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瞬から連絡が届いたのは、想定よりもだいぶ早かった。
緒方さん、夏向くんと決起集会をするからと、いつものホルモン屋へ瞬を送り届けてからまだ2時間も経っていなかった。
愛車での移動がスタンダードである瞬なので、外食時の飲酒は御法度。しかしそれは一人暮らしの時分までで、私と屋根を一つにしてからはよく送迎を頼まれるようになっていた。
仲の良い彼らのことだから、とっぷり飲んでくるのだろうと悠長に構えていた。そんな折に届いたのは『そろそろ迎えきてくれ』という色気のないメッセージだった。彼らしい文章に頬がほころぶ。
「何か、あったのかな」
とはいえ、普段と異なるタイミングでの連絡に不安もよぎった。もしかして、酔いつぶれたとか・・・。
いや、ああ見えて身の硬い瞬のことだ。名の知れたMFGパイロットでもあるのだから、お酒に関して迂闊なことはしないはずだ。
私はソファで呆けていた体をむくりと起き上げて、簡単に着替えを済ませる。車のキーを手にすると、マンションの駐車場へ向かった。
ボディーカバーの掛けられたGT-Rを横目に見ながら、立体駐車場の基盤を操作する。低い音とともに降りてきたのは、自前のコンパクトカーだ。
愛車に乗り込んでエンジンをかけると、カーナビをセットしてマンションの駐車場を出た。
「緒方さん、夏向くん、こんばんは」
「おお! 凪ちゃん」
七輪を取り囲む彼らを見つけて、手を振りながら駆け寄る。
私に気が付いた緒方さんに着席を進められたので、空いている瞬の隣に腰掛けた。
「うちの瞬を回収しに来たんだけど」
もうとっくにお開きの流れだろう、そう踏んでいたあては外れていた。
火皿の木炭はだいぶ下火だが、卓上の焼酎セットは割り水がたんまりと残っている。明らかに飲み始めの風体だ。
「まだ、ぜんぜんこれからって感じ? いつもより早く瞬から連絡が来たから、何かあったのかと思って飛んで来たのに」
緒方さんと夏向くんは目を見合わせ、やれやれと言うように笑うと、その視線は瞬へと投げられる。
「・・・あれ、瞬どうしたの」
先ほどから黙りこくっている瞬に顔を向ける。
せっかく急いで迎えに来たというのに、彼はテーブルに肘をついたまま仏頂面でグラスを小さくあおった。顔の赤らみからして、いつもより酒が進んでいそうだ。
「相葉先輩、楽しそうにお酒を飲んでいたのですが・・・」
夏向くんが申し訳なさそうに切り出して、緒方さんが付け加える。
「ちょっとからかったらさ、拗ねたんだよ」
「えぇ~、」
拗ねたって、大の大人がどうして。このメンバーで気分を害するなんて、そうあることではなさそうなのに。
強いてあげるとすれば、――過去の情熱的な片思いを掘り返された、とか。
「ぼ、僕はなにも言っていないですっ」
いたずらっぽく夏向くんに目をやると、彼はあらぬ疑惑を払拭するように手を振って否定した。
「冗談だよ。緒方さんがなにか言ったんでしょ」
「俺、余計なこと言っちゃったかなあ」
緒方さんも緒方さんで、ひと刷け赤い頬が彼の酔いの進度を表していた。
「瞬、大丈夫?」
なおも仏頂面の瞬の顔を覗き込む。
「別に、なんともねえけど」
「そっか、それならいいんだ」
瞬は気まずそうに目を逸らしながらも「迎え、ありがとな」と呟く。
「どういたしまして」
よく飲んだのだろうとはいえ、酩酊までは達していなさそうで安心した。急いで連れ帰るほどではないと私は判断して、テーブル脇に置かれたメニュー表を手に取る。
「まだお開きじゃないなら、私も少し食べてっていい?」
夕食は家で済ませてきたが、七輪の炭と脂の焼けるにおいに食欲がうずいてしまった。
みんなが快く頷いてくれたので、運ばれてきたウーロン茶を片手に私も酒宴の仲間入りをした。
*
「聞いてくれよ夏向、凪のやついつまでもコンパクトカーなんだぜ?」
傾いていたご機嫌を取り戻した瞬は、水割りグラスを片手に不服の色を全開にする。「華奢な車の助手席に乗せられる俺の気持ちがわかるか?」なんて、件 の車に送迎を頼んでいるくせに、大層なご身分である。
夏向くんは困ったように笑って「車はそれぞれ目的に合わせて選ぶのがいいと思います」と、その返答は19歳とは思えないほど落ち着いている。
「そうそう。それに私は、誇らしいゴールド免許の持ち主ですからね」
えへんと胸を張ってみせる。
車を所有しているといえ通勤は自転車の範囲内で、運転の機会はそう多くはなかった。検挙の可能性の低さが私をゴールド免許たらしめている、そう胸中で謙遜したところで、
「凪のゴールドはただの金メッキだろ」
瞬の槍が飛んで来た。ふん、と鼻で笑われる。
「失礼な! 誰がペーパードライバーよ」
そのメッキのおかげで保険料は安く済んでいるんじゃないか。彼らの前では言えないが、車にあまり費用をかけずにいられているのだから、笑われる筋合いはない。
「まあまあ、瞬も迎えに来てもらっておいてその言い草はないだろ」
見かねた緒方さんが間に入る。
「相葉先輩も、凪さんも、仲良しですね」
夏向くんの癒やされるような笑顔は、どこかずれているような気持ちもあったけれど、
「そうやってお互いに言い合えるのは、仲の良い証拠です」
そう続けられて、まんざらでもない気持ちにさせられてしまった。
感情のうえでは確かに認めているものの、素直に頷いてしまうのも照れくさいので返事に困る。
「そりゃあ、俺と凪は付き合いが長いからな」
鼻高々に割り入ったのは瞬だった。
「小学生のころからだろ? いいよな、幼なじみってやつか」
