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イリコと『もみじ』

クロトガと約束して別れた、その帰り道。
イリコがクロトガと約束した賭けの内容を聞いて、アオは絶句していた。まあそうなるだろうなーと思っていたので、イリコも特に言い訳はしない。
「ブキも、オカネもって……イリコ、あなた、本気なの?」
アオはようやく言葉を絞り出して、イリコを見上げた。
イリコはあくまでも冷静な表情で、
「本気じゃなかったら、バトルして貰えないと思ったので」
「だからって……」
「クロトガくんをバトルの場に引きずり出すなら、妥協しちゃいけないと思ったんです」
淡々とした口調で、イリコはそう言った。
「ただでさえ私は格下だし、無理言ってお願いしてる立場ですから」
「……イリコ……」
「大丈夫です!」
不安そうなアオに向かって、イリコはにっこり笑ってみせる。
「もし負けちゃっても、バトルをやめるつもりはないですから!何かしらでオカネ稼いで、またブキを買えばいい話ですし」
イリコはそう言いながら、ブキケースの持ち手をぎゅっと握り締めた。
「アオさんと戦う約束だって、忘れてるわけじゃありません。ただちょっと……予定より、遅くなっちゃうかもしれないけど」
「……ごめんなさい」
「へ?」
「本当は、わたしがあなたを励ますべきなのに……わたしがあなたに励まされているわね」
アオはそう言って、イリコを見つめる。
「……わかったわ。あなたがそう言うなら、わたしはもう何も言わない。あなたを信じて、応援している」
アオの視線は、真っ直ぐだった。
その真っ直ぐな視線が、イリコは大好きだった。
「……頑張ってね、イリコ」
「はい!ありがとうございます、アオさん!」
―――明日は、絶対に負けられない。
イリコは、あらためてそう思った。



***



翌朝の10時。
イリコの友人たちがバトルに立ち会うことを、クロトガは拒否しなかった。拒否はしなかったが。
「……多くねえか?」
「あ、やっぱりそう思う……?」
アオとマサバ、セイゴにハチ。
全員イリコの知り合いである。クロトガがアウェーの状態と言っても差し支えない。
「……まあいい」
クロトガはちょっと呆れたように溜め息を吐いてから、イリコを顎で指し示した。
「バトルはテメェとタイマンでやるんだろ」
「も、もちろん!」
「なら、とっとと行くぞ」
そう言ってロビーに向かうクロトガを、イリコは慌てて追いかける。
「……大丈夫かねえ」
「ま、イリコちゃんなら何とかするやろ。な、アオちゃん」
マサバが声をかけても、アオは何も言わない。
「あ、あれ?」
「……アオサン?」
ハチに声をかけられ、アオははっとしたように振り向いた。
「ごめんなさい……どうかした?」
「あ、いや……アオちゃんがどうしたの」
「いえ……」
アオは首を横に振ってから、クロトガの背中を見つめた。
「……彼は、一人で戦うのね、と、思って」
「……?」
アオの言葉の意味がわからず、マサバは軽く首を傾げる。セイゴとハチも、不思議そうな顔をしたまま、何も言わなかった。



