Phi-Brain
マイマイとひまわり
この世界は、神によって作られたパズルだ。
一見すると複雑で規則性のない事象でも、それらを丁寧に分解し突き詰めていくと、シンプルで普遍的な美しい答えが浮かび上がる。
ある者は思考を巡らせ言葉を尽くして、またある者は数式で表すことで、世界の理の一部を解明しようとする。そうやって人類はずっと、世界という名のパズルに挑戦してきた。この世を創造した神がギヴァーなら、我ら人類はソルヴァーだ。
POGもそういった学者や研究者の例に漏れず、神によって作られたパズルに挑んでいる。正確にはPOG全体で取り組んでいるのではなく、ごく一部の、天才的な頭脳を持った人間が、一般的な学問とは異なる手法を用いて、だが。
POGの表向きの顔は、依頼者の要望に応じたパズルを作って管理し、相応しい者が現れた場合には正当に財を与える頭脳集団。POG所属の人員でも、その面だけを見て深淵には気付かないまま過ごす人間がほとんどだ。しかしその裏では、この世のどんな不可解な謎でも瞬時に解ける存在…ファイ・ブレインを育成する計画が進んでいる。
ファイ・ブレインが神のパズルを解放し、神の書を獲得して読み解く。この世の森羅万象を知るにはそれが最短の手だというのが、現在のPOGの見解だ。
「ひまわりには、黄金比が隠されているんだ」
POGジャパンの執務室。パズルの特訓をする予定で呼び寄せた新米ソルヴァーは、手土産に同じ種類の切り花を三輪持って現れた。
茎の緑と中央のこげ茶、そして花びらの黄色のコントラストが鮮やかな、ひまわり。
夏を代表する花であり、広い畑に数多く植えればそれだけで迷路の壁にできるほど、背が高くなる植物だと聞いた覚えがある。実際、POGの資料でもそんな迷路を幾度か見た。けれど彼女が手にしているのは、花瓶に収まる程度の小ぶりなもの。特に発育が悪いようには見えないので、元々そういう大きさになる品種なのだろう。
さらに、彼女は来る途中でメイズから手頃な花瓶も借りてきたらしく、手際よく花を挿していく。すっかり勝手知ったるPOGといった調子だが、それを指摘したところで彼女から返ってくる言葉は予想がつく。「いくら執務室で特訓といっても、ルーク様とビショップさんに任せると部屋の彩りが二の次になるから」というのが主な言い分だ。同い年とはいえ管理官の僕相手にそれを言えるあたり、彼女も大したものだと思う。
実際、みずみずしく生気に溢れた黄色は、彼女の紺色の制服とよく映える。その背と揺れるポニーテールを眺めて、ふと思い出したから、僕は件のセリフを口にした。
ソルヴァー・井藤ノノハは、不思議そうな顔で振り向く。
「黄金比って、ファイのことよね?ファイ・ブレインの語源になった…?」
「ああ。均整のとれた美しい比率とされている。ひまわりの花にも、それがあるんだ。ちょうどこの辺りにね」
そう言って僕は彼女の隣に歩み寄ると、三輪ある中でもちょうどこちら向きになっている、一輪の花の中央を指さす。ひまわりの種ができる部分だ。
「フィボナッチ数列って知っているかい?直前の二つの数字を足した数が、次の数になる数列でね。『1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、…』と続くんだ」
「う、うーん?」
「『1+1、1+2、2+3、3+5』という規則性で増えるってこと」
さすがに唐突すぎただろうか、紙に書いて数字を並べながら説明すべきかとも思ったが、数秒ほど間を置けば、先に示した数列と足し算が彼女の脳内でも繋がったらしく、表情が明るいものへと変わった。その反応に僕も一安心して、説明を次へ進める。
「ここでΦの登場だ。フィボナッチ数列で隣り合う数の比をとると、その値は黄金比に近くなる。『55÷34』『89÷55』といったようにね」
再度、わずかに時間を置いて反応を待つ。いちいち計算してもらっても構わないし、実際POGにはこの程度の暗算が可能な者もいるが、今の本題は別にあるので、ここはひとまず納得してくれればいい。促すように声をかける。
