イリコとブキ
「射程をよく見る!」
「はい!」
「進軍は味方に合わせて!敵の動きも見逃さない!」
「ハイッ!」
「インク残量!!」
「ハイィッ!!」
ステージという名の戦場に、イリコに向けたアオの叱咤が、びしばしと飛んでいく。
イリコは必死でそれに応えようとしながら、NーZAP85を抱え、インクの上を駆けずり回っていた。
たまたま同じチームになっている見知らぬ二人のイカガールは、何事かと言いたげな表情をしていたが、結局バトル終了まで、何も言わなかった。
そうこうしているうちに3分が経過し、試合終了のホイッスルが鳴り響く。
出た結果は―――
「……か、勝ったぁ……」
なんだかんだと1000ptは塗っていたらしい。0キルだけれど。
アオはといえば、イリコと同じぐらい塗りながら、10キル以上もとっていた。
「イリコ」
涼しい顔のまま、アオはイリコに声をかけてくる。
「反省会よ」
「はいっ!」
イリコは慌てて返事をしながら、ロビーを出て行くアオを追いかけた。
去り際に、ついさっきまで同じチームだったイカガールの二人を見かけ、イリコはとっさに、
「あのっ、ありがとうございました!」
イカガール二人はイリコに気がつくと、にぱっと笑って手を振ってくれた。
「こっちこそありがと~!」「ナイス黒ザップ!インクアーマーありがとね!」
―――いいひとたちでよかった。
イリコは嬉しくなりながら、ようやくアオに追いついた。
「いい部屋だったわね」
先ほどの様子を見ていたらしいアオが、イリコを振り返りながら言った。
「最近は、マナーの悪いひとたちも多いみたいですもんね」
イリコはアオと並んで、ロビー近くのベンチに座る。
「知らないひととも、すぐにチーム組んでバトルできるのは楽しいんですけど……」
「フレンドと合流すると、なかなかすぐ抜けるわけにもいかないものね」
「そこは、フレンドさんと相談すればいいのでは?」
イリコが不思議そうに言うと、アオははっとしたような表情をして、
「……言われてみればそうね」
「……あはは」
アオは見た目はクールだけれど、時々こんな感じでちょっととぼけたことを言うことがある。
根は素直で可愛いひとなんだよなあ、と、イリコは内心ほっこりした。
「それで、イリコ」
アオは不意に真面目な顔をして言った。
「今回の反省点は?」
……ほっこりしている場合ではなかった。
バトルに関しては、とにかく彼女は厳しいのだ。
「え、えと、」
突然始まった反省会に姿勢を正しながら、イリコは先ほどまでの自分の失態を思い返す。
怒られているわけではないとわかっているが、やっぱりちょっと緊張する。
「敵を見てなくて、いっぱいキルされました……」
「他には?」
「インク切れ……」
「ボムも使いなさい」
「あっそうだ!」
「インクアーマーの使いどころは良かったわ」
イリコが一通り反省点をあげたあと、アオはそう言って褒めてくれた。
「味方が揃っているときに使うという意識のうえで、戦線を押し上げるタイミングも意識できるようになるといいわね」
「は、はい!」
「相手に前線を押さえられているときも、打開のきっかけに使えるわ」
アオはイカフォンを取り出すと、『イカリング2』を起動して、バトル履歴を見せてくれた。
「さっきのバトルなら、スパッタリーとスシコラが睨みを利かせていたけれど、あなたのインクアーマーで若干強引に突破できたわ」
「アオさんの2キルが凄かったんだと思いますが……」
スパッタリーの硬直後を狙って1キル、スシコラの間合いを読み切って2キル。
一瞬の攻防のあと、「カモン!」と味方に向かって合図を出すアオの姿は、惚れ惚れするほどイカしていた。味方のイカガールたちも、ナイスを連打していたくらいだ。
「あれくらい出来なきゃ、『復活ペナルティ』をつけている意味がないわ」
アオはさらっとそう言ってのけた。
アオの愛用している『復活ペナルティアップ』は、自分と敵が倒された時の復活時間を延長するという、ハイリスク・ハイリターンな効果のギアパワーだ。
通常は倒されにくい長距離ブキを使用する上級者が身につけるものだが、アオは最前線で戦う近距離ブキの使用者でありながら、これを装備している。
