君のシャツは大きい
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土曜の朝、いつもより1時間早く目が覚めた。ニュース速報が5日連続の猛暑日を知らせる。今さら暑さの具合になんか関心がないのは、今年が自分たちにとって高校最後の夏だからだ。
「今日も早く部活に行こう」
自室で一人気合いを入れて、部活用の鞄を肩に掛けた。
*
野球部のグラウンドに到着し、マネージャーに用意されたスペースで制服からジャージへ着替える。マネージャーの集合時間よりだいぶ早く到着した私は、一人グラウンドへ繰り出した。練習開始時間にも余裕があり、グラウンドに部員はまだ来ていない。きっと今ごろ土手でランニングをしたり、室内練習場でそれぞれ個人練習に励んでいるのだろう。
「このグラウンドもあともう少しか」
マネージャーになったばかりの一年次は夏の暑さにげんなりして、選手たちほど体を動かしていないのに熱中症になったりもした。日焼けするのを嫌ってアームウォーマーを付けてみたこともあったけど、結局は水仕事をするのに不便だからと早々に諦めた。今思えば相当にひ弱だったなと苦笑してしまう。
私はグラウンド脇にある水道の蛇口にホースを取り付ける。練習中に砂が舞うのを防ぐために水撒きをするためだ。早い時間にこれをやっておかないと、気温が上がってからではグランドが湿度地獄になってしまう。
最後の夏という気持ちが自分を朝早くに目覚めさせ、この水撒きは誰よりも先にグラウンドに到着する自分の習慣となっていた。
散水用ホースの先を手に持ち、手首を空に向かって角度を上げる。細かな水の粒が広がると、爽やかな音とともにグラウンドを濡らす。太陽に当たる水が虹色に輝く。
「いつも水撒きしてくれてたの、大森だったのか」
背後からの声。振り向くと、練習着姿の倉持がそこに立っていた。
「あ、倉持おはよう。早いね」
私は蛇口を捻って水を止め、半身だけ倉持に向ける。
「そう、最近のわたしの日課なんだ」
会話をしながら水撒きをしてもよかったのだが、よそ見をして水溜まりを作ってしまってはいけない。それに、せっかく倉持が来てくれたのだからゆっくり話をしたい。早起きは三文の徳、いいや三文どころではない、二人きりで倉持といられるこの瞬間は百文、ううん、千文をも得た気分だ。
「いつもより早いんじゃない?」
「ああ、今日は何となく」
「わたしも最近は早起きなんだ」
「たぶん、夏に対する武者震い」
私が冗談ぽく笑うと、倉持は「わかる気がする」と合わせて笑ってくれた。
「今日も暑いみたいだよ。5日連続の猛暑日だって」
「ふーん、猛暑っつっても、毎日暑いもんは暑いからな」
――あんま興味ねーや、と倉持はグラウンドを眺めながら呟く。
「倉持、今年も日焼けがすごいね」
アンダーシャツから覗く手首のコントラストは美しいほどだ。かく言う私も、日焼け止めを塗った程度では昨今の紫外線から逃れることはできず、なかなかの焼け具合である。
「俺は別に気にしねーけどさ、女子は気になるだろ、シミとか」
「そりゃ気になるけど、もう今さらだしね」
きちんと倉持と並んで話がしたくて、手に持ったままのホースの先を下ろした。一歩、倉持へ近づくと、自分が思っていたよりもだいぶ身長の高い彼を思わず見上げてしまう。
野球部に入部したてのころはヤンチャさの残る幼げな顔つきをしていたが、今はそんな面影はない。身体つきは見違えるように男らしくなって、興味本位で浅田くんに聞いてみたら、「腹筋バキバキですよ」とのこと。ああ、一度でいいから拝ませて頂きたい、なんて。
「なにジロジロ見てんだよ」
「あっ、いや、倉持、格好良くなったなって思って」
「あーっ、凪ちゃん先輩おはようございます!」
勇気を出して彼にちょっとアピールをと思ったのに、もう、良い雰囲気のときに台無しだ。可愛らしい声の方向に目をやると、春乃が小走りでこちらへやってくるところだった。
「春乃、おはよ。早いね」
「へへ、なんだか目が覚めちゃいまして。倉持先輩も、おはようございます」
ぺこりと可愛らしく頭を下げる春乃は、さっきまで私の手にあったホースを見つけてハッとする。
「あれ、もしかして水撒き、凪ちゃん先輩がやっていてくれたんですか?」
「うん、最近の日課でさ」
ついさっき倉持としたような会話を繰り返す。倉持は私たちの会話をあまり興味なさそうに横で聞いている。
「あの、よかったら代わりますよ、水撒き」
春乃はにっこり笑って、散水用ホースを手に持つ。私が勝手に始めたことをわざわざ後輩にやらせるのも申し訳ない気がするが、うーん、今はせっかく倉持と話していたところだし・・
「ありがとう。じゃあ今日だけお願いするね」
「はい!まだ練習まで時間があるのでゆっくりしていてください!」
春乃は私にだけわかるように小さくウインクをして手を振る。なんてイイ後輩なの!