焼酎ボトルを手酌しながら、緒方さんは染み入るようだ。
「まあ・・・悪友みたいなもので。これでもずーっと私の片思いだったんですよ」
「はは、瞬ってそういうところ鈍いもんな」
「仕方ないだろ、凪がわかりにくかったんだよ」
「はいはい、それはごめんなさいね」
それからみんなのお酒はさらに進んで、瞬が眠たそうに大あくびをしたのをきっかっけにその場はお開きになった。
足下のおぼつかなくなった瞬を緒方さんと担いで、愛車の助手席に座らせる。
「ああ言っておいてなんだけど、やっぱり瞬がコンパクトカーに乗ってるのって違和感あるなあ」
「似合わないですよね、いつもごっついのに乗ってるから」
「さっきの瞬じゃないけどさ、やっぱり周りから茶々入れられるんじゃないの?」
「まあ・・・瞬にも、少しは良い車に乗れって言われますけど、私にはこの車 で十分だし」
瞬をはじめ、MFGの世界で生きている彼らにとっては物足りない車かもしれない。けれど、私から見れば愛着のあるパートナーだ。
「普段から運転するわけじゃないけど、かといって車がないのは不便だし。それに、気安く瞬の車を借りるわけにもいかないでしょ」
「それはそうだな」
緒方さんは肩をすくめて笑う。
助手席でうつらうつらとする瞬の瞼がうっすらと開いて、私と視線が交わった気がした。眠たそうに小さく手招きをされたが、車外からでは応えようもないので緒方さんとの会話に戻る。
「あと、これはここだけの話なんですけどね」
「お、なになに」
内緒話のように声をひそめると、緒方さんは愉快そうに耳をこちらへ向ける。
「ほら、GT-Rのリアって窮屈でしょ」
「まあ、4シーターとはいえ、後ろに人が乗ることはあまり想定されていないだろうな」
「でしょ。これから先、二人だけとも限らないし」
「ん? ・・・えぇっ!?」
「しーっ! 緒方さん驚きすぎ。冗談だって」
本当に冗談のつもりだったのに、思いのほか真に受けられてしまったので、慌てて取り直す。
「瞬に言ったらダメだよ。予選も近いんだから」
「お、おう。・・・そっか、一緒に住んでるんだもんな、そういうことも考えるよな」
「そんなに本気で捉えないで欲しいな。私が一方的に期待してるみたいで、恥ずかしいじゃない」
「瞬なら大丈夫だと思うよ。MFGパイロットの伴走は大変だろうけど、こいつはいいやつだから」
「うん。・・・私もそう思う」
「じゃ、こちらはお先に失礼します。帰りは夏向くんの運転ですか」
「ああ、俺が飲みたいからって頼らせてもらった」
運転席に座ってエンジンをかける。ウインドウを開けて、手を振った。
「気をつけて帰れよ。お幸せになー」
「はーい、緒方さんもね」
気が早いよと付け加えようかとも思ったが、アクセルを踏んでしまったので叶わなかった。駐車場からゆっくり出て行くと、私は車を走らせた。
*
発車してからしばらくの間、助手席の瞬は眠ったように静まりかえっていた。信号機の停車指示の合間に顔を覗けば、彼は車窓の外へ目を向けて何やら黙考のご様子。
「なあ、凪さ」
「ん、なに?」
青色の表示に変わったので、アクセルを踏む。
「さっき、なんでこっち来てくれなかったんだよ」
「んー?」
得意ではない運転であることが手伝って、思考の巡りはあまり良くない。
私がそれらしく返事を濁したのが瞬にとっては不服だったようで、拗ねたような息が隣で漏れる。
「手招きしたろ、さっき」
「・・・ああ、だって緒方さんと話してたし」
「ちょっと寂しかったんだけど」
えっ、と声を漏らしそうになって,慌ててハンドルを握り直した。
横目で瞬を見てみれば、フロントガラスをまっすぐに見つめて、わかりやすく口元を尖らせていた。
「・・・瞬、今日はよく飲んだんだね。水でも買って帰ろうか」
「別に、俺はいらねえけど・・・」
普段なら思ったことを明快に伝えてくれる瞬なのに、今日ばかりは幼くヘソを曲げたままだった。大概に飲んできたのだろうが、それだけではない予感がした。
ちょうど通りかかったコンビニの駐車場へ入って、シートベルトを外す。
「瞬は待っていていいからね」
そう言い置いて、私は運転席のドアを開けた。
「ほら、水飲んで」
「ん、」
「私が来るまでにどれだけ飲んでたの?」
「今日はいつもより盛り上がったんだよ、」
瞬はペットボトルの蓋を回し開けながら、ぽつりぽつりと述懐していく。
「緒方に言われたことが引っ掛かって、すげーモヤモヤしちまって」
――ちょっとからかったらさ、拗ねたんだよ。緒方さんが言っていたのは、たぶんこれのことだ。
「なにを言われたの」
「この先どうするんだ、って」
「MFGのこと?」
「ちげーって。・・・凪とのことだよ」
ごくりと喉を通ったのは、私の固唾だった。
瞬は私を見ないまま、伏し目がちにキャップを閉める。
「MFGパイロットのパートナーってのは、俺が思っている以上に大変なんだぜって」
パートナーという言葉にドキリとして、でも瞬が今言い表しているのは意味が少し違うのだろう。
パイロットと一般の会社員とを比べてしまえば、収入形態も違えば、何より生活のパターンが大きく異なる。特に私とのバイオリズムの差は顕著で、レース期には気を遣うことも少なくはない。
「もっと凪を大事にしろ、だって」
続けて、
「そうじゃないと、ほかの男に獲られるって」
いつもなら笑い飛ばすような話なのに、瞬があまりにも深刻そうに言うものだからそうはできなかった。
「バカ、もしかして不安になったの?」
「そんなんじゃねえけどよ・・・」
強がりのせいか、さっきから彼の口調はつっけんどんだ。
