イリコと『もみじ』
「……うーん」
ハコフグ倉庫の一角をばしゃばしゃと塗りたくりながら、マサバは一人で悩んでいた。
別に戦況は悪くない。それどころか、さっきからセイゴがばしばし敵を倒してくれているので、マサバはチョーシ良く塗れているくらいである。
彼が気にしているのは、今目の前のバトルのことではなく、イリコのことだった。
「……すまん二人とも」
マサバは少し悩んでから、インカムで二人に声をかけた。
「おれもこれ終わったらちょっと抜けていいか?」
『イリコちゃん?』
セイゴがすぐに言い当ててきた。長い付き合いなだけあって、こういう時の意思疎通はやたらと早い。
「うん……なんか、さっきから様子おかしい気ぃしてな」
『いいよ。それなら俺も抜けるわ』
セイゴはあっさりとそう言った。
『ハチはどうする?』
『ボクもそうシマス』
今は敵チームにいるハチもそう言ってくれて、マサバはほっとする。
「ありがとな」
『いいってことよー』
バシュバシュとスライドを決めながら、セイゴは軽い口調で答えた。
『なんかチョーシ悪そうっていうか、ボーッとしてたもんな』
「普段あんなことないんやけどね」
いつものイリコの活発な様子を思い出しながら、マサバはインクアーマーを発動させる。
「いつもならもっとバシバシ塗ってくれてるんやけど……」
『アオがいないからとか?』
「そんなことでサボる子ちゃうよ」
『……ボクのせいかもしれマセン』
「え?ハチコーが?」
ハチの言葉に、マサバは驚いてしまう。
「なしてまた。普通に仲良さそうやったやん」
『ちょっと……気にさせルようなことを言ってシマッテ』
ハチは申し訳なさそうな声で言った。
『謝ろうとシタラ、マサバサンに邪魔さレテ……』
「えっ、それはごめ……うぉっとぉ!!」
マサバの正面から思いっきりインクを飛ばしてきたのは、ハチのスプラローラーだった。インクアーマーを剥がされ、マサバは慌てて逃げようとする。
「ハチコー!!待って待って待って!!」
『ナノデ、折りを見テ謝ろうと思っテタんデスガ』
ハチはそう言いながら、再び思い切りローラーを振りかぶる―――縦振りだ!!
「ぎゃっ!!」
見事に仕留められてしまい、マサバはインクの中に沈み込む。
『ナイスハチぃ~』
「お前今はおれの味方やろが!!」
『イリコサン、心配デスネ』
ハチは何事もなかったかのように、心配そうに言う。
「……そうやね」
リスポーン地点に戻りながら、マサバは小さくうなずいた。
***
ロビーを出て、すぐにマサバたちはイリコを見つけた。
彼女は一人ではなく、見慣れないボーイと話をしているようだった。
「あ、いたいた」
「お話中、デショウカ」
「……いや」
あれは―――良くない雰囲気だ。
目つきの悪いボーイに睨まれているイリコを見て、マサバはとっさに走り出した。
「い、イリコちゃーん!!」
できるだけ明るく、何でもない風を装って。
にこにこと愛想笑いしながらマサバが近づいていくと、イリコがすぐに振り返った。
「あ、ま、マサバさん」
困惑した表情を浮かべていたイリコが、マサバの顔を見て、ほっとしたように息を吐く。声をかけて正解だったと思いながら、マサバはさりげなくイリコとボーイの間に立つ。
「なんやイケメン捕まえて。知り合い?」
「あ、いや、えと……」
「……テメェ、さっきのバケツ使いか」
さっきまでイリコを睨んでいたボーイは、低い声でそう言いながら、今度はマサバを睨む。
マサバはちらっと彼の様子を横目でうかがった。
(……こいつ、さっきの)
先ほどのバトルでスプラチャージャーを使っていたボーイだと、すぐに思い出す。
ランクはそこまで高くないが、恐ろしいほど精密な射撃をするチャージャー使いだった。ウデマエは恐らく、S以上だろう。