それがどれくらい凄いことかなんて、やっとランク10を超えたイリコにだってわかる。
アオは相手に倒されず相手を倒し切り、なおかつ慢心せずに場を維持する。味方へのフォローも完璧にこなしながら立ち回るその姿に、イリコは何度見とれたことかわからない。
……そのたびに、アオからびしばし指摘を食らっているわけでもあるのだが。
しばらく反省会をしたあと、アオが時計を見て、顔をあげた。
「そういえば、お昼ご飯がまだだったわね」
「あ、もうそんな時間でしたか」
言われてみれば、確かにもう正午を過ぎている。
急にお腹がすいてきて、イリコは思わずみぞおちの辺りを押さえた。
「……アオさん。お腹鳴っちゃう前に、何か食べにいきません?」
「そうしましょう」
アオは小さく笑って、ベンチから降りた。
あれからイリコは、毎日のようにアオにナワバリバトルの基礎を叩き込んでもらっていた。
レギュラーマッチの仕様上、同じマッチングで参加しても、アオと必ず味方になれるとは限らない。
けれど敵としてマッチングしたときにでさえ、彼女はお手本のように見事な立ち回りを見せてくれた。
……イリコに向かって、インクをぶちまける形で、だが。
「あなたには手加減しないわ」
イリコにバトルを教えると約束したあと、アオはそう言った。
「勘違いしないで。手加減をすることは、相手に失礼だと思っているだけよ」
それから、彼女は悪戯っぽく小さく微笑んで、
「……第一、あなた相手に油断していたら、あっという間に塗られてしまうもの」
アオほどの実力者にそう言ってもらえることは、イリコにとってとても嬉しかった。
彼女のウデマエにはまだまだ追いつけそうにはなかったけれど、早く肩を並べて戦えるようになりたいと、イリコは思っていた。
「黒ザップには慣れた?」
イリコお気に入りのファストフード店でお昼ご飯を食べながら、二人はまたバトルの話をしていた。
「はいっ!勝ち越しも達成しました!」
そう言って、イリコはいそいそとイカフォンの画面をアオに見せる。
戦績を記録してくれるアプリ、『インクリング2』には、確かに勝利数の方が多く表示されている。
アオは頬張っていたハンバーガーを飲み込むと、まるで自分のことのように嬉しそうな笑顔を見せた。
「よく頑張ったわね。まだまだ反省する点は多いとはいえ、あなたはよく頑張っているわ」
「えへへ……」
アオはこうやって、褒めてくれる時はストレートに褒めてくれる。「教え方が上手ですね」と言ったら、「そうかしら」と、本人は不思議がっていたけれど。
「アオさんが言ってた、『黒ザップは基礎を覚えるのにいい』っていう話、使っているうちに、何となくわかったような気がします」
イリコは傍らにおいたブキケースを見やりながら言った。
今日のバトルを始める前に、アオはイリコに黒ザップ―――正式名称「NーZAP85」を持たせ、自分も同じブキを持った。
聞けば、彼女も以前はこのブキを愛用していたらしい。
「黒ザップはね、何でもできるブキよ」
敵をキルすることも、塗ることも、味方のサポートもできると、アオはそう言った。
それだけ聞くなら、なるほど、確かに万能なブキに思える。
感心するイリコに対し、「でもね」と、アオは続けて話した。
「それはつまり、上手く扱わなければ『器用貧乏』に落ち込んでしまうということに他ならないの。戦況に応じてやることを見極めなければ、この性能は、途端に物足りないものになってしまう」
そう言いながらも、アオは黒ザップの砲身を。大切そうに撫でた。
「逆に言えば、状況に応じて臨機応変に立ち回ることさえ出来るなら、柔軟性においてこのブキの右に出るものはない……と、わたしは思っているわ」
あくまでも個人の意見だから参考にし過ぎないように、とアオは付け足してから、彼女は真面目な顔で続けた。
「例えば、スペシャルのインクアーマー。これは最後の10秒でゲージが溜まっても、自力で一発逆転を狙うのは難しい。でも、中盤で味方が揃っているときに戦線を押し上げるのには向いている」
イリコはメモをとりながらうなずく。
「ブキにはそれぞれに合った役割や立ち回りがあるけれど、黒ザップはナワバリバトルの基礎……さっき言った、『状況に応じて臨機応変に立ち回る』ことを意識できる、良いブキなの」