そんな瞬の不器用さが愛おしくて、
「私は瞬と一緒にいられて嬉しいよ」
なんのためらいもなく本音がこぼれた。
そりゃあ、瞬の起き抜けのころには出社してしまっているのは寂しい。けれど、あなたの毎日の寝顔に幸せを感じられるくらいには、私は瞬に惚れ込んでいる
それに、MFGに魂をかける瞬を好きになったのだから、今の生活に不満を抱いたことなんてなかった。
「だって、ずっと片思いだったんだよ」
「・・・おう」
この話題を挙げると、瞬はいつも決まりが悪そうに返事をする。
「何年間だと思う? 結構つらい思いもしたんだからね」
「・・・それは、悪かったよ」
「まあ、瞬はひとつも悪くないんだけどね。・・・そんな私が、瞬以外に目移りすると思う?」
そんなの愚問でしょ。わざわざ言わなくたって、瞬ならわかっていると思うけれど。
「凪、ちょっとこっち寄ってくれ」
「ん、なあに」
運転席から、助手席にいる彼の方へ体を乗り出す。
「緒方にいろいろ言われてさ、店に来てくれてからずっと、凪に触れたかった」
瞬の低い声に、車内の空気が変わる。
私の肩に彼の手が置かれて、優しく引き寄せられる。瞼を落として視界を暗にすると、顔のすぐ近くで瞬の息づかいを感じた。
ほんのりと香る酒のにおいが、扇情を煽る。
「凪、」
柔らかくて、でも少し乾いた瞬の唇が触れる。一度、二度、慈しむように頬にまで口づけが落とされる。
「・・・しゅん、」
息を継ごうとしたが、すぐに塞がれた。
空気を取り込むためのわずかな隙間、瞬の舌に唇を撫でられ、押し入るように口内へ割り込んでくる。
「ん、っ」
「凪、逃げんな、」
思わず身が強ばる。後ろへ退きそうになるのを後頭部にまわった瞬の手に制止される。
「あ、まって、瞬・・・っ」
彼の胸をそっと押し返してみるが、力の差では敵わない。
「こら、瞬ってば、」
瞬の頬を両手でつまんで、左右に引っ張る。
たまらず唇を離した瞬だけれど、その瞳の奥には冷めない熱欲と、うら寂しさが滲んでいた。
「なんだよ・・・嫌だったかよ」
「違うけど、・・・そんなにしたら、飲酒運転になっちゃうんじゃないかと思って。瞬、結構お酒のにおいするし」
わりと本気でそう心配したのに、瞬は吹き出すように笑った。
「くっ、はは、どうだろうな、大丈夫だろうけど、まあ確かにな」
笑いのツボにハマったのか、瞬は腹を抱えて笑いを堪えている。
さっきまでの名残惜しい瞳はどこへ行ったの。
「もう、真面目に心配してるのに!」
あの雰囲気の中で、理性を勝たせた私を褒めてもらいたいくらいだ。
「万が一のことがあったら、瞬が失業しちゃうかもしれないでしょ」
――MFGパイロット・相葉瞬、飲酒運転者の助手席に搭乗! 運転手は同棲中の彼女!
そんな記事が出回ってしまったら、業界からの抹殺は必至だ。
瞬はまだお腹を抱えて、でも何やら嬉しそうに噛みしめているようだった。
「やっぱ、凪のそういうところなんだよな」
「バカにしてる?」
「違うって」
じゃあなにを。そう噛み付こうとしたが、瞬のくしゃりとした笑顔に牙を抜かれる。
「俺の、凪の好きなところだよ」
「えっ・・・」
「いつもありがとうな。助かってる」
優しく抱き寄せられる。
ここが車内でなければ、もっと触れられるのに。惜しい気持ちが押し寄せる。
「・・・バカ。もう、早く家に帰ろう」
「そうだな。安全運転で頼むぜ、金メッキドライバーさん」
「ひと言余計なんですけど。公道最速の女を舐めないでよね」
茶化すように笑われたのが悔しかったので、冗談で返した。
「勘弁してくれよ。凪の車じゃ、せいぜい120キロが限界だろ」
「そりゃあ、瞬みたいに300キロも出せないけどさ」
「いつもそんなに出してるわけじゃないけどな」
瞬は愉快そうに助手席で笑う。
私がシートベルトを着けると、瞬もそれに習った。
「じゃ、帰ろうか」
「おう」
いち早く家に帰りたくなった。つい先ほどお預けにしてしまった、キスの続きをすぐにでもしたかった。
**
そろそろ緒方のお節介が始まる時間だった。
決起集会と称した飲み会も中盤を過ぎたところで、緒方はすっかり赤ら顔を呈していた。
「なあ瞬、凪ちゃんとはどうなんだよ」
――ほら、来たきた。
相葉は呆れたように息をついて、話し始める前に麦芽の香りを喉に通した。
「どうって言われたって、なんて答えたらいいんだよ」
緒方の隣に座る夏向も、その眼差しは興味ありげだ。
あまり後輩の前でさらけ出したい話題でもないし、どう切り出したらいいものか。相葉が考えあぐねているうちに、先にトピックを提供したのは緒方だった。
「だってさ、瞬、最近のレース好調だろ。凪ちゃんのおかげなんじゃないかなーって」
「は・・・?」
緒方が言うことは確かに正しい。ただし、相葉が思うにそれは前半においてのみである。
昨年よりランキングは上位に位置しているし、でもそれはセコンドブースの助言の賜物だろうと考えていた。現に、苦手であったタイヤの配分はレース終盤まで保つようになったし、それが結果に結びついていた。
「別に、俺はそんなので変わるような男じゃねえよ」
要は「幸せパワーで頑張れてるんじゃないか」などと緒方は言いたいのだろう。だが、MFGの世界は恋情で順位が上がるほど甘くはない。
・・・ン、待てよ。そうとも限らないかもしれないと、過去のオーバーランを顧みてしまったので、少し自信がなくなった。
とはいえ、凪と同棲を始めてから半年、相葉にとって特段の自覚はなかった。
「そうかなぁ。夏向はどう思う?」
「どうでしょう・・・相葉先輩はプロのレーシングドライバーですから」
