イリコとアオ
アオが選んだステージは、ホッケふ頭。
イリコとアオが、初めて戦った場所である。
互いに定位置につき、イリコは一呼吸置いた。
味方はいない。敵は一人。
けれど、向こう側にいる存在がどんなに強大か、忘れてはいけない。
「……ナワバリバトルは、塗らなきゃ勝てない」
イリコは、口のなかで呟いた。
明るいオレンジ色のインクが、バトルのステージを塗り広げていく。
「…………」
ブルーのインクに身を染めたアオは、ただ静かに、遠くからイリコの姿を見ていた。
まずは自陣塗りをしっかりと。それから、攻め込むための経路を。
スペシャルが余らないようにしっかりと使っているわりには、ロボットボムを投げている様子は見当たらない。
動きは明らかに初心者のそれだが、行動自体はしっかりと、『ナワバリバトル』を理解しているように見える。
「……ふむ」
バトルをいくらか重ねてきたであろうとはいえ、まだランク10にも満たないはずだ。
大抵の初心者は、『塗る』ことの重要性を意識していないことが多い。
ナワバリバトルは、塗らなければ勝てないのである。
―――とはいえ、だ。
「……もうすぐ、一分……」
アオはシャープマーカーネオを構え直しながら、オレンジ色のインクの海を、じっと見つめていた。
(……来る)
バトル開始から、1分が経った。
もみじシューターをとっさに構え直し、イリコは正面を見据える。
オレンジのインクを、ブルーに塗り返しながら―――アオは真っ直ぐ、こちらに向かってきた!
「は、っや!?」
彼女がこちらに向かってくるスピードに動揺しながらも、イリコは準備していたアメフラシを、とっさに地面に叩きつける。
現れた雨雲はゆっくりと進みながら、アオの進行方向を邪魔するように、インクの雨を降らせていく。
けれどアオは、それを意にも介さずに、さっさとくぐり抜けてしまった。インクで受けるダメージを、全く気にもしていないようだ。
アメフラシを避けて迂回してくれれば、多少時間を稼げたはずだが―――やはりそう簡単にはいかないらしい。
(なんとかかわして、塗り続けないと―――)
イリコはイカ化すると、アオから逃げるようにしてインクの海を泳ぎながら、塗られた場所を塗り返すために進もうとする。
だが、しかし。
アオはまるでこちらの居場所がわかっているかのように、イリコの元へと向かう道筋を正確に塗り広げ、迷うことなくこちらに向かってくる。
そのスピードと気迫に、イリコは思わず息を呑んだ。
(こ、このひと、)
―――怖い!
ステージの外で見たアオと、バトルをしているときの彼女は、まるで別人のようだった。
彼女はホッケふ頭を知り尽くしているかのように、塗れる場所を塗り、コンテナの上を跳ぶ。追いつかれてしまったイリコはとっさに身構えようとするが、彼女はすぐにシャープマーカーネオを突きつけた。
「……ナワバリバトルは、」
彼女の声は、相変わらず、淡々としていた。
「塗るだけじゃ勝てないわ」
青いインクの弾丸が、イリコの体を貫く。
……ブルーのインクの海に沈みながら、イリコはようやく気がついた。
一分間のハンデは、イリコとアオの実力差を縮められるようなものではない。
彼女はそのハンデを持ってしてさえも、イリコよりずっとずっと強いのだ。
そんな相手に、勝てるわけがない。
最初っから、無理のある試合だったんだ。
もうどうしようもないと、そう思った瞬間―――
『お互い、全力で戦いましょう』