過去に黒ザップを使っていたというだけあって、アオの言葉には説得力がある。
イリコが大きくうなずくと、アオもうなずき返して、微笑んだ。
「まずはこのブキで勝ち越せるようになること。それが、今日の目標ね」
……そう言っていたのが、今日の午前中のこと。
アオの言う通り、まだまだ反省しなければいけないことは多いけれど、目標が達成できたのは嬉しかった。
「このあとはどうしましょう?」
口についたケチャップを拭き取りながら、イリコはアオに訊ねた。
「そうね……」
と、アオがポテトをつつきながら考える。
「もう少し、黒ザップでレギュラーマッチに行ってみる?目標は達成したし、別のブキを持ち替えてみるのもいいと思うけれど……」
「んん、そうですね……」
他のブキを試したいな、と思っている気持ちも、確かにあるのだが。
ちらっともみじシューターのことが頭をよぎるが、今日はいったん休ませてあげようと、イリコは思った。
「シューター以外も使ってみたいなって思ってるんですけど……」
アオにそう言ってみると、イリコはちょっと考えるようにしてから、
「……モノによっては、教えられるかもしれないわ」
「いいんですか!」
「あくまでもブキによるわよ」
ぱっと顔を輝かせるイリコに対し、アオは念押しするように言った。
「特に、ローラーだけは勘弁してちょうだい。あれだけはどうしても……扱えないのよ」
苦い顔をするアオに、イリコは思わずぽかんとしてしまう。
「……アオさんでも、苦手なブキとかあるんですね……」
「わたしだって、万能なわけじゃないわ」
アオは少し恥ずかしそうにしながら、ジュースを一口飲んだ。
「持ちブキを持たないというスタイルのプレイヤーもいるけれど、得意も不得意もあってしかるべきものだと、わたしは思うわ。わたしはエイムの取りやすいシューターが得意だったから、最終的にシャープマーカーネオに行き着いたというだけ」
そう言ってから、アオは小さく微笑んでみせる。
「……あなたにも、相棒になるブキが見つかるといいわね」
穏やかな声でそう言われ、イリコは思わずにっこりしてしまう。
アオがシャープマーカーネオを大事にしているのは知っている。かつての相棒である黒ザップも、とても大切にされているようだったし。
自分もいつか、そんなブキに出会えたらいいな、と、イリコは思った。
「そういえば、どのブキが気になるとかはあるの?」
「ええと……」
イリコはそう言われて、カンブリアームズからカタログを貰ってきていたことを思い出す。
「これ、今の私のランクで買えるブキなんですけど」
カタログには事前に丸でチェックしてきた。アオにそれを見せながら、イリコは細長いチャージャーブキを指す。
「スプラチャージャーは一回触ってみたいなと思ってて……」
「いいと思うわ」
アオは小さくうなずいた。
「チャージャー系は扱いが難しいから、他のブキでクセが付く前に慣れておいたほうがいいわね」
「あとは……」
イリコは丸をつけたブキのなかから、お目当てのものを探し出す。
「あっ、これ!」
イリコが指さしたのは、緑色のバケツだった。
「ヒッセンっていうブキなんですけど、これ気になってたんです。アオさん、使ったことあり……ますか……」
―――と。
正面からとてつもない気配を感じて、イリコは思わず固まる。
恐る恐る顔を上げると……先ほどまで穏やかだったアオの表情が、見たことのないほどに険しくなっている。
イリコは、思わず固まってしまった。
「……イリコ」
アオは、ごくごく静かに、けれど厳しい声音で、イリコに言った。
「今のうちに言っておくわ。ヒッセンを持ちたいなら、生半可なウデマエでわたしの前に立つことは許さない」
「ふあ……」
「――わかったわね?」
アオのブルーの瞳が、イリコを刺し貫くように向けられる。
「ふぁ……はい……」
イリコはすっかり気圧されながら、間の抜けた返事を返すことしかできなかった。
「……ごめんなさい、ちょっとお手洗いにいってくるわ」
不意にアオはそう言うと、突然席を立って、店の裏の方へと行ってしまった。
イリコはアオの背中を見送って、ぱちぱちとまばたきする。
『ヒッセン』。
このブキが、いったいどうしたというのだろう?