話を振られた夏向は、困ったように返答を濁す。
「なんかあるだろ、生活の変化とか」
「緒方、老婆心も大概にしろよな。そういうのを余計なお世話っつーんだぜ」
これで話題を変えられればと、飲みかけのジョッキを緒方に差し出して何度目かの乾杯を勧める。緒方はそれに乗ると、半分ほど残っていた黄金色を飲み干した。
「そうだけどよー。飯がすごくうまいとかさ」
「おい、今日はやけに食い下がるな」
「だって気になるだろー。たまには惚気でも聞かせろよ」
目的はそれかと腹落ちして、相葉はこの半年間を回顧してみる。緒方を満足させるネタの一つでも提供しなければ、おそらくこの話題に終わりは見えないだろう。
一人暮らしの時分にはなかったけれど、同棲を始めて変わったことといえば。
「よく散歩するようになったな」
夕食のあと、たびたび凪から散歩に誘われていた。はじめのうちは面倒だからと気が進まなかったが、彼女に手を引かれるまま付き合っているうちにそれは習慣化していった。
「へえ、散歩かあ」
緒方はそれきたとばかりに目を光らせる。
「特別なこと話したりしてねえし、それがどうってことはないだろ?」
いつも交わすのは他愛のない会話で、その内容はほとんど覚えていないほどだ。近所を小半時 ほどぐるりと歩く、ただそれだけだった。
せっかく答えてやっているというのに、緒方はまだ物足りないといった目で相葉を見る。仕方ない、もうひとつくらいくれてやるネタが出てこないだろうかと、相葉はもう一段深く回顧した。
――ああ、そういえば、
「凪ってさ、すっげえ聞き上手なんだよ」
「へえ、凪ちゃんらしいな」
「話題っていってもMFGくらいだし、いつもレースの話ばっかだけどな」
「瞬らしいなー」
会話の主体はいつも相葉であったし、話題の多くはマシンやレースについてばかりだった。
「あんまり難しい話をしたら、凪ちゃんだって困るんじゃないのか?」
「ん? そんなこと、ないと思うけど」
思い返してみれば、話に夢中になるがゆえに専門用語を羅列してしまうこともあった。素人の凪を相手に熱くテクニカルを語ったところで右から左だろう。だが、会話を流し聞くような態度を相葉が彼女から感じたことは一度もなかった。
どんなに相葉に熱が入っても、素人には理解の難しい領域に突入しても、凪は困惑することなく相葉の言葉に耳を添えていた。
「俺と話してるうちにいろいろと覚えていってるんだろ」
それくらいにしか思っていなかったのだが、
「なるほどなぁ」
緒方は何やら点が繋がったのか、顎に手をつけて考える人のポージングをする。
半分のぼせたような顔をして、何を考えつくというのか。
「凪ちゃん、やるなあ」
「どういう意味だよ」
自分より先に緒方が把捉したのが、相葉は少し気に食わなかった。
「緒方さん、僕も気になります」
「夏向・・・やめてくれって」
可愛げのあるはずの後輩も食い気味で、雲行きの怪しさに眉が下がる。
「MFGパイロットってさ、本人たちが思っているよりも気難しいところがあるんだよ」
「俺は凪に当たったりしてねえぞ」
「んなことわかってるよ。当たってたらサイテーだろ」
呆れたように緒方に笑われる。
「俺みたいなメカニック畑 の人間にはない闘争心とか、たぶんアドレナリンの量だってぜんぜん違うだろうさ」
レース中の些細なミスが命に関わることもある中で、パイロット全員が一つでも上の順位を目指して争っているのだ。並の神経ではすり減って保たない。
「瞬はさ、きっと凪ちゃんにマインドセットしてもらってるんだな」
緒方の概説が、やけに腑に落ちた。
「・・・マインドセット、か」
無関係だと思っていた点同士が、だんだんとその距離を縮めていく。思い当たることが次々に浮かんで、追想が止まらなくなる。
凪はいつも穏やかに、相葉の気が済むまで言葉を引き出していた。相葉の熱量のすべてを受け止めてくれたし、何より無粋なアドバイスをすることは一度もなかった。
散歩から帰宅するころにはすっきりと頭の整理がついていたし、レース間近、制御できない昂りで眠れなかった夜はいつの間にかなくなっていた。
「・・・マジかよ」
彼女に付き合っていたはずの散歩は、すべて相葉のためだった。
額に手をつけた相葉は、大きな溜め息を漏らす。
「自覚なかったのかよ。ほんっと不器用だなぁ瞬は」
だいぶ酒が進み、顔色が紅潮にまで至った緒方はさらに続ける。
「そんなんじゃ、ほかの男に獲られても知らないぜー」
「は!?」
割れんばかりの勢いで、相葉はジョッキをテーブルに叩き置く。
普段なら深追いしない緒方だが、思いもよらず狼狽える相葉がおかしくて、酒の勢いに任せてもうひとつ追撃したくなった。
「凪ちゃんみたいなタイプってさ、MFGパイロットにはよく受けるだろ」
「・・・知らねえよ、そんなの」
「男に自覚させないような気の遣い方ができて、実績も上げさせてる。明るくて快活だけど、自分が前に出るタイプじゃないところがバランスいいよなー」
「そういうもんかよ、」
「そうだぜー。神15の常連陣なんてみんな粒ぞろいだろ、顔も資金もさ。ちゃんと捕まえておかねえと後悔するぞ」
「あの、緒方さん言い過ぎかもしれません」
「え?」
さすがの夏向も呆れて、緒方にストップをかける。
相葉が低く項垂れていることにようやく気が付いた緒方は、申し訳なさそうに彼の肩に手を置く。
「わ、悪い、瞬、そんなに効くとは思わなくて」
「いや、緒方の言うとおりだ」
漠然と抱いていた彼女の魅力をこうも簡単に緒方に詳述されて、相葉は痛恨の一撃をくらったような思いだった。しかも、それがまた的確なのも相葉の敗北心をさらに強くさせていた。