名前は、確か……。
「このクソザコもみじ使いは知り合いか?」
「……おれのフレンドやけど」
マサバは眼鏡の奥で軽く目を細めながら、少しだけ笑みを引きつらせる。
「君は確か、ええと……クロトガくん、やったっけ。なんや穏やかないねえ。イリコちゃんが君に何かしたんか?」
マサバに名前を呼ばれ、クロトガは気に入らないと言いたげに眉根を寄せる。
「聞いてんのはオレだ、クソザコイカ野郎」
クロトガは威圧するようにマサバを睨み付ける。
「ろくにインクも当てられねえようなウデマエで、オレに口を聞くんじゃねえ」
「おおー、言いよる言いよる……」
マサバが軽い口調で受け流していると、後ろから、ざり、と、強く砂を踏む音がした。
マサバは後ろを振り返りもせずに、「……セイゴ」と、後ろにいるであろう幼なじみを窘める。
「いいから下がってろ。イリコちゃんとハチコー連れてな」
「…………」
「セイゴ」
「……ちっ」
二回目の呼びかけで、ようやくセイゴはマサバの指示に従った―――正確には、従おうとした。
イリコが後ろに、下がらなかったのである。
「……イリコサン?」
ハチが心配そうに呼びかけても、イリコはクロトガのことを、じっと見つめたままだった。
「テメェらみてぇなザコに構ってる暇はねぇんだよ」
クロトガはうんざりしたようにそう言ってから、イリコを指さして、マサバに向かって言った。
「そこのアホ女に言っとけ。『フレンド申請』なんて寝言ほざく前に、ウデマエ磨いて出直してこいってな」
「……イリコちゃんが?君に?」
マサバが怪訝そうに聞き返した時だった。何か平たいものを踏みつけた感触がして、マサバはとっさに足をどける。
―――破かれた、カードの破片だった。
イリコのフレコカードだということは、すぐにわかった。さっきみんなで一緒にデザインを選んで、今か今かと話をしながら、印刷の出来上がりを待ちわびていたのだから。
それが破かれて、地面に落ちている、ということは。
(……なるほど)
状況が少しずつ飲み込めてきた。さっきからイリコが、戸惑ったような表情をしている理由も。
マサバはふっと息を吐いて、眼鏡を押し上げる。
「……何が気にいらなかったのか知らんけどな」
マサバはあくまでも冷静な口調で言いながら、目の前の少年を見つめ返した。
「初対面で暴言吐いて、喧嘩売らなきゃ気が済まん理由でもあったんか?この子が何したっていうんや」
「寝言ほざいてんじゃねーぞザコヒッセン」
クロトガはあくまでも高圧的な態度を崩さずに、マサバを見下す。一歩進もうとするセイゴを、マサバは肘で押し留めた。
「テメェらがオレよりクソ弱ェイカどもだっていう以外に、理由なんかあんのか?」
クロトガはそう嘲ってから、ハチに向かって目を細めてみせる。
「……裏切り者も一人、混じってるみてーだけどな」
「…………」
ハチは何も言わずに、ただクロトガを厳しい瞳で見つめた。
「オレはイカどもが大っ嫌いなんだよ」
クロトガは赤い瞳でぎろりとマサバたちを見渡して、そう吐き捨てる。
「やれナイスだやれカモンだ、ノーテンキなツラぶら下げてスポーツごっこではしゃぎやがって……くっだらねえ」
クロトガの赤い瞳が、再びイリコを睨んだ。
「くだらねーことしかできねえから、こんな目に遭うんだよ」
そう言って、クロトガは足を上げ、破られたカードを―――恐らくは彼が破ったカードを、踏みつけ、踏みにじった。
わかりやすい侮辱の表現に、マサバが抗議の声を上げかけた、そのときだった。
「……じゃあ、」
イリコが、静かに口を開く。
「どうして君は、ナワバリバトルしてるの?」
「……あ?」
マサバは思わずイリコを振り返る。