ルールはレギュラーマッチ。ステージとインクの色をランダムに設定し、人数が揃うのを待つ。便宜上、マサバとセイゴがイリコのチームに、アオとハチがクロトガのチームに入った。
(アオさんがクロトガくんのチーム……)
―――励まされている。
何故かはわからないが、イリコは直感的にそう思った。
インクタンクを背負い、もみじシューターを抱え、どきどきする心臓を、深呼吸で整える。
大丈夫。余計なことは、考えなくていい。
勝たなきゃいけないとか、負けてもいいとか、そういう余計なことは、全部全部頭から取っ払う。
勝つために真剣な、自分にとって楽しいバトルを―――全力でするだけだ。
「よろしくお願いします!」
転送の直前、いつもアオに向かってしている挨拶が、思わず口をついて出た。
クロトガは驚いたような顔をしたが、何も言わなかった。
ちょっと恥ずかしい。でも、気合いは入る。
大きく呼吸を整えて、イリコは転送されるのを待った。
転送されたステージは―――デボン海洋博物館。
イリコが初めてナワバリバトルをした、思い出のステージだ。
クロトガのブキは、スプラチャージャー……ではない。
(あれは、確か……)
ジェットスイーパー―――カスタム!
彼がジェットスイーパーカスタム……通称『ジェッカス』を使うことがあるのは、セイゴの調べた資料で知ってはいた。だが、まさかここで持ち出してくるとは。
自分がシューターを使うのに合わせて変更してきたのかもしれないし、スプラチャージャーを使うまでもないと思ったのかもしれない。
いずれにせよ、相手のブキが長射程であることは変わらない。何とか懐に潜り込んでいかなければ、有利は取れないだろう。
試合開始の合図とともに、イリコはリスポーン地点を飛び出した。
(まずは自陣塗りから……)
足場を固めて、それから撃ち合いに持ち込む。もみじシューターの塗り性能とアメフラシがあれば、それは難しくない。だが……。
「!!!」
赤いインクが、真っ直ぐにこちらへ突き進んでくる―――クロトガだ!
彼は一切の塗りを捨てて、猛然とイリコの方へと向かってきた。イリコは慌てて逃げ道を塗り広げようとする。だが、彼のクイックボムがそれを許さない。素早く投擲されたボムが、イリコの塗ったオレンジ色の道を塞いだ。
進もうとした矢先、敵インクに蹴躓き、イリコはとっさに振り返る。
クロトガはすかさず銃口をイリコに向けた―――イリコも急いで撃ち返そうとする。だが、敵の射程の方が長い。イリコが射程を押しつける前に、あっという間に赤いインクに撃ち抜かれ、やられてしまう。
イリコがインクの中へと沈んだのを確かめてから、彼はオレンジ色のインクを振り払うようにして、自陣へと戻っていった。
―――バトル開始から、20秒足らず。
(何も……何も出来なかった)
イリコは内心、戦慄していた。
鬼気として迫ってきた、クロトガのあの表情……赤い瞳に込められた、鋭利な光。
あんなモノを、イリコは見たことがない。
今までどんなバトルでだって、感じたことがない。
何かが。彼の何かが、自分たちとは違う。
イリコとも、アオとも違う何かが、クロトガにはある。
でも、その『何か』を指す言葉を、イリコは知らない。
ただ一つ、わかったことがあるとすれば……。
(私……私は、彼との『戦い』を、舐めてた……?)
楽しいとか、勝ちたいとか。
彼はそういう領域にいない。そんな領域で、戦っていない。
イリコにとっての『バトル』と、クロトガにとっての『バトル』は、意味が―――いや。
本質が、全然違う。
(彼にとっての『バトル』は……インクを塗り合うお遊びなんかじゃ、ない……!!!)
イリコは、あの時の会話の意味を、ようやく理解した。
リスポーン地点に降り立ち、目の前に広がる真っ赤なインクの海を見て、イリコは息を呑む。
クロトガの赤い瞳が、また、イリコを睨んでいた。



「……まずいわね……」
イリコとクロトガの戦いを眺めながら、アオは苦々しげに呟いた。
クロトガの無駄のない動きに対し、イリコは中途半端な応戦しかできていない。
無理もない、とアオは思った。
イリコは今まで、『普通のバトル』しかしたことがない。アオとのバトルでさえ、ナワバリバトルという『スポーツ』の域を出ていなかった。
対するクロトガが繰り広げているのは……戦場での戦い。
相手を打ちのめし、叩き潰す、『倒すこと』を目的した戦いだ。
(……あの子は、わたしたちのように……敵意を向けられることには、慣れていない)
楽しいバトルがしたい。
笑顔でそう言っていた彼女に、この現状はあまりにも厳しい。
クロトガは、もはや殺意と言って差し支えないほどに鋭利な敵意を、イリコに向け続けていた。
「……イリコサンは、」
ハチが不安そうな声で、呟くように言った。
「勝てる、デショウカ?」
「……わからないわ」
アオは嘘をついた。
わかっている。本当はわかっている。
このままでは、イリコはクロトガには勝てない。
イリコが相手の気迫に飲まれ、主導権を渡し続けていたら―――あとは倒され、負けるしかない。
(イリコ……)
アオは自分でも気付かぬうちに、祈るように両手を組み合わせていた。