凪が相葉に惚れ込んでいることは揺るぎない事実で、それは相葉自身が肌で感じていることだった。
彼女から注がれる愛情の源泉は、相葉への長年の片思いに他ならなかった。だから、凪が相葉に妬くことはあっても、その逆はなかった。
凪が他人になびくなんて、彼女に限ってはあり得ない。頭ではそうだと断言できるのに、相葉の心中は激しくざわついていた。
「あーくそっ。今日は飲むぞ、飲み尽くすぞ!」
やけになってジョッキをあおる。緒方のそれも空になっていたので、迷うことなく焼酎セットを注文した。
「相葉先輩、飲みすぎには気をつけてくださいね」
「これが飲まずにやってられるか! 夏向がハタチだったら付き合わせてるところだぜ」
「英国では18歳からお酒を飲めます」
「うるせえ。ここは日本だ!」
「酒乱は凪さんに嫌われてしまいますよ」
「~~~~っ!」
思いもよらない夏向からのボディブローに、相葉はあっけなく撃沈する。
「くそ・・・なんか、悔しいぜ」
彼女の側にあると高をくくっていた情愛は、相葉の気が付かないうちに自身の側へ比重を重くしていた。それをやっと、相葉は自覚したのだった。
「瞬、素直になれよ。凪ちゃんに相当惚れてるんだろ」
「言うな緒方! ・・・もうわかったから」
身体の芯を駆けていく情動に、相葉は覚えがあった。
それはかつて、凪ではない異性に抱いていた熱愛由来の感情だった。彼女は自分だけのものだと、ままごとのようなフレンチキスであろうと他人に奪われたくはなかった。
そんな渦巻くような欲求は、凪が相葉の隣を歩くようになってからすっかり腹の奥で眠っていた。凪から揺らぎなく愛されているという無自覚の余裕が、相葉の心の平穏を保たせていたからだった。
どうしようもなく、凪に会いたくなった。
どうせ今ごろ、呆け面でもして家でだらけているんだろ。それなら今すぐ俺の隣に座って、陽気に笑っていてくれよ。
こんな思いを抱えて、正直どんな顔をして会ったらいいかわかんねえけど。
行き場のないこの独占欲を満たすには、凪の声を聞くしかなかった。滑らかな彼女の肌に触れて、その唇を濡らすほかに、相葉は手段を見つけられなかった。
ポケットからスマホを取り出すと、凪に向けてメッセージを打ち込む。
「なんだよ、もう迎え頼むのかよ。お開きには早いんじゃねえの」
それを見て、緒方が不平をこぼす。
「あ? お開きになんてしねえよ。・・・ちょっと、顔が見たくなったんだよ」
変わったことがあるものだと、緒方と夏向は顔を見合わせる。
照れ隠しのつもりなのだろうが、相葉の眉間にはすっかり皺が寄り、見るからに仏頂面だ。
「瞬・・・その表情だと、すっげえ不機嫌に見えるぞ」
「う、うるせえなっ。じゃあ、どんな顔したらいいんだよ」
「相葉先輩、スマイルです」
「それができれば苦労しねえって」
打ち込み途中のメッセージを完結させて、わずかな躊躇ののちに相葉は送信ボタンを押した。
『そろそろ迎えきてくれ』
会いに来てくれなどとは、到底恥ずかしくて言えるはずもなかった。きっと彼女は、色気がないと笑うだろう。
終わり
緒方さん、夏向くんと決起集会をするからと、いつものホルモン屋へ瞬を送り届けてからまだ2時間も経っていなかった。
愛車での移動がスタンダードである瞬なので、外食時の飲酒は御法度。しかしそれは一人暮らしの時分までで、私と屋根を一つにしてからはよく送迎を頼まれるようになっていた。
仲の良い彼らのことだから、とっぷり飲んでくるのだろうと悠長に構えていた。そんな折に届いたのは『そろそろ迎えきてくれ』という色気のないメッセージだった。彼らしい文章に頬がほころぶ。
「何か、あったのかな」
とはいえ、普段と異なるタイミングでの連絡に不安もよぎった。もしかして、酔いつぶれたとか・・・。
いや、ああ見えて身の硬い瞬のことだ。名の知れたMFGパイロットでもあるのだから、お酒に関して迂闊なことはしないはずだ。
私はソファで呆けていた体をむくりと起き上げて、簡単に着替えを済ませる。車のキーを手にすると、マンションの駐車場へ向かった。
ボディーカバーの掛けられたGT-Rを横目に見ながら、立体駐車場の基盤を操作する。低い音とともに降りてきたのは、自前のコンパクトカーだ。
愛車に乗り込んでエンジンをかけると、カーナビをセットしてマンションの駐車場を出た。
「緒方さん、夏向くん、こんばんは」
「おお! 凪ちゃん」
七輪を取り囲む彼らを見つけて、手を振りながら駆け寄る。
私に気が付いた緒方さんに着席を進められたので、空いている瞬の隣に腰掛けた。
「うちの瞬を回収しに来たんだけど」
もうとっくにお開きの流れだろう、そう踏んでいたあては外れていた。
火皿の木炭はだいぶ下火だが、卓上の焼酎セットは割り水がたんまりと残っている。明らかに飲み始めの風体だ。
「まだ、ぜんぜんこれからって感じ? いつもより早く瞬から連絡が来たから、何かあったのかと思って飛んで来たのに」
緒方さんと夏向くんは目を見合わせ、やれやれと言うように笑うと、その視線は瞬へと投げられる。
「・・・あれ、瞬どうしたの」
先ほどから黙りこくっている瞬に顔を向ける。
せっかく急いで迎えに来たというのに、彼はテーブルに肘をついたまま仏頂面でグラスを小さくあおった。顔の赤らみからして、いつもより酒が進んでいそうだ。
「相葉先輩、楽しそうにお酒を飲んでいたのですが・・・」
夏向くんが申し訳なさそうに切り出して、緒方さんが付け加える。
「ちょっとからかったらさ、拗ねたんだよ」
「えぇ~、」