イリコは驚くほどに冷静だった。さっきまで悔しそうな顔をしていた少女とは、思えないくらいに。
「みんなイカしたイカになりたくて、バトルが好きで、楽しくて、だからやってるんだと思ってた」
イリコはそう言って、不思議そうにクロトガに訊ねる。
「君は、何でバトルしてるの?」
「……テメェには関係ねえだろ、クソザコもみじ」
クロトガの口調に苛立ちが混じる。マサバはイリコの腕を引いて下がらせようとしたが、むしろ彼女は前に進み出た。
「そのザコもみじってやめて」
イリコは眉をしかめて、口調を強めた。
「私の名前はイリコ。もみじシューターを悪く言わないで」
「テメェの名前なんざどうだっていい」
クロトガは苛立ちを隠さずに言い切った。
「オレはテメェみてえにノンキなツラで『タノシイカラ』バトルしてるとかほざくやつが、いちばん大っ嫌いなんだよ」
「みんな楽しくバトルしてることの、何が悪いの?」
「それがクダラネェって言ってんだろが!」
イリコの問いかけに、クロトガが沸騰する。
「くだらなくなんかない!!」
イリコが負けじと言い返すと、クロトガの瞳が危険な色にぎらついた。
「イリコちゃん!やめろって!」
マサバは耐えきれずイリコを押し留めようとする。だが、イリコは一歩も引かなかった。
「みんないつだって真剣にやってる!!真面目にやるからバトルは楽しいし、楽しくないバトルに意味なんてないじゃない!!」
「オトモダチとナカヨシコヨシでタノシイバトルなんてほざいてるやつに、『バトル』の何が分かるってんだよ!!!」
クロトガはイリコに向かって怒鳴り散らした。
「チャージャーに向かって突っ込んでくるようなバカがッ!!テメェが何言っても説得力ネェんだよ!!よりによってもみじシューターとかいうクソダセェブキで向かってきやがって、オレのこと舐めて……」
「もみじシューターはダサいブキなんかじゃないッッッ!!!!!」
イリコは、これまでで一番大きな声で怒鳴り返した。
途中で遮られたクロトガが、驚いて目を丸くする。
「私が弱いのは認める!!ウデマエだって大したことないし、ランクだってまだ低い!!君が言うように、立ち回りだってまだ全然なってない!!でも、君のことをバカにしたつもりなんか全然なかった!!」
「……テメェ」
「私は、君のウデマエを凄いと思ったの!!」
イリコにそう言われ、クロトガが言葉を失う。
二人のやりとりを見守っていたマサバたちも、何も言えずにいた。
「……だから、もう一度戦いたくて、あなたと話をしてみたかった」
息を整えながら、イリコは言った。
「でも……嫌がるあなたに、無理矢理話しかけようとしたのは、本当にごめんなさい。それはちゃんと、謝ります」
そう言って、イリコは頭を下げる。
クロトガは呆気に取られた表情で、何も言えずにイリコを見つめていた。
「……ただ、」
イリコはおもむろに顔を上げるなり、きっとクロトガを睨む。
「私のフレンドや、ブキについて悪く言われたのは、別の話だと思う」
「……は?」
「マサバさんたちと、もみじシューターには、ちゃんと謝って!!」
そう言い出したイリコに、クロトガは、しばらく呆然としてから―――
「……ザコが、」
―――イリコの胸ぐらを、掴んだ。
「俺に、命令するな!!!」
「イリコ!!!」
マサバがそれを止めようとした時だった。
ハチがマサバの首根っこを掴み、強引に引き戻す。
「ハチ!!何すんだよ!!」
マサバの抗議も聞かずに、ハチは固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
「バトルをスポーツだなんだのたまって、オトモダチゴッコでしか楽しめねえやつが、何が『真剣』だ!!もう一度戦いたいだ!!笑わせやがる!!!」