「……!」
アオの言葉が、イリコの耳の中に蘇った。
(……そうだ。アオさんは、)
イリコは、昨夜の会話を思い出す。
(私と、戦いたかったんだ)
彼女は、確かにそう言っていた。
イリコに何かを感じたから、それを確かめたいのだと。
そして自分もまた、アオから何かを学びたくて、このバトルの申し出を受けたのだ。
自分よりずっと強いからとか、絶対勝てない相手だからとか、そう言って、諦めてしまったら―――このバトルそのものに、意味がなくなってしまう。
リスポーン地点に降り立ったイリコは、慣れない手つきでマップを開き、状況を確かめた。
あんなにオレンジ色だったステージは、もうかなりの範囲が、ブルーに塗り返されてしまっている。
「……ふぅーっ……」
大きく息を吐き、呼吸をひとつ、整えて。
イリコは、もみじシューターを構え直した。
(……あの子……)
慌てず騒がず、順調に塗り返していたアオだったが、リスポーンしたイリコがこちらに向かってきたのを見て、一瞬動きを止めた。
ロボットボムが飛んでくるのを警戒したが、アオの方へと向かってきたのは、ボムやスペシャルなどではなかった。
そう――イリコ本人である。
「……え?」
アオは一瞬、呆気にとられた。
もみじシューターは射程距離がさほど長くはなく、必然的に近接戦闘を強いられる。だが、メインから放たれるインクにはブレがあるため、キルタイムはあまり早くない。つまりはキルを狙うなら、奇襲が最も適している。
対してアオの持つシャープマーカーネオは、インクが『一切』ブレず、弾速も早い。それだけ精密な射撃を要求されるブキではあるが、エイムに自信のあるアオにとっては何ら問題にならない。それどころか、むしろその特性を愛しているからこそ使い続けているのだ。
要するに、正面切っての撃ち合いにおいては、もみじシューターとシャープマーカーネオなら、圧倒的に後者に分があった。
もしもアオが逆の立場だったとするなら、先に牽制のためにロボットボムを投げ、可能ならアメフラシで足場と視界を奪ってから、回り込んで奇襲を狙うだろう。
けれど彼女は―――真っ直ぐに、アオへと向かってきていた。
(……何かの作戦?)
それとも、初心者ゆえの無策か。
実力差がわからないわけでもないだろう。ただの無謀な突進なら、あくまでも迎え撃つだけだ―――と。
イリコがアオに向かって、アメフラシを投げるのが見えた。
「!」
アオは咄嗟の判断で、インクの雨雲をかわすルートを選んだ。
(ボムってどうやって使うんだっけ!?)
メインウェポンとスペシャルウェポンの使用がやっとのイリコは、もみじシューターを抱えて塗り走りながら、内心プチパニックを起こしていた。
既にアオの姿は視界の中に入っているが、彼女はイリコが投げたアメフラシを避けるように動く。
(やっぱり、中には入ってくれないよね!)
あのインクの雨の中で撃ち合いができたのなら、多少は勝ち目が見えたかもしれないのだが。
あの正確無比な射撃のウデマエを見る限り、正面切っての撃ち合いでは、アオにはきっと勝てない。
つまりは絡め手がいるのだが、その絡め手を使うための方法に、イリコはまだ慣れていなかった。……というか単純に、どこをどうしたらサブウェポンが出せるのか、まだちゃんと理解していない。そもそもスペシャルの出し方だって、まだちょっと怪しいというのに。
でも―――やれることをやらずに、ただ負けるのは――あんまりにも悔しい!
