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Good boy Good bye


りんごと『社長』を待つ時間は、やけに長く感じられた。
サジータは近くの休憩ラウンジで、ソファに座って待っていた。
買ったはいいものの、何となく飲む気になれない缶コーヒーを手の中で転がしていると、やがて社長室のドアががちゃりと開く音がした。
「りんご」
立ち上がって声をかけると、あからさまに不機嫌そうな顔をしたりんごが、じろりとサジータを睨んだ―――けれど。
彼の瞳の奥には、わずかに安堵したような気配があった。
「はぁ……ねえ、もう帰ろ。俺疲れちゃった」
「社長はなんて?」
「いーいーかーらーかーえーろ」
遠慮無く小突いてくるりんごに、これ以上聞き出すのは難しそうだと判断して、サジータはそれ以上聞くのを止めた。
「わかった。昼飯どうする?」
「……腹減ってない」
そう言って唇を尖らせるりんごを見て、じゃあ帰ろうとサジータが言いかけた、その時だった。
「サジータ」
社長室から顔を出した『社長』が、相も変わらず爽やかな笑顔で手招きする―――だが。
「社長、すみません」
サジータは、りんごに先に行くよう促しながら、軽く頭を下げた。
「今日は帰ります」
「え?」
『社長』は呆気に取られたようだったが、特に引き留めはせず、軽く手を振って見送ってくれた。
大股で歩いて行くりんごを、サジータは急いで追いかけた。



***



あの『牢獄』からようやく出られたことを確かめて、りんごはほっと息を吐く。
サジータは余計なことは聞かずに、黙って車を出してくれた。
「シートベルトは?」
「締めた~」
インクの雨が降り続ける建物を離れ、りんごは窓からいつの間にか晴れた外を眺めながら、サジータに話しかける。
「ねえ」
「ん?」
「マジであんな化け物に育てられたの?」
りんごの問いかけに、サジータは一瞬黙ってから、
「……悪いひとじゃないんだけどなぁ」
と、半分笑いを含んだような、困った声で言った。
「『社長』とは合わなかったか?」
「合わなかったっていうかぁ……」
りんごは言いかけて、止める。
―――気持ち悪い。
素直な感想と言えば、正直それだ。
恐らくあの男は、誰に対してもああいう態度なのだろう。
柔らかな物腰で相手に警戒心を与えないようにして、いつしか相手の内側で懐柔してしまう。
似たようなやり口には、りんごにも心当たりがあった。
けれど、あの『社長』の雰囲気は、どうにも得体が知れない……なんとも、言いがたい。
言いかけたまま黙ってしまったりんごに対して、サジータは何も言わなかった。
「……りんご、ちょっと買い物寄ってっていいか?」
車を走らせながら、今度はサジータが話しかけてくる。
「買い物?」
「夕飯の材料とか、色々」
そう聞いて、りんごは内心ちょっと楽しみな気持ちがうずいた。
昨日食べた親子丼も美味しかったし、多分こいつが作るものならなんだって美味いのだろう。
そういえば何だかんだで昼飯も食べていない。あの男のせいで妙に食欲はなかったが、サジータなら何か作ってくれそうな気もする。
「……好きにすれば~」
けれど、そういう気持ちを全部押し隠したうえで、りんごは素っ気なく返事をした。
サジータは「それじゃあ、遠慮無く」と言って、やがて近くのスーパーに車を停めた。
「良い子にしてろよ」
車の中で待っていると言うりんごにそれだけ言ってから、サジータは買い物に出掛けていった。
ガキ扱いしやがってと思いながらも、その背中を見送ってから、りんごはポケットからイカフォンを取り出す。
電源を入れてみると、職場の同僚たちから、メッセージがいくつか届いていた。
それらを全て流し見してから、りんごは連絡先を一つ選んで、電話をかける。視線は、サジータが戻ってこないことを確かめつつ。
『……りんごか?』
コール音から少し間を置いて、低い声が聞こえる。
「よっす~やつで~」
りんごは軽い口調で、電話の向こうの相手に話しかけた。
『生きてたんだな……』
「俺がそう簡単に死ぬわけないでしょ~?ていうか一回連絡は入れたじゃ~ん」
いつもの調子を取り戻しつつ、りんごは窓から外を眺める。
「あ、そういや例の件調べといてくれた~?こないだの取引のやつ~」
『……罠だった』
相手の短い返答に、やっぱりね、とりんごは一人ごちる。
聞けば内部からの裏切りの可能性が高いとの話で、犯人はまだわかっていないらしい。
サジータは関係ないのかと、何故かほっとした自分がいて、自分で自分に首を傾げたくなったが、忘れることにする。
「サンキュ~やつで~。あ、ついでにもう一個頼みたいんだけど~」
りんごが用件を伝えると、電話の向こうから承諾する返事が聞こえた。
こんなこと調べてどうするんだ、とか、余計なことを聞かれないのが助かる。
そのうち戻ると相手に伝えてから、りんごは電話を終えた。
……サジータは、まだ戻ってこない。
煙草が吸いたいな、と、りんごは思った。
「悪い、待ったか?」
買い物袋を下げたサジータが現れたのは、それからもう少し経ってからだった。
「ぜーんぜん」
りんごは座席の背もたれに寄りかかりながら、ぐうっと伸びをしてみせる。
「ね~、今度から車の鍵置いてってよ。代わりに運転してあげるからさ~」
「俺を置いてか?」
「あはは!わかってんじゃ~ん」
そう言って笑い転げてから、りんごははたと気が付く。
先ほどあの『社長』と話していた時のむずがゆいような感覚が、いつの間にか取れている。
先ほど電話で仲間と話したから―――いや。
たぶん、目の前の男のせいだ。
「…………」
「……?」
急に黙り込んでしまったりんごを、サジータは不思議そうな顔で眺めた。