イリコが内心で首をかしげていると、ほどなくして、アオが戻ってきた。
「ごめんなさい……」
アオは大きく息を吐きながら、席に座り直す
「ちょっとそのブキのことになると……冷静ではいられなくて……」
「あ、いえいえ、気にしないでください……」
イリコはそう言いながらも、恐る恐る訊ねてみることにした。
「あの、ヒッセ……このブキに、なにか嫌な思い出でも……」
「ないわ」
即答だった。というか、割と食い気味の返答だった。
「ないわ。あるとすれば、良い思い出ね。わたしにとって、大切な思い出」
「お、おお……」
「いえ……」
アオはふっと視線を和らげて、言い直した。
「どちらかというと……思い入れ、かもしれないわ。そのブキには、思い入れがあるの」
「……思い入れ、ですか」
というと、アオにとっては、とてもとても大事なブキなのだろう。
緑色のバケツのブキに、どんな思い入れがあるのか……。イリコにはちょっと想像がつかなかったけれど、少なくともアオにとってはそういうものなのだと、イリコは一人で納得した。
「……ごめんなさい」
アオはこめかみを押さえながら、また小さく謝った。
「とにかく、わたしの前ではそのブキにあまり触れないでくれると助かるわ……何を語り出すかわからないから……」
アオが一体何を語り出すのか、イリコは気になって仕方なかったが、
「わ、わかりました」
と、今は戸惑い気味に返事をすることに留めておいた。
「はい!」
「進軍は味方に合わせて!敵の動きも見逃さない!」
「ハイッ!」
「インク残量!!」
「ハイィッ!!」
ステージという名の戦場に、イリコに向けたアオの叱咤が、びしばしと飛んでいく。
イリコは必死でそれに応えようとしながら、NーZAP85を抱え、インクの上を駆けずり回っていた。
たまたま同じチームになっている見知らぬ二人のイカガールは、何事かと言いたげな表情をしていたが、結局バトル終了まで、何も言わなかった。
そうこうしているうちに3分が経過し、試合終了のホイッスルが鳴り響く。
出た結果は―――
「……か、勝ったぁ……」
なんだかんだと1000ptは塗っていたらしい。0キルだけれど。
アオはといえば、イリコと同じぐらい塗りながら、10キル以上もとっていた。
「イリコ」
涼しい顔のまま、アオはイリコに声をかけてくる。
「反省会よ」
「はいっ!」
イリコは慌てて返事をしながら、ロビーを出て行くアオを追いかけた。
去り際に、ついさっきまで同じチームだったイカガールの二人を見かけ、イリコはとっさに、
「あのっ、ありがとうございました!」
イカガール二人はイリコに気がつくと、にぱっと笑って手を振ってくれた。
「こっちこそありがと~!」「ナイス黒ザップ!インクアーマーありがとね!」
―――いいひとたちでよかった。
イリコは嬉しくなりながら、ようやくアオに追いついた。
「いい部屋だったわね」
先ほどの様子を見ていたらしいアオが、イリコを振り返りながら言った。
「最近は、マナーの悪いひとたちも多いみたいですもんね」
イリコはアオと並んで、ロビー近くのベンチに座る。
「知らないひととも、すぐにチーム組んでバトルできるのは楽しいんですけど……」
「フレンドと合流すると、なかなかすぐ抜けるわけにもいかないものね」
「そこは、フレンドさんと相談すればいいのでは?」
イリコが不思議そうに言うと、アオははっとしたような表情をして、
「……言われてみればそうね」
「……あはは」
アオは見た目はクールだけれど、時々こんな感じでちょっととぼけたことを言うことがある。
根は素直で可愛いひとなんだよなあ、と、イリコは内心ほっこりした。
「それで、イリコ」
アオは不意に真面目な顔をして言った。
「今回の反省点は?」
……ほっこりしている場合ではなかった。
バトルに関しては、とにかく彼女は厳しいのだ。
「え、えと、」
