くも、アナは芸術家の作品にまっすぐ向き合う。作者の出身地、時代背景、描かれたモチーフの意味、込められた思い…そういったものはよく覚えている一方、作品から離れたつまらない逸話には、まるで知らないことみたいに無表情を貫いた。
だから、きっとアナに悪意はまったくない。アナの目には、私は良い姉として映っていて、選ばれなかった人間がどんな感情を抱いているかなんて思い至りもしない。理解していても、当時の私は弟が与えてくれた称号を手放しには喜べなかった。
――ヴェロッキオは弟子の描いた天使の絵を見て、その圧倒的な才能を前に、自らの筆を折ったと言われている。
…☆…
オルペウス・オーダーとして戦いを挑み、敗れてリングの外れた私は、POGに保護されることになった。といっても監視の目はそれほど厳しくなく、心身の回復と安定が確認されてからは、敷地内であれば比較的自由に歩き回らせてもらっている。
…もっとも、安定しているのはこの場にアナがいないからで、実際に再会した時にまた「良い姉」でいられるのか、平静を保っていられるのか。当たり障りなく過ごせたとして、もし絵の話題を出されたらどうなってしまうのか。答えは私にも未知であり、結果次第では隔離期間が長引くことも察していた。アナも分かっているから、定期的にある短時間の面会でも絵の話はまだ出せないでいる。腫れ物に触るように扱わないで、アナは気にせずに描いてと望んでも、それだけのことをしてしまったのは私だ。
そんな罪悪感と、それでも未だに残る黒い感情の恐ろしさを抱えながら、私は今日もPOGの書庫へ赴く。さすが頭脳集団、かつてファイ・ブレインの育成を目指していた組織というだけあって、その蔵書はざっと見たところオルペウス・オーダーにも引けを取らない。パズル関連の書物から、数学、建築、かつての天才たちに関する伝記まで、様々な分野の本が所狭しと並べられている。
いつもは適当に選ぶのに、今日はなぜかその背表紙が目に留まった。惹かれるがまま本棚から取り出して、目次を眺めた後、該当のページを開く。
偉大な芸術家の作品を解説した書籍。弟の称号の、師匠とされる人物の項目。何度も見たことのある有名な絵画や彫刻の写真に紛れて、その一文はあった。
――ヴェロッキオは、弟子の描いた絵により筆を折ったという逸話があるが、実際はより興味のあった彫刻に専念していっただけにすぎない。
本人の気持ちなど、今となっては分かるはずもない。たった一文で済むほど、人間の感情は潔いものではない…と思う。そんな簡単な綺麗事だけで生きていけるのなら、私の中に眠るこの黒い感情はなかったことになるのだから。リングに飲まれていたとはいえ、自分も選ばれた天才でありたいと願ってしまったこと、アナを傷つけてしまったことは、今更なかったことにはできない。
…それでも。少しだけ、信じてみたいと思っている自分がいる。一文でまとめられなくても、いつか心から和解できる時が来るのだと。たとえ絵筆を握らなくても彫刻がそばにあったように、それぞれの道を祝福できる日が訪れますようにと。
だって、この称号はアナがくれたものなのだから。正式ではない子ども騙しのお遊びでも、アナがどこまで知っていたか分からなくても、清濁含めてきっと私に相応しい。
ヴェロッキオ――本名ではないその名の意味は、一説によると「真実の目」。本物の才能を見いだした、芸術に対する確かな審美眼を称えられての名前である。
fin.
2021/09/30 公開
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