クロトガはイリコを揺さぶりながら、激しい口調で叫んだ。
「オレからキルもとれねえくらいにクソ弱ぇくせに!!仲間の足手まといにしかなれねぇザコがッ、いきがってんじゃねえぞ!!」
「……っ」
「なんで!!テメェらみたいなイカなんかに……っ!!」
クロトガは一瞬―――ほんの一瞬、苦しそうに呻いてから、イリコを乱暴に突き放す。
「……クソッ!!」
「イリコちゃん!!」
「イリコサン!!」
地面に投げ捨てられるようにして倒れたイリコに、マサバとハチが急いで駆け寄る。
イリコは一人で体を起こしながら、それでもなお、真っ直ぐクロトガに視線を向けていた。
「二度とオレに、そのツラ見せんな!!!」
クロトガは止めと言わんばかりに吐き捨てると、さっさと踵を返してしまう。
「……み、」
イリコはその背中に向かって、叫んだ。
「見返してやるから!!!」
一瞬、クロトガが足を止める。
「君のこと、絶対、見返してやるから!!!!!」
「…………」
クロトガは、返事をしなかった。
返事をしないまま、彼はどこかへと立ち去って行った。
「……イリコ、サン」
「…………」
「はい、散った散ったー」
いつの間にか集まってきていたギャラリーたちを、セイゴが蹴散らしていく。整った容姿の美少女にしか見えないセイゴが、不機嫌極まりない表情かつドスの効いた低音で脅していく様は、一種異様な光景だった。
「見せもんじゃねーぞテメェら、さっさとどっか行かねえとシャケどもの口に放り込むぞ。それから動画とかなんとかSNSに上げたやついたら、アカウントぶっ潰すからな」
「……セイゴ」
大慌てのギャラリーたちがいなくなったところで、マサバは恐る恐る、セイゴに声をかけた。
「何ですか?」
敬語。と、いうことは、一番怒っている時の口調だ。
セイゴは怒りを取り繕おうともせずに、マサバを睨む。
「俺は大変腹を立てているので、それを踏まえてお願いしますね」
「後で、ちゃんと聞くから」
マサバは重苦しい声でそう言って、イリコの方を示す。
「今は、抑えてやってくれないか」
「……、……」
セイゴは黙って、それ以上何も言わなかった。
「…………」
イリコは震える手で、破れたカードを拾い集めていた。それを見て、ハチが慌てて手伝おうとする。
だが、イリコは左右に首を振って、一人でカードの破片を拾い切った。拾い集めた破片を握りしめて、うずくまったまま、震える声で、彼女は言った。
「……ごめんなさい……」
イリコの肩が小さく震える。
「迷惑、かけちゃった……」
「ええよ」
マサバはすぐに駆け寄った。出来るだけ明るい口調になるよう心がけながら、マサバは何とか笑おうとする。
「イリコちゃんが無事で良かったわ。だからもう……」
「……ごめんなさい……」
けれど、イリコは謝るのを止めなかった。
「私……私、彼の言う通り、足手まといだし……弱いくせに、口ばっかりで……」
彼女の声が震えるのを聞いて、マサバは言葉に詰まってしまう。
「私のせいで……私が余計なこと言ったから、マサバさんたちまで悪く言われて……私……でも……」
「い、イリコちゃん……」
イリコはしゃくりあげながら、また繰り返す。
「……ごめんなさい……」
「…………」
ハチは、黙ってイリコの背中をさすっていた。
「……誰も怒ってないよ」
そう言ったのは、セイゴだった。
先ほどの激怒を何とか堪えた様子で、彼はいつもの調子を装って、イリコに言った。
「誰もイリコちゃんには怒ってない。だから、大丈夫だって……」
「……でも……」
「もうちょっと、静かなところに行ってさ。そこで落ち着こうぜ。な、そうしよ?」
「…………」
イリコはうつむいたまま、うなずいた。彼女はしばらく、泣き止みそうになかった。