「君もPOGのメンバーなら、Φの値はもう覚えてるだろう?」
「うん。1.61803398…って続くのよね」
「さすがだね」
何でもないことのようにさらりと暗唱したノノハ。やはり彼女の能力は人並み外れている。もっとも、彼女の場合はその数字に興味があるから、あるいは義務だから覚えたのではなく、優れた記憶力ゆえに「覚えてしまう」のだけれど。
「さて、ここまでが前提。ひまわりの話に戻ると、その種の並びはフィボナッチ数列に沿って配置されているんだ」
先程ひまわりの種ができる部分を指さした、その一輪にまた目を向ける。こちら側を向いて堂々と咲くその花にも、やはり件の規則性が見て取れた。
「例えばこの花で説明すると、種は中心から外側に向かって螺旋状に並ぶ。こんな風にたどれば時計回りにね」
言いながらもう一度人差し指で中心を示し、ゆっくりと動かしてみせる。種の並びが分かりやすい部分をさりげなく選び、複数箇所で二、三度、時計回りの広がりの動きを繰り返すと、それを目で追ったノノハは感嘆とも納得ともとれる声を上げる。
「逆に、こっち向きにたどることもできる。反時計回りだ」
「ホントだ、こっちも綺麗に並んでるわね」
今度も同じく中央からスタートして、しかし逆回りに膨らむ軌道を描きながら、種の並びをたどっていく。ノノハも同じく説明をそのまま飲み込んで、納得してくれる。
「ここで問題だ。一つの花の中で、時計回りと反時計回りの並びの列はそれぞれいくつあるだろうか。試しに数えてみるかい?根気のいる作業だけどね」
「う…。どこから数え始めたかは覚えられるけど、細かくて大変そう…」
そう言いながらも律儀に目を細めて、自分の持ってきたひまわりと睨めっこを始めるノノハ。どうやら素直すぎる彼女は、冗談を真に受けてしまったらしい。さすがの僕も本気でこれを数えてほしいだなんて指示は出さないのに、と自分で言っておいて何だが苦笑する。
これが今日のメインのパズルならば、僕も多少時間をとって挑戦させるのだけれど、残念ながら今回特訓させたいパズルは他にある。仕方のないことだが、彼女から問題を奪ってしまうことにギヴァーとして後ろめたさを覚えつつ、口を開く。
「答えを言ってしまうと、どんなひまわりでも、種が配置される列の数の組み合わせはほとんど決まっているんだ。品種や大きさにもよるけれど、多くは21列と34列、34列と55列、55列と89列というように、フィボナッチ数列で隣り合う数になる」
「フィボナッチ数列で、隣り合う数…。だから、黄金比に関係してるってこと?」
最初の説明の記憶が結びついたのか、ノノハが確認するように尋ねる。
「そうだね。…黄金比を図式化して長方形とし、そこから正方形を切り取る。すると黄金比の小さな長方形が残るから、同様に正方形を切り取る。それを繰り返していき、最後に正方形の角と角を使って弧を描くと、綺麗な渦巻きが現れる。POGのマークにある巻貝と、ちょうど同じように」
花瓶のひまわりから顔を上げれば、僕の視線を追ってノノハも同じ方向を見る。そこには常時スクリーンに表示されているロゴマークの巻貝が存在していた。
彼女もきっと見慣れたであろう渦巻き。ファイ・ブレインを求める組織の象徴。
「この黄金比を用いた渦巻きは、自然界のいたるところで見られる。ひまわりの螺旋の形も、大きく見ればこの渦巻きと重なると言われているんだ」
「へぇ、すごい…」
「エジソンとは、そういった話はしないのかい?彼なら詳しいはずだけど」
「あ、あはは…。聞けばキューちゃんも喜んで教えてくれると思うけど、私にはまだ難しい話も多くて」
ノノハは困ったように笑って、言葉を続ける。
「それより、横で一緒に聞いてたギャモン君が結論を急かして、それでキューちゃんが怒ったりして…。でも、アナは聞いてないようでいて一番分かってそうなのよねぇ」
「ふふ、楽しそうだね」