突然始まった反省会に姿勢を正しながら、イリコは先ほどまでの自分の失態を思い返す。
怒られているわけではないとわかっているが、やっぱりちょっと緊張する。
「敵を見てなくて、いっぱいキルされました……」
「他には?」
「インク切れ……」
「ボムも使いなさい」
「あっそうだ!」
「インクアーマーの使いどころは良かったわ」
イリコが一通り反省点をあげたあと、アオはそう言って褒めてくれた。
「味方が揃っているときに使うという意識のうえで、戦線を押し上げるタイミングも意識できるようになるといいわね」
「は、はい!」
「相手に前線を押さえられているときも、打開のきっかけに使えるわ」
アオはイカフォンを取り出すと、『イカリング2』を起動して、バトル履歴を見せてくれた。
「さっきのバトルなら、スパッタリーとスシコラが睨みを利かせていたけれど、あなたのインクアーマーで若干強引に突破できたわ」
「アオさんの2キルが凄かったんだと思いますが……」
スパッタリーの硬直後を狙って1キル、スシコラの間合いを読み切って2キル。
一瞬の攻防のあと、「カモン!」と味方に向かって合図を出すアオの姿は、惚れ惚れするほどイカしていた。味方のイカガールたちも、ナイスを連打していたくらいだ。
「あれくらい出来なきゃ、『復活ペナルティ』をつけている意味がないわ」
アオはさらっとそう言ってのけた。
アオの愛用している『復活ペナルティアップ』は、自分と敵が倒された時の復活時間を延長するという、ハイリスク・ハイリターンな効果のギアパワーだ。
通常は倒されにくい長距離ブキを使用する上級者が身につけるものだが、アオは最前線で戦う近距離ブキの使用者でありながら、これを装備している。
それがどれくらい凄いことかなんて、やっとランク10を超えたイリコにだってわかる。
アオは相手に倒されず相手を倒し切り、なおかつ慢心せずに場を維持する。味方へのフォローも完璧にこなしながら立ち回るその姿に、イリコは何度見とれたことかわからない。
……そのたびに、アオからびしばし指摘を食らっているわけでもあるのだが。
しばらく反省会をしたあと、アオが時計を見て、顔をあげた。
「そういえば、お昼ご飯がまだだったわね」
「あ、もうそんな時間でしたか」
言われてみれば、確かにもう正午を過ぎている。
急にお腹がすいてきて、イリコは思わずみぞおちの辺りを押さえた。
「……アオさん。お腹鳴っちゃう前に、何か食べにいきません?」
「そうしましょう」
アオは小さく笑って、ベンチから降りた。
あれからイリコは、毎日のようにアオにナワバリバトルの基礎を叩き込んでもらっていた。
レギュラーマッチの仕様上、同じマッチングで参加しても、アオと必ず味方になれるとは限らない。
けれど敵としてマッチングしたときにでさえ、彼女はお手本のように見事な立ち回りを見せてくれた。
……イリコに向かって、インクをぶちまける形で、だが。
「あなたには手加減しないわ」
イリコにバトルを教えると約束したあと、アオはそう言った。
「勘違いしないで。手加減をすることは、相手に失礼だと思っているだけよ」
それから、彼女は悪戯っぽく小さく微笑んで、
「……第一、あなた相手に油断していたら、あっという間に塗られてしまうもの」
アオほどの実力者にそう言ってもらえることは、イリコにとってとても嬉しかった。
彼女のウデマエにはまだまだ追いつけそうにはなかったけれど、早く肩を並べて戦えるようになりたいと、イリコは思っていた。
「黒ザップには慣れた?」
イリコお気に入りのファストフード店でお昼ご飯を食べながら、二人はまたバトルの話をしていた。
「はいっ!勝ち越しも達成しました!」
そう言って、イリコはいそいそとイカフォンの画面をアオに見せる。
戦績を記録してくれるアプリ、『インクリング2』には、確かに勝利数の方が多く表示されている。
アオは頬張っていたハンバーガーを飲み込むと、まるで自分のことのように嬉しそうな笑顔を見せた。