ハコフグ倉庫の一角をばしゃばしゃと塗りたくりながら、マサバは一人で悩んでいた。
別に戦況は悪くない。それどころか、さっきからセイゴがばしばし敵を倒してくれているので、マサバはチョーシ良く塗れているくらいである。
彼が気にしているのは、今目の前のバトルのことではなく、イリコのことだった。
「……すまん二人とも」
マサバは少し悩んでから、インカムで二人に声をかけた。
「おれもこれ終わったらちょっと抜けていいか?」
『イリコちゃん?』
セイゴがすぐに言い当ててきた。長い付き合いなだけあって、こういう時の意思疎通はやたらと早い。
「うん……なんか、さっきから様子おかしい気ぃしてな」
『いいよ。それなら俺も抜けるわ』
セイゴはあっさりとそう言った。
『ハチはどうする?』
『ボクもそうシマス』
今は敵チームにいるハチもそう言ってくれて、マサバはほっとする。
「ありがとな」
『いいってことよー』
バシュバシュとスライドを決めながら、セイゴは軽い口調で答えた。
『なんかチョーシ悪そうっていうか、ボーッとしてたもんな』
「普段あんなことないんやけどね」
いつものイリコの活発な様子を思い出しながら、マサバはインクアーマーを発動させる。
「いつもならもっとバシバシ塗ってくれてるんやけど……」
『アオがいないからとか?』
「そんなことでサボる子ちゃうよ」
『……ボクのせいかもしれマセン』
「え?ハチコーが?」
ハチの言葉に、マサバは驚いてしまう。
「なしてまた。普通に仲良さそうやったやん」
『ちょっと……気にさせルようなことを言ってシマッテ』
ハチは申し訳なさそうな声で言った。
『謝ろうとシタラ、マサバサンに邪魔さレテ……』
「えっ、それはごめ……うぉっとぉ!!」
マサバの正面から思いっきりインクを飛ばしてきたのは、ハチのスプラローラーだった。インクアーマーを剥がされ、マサバは慌てて逃げようとする。
「ハチコー!!待って待って待って!!」
『ナノデ、折りを見テ謝ろうと思っテタんデスガ』
ハチはそう言いながら、再び思い切りローラーを振りかぶる―――縦振りだ!!
「ぎゃっ!!」
見事に仕留められてしまい、マサバはインクの中に沈み込む。
『ナイスハチぃ~』
「お前今はおれの味方やろが!!」
『イリコサン、心配デスネ』
ハチは何事もなかったかのように、心配そうに言う。
「……そうやね」
リスポーン地点に戻りながら、マサバは小さくうなずいた。
***
ロビーを出て、すぐにマサバたちはイリコを見つけた。
彼女は一人ではなく、見慣れないボーイと話をしているようだった。
「あ、いたいた」
「お話中、デショウカ」
「……いや」
あれは―――良くない雰囲気だ。
目つきの悪いボーイに睨まれているイリコを見て、マサバはとっさに走り出した。
「い、イリコちゃーん!!」
できるだけ明るく、何でもない風を装って。
にこにこと愛想笑いしながらマサバが近づいていくと、イリコがすぐに振り返った。
「あ、ま、マサバさん」
困惑した表情を浮かべていたイリコが、マサバの顔を見て、ほっとしたように息を吐く。声をかけて正解だったと思いながら、マサバはさりげなくイリコとボーイの間に立つ。
「なんやイケメン捕まえて。知り合い?」
「あ、いや、えと……」
「……テメェ、さっきのバケツ使いか」
さっきまでイリコを睨んでいたボーイは、低い声でそう言いながら、今度はマサバを睨む。
マサバはちらっと彼の様子を横目でうかがった。
(……こいつ、さっきの)
先ほどのバトルでスプラチャージャーを使っていたボーイだと、すぐに思い出す。
ランクはそこまで高くないが、恐ろしいほど精密な射撃をするチャージャー使いだった。ウデマエは恐らく、S以上だろう。