拗ねたって、大の大人がどうして。このメンバーで気分を害するなんて、そうあることではなさそうなのに。
強いてあげるとすれば、――過去の情熱的な片思いを掘り返された、とか。
「ぼ、僕はなにも言っていないですっ」
いたずらっぽく夏向くんに目をやると、彼はあらぬ疑惑を払拭するように手を振って否定した。
「冗談だよ。緒方さんがなにか言ったんでしょ」
「俺、余計なこと言っちゃったかなあ」
緒方さんも緒方さんで、ひと刷け赤い頬が彼の酔いの進度を表していた。
「瞬、大丈夫?」
なおも仏頂面の瞬の顔を覗き込む。
「別に、なんともねえけど」
「そっか、それならいいんだ」
瞬は気まずそうに目を逸らしながらも「迎え、ありがとな」と呟く。
「どういたしまして」
よく飲んだのだろうとはいえ、酩酊までは達していなさそうで安心した。急いで連れ帰るほどではないと私は判断して、テーブル脇に置かれたメニュー表を手に取る。
「まだお開きじゃないなら、私も少し食べてっていい?」
夕食は家で済ませてきたが、七輪の炭と脂の焼けるにおいに食欲がうずいてしまった。
みんなが快く頷いてくれたので、運ばれてきたウーロン茶を片手に私も酒宴の仲間入りをした。
*
「聞いてくれよ夏向、凪のやついつまでもコンパクトカーなんだぜ?」
傾いていたご機嫌を取り戻した瞬は、水割りグラスを片手に不服の色を全開にする。「華奢な車の助手席に乗せられる俺の気持ちがわかるか?」なんて、
夏向くんは困ったように笑って「車はそれぞれ目的に合わせて選ぶのがいいと思います」と、その返答は19歳とは思えないほど落ち着いている。
「そうそう。それに私は、誇らしいゴールド免許の持ち主ですからね」
えへんと胸を張ってみせる。
車を所有しているといえ通勤は自転車の範囲内で、運転の機会はそう多くはなかった。検挙の可能性の低さが私をゴールド免許たらしめている、そう胸中で謙遜したところで、
「凪のゴールドはただの金メッキだろ」
瞬の槍が飛んで来た。ふん、と鼻で笑われる。
「失礼な! 誰がペーパードライバーよ」
そのメッキのおかげで保険料は安く済んでいるんじゃないか。彼らの前では言えないが、車にあまり費用をかけずにいられているのだから、笑われる筋合いはない。
「まあまあ、瞬も迎えに来てもらっておいてその言い草はないだろ」
見かねた緒方さんが間に入る。
「相葉先輩も、凪さんも、仲良しですね」
夏向くんの癒やされるような笑顔は、どこかずれているような気持ちもあったけれど、
「そうやってお互いに言い合えるのは、仲の良い証拠です」
そう続けられて、まんざらでもない気持ちにさせられてしまった。
感情のうえでは確かに認めているものの、素直に頷いてしまうのも照れくさいので返事に困る。
「そりゃあ、俺と凪は付き合いが長いからな」
鼻高々に割り入ったのは瞬だった。
「小学生のころからだろ? いいよな、幼なじみってやつか」
焼酎ボトルを手酌しながら、緒方さんは染み入るようだ。
「まあ・・・悪友みたいなもので。これでもずーっと私の片思いだったんですよ」
「はは、瞬ってそういうところ鈍いもんな」
「仕方ないだろ、凪がわかりにくかったんだよ」
「はいはい、それはごめんなさいね」
それからみんなのお酒はさらに進んで、瞬が眠たそうに大あくびをしたのをきっかっけにその場はお開きになった。
足下のおぼつかなくなった瞬を緒方さんと担いで、愛車の助手席に座らせる。
「ああ言っておいてなんだけど、やっぱり瞬がコンパクトカーに乗ってるのって違和感あるなあ」
「似合わないですよね、いつもごっついのに乗ってるから」
「さっきの瞬じゃないけどさ、やっぱり周りから茶々入れられるんじゃないの?」
「まあ・・・瞬にも、少しは良い車に乗れって言われますけど、私にはこの
瞬をはじめ、MFGの世界で生きている彼らにとっては物足りない車かもしれない。けれど、私から見れば愛着のあるパートナーだ。
「普段から運転するわけじゃないけど、かといって車がないのは不便だし。それに、気安く瞬の車を借りるわけにもいかないでしょ」
「それはそうだな」
緒方さんは肩をすくめて笑う。
助手席でうつらうつらとする瞬の瞼がうっすらと開いて、私と視線が交わった気がした。眠たそうに小さく手招きをされたが、車外からでは応えようもないので緒方さんとの会話に戻る。
「あと、これはここだけの話なんですけどね」
「お、なになに」
内緒話のように声をひそめると、緒方さんは愉快そうに耳をこちらへ向ける。
「ほら、GT-Rのリアって窮屈でしょ」
「まあ、4シーターとはいえ、後ろに人が乗ることはあまり想定されていないだろうな」
「でしょ。これから先、二人だけとも限らないし」
「ん? ・・・えぇっ!?」
「しーっ! 緒方さん驚きすぎ。冗談だって」
本当に冗談のつもりだったのに、思いのほか真に受けられてしまったので、慌てて取り直す。
「瞬に言ったらダメだよ。予選も近いんだから」
「お、おう。・・・そっか、一緒に住んでるんだもんな、そういうことも考えるよな」
「そんなに本気で捉えないで欲しいな。私が一方的に期待してるみたいで、恥ずかしいじゃない」
「瞬なら大丈夫だと思うよ。MFGパイロットの伴走は大変だろうけど、こいつはいいやつだから」
「うん。・・・私もそう思う」
「じゃ、こちらはお先に失礼します。帰りは夏向くんの運転ですか」
「ああ、俺が飲みたいからって頼らせてもらった」
運転席に座ってエンジンをかける。ウインドウを開けて、手を振った。
「気をつけて帰れよ。お幸せになー」
「はーい、緒方さんもね」