「よく頑張ったわね。まだまだ反省する点は多いとはいえ、あなたはよく頑張っているわ」
「えへへ……」
アオはこうやって、褒めてくれる時はストレートに褒めてくれる。「教え方が上手ですね」と言ったら、「そうかしら」と、本人は不思議がっていたけれど。
「アオさんが言ってた、『黒ザップは基礎を覚えるのにいい』っていう話、使っているうちに、何となくわかったような気がします」
イリコは傍らにおいたブキケースを見やりながら言った。
今日のバトルを始める前に、アオはイリコに黒ザップ―――正式名称「NーZAP85」を持たせ、自分も同じブキを持った。
聞けば、彼女も以前はこのブキを愛用していたらしい。
「黒ザップはね、何でもできるブキよ」
敵をキルすることも、塗ることも、味方のサポートもできると、アオはそう言った。
それだけ聞くなら、なるほど、確かに万能なブキに思える。
感心するイリコに対し、「でもね」と、アオは続けて話した。
「それはつまり、上手く扱わなければ『器用貧乏』に落ち込んでしまうということに他ならないの。戦況に応じてやることを見極めなければ、この性能は、途端に物足りないものになってしまう」
そう言いながらも、アオは黒ザップの砲身を。大切そうに撫でた。
「逆に言えば、状況に応じて臨機応変に立ち回ることさえ出来るなら、柔軟性においてこのブキの右に出るものはない……と、わたしは思っているわ」
あくまでも個人の意見だから参考にし過ぎないように、とアオは付け足してから、彼女は真面目な顔で続けた。
「例えば、スペシャルのインクアーマー。これは最後の10秒でゲージが溜まっても、自力で一発逆転を狙うのは難しい。でも、中盤で味方が揃っているときに戦線を押し上げるのには向いている」
イリコはメモをとりながらうなずく。
「ブキにはそれぞれに合った役割や立ち回りがあるけれど、黒ザップはナワバリバトルの基礎……さっき言った、『状況に応じて臨機応変に立ち回る』ことを意識できる、良いブキなの」
過去に黒ザップを使っていたというだけあって、アオの言葉には説得力がある。
イリコが大きくうなずくと、アオもうなずき返して、微笑んだ。
「まずはこのブキで勝ち越せるようになること。それが、今日の目標ね」
……そう言っていたのが、今日の午前中のこと。
アオの言う通り、まだまだ反省しなければいけないことは多いけれど、目標が達成できたのは嬉しかった。
「このあとはどうしましょう?」
口についたケチャップを拭き取りながら、イリコはアオに訊ねた。
「そうね……」
と、アオがポテトをつつきながら考える。
「もう少し、黒ザップでレギュラーマッチに行ってみる?目標は達成したし、別のブキを持ち替えてみるのもいいと思うけれど……」
「んん、そうですね……」
他のブキを試したいな、と思っている気持ちも、確かにあるのだが。
ちらっともみじシューターのことが頭をよぎるが、今日はいったん休ませてあげようと、イリコは思った。
「シューター以外も使ってみたいなって思ってるんですけど……」
アオにそう言ってみると、イリコはちょっと考えるようにしてから、
「……モノによっては、教えられるかもしれないわ」
「いいんですか!」
「あくまでもブキによるわよ」
ぱっと顔を輝かせるイリコに対し、アオは念押しするように言った。
「特に、ローラーだけは勘弁してちょうだい。あれだけはどうしても……扱えないのよ」
苦い顔をするアオに、イリコは思わずぽかんとしてしまう。
「……アオさんでも、苦手なブキとかあるんですね……」
「わたしだって、万能なわけじゃないわ」
アオは少し恥ずかしそうにしながら、ジュースを一口飲んだ。
「持ちブキを持たないというスタイルのプレイヤーもいるけれど、得意も不得意もあってしかるべきものだと、わたしは思うわ。わたしはエイムの取りやすいシューターが得意だったから、最終的にシャープマーカーネオに行き着いたというだけ」