名前は、確か……。
「このクソザコもみじ使いは知り合いか?」
「……おれのフレンドやけど」
マサバは眼鏡の奥で軽く目を細めながら、少しだけ笑みを引きつらせる。
「君は確か、ええと……クロトガくん、やったっけ。なんや穏やかないねえ。イリコちゃんが君に何かしたんか?」
マサバに名前を呼ばれ、クロトガは気に入らないと言いたげに眉根を寄せる。
「聞いてんのはオレだ、クソザコイカ野郎」
クロトガは威圧するようにマサバを睨み付ける。
「ろくにインクも当てられねえようなウデマエで、オレに口を聞くんじゃねえ」
「おおー、言いよる言いよる……」
マサバが軽い口調で受け流していると、後ろから、ざり、と、強く砂を踏む音がした。
マサバは後ろを振り返りもせずに、「……セイゴ」と、後ろにいるであろう幼なじみを窘める。
「いいから下がってろ。イリコちゃんとハチコー連れてな」
「…………」
「セイゴ」
「……ちっ」
二回目の呼びかけで、ようやくセイゴはマサバの指示に従った―――正確には、従おうとした。
イリコが後ろに、下がらなかったのである。
「……イリコサン?」
ハチが心配そうに呼びかけても、イリコはクロトガのことを、じっと見つめたままだった。
「テメェらみてぇなザコに構ってる暇はねぇんだよ」
クロトガはうんざりしたようにそう言ってから、イリコを指さして、マサバに向かって言った。
「そこのアホ女に言っとけ。『フレンド申請』なんて寝言ほざく前に、ウデマエ磨いて出直してこいってな」
「……イリコちゃんが?君に?」
マサバが怪訝そうに聞き返した時だった。何か平たいものを踏みつけた感触がして、マサバはとっさに足をどける。
―――破かれた、カードの破片だった。
イリコのフレコカードだということは、すぐにわかった。さっきみんなで一緒にデザインを選んで、今か今かと話をしながら、印刷の出来上がりを待ちわびていたのだから。
それが破かれて、地面に落ちている、ということは。
(……なるほど)
状況が少しずつ飲み込めてきた。さっきからイリコが、戸惑ったような表情をしている理由も。
マサバはふっと息を吐いて、眼鏡を押し上げる。
「……何が気にいらなかったのか知らんけどな」
マサバはあくまでも冷静な口調で言いながら、目の前の少年を見つめ返した。
「初対面で暴言吐いて、喧嘩売らなきゃ気が済まん理由でもあったんか?この子が何したっていうんや」
「寝言ほざいてんじゃねーぞザコヒッセン」
クロトガはあくまでも高圧的な態度を崩さずに、マサバを見下す。一歩進もうとするセイゴを、マサバは肘で押し留めた。
「テメェらがオレよりクソ弱ェイカどもだっていう以外に、理由なんかあんのか?」
クロトガはそう嘲ってから、ハチに向かって目を細めてみせる。
「……裏切り者も一人、混じってるみてーだけどな」
「…………」
ハチは何も言わずに、ただクロトガを厳しい瞳で見つめた。
「オレはイカどもが大っ嫌いなんだよ」
クロトガは赤い瞳でぎろりとマサバたちを見渡して、そう吐き捨てる。
「やれナイスだやれカモンだ、ノーテンキなツラぶら下げてスポーツごっこではしゃぎやがって……くっだらねえ」
クロトガの赤い瞳が、再びイリコを睨んだ。
「くだらねーことしかできねえから、こんな目に遭うんだよ」
そう言って、クロトガは足を上げ、破られたカードを―――恐らくは彼が破ったカードを、踏みつけ、踏みにじった。
わかりやすい侮辱の表現に、マサバが抗議の声を上げかけた、そのときだった。
「……じゃあ、」
イリコが、静かに口を開く。
「どうして君は、ナワバリバトルしてるの?」
「……あ?」
マサバは思わずイリコを振り返る。