「あっ」
イリコがふと思いがけず手を滑らせた瞬間、偶然、ロボットボムが飛び出した。それは大きく弧を描いて、あさっての方向に飛んでいく。
「ここだぁ!」
やっとサブウェポンの出し方がわかった。と喜んでいる暇も無く、今度はイリコに向かって、丸いボールのようなものが飛んできた。
「う、わっ!」
パァン!と勢いよく弾けたそれは、イリコに当たった瞬間、青いインクを撒き散らす。シャープマーカーネオのサブウェポン、クイックボムだ。
ダメージを負いよろけたイリコに、すかさずアオが銃口を向けて追撃する。イリコはもみじシューターを構え直そうとするが、間に合わない。
素早く青い、インクの弾丸。イリコは再び、青いインクのなかへと沈んでしまった。
(残り時間は―――)
もうすぐ、残り1分になる。恐らく復活できたタイミングで、聞こえているBGMが変わるだろう。
(どれぐらい塗れるかは、わかんないけど……)
せめて、アオには一矢報いたい。
戦った意味があったと、彼女に思わせたい。
イリコは心の中で、きゅっと唇を引き結んだ。
「…………」
アオが追撃した、あの一瞬。
イリコは確かに、もみじシューターの先端をアオに向けようとした。
「……、……」
アオはいつの間にか、インクを塗り広げる手を止めていた。シャープマーカーネオを抱えたまま、相手側のリスポーン地点に視線を向ける。
彼女は―――アオに、向かってこようとした。
アオから、キルを取ろうとしたのだ。
(……そんなの当たり前だわ)
そう、当たり前なのだ。
だって、これはナワバリバトルなのだから。
それなのに―――なぜだろう?胸の奥が、なんだかとても、わざわざする。
(……なに?この感覚は、なに……?)
自分が求めていた以上のものを、イリコは今、アオに見せようとしてくれている気がする。
ざわざわと落ち着かない胸の内に戸惑いながら、アオはシャープマーカーネオを構え直し、イリコの復活を待った。
アオの装備しているギアパワー、『復活ペナルティアップ』のせいで、彼女の復活は少しばかり遅れている。
けれど、リスポーン地点に現れたイリコは、まったくそんなことは気にしていないようだった。
彼女は、強い色を宿したオレンジ・アイで、真っ直ぐにアオを見据えた。
―――インクが沸き立つような、強く熱い、戦いの意思。
彼女はそれを、瞳にたぎらせている。
あれは―――戦意だ。
イリコはまだ、勝負を諦めていないのだ
(……あれは、)
考えるより先に、体が動いた。
アオはブキを抱いて、姿をイカに変え、ブルーのインクの海に潜る。
(あれは……わたしの、欲しかったものだわ)
お前は強すぎると、誰かが言っていた。
戦いを諦める相手。勝てないと離れていく、友人だったイカたち。弱いものの気持ちは、おまえにはわからないと言われた。強さを認めてくれはしても、誰もアオと向かい合おうとしない。誰も、アオと戦おうとしない。
でも。
イリコは今、アオに立ち向かおうとしている。
……アオは、思わず口角が上がるのを感じた。
諦めるには、まだ早すぎる。
ブルーのインクを必死で塗り返しながら、イリコは向かってくるアオに対して、ロボットボムを投げつけた。
放り投げられたロボットボムは、びちゃりとインクのうえに着地すると、とことことアオの方へ駆け寄ろうとする。
アオはそれをかわすように動きながら、また真っ直ぐイリコの方へと向かってきた。
(アメフラシ、は、間に合わない!)
まだスペシャルゲージは溜まっていない。
もう一度ボムを投げようとして、インク不足に気がつく。イリコは慌ててインクの海に潜った。
インクを回復させながら体勢を立て直そうとするイリコを、アオが追いかけてくる。
インクに潜っている間は姿が見えないはずだが、時折イリコが立てる飛沫を、アオは見逃さずにいるらしい。
(こ、このひと、ほんとにすごい……!)
感心している場合ではないのだが――それでもやっぱり、憧れてしまう。
イカしたイカの、イカしたウデマエを、イリコは今まさに、この身をもって体感しているのだ。
だがしかし、である。
このまま逃げ回っていても、当然逆転はできない―――それなら。
(戦う、しか、ないよね!)
インクの海から姿を現して、イリコはもみじシューターを構える。
すかさず向けられる鋭い銃口を横っ飛びにかわし、イリコはロボットボムをひとつ投げた。
「!」
アオはロボットボムを引きつけるように後退するが、すかさずイリコはもうひとつロボットボムを投げ、またインクの海に潜る。
「…………」
アオは眉ひとつ動かさずにロボットボムをかわしきり、自分に影響の及ばない場所で爆発させた。
(だよね、そうだよね!そうしますよね!)