イリコがもみじシューターを持ってくることを、クロトガは当然見越していた。短から中射程のあのブキは、弾ブレが強く直接キルを取ることには向かないが、塗りには定評がある。
スプラチャージャーは、チャージャー種の中では塗れる方のブキではある。しかし、シューター種のブキとタイマンで張り合うには、いささか心許ない塗り性能だ。
それを踏まえてクロトガは、同じシューター種であるジェットスイーパーカスタムを選んだのだった。そして、何故無印と呼ばれるオリジナルの方ではなく、カスタムを選択したのかと言えば―――
「いい加減……ぶっ潰れろ!!!」
スーパージャンプでリスポーン地点まで戻り、スペシャルウェポンを放つ。
―――ハイパープレッサー。クロトガがもっとも愛用する、特大のインク光線を放つスペシャルだ。
デボン海洋博物館ほどの広さと、クロトガのウデマエを持ってすれば、上手く切り返すことで確実に相手に当てられる。
イリコは当然横にかわそうとしたが、クロトガの素早い切り返しにより逃げ道を塞がれ、為す術もなく倒れた。
(……話にならねえな)
あんなに自信満々に勝負を挑んできたくせに、彼女は未だ、クロトガにインクをかけることすら出来ていない。クロトガの猛攻に慌てふためいては、何も出来ずにインクに沈んでいくばかりだ。
(……所詮、あいつもただのイカだったな)
一瞬でも、期待した自分がバカだった―――そう考えて、クロトガは自分にぎょっとする。
自分がイカなんかに、一体何を期待したというんだ?
あんな、何も考えていなさそうな……脳天気で、お気楽で、自分たちが良ければそれでいい……享楽的で、どうしようもない、イカなんかに。
「……っ、クソ!!!」
言葉にならない苛立ちを抱えながら、クロトガはタコ形態に姿を変え、インクの海を泳ぎ出す。
タイマンでナワバリバトルに勝つ方法は簡単だ。ひたすら相手を倒し続け、塗る隙を与えず、こちらは相手がリスポーンしている間に塗り続ければいい。
何度だって何度だって、クロトガはイリコを倒し続けるつもりでいた。試合が終わるその時まで。決着が付く、その時間まで。



(ど、どうしよう……負けちゃう……)
どう頑張ってもクロトガを押し返すことができず、イリコは小さく震え始めていた。
(アオさんには、ああ言ったけど)
イリコの最初のブキは―――わかばシューターは、姉が自分のために用意してくれたブキだ。
バトルを楽しんできてほしいと。
イリコのしたいことをしてほしいと。
そう言って笑顔で渡してくれた、大切なものだ。
(負けちゃったら……負けたら全部、取られちゃう)
絶対勝つつもりでいた。絶対勝てると思っていた。
なのに今は―――こんなにも怖い。
バトルでこんな思いをするのは初めてで、どうしようもなくて、どうすればいいかわからな……
(……あれ?)
何かが頭のなかをかすめて、イリコは不思議に思った。
(……ううん、前にもこんな思いをしたこと、ある……)
あれは、確か……アオとホッケふ頭で、戦ったとき。
1分間のハンデのあと、アオは物凄い勢いでイリコに迫ってきた……彼女の勢いを見て、イリコは……
(……あの時も、『怖い』と思った)
あの時は。
あの時は、どうやって自分を奮い起こしたんだっけ?
「…………!」
復活の待機時間が終わる。
リスポーン地点に立つ。
もみじシューターを、ぎゅっと握る。
真っ直ぐに、前を見据える。
赤いインクで、雑に塗られたステージ。勢いよくクロトガが泳いでいるのがわかる、インクの波。
今ここは―――彼と、自分だけの戦場。
イリコが自ら望んで立っている、バトルステージ。
(そうだ、私は……)
クロトガと、戦いたかった。
自分がクロトガと、戦いたかったんだ。
抉り込むような鋭さを持った戦意に、ひるませられ、驚かされてしまっていたけれど―――自分が一番、したかったことは。