イリコは驚くほどに冷静だった。さっきまで悔しそうな顔をしていた少女とは、思えないくらいに。
「みんなイカしたイカになりたくて、バトルが好きで、楽しくて、だからやってるんだと思ってた」
イリコはそう言って、不思議そうにクロトガに訊ねる。
「君は、何でバトルしてるの?」
「……テメェには関係ねえだろ、クソザコもみじ」
クロトガの口調に苛立ちが混じる。マサバはイリコの腕を引いて下がらせようとしたが、むしろ彼女は前に進み出た。
「そのザコもみじってやめて」
イリコは眉をしかめて、口調を強めた。
「私の名前はイリコ。もみじシューターを悪く言わないで」
「テメェの名前なんざどうだっていい」
クロトガは苛立ちを隠さずに言い切った。
「オレはテメェみてえにノンキなツラで『タノシイカラ』バトルしてるとかほざくやつが、いちばん大っ嫌いなんだよ」
「みんな楽しくバトルしてることの、何が悪いの?」
「それがクダラネェって言ってんだろが!」
イリコの問いかけに、クロトガが沸騰する。
「くだらなくなんかない!!」
イリコが負けじと言い返すと、クロトガの瞳が危険な色にぎらついた。
「イリコちゃん!やめろって!」
マサバは耐えきれずイリコを押し留めようとする。だが、イリコは一歩も引かなかった。
「みんないつだって真剣にやってる!!真面目にやるからバトルは楽しいし、楽しくないバトルに意味なんてないじゃない!!」
「オトモダチとナカヨシコヨシでタノシイバトルなんてほざいてるやつに、『バトル』の何が分かるってんだよ!!!」
クロトガはイリコに向かって怒鳴り散らした。
「チャージャーに向かって突っ込んでくるようなバカがッ!!テメェが何言っても説得力ネェんだよ!!よりによってもみじシューターとかいうクソダセェブキで向かってきやがって、オレのこと舐めて……」
「もみじシューターはダサいブキなんかじゃないッッッ!!!!!」
イリコは、これまでで一番大きな声で怒鳴り返した。
途中で遮られたクロトガが、驚いて目を丸くする。
「私が弱いのは認める!!ウデマエだって大したことないし、ランクだってまだ低い!!君が言うように、立ち回りだってまだ全然なってない!!でも、君のことをバカにしたつもりなんか全然なかった!!」
「……テメェ」
「私は、君のウデマエを凄いと思ったの!!」
イリコにそう言われ、クロトガが言葉を失う。
二人のやりとりを見守っていたマサバたちも、何も言えずにいた。
「……だから、もう一度戦いたくて、あなたと話をしてみたかった」
息を整えながら、イリコは言った。
「でも……嫌がるあなたに、無理矢理話しかけようとしたのは、本当にごめんなさい。それはちゃんと、謝ります」
そう言って、イリコは頭を下げる。
クロトガは呆気に取られた表情で、何も言えずにイリコを見つめていた。
「……ただ、」
イリコはおもむろに顔を上げるなり、きっとクロトガを睨む。
「私のフレンドや、ブキについて悪く言われたのは、別の話だと思う」
「……は?」
「マサバさんたちと、もみじシューターには、ちゃんと謝って!!」
そう言い出したイリコに、クロトガは、しばらく呆然としてから―――
「……ザコが、」
―――イリコの胸ぐらを、掴んだ。
「俺に、命令するな!!!」
「イリコ!!!」
マサバがそれを止めようとした時だった。
ハチがマサバの首根っこを掴み、強引に引き戻す。
「ハチ!!何すんだよ!!」
マサバの抗議も聞かずに、ハチは固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
「バトルをスポーツだなんだのたまって、オトモダチゴッコでしか楽しめねえやつが、何が『真剣』だ!!もう一度戦いたいだ!!笑わせやがる!!!」