どうしたらアオを捉えられるのだろう。
自分の知識不足と経験不足、実力不足が、今ひたすらにもどかしい。
残り時間もあとわずかだ。もうナワバリの広さで逆転するのは難しい。例えそれでも……!
そう思った瞬間、イリコのスペシャルゲージが光った。
……どうやらこの戦いのなかで、彼女はボムの使い方を覚えたらしい。
けれどロボットボムはかわされやすく、死角に投げなければ、なかなかキルは狙えない。あくまでも牽制や炙り出しに使うサブだと、アオは位置づけていた。
(……残り時間は、あとわずかだけど……)
マップの色は相変わらず、ブルーのインクが優勢だ。
この塗り状況なら、勝利を諦めても仕方がないだろう。
けれど、イリコが自分に、どう立ち向かってくるつもりなのか……アオは内心、とても楽しみだった。
―――と。
「えーい!!」
自棄になったような声を出して、イリコが今度は、二連続でロボットボムを投げてくる。
てっきり、また彼女自身が追いかけてくると思ったのだが。
アオは少しだけがっかりして、それでもシャープマーカーネオを構え直し、自分からイリコに向かっていくことにした。
追いかけてくるロボットボムは、イリコに追いつくまでには勝手に立ち止まるはずだ。
アオはそう計算し、姿をイカに変え―――はっとした。
ばしゅん!と煙が昇る音がして、宙にインクの雨雲が現れる。アメフラシはアオのいる方に向かって、ゆっくりと進んできた。
さらに―――また二連続で、ロボットボム!
左右はコンテナに挟まれ、逃げ場はほとんどない。
(こ、れは、)
―――突っ切るしかない。
一瞬でも迷って止まれば、後ろと前から追尾してくるロボットボムの爆風で、間違いなくやられてしまう。どちらに逃げるべきかともたもたしていたなら、アメフラシのインクでもやられかねないだろう。
アオは素早くブルーのインクの道筋を作り、イリコに向かって真っ直ぐに突き進んだ。
……もみじシューター特有の大容量インクタンクと、スペシャルウェポン使用時にインクが回復する仕様。そして細長い道の多いホッケふ頭だからこそできる、強引だが考えられた力業。
初心者だからと、無意識に侮っていた自分が恥ずかしい。彼女も―――イリコもまた、立派なナワバリバトルのプレイヤーなのだ。
(でも、だからこそ……!)
今こそ敬意を表して、彼女をメインウェポンで仕留めたい。
アオがイリコのもとにたどり着き、姿をヒトに変え、シャープマーカーネオを突きつけようとした瞬間―――イリコもまた、アオにもみじシューターを突きつけた。
「―――!!!」
オレンジ色のインクが、アオに向かって吹き出す―――
その直前。
試合終了のホイッスルが、高らかに鳴った。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……お、」
イリコが、呆けたような声を出す。
「……終わり……ました?」
「……どうやら……」
アオは肩で息をしながら答えた。
「その、ようね……」
そんな会話をしながらも、イカガールたちは互いに互いのブキの銃口を突きつけたまま、動かずに立ち尽くしていた。
すると、やがてどこからともなく、丸い姿をした生き物たちが、とことこと現れる。
やってきたのは、いつもバトルの勝敗を判定してくれる、ジャッジくんとコジャッジくんだった。
「に゛っ(判定をするので、ステージからどいてもらいたい)」
ジャッジくんにそう言われ、二人は慌てて互いのブキをどけ、リスポーン地点の転送地点へと戻る。