√学園の賑やかな様子が目に浮かぶようで、つい笑みが零れた。嫌味ではなく心から、彼らが平穏な学園生活を過ごせているのは喜ばしい。立場も抱えているものも違うからこそ、彼らには各々が選んだ最適な道を歩んでほしい。
そんな僕の心境には気付かず、ノノハは柔らかく微笑んでひまわりを見つめる。
「それにしても、自然界に隠れている黄金比かぁ…。なんだか不思議ね」
「そうだね。巻貝やひまわり以外にも、多くの植物や自然現象において、黄金比の存在は知られている。僕らが気付いていないだけで、意外と身近にもあるかもしれない」
…それこそファイ・ブレインとなれば、簡単に解明できるのだろう。あらゆる謎の答えを知る、時空の制限や死さえも克服できる、神にも等しい存在がファイ・ブレインなのだから。
「でもさ。何でも瞬時に分かってしまったら、この世界はきっとつまらないだろうね」
ぽつりと零した言葉。ノノハの視線がこちらに向いたのを、見なくても感じる。
「多くの学者や研究者が、この世界の仕組みを解明しようと長年奮闘してきた。彼らにとっては、世界の真実を知るチャンスがあるのにそれを自ら捨てるなんて、愚かなことかもしれないけれど…」
言いながら、これまで神のパズルを目指し、そして玉砕してきた人々に思いを馳せる。
彼らにとって、ファイ・ブレインの顕現は悲願と言えるだろう。オルペウスの腕輪でさえ、選ばれる者と選ばれない者がいる。それが当人にとって危険なものだとしても、ほんの一個人の犠牲で、この世界の謎がすべて解けるのならば安いものだ。たとえその人の感情、常識、倫理、さらには精神や命まで、何もかもを捨て去らなければならないとしても。
…けれど。皆が僕を腕輪の呪縛から解き放ったから、カイトが僕の作ったパズルを解いてくれたから。
僕は今、ピタゴラス伯爵の方針に明確に異を唱える。
「僕は…人類が長年挑んできたからこそ、ファイ・ブレインや神の書なんかで、この世界の答えを知ってしまってはいけないと思うんだ」
世界のすべてがシンプルな数式で表せるとして、それが試行錯誤の結果導き出された答えならば、その功績は称賛されるべきだ。文字通り生涯をかけて取り組んでも、何の功績も残せずに死にゆく者は大勢いる。そうして先人たちが苦労して積み上げた成果の上に、僕たちの今は成り立っているのだから。
けれど、そんな人類が築いた理論も根拠もすっ飛ばして、この世のすべてが分かってしまうのだとしたら。
そんなのは、初めから答えの分かりきったパズルと一緒だ。
「さっき話した黄金比だって、自然界に隠されていたものを偶然見つけて、その法則性を解明するから楽しいのであって…。最初からあらゆるものに黄金比を見いだせるとしたら、それがどんなに整った世界でも、楽しくはないだろう?」
腕輪に囚われている頃に見た、荒廃した未来を思い出す。すべてが分かるはずなのに世界は色褪せて、他に誰もいない。フードをかぶった者が、たった一人で立つ未来。
かの有名なアインシュタインは、オルペウスの契約を結ばなかった。腕輪の危険性を察知したからか、単に興味が無かったのか…あるいは今後も自力で発展するであろう人類の可能性を信じていたからなのか、今となっては分からない。
だけど、それで良かったのだと思う。独りきりでファイ・ブレインになった世界は、きっとあまりに寂しすぎる。同じ時代にもう一人の天才がいたとしても、神のパズルで潰し合うのであれば、最終的な結果は変わらない。残された一人は永遠を彷徨うだけ。
ならばそれよりも、この世界で生きるのが楽しいと思えるほうが断然いい。享楽的に聞こえるかもしれないが、パズルは本来楽しむものだ。作って、解いて、相手の考えを理解し合うもの。ギヴァーとソルヴァー、どちらが欠けても成り立たない。
白を基調とした執務室の中、やはり色鮮やかなひまわりが自然と目に留まる。
太陽を追いかけて成長する花。隣に立つソルヴァーのように。
「…だからさ、君は君なりの方法で、世界の美しさを見つけてみせて」