倉持に視線をやって「今日は春乃に任せることにした」と伝えると、倉持は小さく「そうか」と呟くと踵を返して歩き始める。私もそれに続いた。
「大森も先輩っぽくなったな」
「わたしだってもう三年だよ」
「そういえばそうだったな」
「失礼な!」
いたずらっぽく笑う倉持に、私はムキになって反発する。
「きゃあ!!」
自分たちのすぐ後ろから聞こえてくる悲鳴。冷たい感覚が背中を覆う。ホースから勢いよく噴出した水しぶきがこちら目がけて飛んできたのである。
「ごめんなさい!凪ちゃん先輩!」
水しぶきの正体は春乃の手にある散水用ホースである。慌てて春乃へ向き直ると、彼女は焦った様子で蛇口を捻って何とか水を止めている。
「わあぁ、ごめんなさい!濡れちゃいました!?」
何を間違えたらこんなことになるのか。ここ最近は春乃のドジも減ってきたから安心して見ていたが、やっぱりこの子は
「タオル!持ってきますね」
「大丈夫、気にしないで自分で取ってくるから」
駆け出そうとする春乃を制止して、自らの濡れ具合を改めて確認する。これは随分と派手にやられた。ジャージの下に肌着を着ているものの、肌着まで水は浸透している。これはぜんぶ着替えないといけなさそうだなと冷静に状況分析していたところ、はたと隣にいる人物を思い出す。
「・・・大丈夫か?」
ちゃっかり放水を避けていたのか、倉持はまったく濡れていない様子。口では心配をしてくれているが、目線は
「あっ・・・」
「見てねえ!見てねえから!」
倉持は取り乱したように額に手を当てて顔を背ける。肌着まで浸水した私は改めて状況を飲み込む。まずい、透けている、
「き、着替えてくるっ」
私は逃げるようにその場から走り、マネージャーの控え室へ急いだ。
「げ・・・着替えないじゃん」
自分の鞄を開いて絶望する。今朝は早く目が覚めたから準備は万端だと意気揚々としていたのに、時間に余裕があるときほど抜けがあるものだ。
普段は用意しているはずの着替えのシャツがない。暑い夏だ、マネージャーといえど汗はかくし、途中で着替えたいからと持ってきているはずなのに。
部の乾燥機を使えばすぐに乾くのだろうが、乾かしている間に着ておく服がないのでは使いようがない。幸子と唯が来るまで待つか?いやでも、彼女らの着替えを借りてしまうのは申し訳ない。ううん、でも乾かしている間だけなら・・・
「おい、大丈夫かよ?」
一人控え室で頭を抱えていると、ドアの向こうから倉持の声が聞こえた。しばらく私が出てこないから、心配してくれたのだろうか。
「あ、えっと」
「もしかして着替えがねーとか言わないだろうな」
「・・・仰る通りで」
ああ、情けない。これから練習をする倉持から服を借りるわけにもいかない。そもそもそんなの恥ずかしすぎる。私は再び頭を抱えてしまう。
「シャツ、置いておくぞ」
思いもよらない倉持の言葉に私は顔を上げる。一瞬固まってしまうが、慌てて控え室のドアを開ける。すでに倉持はこの場を去ってしまっていて、床には丁寧に畳まれたTシャツが置かれていた。部員たちが練習の際に着ている胸に「青道」の文字がプリントされたシャツである。洗濯タグには手書きの「くらもち」の文字。
本当に着てもいいものなのか非常に悩む。でも、濡れた服のままではマネージャー業を全うすることもできない。私は
「大きい、な」
わかってはいたけれど、倉持のTシャツは私が着るにはだいぶ大きい。自分のものではない香りがして、それが倉持のものだと考えると妙な気分になってしまう。
鞄からスマホを取り出して、倉持へ『Tシャツありがとう、あとで洗濯して返すから』とラインを送る。このメッセージを倉持が見るのは練習後だし、それならば練習の隙を見て直接伝えれば良いのだが、なんとなく今、文字にしてみたくなったのである。
時計を見ると練習の開始時間が迫っていた。きっともう倉持はアップを始めているだろうと推察でき、彼を追いかけるのは諦める。
「おはよー。今日も凪は早いねー」
控え室のドアが開き、幸子が入ってくる。校門で合流したのだという唯も一緒だ。
「幸子、唯、おはよう」
そういえば、あのあと春乃はどうしただろうか。