そして、ジャッジくんとコジャッジくんが出した、ナワバリバトルの判定結果は―――やっぱり、アオの圧勝だった。
「……ふー……」
深い溜め息を吐きながら、イリコは大きく、肩を落としたのだった。
イリコとアオが、初めて戦った場所である。
互いに定位置につき、イリコは一呼吸置いた。
味方はいない。敵は一人。
けれど、向こう側にいる存在がどんなに強大か、忘れてはいけない。
「……ナワバリバトルは、塗らなきゃ勝てない」
イリコは、口のなかで呟いた。
明るいオレンジ色のインクが、バトルのステージを塗り広げていく。
「…………」
ブルーのインクに身を染めたアオは、ただ静かに、遠くからイリコの姿を見ていた。
まずは自陣塗りをしっかりと。それから、攻め込むための経路を。
スペシャルが余らないようにしっかりと使っているわりには、ロボットボムを投げている様子は見当たらない。
動きは明らかに初心者のそれだが、行動自体はしっかりと、『ナワバリバトル』を理解しているように見える。
「……ふむ」
バトルをいくらか重ねてきたであろうとはいえ、まだランク10にも満たないはずだ。
大抵の初心者は、『塗る』ことの重要性を意識していないことが多い。
ナワバリバトルは、塗らなければ勝てないのである。
―――とはいえ、だ。
「……もうすぐ、一分……」
アオはシャープマーカーネオを構え直しながら、オレンジ色のインクの海を、じっと見つめていた。
(……来る)
バトル開始から、1分が経った。
もみじシューターをとっさに構え直し、イリコは正面を見据える。
オレンジのインクを、ブルーに塗り返しながら―――アオは真っ直ぐ、こちらに向かってきた!
「は、っや!?」
彼女がこちらに向かってくるスピードに動揺しながらも、イリコは準備していたアメフラシを、とっさに地面に叩きつける。
現れた雨雲はゆっくりと進みながら、アオの進行方向を邪魔するように、インクの雨を降らせていく。
けれどアオは、それを意にも介さずに、さっさとくぐり抜けてしまった。インクで受けるダメージを、全く気にもしていないようだ。
アメフラシを避けて迂回してくれれば、多少時間を稼げたはずだが―――やはりそう簡単にはいかないらしい。
(なんとかかわして、塗り続けないと―――)
イリコはイカ化すると、アオから逃げるようにしてインクの海を泳ぎながら、塗られた場所を塗り返すために進もうとする。
だが、しかし。
アオはまるでこちらの居場所がわかっているかのように、イリコの元へと向かう道筋を正確に塗り広げ、迷うことなくこちらに向かってくる。
そのスピードと気迫に、イリコは思わず息を呑んだ。
(こ、このひと、)
―――怖い!
ステージの外で見たアオと、バトルをしているときの彼女は、まるで別人のようだった。
彼女はホッケふ頭を知り尽くしているかのように、塗れる場所を塗り、コンテナの上を跳ぶ。追いつかれてしまったイリコはとっさに身構えようとするが、彼女はすぐにシャープマーカーネオを突きつけた。
「……ナワバリバトルは、」
彼女の声は、相変わらず、淡々としていた。
「塗るだけじゃ勝てないわ」
青いインクの弾丸が、イリコの体を貫く。
……ブルーのインクの海に沈みながら、イリコはようやく気がついた。
一分間のハンデは、イリコとアオの実力差を縮められるようなものではない。
彼女はそのハンデを持ってしてさえも、イリコよりずっとずっと強いのだ。
そんな相手に、勝てるわけがない。
最初っから、無理のある試合だったんだ。