知らず俯いていた顔を上げて、改めて彼女のほうへ向き直る。自身の表情が柔らかくなっているのが、感覚で分かった。
対するノノハは、子どものようにまっすぐな瞳を向けたまま、首を傾げる。…今は行方知れずのジンも、かつて僕らに何かを話す時は、こんな気持ちだったのだろうか。
「私の方法で…?」
「人類が努力を積み重ね、協力して未来を作ってきたように、生来の天才でなくても、神のパズルに到達できる。ファイ・ブレインになっても、美しく楽しい世界が広がっている。それが、人間の本来あるべき姿だと思うから」
かつて腕輪と契約し、そうと気付かず精神が歪んでいった当時の僕には、見ることのできなかった光景。だけど彼女は、光り輝く未来に到達できるかもしれない。
誰かがファイ・ブレインになるのなら、その人と戦うためではなく、寄り添うために自分もファイ・ブレインになる。誰かの身代わりになるのではなく、一緒にこの世界を楽しむためにパズルを解く。
僕らが目指すのは、そんな人間味に溢れたファイ・ブレインだ。
「カイトと約束したのも、そういったパズルタイムだろう?」
わざとその名前を出せば、ノノハの表情は途端に活き活きしたものへと変わる。
大門カイト。僕の幼なじみであり、彼女の幼なじみでもあり…ファイ・ブレインの可能性を持つ者。未だその足取りは掴めていないが、彼も僕らと同様に、神のパズルを追い求めている。神の書に対する興味や悪意といったものは全く無く、おそらくはただ世界で一番難しいパズルを解きたいという、生粋のソルヴァーとして。
「…もちろん!むしろカイトのほうが約束を破ったら、承知しないんだから!」
「ふふ。まぁ、お手柔らかにね」
正直、彼女なら力業でやりかねない。やんわりと制止しつつ、しかしカイトに約束の話を持ち出すなら、ノノハのほうもパズル能力が上がっていなければ、とも思う。
そしてそれを引き出すのは、僕の役目だ。
「それじゃあ、特訓を始めようか」
「はい、ルーク様!」
パズルに向けてお互いに意気込んだその時、突然、執務室の扉が開いた。
何事かと目を向ければ、雨にでも降られたのか若干濡れたままのビショップが、一礼した後、居ても立っても居られないと言わんばかりに駆け込んでくる。彼の両手には、奇しくも今日ノノハが持ってきた花と同じ色のゴム手袋がはめられていた。
「ルーク様!POGの敷地内にて、黄金比の殻を持つマイマイを保護しました!」
ビショップはそう言うと、親指と人差し指で摘まんだ殻を掲げてみせる。可哀想に、マイマイの本体は懸命に殻の中へ身を隠そうとしている。まぁこの騒動が落ち着いて、マイマイを安全な場所に置いてやればそのうち出てくるのは、経験上知っているけれど。
「…また?」
「今回は左巻きです!そのうえ、殻がほとんど欠けずに自然界でこの大きさまで成長したものは、非常に珍しいのですよ!」
「あぁ、そう…。じゃあ、水槽がまだ倉庫に残ってたはずだから、それを使って」
「ありがとうございます!」
嬉々として去っていったビショップを見送ってから、隣に並んだノノハと思わず顔を見合わせる。呆然としたのを隠しもしない、嫌悪感はないけれど思考が追いつかない、彼女は見るからにそんな表情だ。ビショップは普段きちんとしているので、だからこそ意外に思えたのかもしれない。
けれど、本当にそこまで驚くことだろうか、とも思う。僕が慣れてしまったからかもしれないが、ビショップだってまた僕の側近である以前に、POGの人間だ。つまりはパズルと黄金比、ファイ・ブレインの可能性に魅せられた一人なのだから。
「世界は謎に満ちているほうが面白いんだよ。実際、この世の不思議を楽しんでくれる人だっている。…あんなふうにね」
「そうですね」
出入り口のほうを再度眺めて、それから目配せしてやれば、彼女もつられてくすりと笑う。晴れやかなその笑顔があれば、きっとこれから先も大丈夫だ。
黄金比の可能性を中心に抱いたその花は、今も仲間と共に咲き誇っている。
fin.