そう言ってから、アオは小さく微笑んでみせる。
「……あなたにも、相棒になるブキが見つかるといいわね」
穏やかな声でそう言われ、イリコは思わずにっこりしてしまう。
アオがシャープマーカーネオを大事にしているのは知っている。かつての相棒である黒ザップも、とても大切にされているようだったし。
自分もいつか、そんなブキに出会えたらいいな、と、イリコは思った。
「そういえば、どのブキが気になるとかはあるの?」
「ええと……」
イリコはそう言われて、カンブリアームズからカタログを貰ってきていたことを思い出す。
「これ、今の私のランクで買えるブキなんですけど」
カタログには事前に丸でチェックしてきた。アオにそれを見せながら、イリコは細長いチャージャーブキを指す。
「スプラチャージャーは一回触ってみたいなと思ってて……」
「いいと思うわ」
アオは小さくうなずいた。
「チャージャー系は扱いが難しいから、他のブキでクセが付く前に慣れておいたほうがいいわね」
「あとは……」
イリコは丸をつけたブキのなかから、お目当てのものを探し出す。
「あっ、これ!」
イリコが指さしたのは、緑色のバケツだった。
「ヒッセンっていうブキなんですけど、これ気になってたんです。アオさん、使ったことあり……ますか……」
―――と。
正面からとてつもない気配を感じて、イリコは思わず固まる。
恐る恐る顔を上げると……先ほどまで穏やかだったアオの表情が、見たことのないほどに険しくなっている。
イリコは、思わず固まってしまった。
「……イリコ」
アオは、ごくごく静かに、けれど厳しい声音で、イリコに言った。
「今のうちに言っておくわ。ヒッセンを持ちたいなら、生半可なウデマエでわたしの前に立つことは許さない」
「ふあ……」
「――わかったわね?」
アオのブルーの瞳が、イリコを刺し貫くように向けられる。
「ふぁ……はい……」
イリコはすっかり気圧されながら、間の抜けた返事を返すことしかできなかった。
「……ごめんなさい、ちょっとお手洗いにいってくるわ」
不意にアオはそう言うと、突然席を立って、店の裏の方へと行ってしまった。
イリコはアオの背中を見送って、ぱちぱちとまばたきする。
『ヒッセン』。
このブキが、いったいどうしたというのだろう?
イリコが内心で首をかしげていると、ほどなくして、アオが戻ってきた。
「ごめんなさい……」
アオは大きく息を吐きながら、席に座り直す
「ちょっとそのブキのことになると……冷静ではいられなくて……」
「あ、いえいえ、気にしないでください……」
イリコはそう言いながらも、恐る恐る訊ねてみることにした。
「あの、ヒッセ……このブキに、なにか嫌な思い出でも……」
「ないわ」
即答だった。というか、割と食い気味の返答だった。
「ないわ。あるとすれば、良い思い出ね。わたしにとって、大切な思い出」
「お、おお……」
「いえ……」
アオはふっと視線を和らげて、言い直した。
「どちらかというと……思い入れ、かもしれないわ。そのブキには、思い入れがあるの」
「……思い入れ、ですか」
というと、アオにとっては、とてもとても大事なブキなのだろう。
緑色のバケツのブキに、どんな思い入れがあるのか……。イリコにはちょっと想像がつかなかったけれど、少なくともアオにとってはそういうものなのだと、イリコは一人で納得した。
「……ごめんなさい」
アオはこめかみを押さえながら、また小さく謝った。
「とにかく、わたしの前ではそのブキにあまり触れないでくれると助かるわ……何を語り出すかわからないから……」
アオが一体何を語り出すのか、イリコは気になって仕方なかったが、
「わ、わかりました」
と、今は戸惑い気味に返事をすることに留めておいた。
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