Phi-Brain

3月9日

クロスフィールド学院に程近い、けれど遊び道具の一つもないから誰かが足を延ばすこともない、どこまでも続いていそうな広い草原。その片隅の緩やかな斜面に、まるで目印のように立つ一本の木が、かつての僕たちの集合場所だった。
久しぶりに訪れてもこの場所は以前のまま、穏やかな空間として残っている。三月の風はまだ少し肌寒いけれど、降り注ぐ陽射しはぽかぽかと暖かい。
地面が濡れていないか確かめてから、草原に腰かけてみる。足元にはマーガレット、ブルーベル、シロツメクサ…他にも名前の知らない小さな草花がそこかしこに咲いていて、あの夏との違いを感じさせる。けれど顔を上げて少し先へ視線を向ければ、あの頃とほとんど変わらないグレートヘンジの巨石が並ぶ光景があって、腕輪を着けていた時には感じることのできなかった懐かしさが今、しみじみと込み上げてくる。
ここは僕がカイトやジンと過ごした、思い出の地だ。当人たちは今この場にはいないけれど、心の中で永遠にするまでもなくこの場所は、ひいては僕たちは、離れていても美しく時を重ねている。その事実が今はすとんと受け入れられた。

「気持ちいー…」

うっとりとした独り言が右側から聞こえて、ちらりとそちらを見やる。僕の隣に座るノノハは視線を向けられたことに気付いていないのか、緩やかな動作で膝を抱え直し、ふわあぁ、と大きなあくびをひとつ。
…これは、どう対処したらいいのだろう。あくびは退屈な時に出るものだと聞いたことがあるけれど、やはり僕らの思い出の地をただ眺めるだけなんて、彼女には面白くなかったか。仮にそうだとして、彼女の上に立つ者として指摘すべきか、それとも今はパズル中でもないのだし見て見ぬふりをしたほうが良いのか。
改めてノノハの姿を眺めてみる。ふわふわと温かそうな素材のワンピースにショートパンツ、明るい茶色のコートとブーツ。彼女にはPOGの制服も似合うと思うけれど、今回は僕も彼女も私服だ。つまり今は上下関係のない、友人同士の時間だということ。
…それならしばらくは、このままでもいいかな。あぁでも少し悔しいな。僕に気を許してくれている、と言えば聞こえは良いけれど、きっと彼女は「幼なじみ」の前では退屈する暇もなく、もっといろんな表情を見せるはずだから。
しばらく凝視していたせいか、彼女はそこでようやく僕のほうを向いた。「あ、」という声と共に、眠そうだった表情がはっきりと目覚めて苦笑の形を作る。

「あはは…ごめんねルーク君。時差ボケで…」

照れたようにはにかむノノハ。きっと本当に眠かったのだろう。考えてみれば無理もない、ここ最近は彼女のPOG加入が正式に決まって何かと慌ただしかった。なるべく円滑に手続きが進むように僕も調整したけれど、ギヴァーが多いPOGにソルヴァーが入るのは未だに異例だと言われる事態だ。その上、パズル能力があるのかと聞かれれば本人は困り顔で首を傾げる始末。
それでも、彼女はこの道を選んだから。パズルを続けて、いつか「幼なじみ」と再会して、世界で一番難しいパズルを一緒に解く。そんな約束を幼い頃に交わしたのだと、以前聞いたから…だから僕は、彼女を引き入れた。
この選択が正解かどうかは、今はまだ分からない。POGがファイ・ブレイン候補として行方を追っている僕の親友、そして彼女が会いたがっている「幼なじみ」――大門カイトは、未だにその足取りが掴めないままだ。それに、僕が希望を見いだし育てようとしている彼女だって、まだまだ神のパズルに挑戦できるレベルじゃない。
現状は変わらず問題は山積み。それなのに、今こうしてゆったりとした時間の流れに身を任せていると、すべてが些細なことのように思えてしまうから不思議だ。心なしか気まずそうに目を逸らしたノノハにつられて、僕もくすりと笑う。

「眠いなら、寝転んでもいいよ。ほら」

背中を草原に投げ出してみせると、今度はノノハのほうが驚いて僕を見た。

「ちょっとルーク君、汚れるよ!?」
「大丈夫だよ。地面も乾いてるし、土も草も後で軽く払えば落ちるさ」
「そ、そう…?あっ、でもビショップさんが知ったら何て言うか…!」
「その時は、これも社会勉強だって言えばいい」
「…ルーク君、腕輪が外れてから何だかわがままになってない?」
「ノノハこそ、まるでお目付役だね」

別に僕は潔癖でも何でもないんだけどなぁ。ビショップが過保護なのは否定できないけれど、だからといってノノハまで僕の保護者のように振る舞われてしまっては、正直僕の立場がない。

「平気だよ、昔もこうしてここで寝転んだことがあるから」

あくまでも穏やかな口調を保ちつつ意思を押し通す。僕が一度言い出したら簡単には引き下がらないことくらい、彼女も既に承知しているはずだと信じて。POGで彼女を育てるギヴァーとして、あるいは対等な友人として、それくらいの時間は共に過ごしてきたのだ。
結局ノノハが横になることはなかったけれど、その代わり抱えた膝に片頬をつけて、小首を傾げるようにして尋ねてきた。