(すべての始まりは、ファイ・ブレイン×T-FANの2020年6月カレンダー(公式)が「マイマイを捕まえようとするビショップ」だったことから。なぜマイマイ!?としばらく惑わされた後、POGのマークに思い至り「黄金比の渦巻きの殻を持つマイマイだったのでは?」という結論が私の中で出て、さらに「そういや8月カレンダーの投票テーマはひまわりだ…こっちも黄金比に関係ある…」という流れで今回の話が生まれました。8月カレンダーの結果はまだ出てないですが、私がノノハで書きたかったので発表前に小説にしちゃいました。)
2020/07/27 公開
この世界は、神によって作られたパズルだ。
一見すると複雑で規則性のない事象でも、それらを丁寧に分解し突き詰めていくと、シンプルで普遍的な美しい答えが浮かび上がる。
ある者は思考を巡らせ言葉を尽くして、またある者は数式で表すことで、世界の理の一部を解明しようとする。そうやって人類はずっと、世界という名のパズルに挑戦してきた。この世を創造した神がギヴァーなら、我ら人類はソルヴァーだ。
POGもそういった学者や研究者の例に漏れず、神によって作られたパズルに挑んでいる。正確にはPOG全体で取り組んでいるのではなく、ごく一部の、天才的な頭脳を持った人間が、一般的な学問とは異なる手法を用いて、だが。
POGの表向きの顔は、依頼者の要望に応じたパズルを作って管理し、相応しい者が現れた場合には正当に財を与える頭脳集団。POG所属の人員でも、その面だけを見て深淵には気付かないまま過ごす人間がほとんどだ。しかしその裏では、この世のどんな不可解な謎でも瞬時に解ける存在…ファイ・ブレインを育成する計画が進んでいる。
ファイ・ブレインが神のパズルを解放し、神の書を獲得して読み解く。この世の森羅万象を知るにはそれが最短の手だというのが、現在のPOGの見解だ。
「ひまわりには、黄金比が隠されているんだ」
POGジャパンの執務室。パズルの特訓をする予定で呼び寄せた新米ソルヴァーは、手土産に同じ種類の切り花を三輪持って現れた。
茎の緑と中央のこげ茶、そして花びらの黄色のコントラストが鮮やかな、ひまわり。
夏を代表する花であり、広い畑に数多く植えればそれだけで迷路の壁にできるほど、背が高くなる植物だと聞いた覚えがある。実際、POGの資料でもそんな迷路を幾度か見た。けれど彼女が手にしているのは、花瓶に収まる程度の小ぶりなもの。特に発育が悪いようには見えないので、元々そういう大きさになる品種なのだろう。
さらに、彼女は来る途中でメイズから手頃な花瓶も借りてきたらしく、手際よく花を挿していく。すっかり勝手知ったるPOGといった調子だが、それを指摘したところで彼女から返ってくる言葉は予想がつく。「いくら執務室で特訓といっても、ルーク様とビショップさんに任せると部屋の彩りが二の次になるから」というのが主な言い分だ。同い年とはいえ管理官の僕相手にそれを言えるあたり、彼女も大したものだと思う。
実際、みずみずしく生気に溢れた黄色は、彼女の紺色の制服とよく映える。その背と揺れるポニーテールを眺めて、ふと思い出したから、僕は件のセリフを口にした。
ソルヴァー・井藤ノノハは、不思議そうな顔で振り向く。
「黄金比って、ファイのことよね?ファイ・ブレインの語源になった…?」
「ああ。均整のとれた美しい比率とされている。ひまわりの花にも、それがあるんだ。ちょうどこの辺りにね」
そう言って僕は彼女の隣に歩み寄ると、三輪ある中でもちょうどこちら向きになっている、一輪の花の中央を指さす。ひまわりの種ができる部分だ。
「フィボナッチ数列って知っているかい?直前の二つの数字を足した数が、次の数になる数列でね。『1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、…』と続くんだ」
「う、うーん?」
「『1+1、1+2、2+3、3+5』という規則性で増えるってこと」
さすがに唐突すぎただろうか、紙に書いて数字を並べながら説明すべきかとも思ったが、数秒ほど間を置けば、先に示した数列と足し算が彼女の脳内でも繋がったらしく、表情が明るいものへと変わった。その反応に僕も一安心して、説明を次へ進める。