もうどうしようもないと、そう思った瞬間―――
『お互い、全力で戦いましょう』
「……!」
アオの言葉が、イリコの耳の中に蘇った。
(……そうだ。アオさんは、)
イリコは、昨夜の会話を思い出す。
(私と、戦いたかったんだ)
彼女は、確かにそう言っていた。
イリコに何かを感じたから、それを確かめたいのだと。
そして自分もまた、アオから何かを学びたくて、このバトルの申し出を受けたのだ。
自分よりずっと強いからとか、絶対勝てない相手だからとか、そう言って、諦めてしまったら―――このバトルそのものに、意味がなくなってしまう。
リスポーン地点に降り立ったイリコは、慣れない手つきでマップを開き、状況を確かめた。
あんなにオレンジ色だったステージは、もうかなりの範囲が、ブルーに塗り返されてしまっている。
「……ふぅーっ……」
大きく息を吐き、呼吸をひとつ、整えて。
イリコは、もみじシューターを構え直した。
(……あの子……)
慌てず騒がず、順調に塗り返していたアオだったが、リスポーンしたイリコがこちらに向かってきたのを見て、一瞬動きを止めた。
ロボットボムが飛んでくるのを警戒したが、アオの方へと向かってきたのは、ボムやスペシャルなどではなかった。
そう――イリコ本人である。
「……え?」
アオは一瞬、呆気にとられた。
もみじシューターは射程距離がさほど長くはなく、必然的に近接戦闘を強いられる。だが、メインから放たれるインクにはブレがあるため、キルタイムはあまり早くない。つまりはキルを狙うなら、奇襲が最も適している。
対してアオの持つシャープマーカーネオは、インクが『一切』ブレず、弾速も早い。それだけ精密な射撃を要求されるブキではあるが、エイムに自信のあるアオにとっては何ら問題にならない。それどころか、むしろその特性を愛しているからこそ使い続けているのだ。
要するに、正面切っての撃ち合いにおいては、もみじシューターとシャープマーカーネオなら、圧倒的に後者に分があった。
もしもアオが逆の立場だったとするなら、先に牽制のためにロボットボムを投げ、可能ならアメフラシで足場と視界を奪ってから、回り込んで奇襲を狙うだろう。
けれど彼女は―――真っ直ぐに、アオへと向かってきていた。
(……何かの作戦?)
それとも、初心者ゆえの無策か。
実力差がわからないわけでもないだろう。ただの無謀な突進なら、あくまでも迎え撃つだけだ―――と。
イリコがアオに向かって、アメフラシを投げるのが見えた。
「!」
アオは咄嗟の判断で、インクの雨雲をかわすルートを選んだ。
(ボムってどうやって使うんだっけ!?)
メインウェポンとスペシャルウェポンの使用がやっとのイリコは、もみじシューターを抱えて塗り走りながら、内心プチパニックを起こしていた。
既にアオの姿は視界の中に入っているが、彼女はイリコが投げたアメフラシを避けるように動く。
(やっぱり、中には入ってくれないよね!)
あのインクの雨の中で撃ち合いができたのなら、多少は勝ち目が見えたかもしれないのだが。
あの正確無比な射撃のウデマエを見る限り、正面切っての撃ち合いでは、アオにはきっと勝てない。
つまりは絡め手がいるのだが、その絡め手を使うための方法に、イリコはまだ慣れていなかった。……というか単純に、どこをどうしたらサブウェポンが出せるのか、まだちゃんと理解していない。そもそもスペシャルの出し方だって、まだちょっと怪しいというのに。
でも―――やれることをやらずに、ただ負けるのは――あんまりにも悔しい!