気が早いよと付け加えようかとも思ったが、アクセルを踏んでしまったので叶わなかった。駐車場からゆっくり出て行くと、私は車を走らせた。
*
発車してからしばらくの間、助手席の瞬は眠ったように静まりかえっていた。信号機の停車指示の合間に顔を覗けば、彼は車窓の外へ目を向けて何やら黙考のご様子。
「なあ、凪さ」
「ん、なに?」
青色の表示に変わったので、アクセルを踏む。
「さっき、なんでこっち来てくれなかったんだよ」
「んー?」
得意ではない運転であることが手伝って、思考の巡りはあまり良くない。
私がそれらしく返事を濁したのが瞬にとっては不服だったようで、拗ねたような息が隣で漏れる。
「手招きしたろ、さっき」
「・・・ああ、だって緒方さんと話してたし」
「ちょっと寂しかったんだけど」
えっ、と声を漏らしそうになって,慌ててハンドルを握り直した。
横目で瞬を見てみれば、フロントガラスをまっすぐに見つめて、わかりやすく口元を尖らせていた。
「・・・瞬、今日はよく飲んだんだね。水でも買って帰ろうか」
「別に、俺はいらねえけど・・・」
普段なら思ったことを明快に伝えてくれる瞬なのに、今日ばかりは幼くヘソを曲げたままだった。大概に飲んできたのだろうが、それだけではない予感がした。
ちょうど通りかかったコンビニの駐車場へ入って、シートベルトを外す。
「瞬は待っていていいからね」
そう言い置いて、私は運転席のドアを開けた。
「ほら、水飲んで」
「ん、」
「私が来るまでにどれだけ飲んでたの?」
「今日はいつもより盛り上がったんだよ、」
瞬はペットボトルの蓋を回し開けながら、ぽつりぽつりと述懐していく。
「緒方に言われたことが引っ掛かって、すげーモヤモヤしちまって」
――ちょっとからかったらさ、拗ねたんだよ。緒方さんが言っていたのは、たぶんこれのことだ。
「なにを言われたの」
「この先どうするんだ、って」
「MFGのこと?」
「ちげーって。・・・凪とのことだよ」
ごくりと喉を通ったのは、私の固唾だった。
瞬は私を見ないまま、伏し目がちにキャップを閉める。
「MFGパイロットのパートナーってのは、俺が思っている以上に大変なんだぜって」
パートナーという言葉にドキリとして、でも瞬が今言い表しているのは意味が少し違うのだろう。
パイロットと一般の会社員とを比べてしまえば、収入形態も違えば、何より生活のパターンが大きく異なる。特に私とのバイオリズムの差は顕著で、レース期には気を遣うことも少なくはない。
「もっと凪を大事にしろ、だって」
続けて、
「そうじゃないと、ほかの男に獲られるって」
いつもなら笑い飛ばすような話なのに、瞬があまりにも深刻そうに言うものだからそうはできなかった。
「バカ、もしかして不安になったの?」
「そんなんじゃねえけどよ・・・」
強がりのせいか、さっきから彼の口調はつっけんどんだ。
そんな瞬の不器用さが愛おしくて、
「私は瞬と一緒にいられて嬉しいよ」
なんのためらいもなく本音がこぼれた。
そりゃあ、瞬の起き抜けのころには出社してしまっているのは寂しい。けれど、あなたの毎日の寝顔に幸せを感じられるくらいには、私は瞬に惚れ込んでいる
それに、MFGに魂をかける瞬を好きになったのだから、今の生活に不満を抱いたことなんてなかった。
「だって、ずっと片思いだったんだよ」
「・・・おう」
この話題を挙げると、瞬はいつも決まりが悪そうに返事をする。
「何年間だと思う? 結構つらい思いもしたんだからね」
「・・・それは、悪かったよ」
「まあ、瞬はひとつも悪くないんだけどね。・・・そんな私が、瞬以外に目移りすると思う?」
そんなの愚問でしょ。わざわざ言わなくたって、瞬ならわかっていると思うけれど。
「凪、ちょっとこっち寄ってくれ」
「ん、なあに」
運転席から、助手席にいる彼の方へ体を乗り出す。
「緒方にいろいろ言われてさ、店に来てくれてからずっと、凪に触れたかった」
瞬の低い声に、車内の空気が変わる。
私の肩に彼の手が置かれて、優しく引き寄せられる。瞼を落として視界を暗にすると、顔のすぐ近くで瞬の息づかいを感じた。
ほんのりと香る酒のにおいが、扇情を煽る。
「凪、」
柔らかくて、でも少し乾いた瞬の唇が触れる。一度、二度、慈しむように頬にまで口づけが落とされる。
「・・・しゅん、」
息を継ごうとしたが、すぐに塞がれた。
空気を取り込むためのわずかな隙間、瞬の舌に唇を撫でられ、押し入るように口内へ割り込んでくる。
「ん、っ」
「凪、逃げんな、」
思わず身が強ばる。後ろへ退きそうになるのを後頭部にまわった瞬の手に制止される。
「あ、まって、瞬・・・っ」
彼の胸をそっと押し返してみるが、力の差では敵わない。
「こら、瞬ってば、」
瞬の頬を両手でつまんで、左右に引っ張る。
たまらず唇を離した瞬だけれど、その瞳の奥には冷めない熱欲と、うら寂しさが滲んでいた。
「なんだよ・・・嫌だったかよ」
「違うけど、・・・そんなにしたら、飲酒運転になっちゃうんじゃないかと思って。瞬、結構お酒のにおいするし」
わりと本気でそう心配したのに、瞬は吹き出すように笑った。
「くっ、はは、どうだろうな、大丈夫だろうけど、まあ確かにな」
笑いのツボにハマったのか、瞬は腹を抱えて笑いを堪えている。
さっきまでの名残惜しい瞳はどこへ行ったの。
「もう、真面目に心配してるのに!」
あの雰囲気の中で、理性を勝たせた私を褒めてもらいたいくらいだ。
「万が一のことがあったら、瞬が失業しちゃうかもしれないでしょ」
――MFGパイロット・相葉瞬、飲酒運転者の助手席に搭乗! 運転手は同棲中の彼女!