「ここでΦの登場だ。フィボナッチ数列で隣り合う数の比をとると、その値は黄金比に近くなる。『55÷34』『89÷55』といったようにね」
再度、わずかに時間を置いて反応を待つ。いちいち計算してもらっても構わないし、実際POGにはこの程度の暗算が可能な者もいるが、今の本題は別にあるので、ここはひとまず納得してくれればいい。促すように声をかける。
「君もPOGのメンバーなら、Φの値はもう覚えてるだろう?」
「うん。1.61803398…って続くのよね」
「さすがだね」
何でもないことのようにさらりと暗唱したノノハ。やはり彼女の能力は人並み外れている。もっとも、彼女の場合はその数字に興味があるから、あるいは義務だから覚えたのではなく、優れた記憶力ゆえに「覚えてしまう」のだけれど。
「さて、ここまでが前提。ひまわりの話に戻ると、その種の並びはフィボナッチ数列に沿って配置されているんだ」
先程ひまわりの種ができる部分を指さした、その一輪にまた目を向ける。こちら側を向いて堂々と咲くその花にも、やはり件の規則性が見て取れた。
「例えばこの花で説明すると、種は中心から外側に向かって螺旋状に並ぶ。こんな風にたどれば時計回りにね」
言いながらもう一度人差し指で中心を示し、ゆっくりと動かしてみせる。種の並びが分かりやすい部分をさりげなく選び、複数箇所で二、三度、時計回りの広がりの動きを繰り返すと、それを目で追ったノノハは感嘆とも納得ともとれる声を上げる。
「逆に、こっち向きにたどることもできる。反時計回りだ」
「ホントだ、こっちも綺麗に並んでるわね」
今度も同じく中央からスタートして、しかし逆回りに膨らむ軌道を描きながら、種の並びをたどっていく。ノノハも同じく説明をそのまま飲み込んで、納得してくれる。
「ここで問題だ。一つの花の中で、時計回りと反時計回りの並びの列はそれぞれいくつあるだろうか。試しに数えてみるかい?根気のいる作業だけどね」
「う…。どこから数え始めたかは覚えられるけど、細かくて大変そう…」
そう言いながらも律儀に目を細めて、自分の持ってきたひまわりと睨めっこを始めるノノハ。どうやら素直すぎる彼女は、冗談を真に受けてしまったらしい。さすがの僕も本気でこれを数えてほしいだなんて指示は出さないのに、と自分で言っておいて何だが苦笑する。
これが今日のメインのパズルならば、僕も多少時間をとって挑戦させるのだけれど、残念ながら今回特訓させたいパズルは他にある。仕方のないことだが、彼女から問題を奪ってしまうことにギヴァーとして後ろめたさを覚えつつ、口を開く。
「答えを言ってしまうと、どんなひまわりでも、種が配置される列の数の組み合わせはほとんど決まっているんだ。品種や大きさにもよるけれど、多くは21列と34列、34列と55列、55列と89列というように、フィボナッチ数列で隣り合う数になる」
「フィボナッチ数列で、隣り合う数…。だから、黄金比に関係してるってこと?」
最初の説明の記憶が結びついたのか、ノノハが確認するように尋ねる。
「そうだね。…黄金比を図式化して長方形とし、そこから正方形を切り取る。すると黄金比の小さな長方形が残るから、同様に正方形を切り取る。それを繰り返していき、最後に正方形の角と角を使って弧を描くと、綺麗な渦巻きが現れる。POGのマークにある巻貝と、ちょうど同じように」
花瓶のひまわりから顔を上げれば、僕の視線を追ってノノハも同じ方向を見る。そこには常時スクリーンに表示されているロゴマークの巻貝が存在していた。
彼女もきっと見慣れたであろう渦巻き。ファイ・ブレインを求める組織の象徴。
「この黄金比を用いた渦巻きは、自然界のいたるところで見られる。ひまわりの螺旋の形も、大きく見ればこの渦巻きと重なると言われているんだ」
「へぇ、すごい…」
「エジソンとは、そういった話はしないのかい?彼なら詳しいはずだけど」
「あ、あはは…。聞けばキューちゃんも喜んで教えてくれると思うけど、私にはまだ難しい話も多くて」
ノノハは困ったように笑って、言葉を続ける。
「それより、横で一緒に聞いてたギャモン君が結論を急かして、それでキューちゃんが怒ったりして…。でも、アナは聞いてないようでいて一番分かってそうなのよねぇ」
「ふふ、楽しそうだね」