「あっ」
イリコがふと思いがけず手を滑らせた瞬間、偶然、ロボットボムが飛び出した。それは大きく弧を描いて、あさっての方向に飛んでいく。
「ここだぁ!」
やっとサブウェポンの出し方がわかった。と喜んでいる暇も無く、今度はイリコに向かって、丸いボールのようなものが飛んできた。
「う、わっ!」
パァン!と勢いよく弾けたそれは、イリコに当たった瞬間、青いインクを撒き散らす。シャープマーカーネオのサブウェポン、クイックボムだ。
ダメージを負いよろけたイリコに、すかさずアオが銃口を向けて追撃する。イリコはもみじシューターを構え直そうとするが、間に合わない。
素早く青い、インクの弾丸。イリコは再び、青いインクのなかへと沈んでしまった。
(残り時間は―――)
もうすぐ、残り1分になる。恐らく復活できたタイミングで、聞こえているBGMが変わるだろう。
(どれぐらい塗れるかは、わかんないけど……)
せめて、アオには一矢報いたい。
戦った意味があったと、彼女に思わせたい。
イリコは心の中で、きゅっと唇を引き結んだ。
「…………」
アオが追撃した、あの一瞬。
イリコは確かに、もみじシューターの先端をアオに向けようとした。
「……、……」
アオはいつの間にか、インクを塗り広げる手を止めていた。シャープマーカーネオを抱えたまま、相手側のリスポーン地点に視線を向ける。
彼女は―――アオに、向かってこようとした。
アオから、キルを取ろうとしたのだ。
(……そんなの当たり前だわ)
そう、当たり前なのだ。
だって、これはナワバリバトルなのだから。
それなのに―――なぜだろう?胸の奥が、なんだかとても、わざわざする。
(……なに?この感覚は、なに……?)
自分が求めていた以上のものを、イリコは今、アオに見せようとしてくれている気がする。
ざわざわと落ち着かない胸の内に戸惑いながら、アオはシャープマーカーネオを構え直し、イリコの復活を待った。
アオの装備しているギアパワー、『復活ペナルティアップ』のせいで、彼女の復活は少しばかり遅れている。
けれど、リスポーン地点に現れたイリコは、まったくそんなことは気にしていないようだった。
彼女は、強い色を宿したオレンジ・アイで、真っ直ぐにアオを見据えた。
―――インクが沸き立つような、強く熱い、戦いの意思。
彼女はそれを、瞳にたぎらせている。
あれは―――戦意だ。
イリコはまだ、勝負を諦めていないのだ
(……あれは、)
考えるより先に、体が動いた。
アオはブキを抱いて、姿をイカに変え、ブルーのインクの海に潜る。
(あれは……わたしの、欲しかったものだわ)
お前は強すぎると、誰かが言っていた。
戦いを諦める相手。勝てないと離れていく、友人だったイカたち。弱いものの気持ちは、おまえにはわからないと言われた。強さを認めてくれはしても、誰もアオと向かい合おうとしない。誰も、アオと戦おうとしない。
でも。
イリコは今、アオに立ち向かおうとしている。
……アオは、思わず口角が上がるのを感じた。
諦めるには、まだ早すぎる。
ブルーのインクを必死で塗り返しながら、イリコは向かってくるアオに対して、ロボットボムを投げつけた。
放り投げられたロボットボムは、びちゃりとインクのうえに着地すると、とことことアオの方へ駆け寄ろうとする。
アオはそれをかわすように動きながら、また真っ直ぐイリコの方へと向かってきた。
(アメフラシ、は、間に合わない!)
まだスペシャルゲージは溜まっていない。
もう一度ボムを投げようとして、インク不足に気がつく。イリコは慌ててインクの海に潜った。
インクを回復させながら体勢を立て直そうとするイリコを、アオが追いかけてくる。
インクに潜っている間は姿が見えないはずだが、時折イリコが立てる飛沫を、アオは見逃さずにいるらしい。
(こ、このひと、ほんとにすごい……!)
感心している場合ではないのだが――それでもやっぱり、憧れてしまう。
イカしたイカの、イカしたウデマエを、イリコは今まさに、この身をもって体感しているのだ。
だがしかし、である。
このまま逃げ回っていても、当然逆転はできない―――それなら。
(戦う、しか、ないよね!)
インクの海から姿を現して、イリコはもみじシューターを構える。
すかさず向けられる鋭い銃口を横っ飛びにかわし、イリコはロボットボムをひとつ投げた。
「!」
アオはロボットボムを引きつけるように後退するが、すかさずイリコはもうひとつロボットボムを投げ、またインクの海に潜る。
「…………」
アオは眉ひとつ動かさずにロボットボムをかわしきり、自分に影響の及ばない場所で爆発させた。
(だよね、そうだよね!そうしますよね!)