「凪ちゃん先ぱーい、大丈夫ですか?」
私が春乃を思い浮かべるのと同時に、本人が控え室に入ってくる。心なしか春乃も少し濡れているように見えるけれど・・・
「え、凪どうかしたの?」
春乃の言葉に幸子が反応する。「あの、実は・・・」と春乃は申し訳なさそうに状況説明を始めた。グラウンドの水撒きは無事に終わったらしい。
「それで、凪ちゃん先輩が着替えから戻ってこないので、倉持先輩が」
そこまで聞いた幸子は「はは~ん」と顎に手をやり、探偵気取りにニヤリと口角を上げた。
「凪、そのシャツずいぶん大きいと思ったら」
「いわゆる、彼シャツってやつ?」
唯はふふと笑い、幸子はひゅーひゅーだなんて茶化してくる。私は照れくささで言葉が出てこない。春乃は笑っていいのか、謝った方がいいのか判断がつかずに困り顔だ。
*
視界の端には、慣れた手つきでウォータージャグを準備する大森がいた。彼女は額を伝う汗を手の甲で拭うと、無意識だろうか着ているTシャツに手の甲を撫でつける。やっぱりサイズ合ってなかったよな、と心配になりながらも倉持は白球を追いかける。
自分の後方、レフトの守備位置から関と麻生の談笑が聞こえる。お前ら集中しろよと悪態を浮かべるが、自分も人のことを言えた立場ではない。関の口から「大森」という言葉が聞こえてしまっては、多少の注意をそちらに向けざるを得ない。
「な!麻生見てみろよ」
「あ?」
「今日の大森、絶対に彼シャツだろ!な!」
「・・・ぶかぶかだな」
「な!」
そこまで聞いて、倉持は前方へ注意を戻す。際どいライナー性の打球を飛び込んで捕球すると、グラウンドの外周をランニングをする1年から「おお、さすが倉持先輩だ」と声が漏れる。1年の視線はともかくとして、再び大森を視界の端に入れてみると、こちらを見ているような視線を感じた。彼女は自分と目が合ったことを自覚すると、ぶかぶかのTシャツを指さして、小さく頭を下げた。「貸してくれてありがとう」そう言いたげなジェスチャーであった。
*
練習後、風呂に入る前にスマホを見ると大森からラインが入っていた。『Tシャツありがとう、あとで洗濯して返すから』メッセージの受信時間はちょうど自分がTシャツをドア前に置いた直後であった。律儀なやつ、と小さく吹き出してしまう。
風呂に入ると何やらいつもより浴室が騒がしい気がした。また、関の声で「大森」と聞こえた気がする。体を洗いながら周囲の会話に耳を傾けると、関の「大森が今日彼シャツを着ていた」に端を発して、「練習着ってことは部内だろ」「相手は一体誰なんだ」「わざわざ練習中に着させるなんて、彼氏はきっと束縛気質なやつだ」どいつもこいつも、好き勝手を言っては楽しんでいる。
束縛気質は心外だし、そもそも彼氏じゃねーし。倉持は会話を聞きながらも輪には入らないよう、関たちから距離を置いて浴槽に入る。
ふと練習中の場面が頭をよぎる。洗濯をしてからとはいえ、大森が着た服が自分の手元に返ってくるというのは、なんというかちょっと堪らない。いやいや俺はヘンタイじゃないんだと頭を横に振るが、関たちの会話は未だにさっきの話題で盛り上がっており、いやでも大森のことが頭に浮かんでしまう。――つーか、あのとき、
「見えてた、よな」
「何が見えてたんだ?」
「うおっ、白州!?」
音もなく近寄ってきていた白州に倉持は気がつかず、思わず口から
「いつものことだが、怖い顔してるぞ」
「一言余計だよ」
「あまり長風呂しすぎるなよ」
白州はそう一言だけ置いていくと、それ以上詮索することなく浴槽をあとにする。さっきまで賑わいでいた関たちはいつの間にか談笑の場を脱衣所に移しており、浴室はガランと静かになる。
「・・・はあ」
浴槽の
確かに、見えていた。吉川がぶちまけたホースの水は大森を襲い――今思えば自分だけ避けずに庇ってやればよかったか――、その、なんだ、
「・・・あ、」
大森の
なかなか浴場から出てこない倉持に気がついたのは関であった。
「な!倉持、今日は長風呂だな!」
「うるせー!誰のせいだと思ってんだ」
おわり
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