√学園の賑やかな様子が目に浮かぶようで、つい笑みが零れた。嫌味ではなく心から、彼らが平穏な学園生活を過ごせているのは喜ばしい。立場も抱えているものも違うからこそ、彼らには各々が選んだ最適な道を歩んでほしい。
そんな僕の心境には気付かず、ノノハは柔らかく微笑んでひまわりを見つめる。
「それにしても、自然界に隠れている黄金比かぁ…。なんだか不思議ね」
「そうだね。巻貝やひまわり以外にも、多くの植物や自然現象において、黄金比の存在は知られている。僕らが気付いていないだけで、意外と身近にもあるかもしれない」
…それこそファイ・ブレインとなれば、簡単に解明できるのだろう。あらゆる謎の答えを知る、時空の制限や死さえも克服できる、神にも等しい存在がファイ・ブレインなのだから。
「でもさ。何でも瞬時に分かってしまったら、この世界はきっとつまらないだろうね」
ぽつりと零した言葉。ノノハの視線がこちらに向いたのを、見なくても感じる。
「多くの学者や研究者が、この世界の仕組みを解明しようと長年奮闘してきた。彼らにとっては、世界の真実を知るチャンスがあるのにそれを自ら捨てるなんて、愚かなことかもしれないけれど…」
言いながら、これまで神のパズルを目指し、そして玉砕してきた人々に思いを馳せる。
彼らにとって、ファイ・ブレインの顕現は悲願と言えるだろう。オルペウスの腕輪でさえ、選ばれる者と選ばれない者がいる。それが当人にとって危険なものだとしても、ほんの一個人の犠牲で、この世界の謎がすべて解けるのならば安いものだ。たとえその人の感情、常識、倫理、さらには精神や命まで、何もかもを捨て去らなければならないとしても。
…けれど。皆が僕を腕輪の呪縛から解き放ったから、カイトが僕の作ったパズルを解いてくれたから。
僕は今、ピタゴラス伯爵の方針に明確に異を唱える。
「僕は…人類が長年挑んできたからこそ、ファイ・ブレインや神の書なんかで、この世界の答えを知ってしまってはいけないと思うんだ」
世界のすべてがシンプルな数式で表せるとして、それが試行錯誤の結果導き出された答えならば、その功績は称賛されるべきだ。文字通り生涯をかけて取り組んでも、何の功績も残せずに死にゆく者は大勢いる。そうして先人たちが苦労して積み上げた成果の上に、僕たちの今は成り立っているのだから。
けれど、そんな人類が築いた理論も根拠もすっ飛ばして、この世のすべてが分かってしまうのだとしたら。
そんなのは、初めから答えの分かりきったパズルと一緒だ。
「さっき話した黄金比だって、自然界に隠されていたものを偶然見つけて、その法則性を解明するから楽しいのであって…。最初からあらゆるものに黄金比を見いだせるとしたら、それがどんなに整った世界でも、楽しくはないだろう?」
腕輪に囚われている頃に見た、荒廃した未来を思い出す。すべてが分かるはずなのに世界は色褪せて、他に誰もいない。フードをかぶった者が、たった一人で立つ未来。
かの有名なアインシュタインは、オルペウスの契約を結ばなかった。腕輪の危険性を察知したからか、単に興味が無かったのか…あるいは今後も自力で発展するであろう人類の可能性を信じていたからなのか、今となっては分からない。
だけど、それで良かったのだと思う。独りきりでファイ・ブレインになった世界は、きっとあまりに寂しすぎる。同じ時代にもう一人の天才がいたとしても、神のパズルで潰し合うのであれば、最終的な結果は変わらない。残された一人は永遠を彷徨うだけ。
ならばそれよりも、この世界で生きるのが楽しいと思えるほうが断然いい。享楽的に聞こえるかもしれないが、パズルは本来楽しむものだ。作って、解いて、相手の考えを理解し合うもの。ギヴァーとソルヴァー、どちらが欠けても成り立たない。
白を基調とした執務室の中、やはり色鮮やかなひまわりが自然と目に留まる。
太陽を追いかけて成長する花。隣に立つソルヴァーのように。
「…だからさ、君は君なりの方法で、世界の美しさを見つけてみせて」
知らず俯いていた顔を上げて、改めて彼女のほうへ向き直る。自身の表情が柔らかくなっているのが、感覚で分かった。
対するノノハは、子どものようにまっすぐな瞳を向けたまま、首を傾げる。…今は行方知れずのジンも、かつて僕らに何かを話す時は、こんな気持ちだったのだろうか。
「私の方法で…?」