どうしたらアオを捉えられるのだろう。
自分の知識不足と経験不足、実力不足が、今ひたすらにもどかしい。
残り時間もあとわずかだ。もうナワバリの広さで逆転するのは難しい。例えそれでも……!
そう思った瞬間、イリコのスペシャルゲージが光った。
……どうやらこの戦いのなかで、彼女はボムの使い方を覚えたらしい。
けれどロボットボムはかわされやすく、死角に投げなければ、なかなかキルは狙えない。あくまでも牽制や炙り出しに使うサブだと、アオは位置づけていた。
(……残り時間は、あとわずかだけど……)
マップの色は相変わらず、ブルーのインクが優勢だ。
この塗り状況なら、勝利を諦めても仕方がないだろう。
けれど、イリコが自分に、どう立ち向かってくるつもりなのか……アオは内心、とても楽しみだった。
―――と。
「えーい!!」
自棄になったような声を出して、イリコが今度は、二連続でロボットボムを投げてくる。
てっきり、また彼女自身が追いかけてくると思ったのだが。
アオは少しだけがっかりして、それでもシャープマーカーネオを構え直し、自分からイリコに向かっていくことにした。
追いかけてくるロボットボムは、イリコに追いつくまでには勝手に立ち止まるはずだ。
アオはそう計算し、姿をイカに変え―――はっとした。
ばしゅん!と煙が昇る音がして、宙にインクの雨雲が現れる。アメフラシはアオのいる方に向かって、ゆっくりと進んできた。
さらに―――また二連続で、ロボットボム!
左右はコンテナに挟まれ、逃げ場はほとんどない。
(こ、れは、)
―――突っ切るしかない。
一瞬でも迷って止まれば、後ろと前から追尾してくるロボットボムの爆風で、間違いなくやられてしまう。どちらに逃げるべきかともたもたしていたなら、アメフラシのインクでもやられかねないだろう。
アオは素早くブルーのインクの道筋を作り、イリコに向かって真っ直ぐに突き進んだ。
……もみじシューター特有の大容量インクタンクと、スペシャルウェポン使用時にインクが回復する仕様。そして細長い道の多いホッケふ頭だからこそできる、強引だが考えられた力業。
初心者だからと、無意識に侮っていた自分が恥ずかしい。彼女も―――イリコもまた、立派なナワバリバトルのプレイヤーなのだ。
(でも、だからこそ……!)
今こそ敬意を表して、彼女をメインウェポンで仕留めたい。
アオがイリコのもとにたどり着き、姿をヒトに変え、シャープマーカーネオを突きつけようとした瞬間―――イリコもまた、アオにもみじシューターを突きつけた。
「―――!!!」
オレンジ色のインクが、アオに向かって吹き出す―――
その直前。
試合終了のホイッスルが、高らかに鳴った。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……お、」
イリコが、呆けたような声を出す。
「……終わり……ました?」
「……どうやら……」
アオは肩で息をしながら答えた。
「その、ようね……」
そんな会話をしながらも、イカガールたちは互いに互いのブキの銃口を突きつけたまま、動かずに立ち尽くしていた。
すると、やがてどこからともなく、丸い姿をした生き物たちが、とことこと現れる。
やってきたのは、いつもバトルの勝敗を判定してくれる、ジャッジくんとコジャッジくんだった。
「に゛っ(判定をするので、ステージからどいてもらいたい)」
ジャッジくんにそう言われ、二人は慌てて互いのブキをどけ、リスポーン地点の転送地点へと戻る。
そして、ジャッジくんとコジャッジくんが出した、ナワバリバトルの判定結果は―――やっぱり、アオの圧勝だった。
「……ふー……」
深い溜め息を吐きながら、イリコは大きく、肩を落としたのだった。