(私が―――クロトガくんと、戦いたかったんだ!!!!!)

ロボットボムを二個連続で投げる。わずかに残ったインクで道を作り、進みながらインクを回復する。
ロボットボムの一つはすぐに爆発したが、もう一つは迫ってきていたクロトガを追いかけた。
「チッ!」
こちらにまで聞こえるほどの大きな舌打ちをしながら、クロトガはロボットボムを避けるように後退する。その隙を狙って、イリコはドームを迂回するように、反対方向を塗り散らかしながら進んでいく。
スペシャルゲージはすぐに溜まった―――ステージ中央を横切るように、アメフラシを投げる!
広がった雨雲がインクの雨を降り注がせながら進むのを確かめてから、イリコは真っ赤なステージをひたすらに塗り返した。
クロトガは追ってこなかった―――リスポーン地点に飛ぶのが見えた。
ハイパープレッサーが来る!!
イリコはアメフラシのインク跡を追うように、自分が進むべき道筋を塗り広げた。
まだあえてイカ化はしない。まだあえて、姿は見せておく―――発動音!!!
「くっ!!」
インクの巨大なビームが、一瞬だけ体を掠める。だが、ハイパープレッサーは見た目の派手さに反して、しばらく当たらなければデスするまでには至らない。
あらかじめ広げておいた道筋に潜り込むようにして、イリコはその衝撃波から逃げた。
一瞬だけ、ビームが止む。切り返しが来る―――予想通り、クロトガは正確にイリコを狙ってきた!
(ああもう、本当にすごいなぁ……っ!)
自分にはない技術。自分にはない実力。
イリコの持っていない……戦いというものへの、鋭利過ぎるほどの感情。
彼は、自分よりも、ずっとずっと強い。
―――でも。
(これはかわしっ……きれる!!!)
切り返しは予想できていた。それなら、さっきビームを向けられていた方向に逃げればいい!
イリコは逃げた。逃げて逃げて逃げ切って、それから必死に場を塗り広げた。
『いーい?イリコ、これだけは覚えておいてね』
姉の教えが、頭をよぎった。
『ナワバリバトルは……』
「……塗らなきゃ、勝てない……!!!!!」
ハイパープレッサーのビームが止んだ。
イリコは闘志を込めたオレンジ・アイで、クロトガを振り返る。
(……自分よりずっと強いからとか、絶対勝てない相手だからとか……そう言って、諦めてしまったら―――このバトルそのものに、意味がなくなってしまう)
自分は、アオを知っている。
自分の知る中で、最高のナワバリプレイヤーを知っている。
クロトガは多分、彼女と同じくらいには強い。
それならイリコに―――倒せないはずがない。
(私は確かにクロトガくんを……バトルを舐めていた!!)
インク残量を確かめる。ボムを投げてクロトガを牽制し、塗った跡を進むようにしながらインクを回復する。
(でも、楽しいバトルがしたいとか、勝ちたいとか、相手を倒したいとかじゃなくて……)
塗って塗って塗って、塗られている場所も塗られていない場所も塗って、インクが切れそうになる頃、イリコは再びアメフラシを投げた。
(本気で勝ちたいから、バトルは楽しいんだッ!!!!!)

―――バトルの残り時間は、あと1分。
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