「人類が努力を積み重ね、協力して未来を作ってきたように、生来の天才でなくても、神のパズルに到達できる。ファイ・ブレインになっても、美しく楽しい世界が広がっている。それが、人間の本来あるべき姿だと思うから」
かつて腕輪と契約し、そうと気付かず精神が歪んでいった当時の僕には、見ることのできなかった光景。だけど彼女は、光り輝く未来に到達できるかもしれない。
誰かがファイ・ブレインになるのなら、その人と戦うためではなく、寄り添うために自分もファイ・ブレインになる。誰かの身代わりになるのではなく、一緒にこの世界を楽しむためにパズルを解く。
僕らが目指すのは、そんな人間味に溢れたファイ・ブレインだ。
「カイトと約束したのも、そういったパズルタイムだろう?」
わざとその名前を出せば、ノノハの表情は途端に活き活きしたものへと変わる。
大門カイト。僕の幼なじみであり、彼女の幼なじみでもあり…ファイ・ブレインの可能性を持つ者。未だその足取りは掴めていないが、彼も僕らと同様に、神のパズルを追い求めている。神の書に対する興味や悪意といったものは全く無く、おそらくはただ世界で一番難しいパズルを解きたいという、生粋のソルヴァーとして。
「…もちろん!むしろカイトのほうが約束を破ったら、承知しないんだから!」
「ふふ。まぁ、お手柔らかにね」
正直、彼女なら力業でやりかねない。やんわりと制止しつつ、しかしカイトに約束の話を持ち出すなら、ノノハのほうもパズル能力が上がっていなければ、とも思う。
そしてそれを引き出すのは、僕の役目だ。
「それじゃあ、特訓を始めようか」
「はい、ルーク様!」
パズルに向けてお互いに意気込んだその時、突然、執務室の扉が開いた。
何事かと目を向ければ、雨にでも降られたのか若干濡れたままのビショップが、一礼した後、居ても立っても居られないと言わんばかりに駆け込んでくる。彼の両手には、奇しくも今日ノノハが持ってきた花と同じ色のゴム手袋がはめられていた。
「ルーク様!POGの敷地内にて、黄金比の殻を持つマイマイを保護しました!」
ビショップはそう言うと、親指と人差し指で摘まんだ殻を掲げてみせる。可哀想に、マイマイの本体は懸命に殻の中へ身を隠そうとしている。まぁこの騒動が落ち着いて、マイマイを安全な場所に置いてやればそのうち出てくるのは、経験上知っているけれど。
「…また?」
「今回は左巻きです!そのうえ、殻がほとんど欠けずに自然界でこの大きさまで成長したものは、非常に珍しいのですよ!」
「あぁ、そう…。じゃあ、水槽がまだ倉庫に残ってたはずだから、それを使って」
「ありがとうございます!」
嬉々として去っていったビショップを見送ってから、隣に並んだノノハと思わず顔を見合わせる。呆然としたのを隠しもしない、嫌悪感はないけれど思考が追いつかない、彼女は見るからにそんな表情だ。ビショップは普段きちんとしているので、だからこそ意外に思えたのかもしれない。
けれど、本当にそこまで驚くことだろうか、とも思う。僕が慣れてしまったからかもしれないが、ビショップだってまた僕の側近である以前に、POGの人間だ。つまりはパズルと黄金比、ファイ・ブレインの可能性に魅せられた一人なのだから。
「世界は謎に満ちているほうが面白いんだよ。実際、この世の不思議を楽しんでくれる人だっている。…あんなふうにね」
「そうですね」
出入り口のほうを再度眺めて、それから目配せしてやれば、彼女もつられてくすりと笑う。晴れやかなその笑顔があれば、きっとこれから先も大丈夫だ。
黄金比の可能性を中心に抱いたその花は、今も仲間と共に咲き誇っている。
fin.
(すべての始まりは、ファイ・ブレイン×T-FANの2020年6月カレンダー(公式)が「マイマイを捕まえようとするビショップ」だったことから。なぜマイマイ!?としばらく惑わされた後、POGのマークに思い至り「黄金比の渦巻きの殻を持つマイマイだったのでは?」という結論が私の中で出て、さらに「そういや8月カレンダーの投票テーマはひまわりだ…こっちも黄金比に関係ある…」という流れで今回の話が生まれました。8月カレンダーの結果はまだ出てないですが、私がノノハで書きたかったので発表前に小説にしちゃいました。)
2020/07/27 公開
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