***



車を走らせている間、りんごはほとんど喋らなかった。
窓の外からぼんやりと景色を見ているりんごの様子を伺いつつ、サジータは内心、『社長』と会わせたのがまずかったかもしれないと考えていた。
(でもあのひと、多分狙って待ってたよなぁ……)
りんごをアメアリ本部に連れていったのは、どちらかといえばラキアに会わせたかったのだが……その目論見は叶わなかった。
二人は、結構気が合いそうなのだが。
(……『社長』、りんごに何を話したんだろう)
『社長』は悪いひとではない。そう、悪いひとではないのだ。
けれどりんごが彼を『化け物』と評したのも、サジータにはわからなくもない。
あのひとはとびきり優しくて、だからこそ彼の優しさに飲み込まれると、もうどこにも行けなくなってしまう者が少なくない。
だから敏感なイカやタコは、時折そんなあのひとを「怖い」と評するのだ。
(……そんなひとを見習ってる俺も俺か)
自嘲するほどでもなく一人ごちていると、不意にりんごが「ねえ」と呼びかけてきた。
「ん?」
「なんか、苦手なものとかないの」
窓の外を眺めたまま、りんごがそう言った。
「……俺か?」
「他にいないじゃん」
それもそうだ。サジータはハンドルから手を離さないまま、少しだけ考える。
「……水……」
「水?」
「水場……だな」
答えは思いのほか素直に出た。
ちょうど、車は大きな川に架けられた橋を通過するところだった。
「川とか海とか。プールも好きじゃない……」
だからニューオートロのバトルステージも苦手だったりするのだが、そこはそれ。
サジータの答えに、りんごは視線を向けてきて、
「なんで?」
「あー……なんでだろうな」
サジータは誤魔化すように言葉を濁した。うまく言葉にできないということもあったが、何よりあまり詳しく言いたくなかった。
「昔から、妙に苦手だったんだ。風呂は入れるけど……出来れば、シャワーで済ませたい」
「ふーん……」
その答えを聞いて、りんごはまた興味を失ったかのように、窓の外へ視線を移した。
そうして家につくまで、りんごはずっと黙っていた。
車を駐車場に入れ、サジータの家についたところで、「昼飯は?」と訊ねると、「食べる」と返事が返ってきた。
「何つくんの?」
「カルボナーラにしようかと」
「家でもつくれんの?」
機嫌が持ち直してきたのか、りんごが興味津々といった様子で問いかけてくる。
「ああ、結構簡単に作れる。ただパスタ茹でるのに少し時間かかるから、座っててくれ」
けれど、サジータの言葉に反して、りんごはダイニングキッチンの向こうから、サジータの様子を眺めにきた。
「見てていい~?」
「いいけど……」
退屈なんだろうか、と、サジータは思った。
子供のような仕草で自分の手元を覗き込んでくるりんごを放っておいて、サジータは手際よく作業を進める。
ベーコンは食べ応え重視で厚切りにしようかと考えていると、
「ねえ~」
やっぱり退屈そうに、りんごが足をぶらぶらと揺らしながら話しかけてきた。
「サジータくん、初体験っていつだった?」
ベーコンを切る手を止め、サジータは複雑な表情を浮かべてみせる。
「……料理中にする話じゃないような気がするんだが……」
「いいじゃ~ん、俺暇なんだもん」
子供のような表情でちょっかいをかけてくるりんごに、サジータは仕方なく相手をしてやることにした。
「そう言われてもな……いつだったか……」
正直、本気で記憶になかった。
いや、そういう行為を今までの恋人とした記憶はあるし、そのどれかがきっと最初なのだろうが。
「覚えてないぐらいどうでも良かったとか?」
不意にりんごにそう言われ、サジータは思わず言葉に詰まる。
本質を突かれた、ような気がした。いや―――きっと実際、そうなのだろう。
昔の恋人たちに申し訳なくなりながらも、
「……そうかもな」
と、サジータは呟くように言った。
「ふーん……」
聞いてきた割に、りんごの返事は興味がなさそうだった。