クロトガはイリコを揺さぶりながら、激しい口調で叫んだ。
「オレからキルもとれねえくらいにクソ弱ぇくせに!!仲間の足手まといにしかなれねぇザコがッ、いきがってんじゃねえぞ!!」
「……っ」
「なんで!!テメェらみたいなイカなんかに……っ!!」
クロトガは一瞬―――ほんの一瞬、苦しそうに呻いてから、イリコを乱暴に突き放す。
「……クソッ!!」
「イリコちゃん!!」
「イリコサン!!」
地面に投げ捨てられるようにして倒れたイリコに、マサバとハチが急いで駆け寄る。
イリコは一人で体を起こしながら、それでもなお、真っ直ぐクロトガに視線を向けていた。
「二度とオレに、そのツラ見せんな!!!」
クロトガは止めと言わんばかりに吐き捨てると、さっさと踵を返してしまう。
「……み、」
イリコはその背中に向かって、叫んだ。
「見返してやるから!!!」
一瞬、クロトガが足を止める。
「君のこと、絶対、見返してやるから!!!!!」
「…………」
クロトガは、返事をしなかった。
返事をしないまま、彼はどこかへと立ち去って行った。
「……イリコ、サン」
「…………」
「はい、散った散ったー」
いつの間にか集まってきていたギャラリーたちを、セイゴが蹴散らしていく。整った容姿の美少女にしか見えないセイゴが、不機嫌極まりない表情かつドスの効いた低音で脅していく様は、一種異様な光景だった。
「見せもんじゃねーぞテメェら、さっさとどっか行かねえとシャケどもの口に放り込むぞ。それから動画とかなんとかSNSに上げたやついたら、アカウントぶっ潰すからな」
「……セイゴ」
大慌てのギャラリーたちがいなくなったところで、マサバは恐る恐る、セイゴに声をかけた。
「何ですか?」
敬語。と、いうことは、一番怒っている時の口調だ。
セイゴは怒りを取り繕おうともせずに、マサバを睨む。
「俺は大変腹を立てているので、それを踏まえてお願いしますね」
「後で、ちゃんと聞くから」
マサバは重苦しい声でそう言って、イリコの方を示す。
「今は、抑えてやってくれないか」
「……、……」
セイゴは黙って、それ以上何も言わなかった。
「…………」
イリコは震える手で、破れたカードを拾い集めていた。それを見て、ハチが慌てて手伝おうとする。
だが、イリコは左右に首を振って、一人でカードの破片を拾い切った。拾い集めた破片を握りしめて、うずくまったまま、震える声で、彼女は言った。
「……ごめんなさい……」
イリコの肩が小さく震える。
「迷惑、かけちゃった……」
「ええよ」
マサバはすぐに駆け寄った。出来るだけ明るい口調になるよう心がけながら、マサバは何とか笑おうとする。
「イリコちゃんが無事で良かったわ。だからもう……」
「……ごめんなさい……」
けれど、イリコは謝るのを止めなかった。
「私……私、彼の言う通り、足手まといだし……弱いくせに、口ばっかりで……」
彼女の声が震えるのを聞いて、マサバは言葉に詰まってしまう。
「私のせいで……私が余計なこと言ったから、マサバさんたちまで悪く言われて……私……でも……」
「い、イリコちゃん……」
イリコはしゃくりあげながら、また繰り返す。
「……ごめんなさい……」
「…………」
ハチは、黙ってイリコの背中をさすっていた。
「……誰も怒ってないよ」
そう言ったのは、セイゴだった。
先ほどの激怒を何とか堪えた様子で、彼はいつもの調子を装って、イリコに言った。
「誰もイリコちゃんには怒ってない。だから、大丈夫だって……」
「……でも……」
「もうちょっと、静かなところに行ってさ。そこで落ち着こうぜ。な、そうしよ?」
「…………」
イリコはうつむいたまま、うなずいた。彼女はしばらく、泣き止みそうになかった。