「昔って…カイトがいた頃?」
「うん。カイトと、ジンと、三人で並んで横になってね」

答えながら青空を眺める。目に留まったのは、ゆっくりと風に流れていく白い雲と、同じ場所にとどまり続ける白い月。ダ・ヴィンチは僕を月にたとえたそうだけど、僕があの月だとしたら今のジンは流れる雲だろうか。ジンも表向きはカイトと同様、行方が知れず…しかし旅をしながら愚者のパズルを解放している、という情報もある。
そしてかつて太陽にたとえられたカイトも、おそらくはジンと同じ道を辿っているのだろう。人を傷付けるパズルを自分の手で解放するために、いずれは神のパズルに挑むために。それがどれだけ危険なことかも理解した上で、動いている。

「…あの頃は、僕がパズルを作ってカイトが解く。時々、僕たちの知らないパズルをジンが持ってきてくれることもあったな。今思えばジンはそうやって僕たちを、危険なパズルから遠ざけていたのかもね」

ぽつりぽつりと話し始めた僕の言葉を、ノノハは隣で静かに聞いてくれる。カイトと共に過ごした時間に対する羨ましさも、その後の僕が歩んだ道に対する同情も今は一切混じらない、ただただ慈しみの込もった眼差しを向けながら。

「ルーク君は、楽しかった?」
「ああ。カイトたちと会える時間は短かったけれど、とても楽しかったよ」
「そっか…」

ノノハは安心したみたいに相槌を打つと、周囲の暖かさに絆されたのか微睡むように目を閉じる。そうして彼女が真っ先に思い浮かべるのは、隣にいる僕や日本にいる仲間たちのことではなく、きっとカイトのことなんだろう。僕だってカイトと引き離されて以降はずっとカイトとの思い出を頼りに生きてきたから、彼女の気持ちは多分誰よりも分かる。…そして、おそらくはカイトの気持ちも。
澄み渡る空をぼんやりと見つめる。ふわふわで均等な大きさをしたいくつもの雲は、まるで羊の群れが移動しているようだ。こんな雲が出るのは高気圧が抜けかかっている時で、これから雨になる前兆だなんて聞くけれど。

「あの夏はもっと大きな雲があったなぁ。カイト、それを見て『おいしそう』って」

あくまでも雑談のように話しながら、僕はあの時見た雲の形と、隣で聞いたカイトの声を思い出す。もちろん今となってはぼんやりと覚えているだけで、一言一句すべてを覚えられるノノハの記憶力には到底及ばない。それでもその話は印象に残っていた。
何も知らないノノハが、再び目を開けて空を見上げ、楽しそうに微笑む。

「ふふ。カイトってば、わたあめでも連想したのかしら。あ、それとも夏だからソフトクリーム?」
「いや、生クリーム」
「え?」
「『生クリームみたい』って言ったんだ、カイトは」

再度告げてから横目で見やれば、ノノハは意味が分からないといった様子でぽかんと固まっていた。彼女の疑問はきっと、夏の入道雲なんて普通わたあめやソフトクリームなのになぜそこで生クリームなのか、やっぱり天才は分からない、といったところか。
そんなのカイトの側に立ってみれば、これほど分かりやすい言葉もないだろうに。

「…僕も今なら分かるよ、そう言ったカイトの気持ちが」

カイトが僕たちと一緒にあの雲を見る前に、ノノハと出会っていたのなら。確かに、なめらかな白い雲を見て真っ先に連想するのは生クリームだ。
当時の彼女の料理レベルがどんなものかは分からないけれど、少なくとも今のノノハスイーツにはわたあめもソフトクリームもほとんど出てこない。代わりによく登場するのは生クリームたっぷりのケーキやドーナツ、そしてワッフル。ソルヴァーとギヴァーとしてよく一緒に過ごすようになって、僕もそれらを口にする機会が増えた。
…パズルでも暗号でもないから、答えをわざわざ教えるつもりはないけれど。
やはり意味がよく分からないらしく不可思議な表情をするノノハを置いて、今度は僕が静かに目を閉じる。風に混じる草花の匂い。太陽光の暖かさ。そのどれもが心地よい。
この先春になれば、太陽の出ている時間はもっと長くなる。足元だけでなく頭上…例えばここにあるような大きな木にも、もっと多くの花が咲く。
そして、ノノハはこの先もっと複雑で美しいパズルを理解できるようになる。時間はかかるかもしれないけれど、花が咲くのを待ちわびるように一日ずつ、一問ずつ丁寧に解いていこう。僕もノノハも、もう一人ではないのだから。
パズルを作って、解く。そうして成長して、いつか僕らの「幼なじみ」と再会する。
その過程を楽しんで分かち合えるのならば、それはきっと幸せだ。



fin.

(題名はレミオロメンの同タイトル曲から。書いてる途中で「わざわざ時の迷路設定にしなくても、原作3期1話設定でもいいのでは…?」と迷いましたが、3期1話設定だとそもそもタイトルの「3月9日」にはならない(新学期が始まっていない、√学園でギャモンが叫ばない)と気付いたので時の迷路設定で押し切りました。)

2020/03/31 公開
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