***



「ね~、お酒とかなんかないわけ」
厚切りベーコンを載せたカルボナーラをぺろりと平らげたあと、りんごはすっかりいつもの調子で絡んできた。
「そう言われてもな……あ、」
サジータは台所に行き、仕舞い込んでいた赤ワインを一本取り出した。
いつだったか、親友が嫌がらせとうそぶいて持ってきた品だ。
「ワインでいいか?」
「しゃれおつ~」
「もらい物だよ」
二人分のワイングラスに、濃い紫の液体を注ぐ。
りんごはグラスを受け取ると、中身を一気に飲み干した。
「……んー、悪くないかも。おかわり~」
「酒は強い方なのか?」
「弱くはないと思うけど~」
素直に注ぎ入れるサジータを見て、りんごはにんまりと意地悪く笑う。
「あ、もしかして酔ったら脱ぐとか期待しちゃってる~?残念でした~、何もしませ~ん」
「無理な飲み方はするなよ」
サジータの話を聞いているのかいないのか、りんごは中身をぱかぱかと空けていく。
サジータはそれを眺めながら、ちびちびと飲み進めていた。
「あんたんとこの『社長』にさぁ」
何杯目かのワインの後に、りんごが言った。
「転職しないかとか誘われたんだけど」
「……うちに?」
「そ」
りんごがグラスを突き出す。サジータは残り少ないワインを注ぎ入れてやった。
「でもさ~、いくら下っ端とはいえマフィアって抜けるの大変なわけ~。ていうかあの男の下で働きたくないし~」
りんごはグラスを掲げるようにして持ち上げると、隣に座っていたサジータに向かって寄りかかる。
「こぼすなよ?」
「子供扱いすんなって……」
りんごは不服そうに言いながらも、サジータに体重を預けるのはやめなかった。
「サジータくんはなんであそこで働いてるわけ?やっぱお金?」
「んー……」
サジータはグラスの底に残ったワインを揺らしながら、何と答えたものか言葉を探す。
「理由は色々あるんだけどな……今、俺の居場所はあそこしかないから」
「チーム所属してたのに解散しちゃったんだって?」
りんごに言われて、サジータはちょっと目を丸くする。
「よく知ってるな」
「『社長』サンが教えてくれました~」
そう言って、りんごはぐいっとワインを飲み干すと、グラスを脇のテーブルに置いた。
「……サジータくんてさ~」
「ん?」
「ゴミ捨て場に倒れてたのが俺じゃなくても、助けたんでしょ」
「…………」
りんごの表情は、見えない。
軽い口調はそのままに、彼は続けた。
「そんでこんな風にご飯とか作っちゃったりして、もてなしたりしたんでしょ」
「…………」
サジータは、内心で小さく溜め息を吐いた。
「……どうだろうな」

正直。
自分でも、よくわからない。
あの時倒れていたのが、りんごじゃなかったら。
あの時倒れていた場所が、ゴミ捨て場じゃなかったら。

自分は、彼を助けなかっただろうか?
自分は、こんな風に構ったりしなかったらだろうか。
自分は。
こんな感情を。

「……りんご?」
「…………」
やけにりんごが静かなことに気が付いて、サジータは彼の肩を軽く叩いた。
けれど反応はなく、よく聞けばすぅすぅという静かな寝息だけが聞こえてくる。
「……寝てるのか?」
「んん……」
「……風邪引くぞ」
起こそうか一瞬迷ってから、結局サジータは、彼をベッドまで運んでやることにした。
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