そんな記事が出回ってしまったら、業界からの抹殺は必至だ。
瞬はまだお腹を抱えて、でも何やら嬉しそうに噛みしめているようだった。
「やっぱ、凪のそういうところなんだよな」
「バカにしてる?」
「違うって」
じゃあなにを。そう噛み付こうとしたが、瞬のくしゃりとした笑顔に牙を抜かれる。
「俺の、凪の好きなところだよ」
「えっ・・・」
「いつもありがとうな。助かってる」
優しく抱き寄せられる。
ここが車内でなければ、もっと触れられるのに。惜しい気持ちが押し寄せる。
「・・・バカ。もう、早く家に帰ろう」
「そうだな。安全運転で頼むぜ、金メッキドライバーさん」
「ひと言余計なんですけど。公道最速の女を舐めないでよね」
茶化すように笑われたのが悔しかったので、冗談で返した。
「勘弁してくれよ。凪の車じゃ、せいぜい120キロが限界だろ」
「そりゃあ、瞬みたいに300キロも出せないけどさ」
「いつもそんなに出してるわけじゃないけどな」
瞬は愉快そうに助手席で笑う。
私がシートベルトを着けると、瞬もそれに習った。
「じゃ、帰ろうか」
「おう」
いち早く家に帰りたくなった。つい先ほどお預けにしてしまった、キスの続きをすぐにでもしたかった。
**
そろそろ緒方のお節介が始まる時間だった。
決起集会と称した飲み会も中盤を過ぎたところで、緒方はすっかり赤ら顔を呈していた。
「なあ瞬、凪ちゃんとはどうなんだよ」
――ほら、来たきた。
相葉は呆れたように息をついて、話し始める前に麦芽の香りを喉に通した。
「どうって言われたって、なんて答えたらいいんだよ」
緒方の隣に座る夏向も、その眼差しは興味ありげだ。
あまり後輩の前でさらけ出したい話題でもないし、どう切り出したらいいものか。相葉が考えあぐねているうちに、先にトピックを提供したのは緒方だった。
「だってさ、瞬、最近のレース好調だろ。凪ちゃんのおかげなんじゃないかなーって」
「は・・・?」
緒方が言うことは確かに正しい。ただし、相葉が思うにそれは前半においてのみである。
昨年よりランキングは上位に位置しているし、でもそれはセコンドブースの助言の賜物だろうと考えていた。現に、苦手であったタイヤの配分はレース終盤まで保つようになったし、それが結果に結びついていた。
「別に、俺はそんなので変わるような男じゃねえよ」
要は「幸せパワーで頑張れてるんじゃないか」などと緒方は言いたいのだろう。だが、MFGの世界は恋情で順位が上がるほど甘くはない。
・・・ン、待てよ。そうとも限らないかもしれないと、過去のオーバーランを顧みてしまったので、少し自信がなくなった。
とはいえ、凪と同棲を始めてから半年、相葉にとって特段の自覚はなかった。
「そうかなぁ。夏向はどう思う?」
「どうでしょう・・・相葉先輩はプロのレーシングドライバーですから」
話を振られた夏向は、困ったように返答を濁す。
「なんかあるだろ、生活の変化とか」
「緒方、老婆心も大概にしろよな。そういうのを余計なお世話っつーんだぜ」
これで話題を変えられればと、飲みかけのジョッキを緒方に差し出して何度目かの乾杯を勧める。緒方はそれに乗ると、半分ほど残っていた黄金色を飲み干した。
「そうだけどよー。飯がすごくうまいとかさ」
「おい、今日はやけに食い下がるな」
「だって気になるだろー。たまには惚気でも聞かせろよ」
目的はそれかと腹落ちして、相葉はこの半年間を回顧してみる。緒方を満足させるネタの一つでも提供しなければ、おそらくこの話題に終わりは見えないだろう。
一人暮らしの時分にはなかったけれど、同棲を始めて変わったことといえば。
「よく散歩するようになったな」
夕食のあと、たびたび凪から散歩に誘われていた。はじめのうちは面倒だからと気が進まなかったが、彼女に手を引かれるまま付き合っているうちにそれは習慣化していった。
「へえ、散歩かあ」
緒方はそれきたとばかりに目を光らせる。
「特別なこと話したりしてねえし、それがどうってことはないだろ?」
いつも交わすのは他愛のない会話で、その内容はほとんど覚えていないほどだ。近所を
せっかく答えてやっているというのに、緒方はまだ物足りないといった目で相葉を見る。仕方ない、もうひとつくらいくれてやるネタが出てこないだろうかと、相葉はもう一段深く回顧した。
――ああ、そういえば、
「凪ってさ、すっげえ聞き上手なんだよ」
「へえ、凪ちゃんらしいな」
「話題っていってもMFGくらいだし、いつもレースの話ばっかだけどな」
「瞬らしいなー」
会話の主体はいつも相葉であったし、話題の多くはマシンやレースについてばかりだった。
「あんまり難しい話をしたら、凪ちゃんだって困るんじゃないのか?」
「ん? そんなこと、ないと思うけど」
思い返してみれば、話に夢中になるがゆえに専門用語を羅列してしまうこともあった。素人の凪を相手に熱くテクニカルを語ったところで右から左だろう。だが、会話を流し聞くような態度を相葉が彼女から感じたことは一度もなかった。
どんなに相葉に熱が入っても、素人には理解の難しい領域に突入しても、凪は困惑することなく相葉の言葉に耳を添えていた。
「俺と話してるうちにいろいろと覚えていってるんだろ」
それくらいにしか思っていなかったのだが、
「なるほどなぁ」
緒方は何やら点が繋がったのか、顎に手をつけて考える人のポージングをする。
半分のぼせたような顔をして、何を考えつくというのか。
「凪ちゃん、やるなあ」
「どういう意味だよ」
自分より先に緒方が把捉したのが、相葉は少し気に食わなかった。
「緒方さん、僕も気になります」
「夏向・・・やめてくれって」
可愛げのあるはずの後輩も食い気味で、雲行きの怪しさに眉が下がる。
「MFGパイロットってさ、本人たちが思っているよりも気難しいところがあるんだよ」
「俺は凪に当たったりしてねえぞ」
「んなことわかってるよ。当たってたらサイテーだろ」
呆れたように緒方に笑われる。
「俺みたいなメカニック
レース中の些細なミスが命に関わることもある中で、パイロット全員が一つでも上の順位を目指して争っているのだ。並の神経ではすり減って保たない。
「瞬はさ、きっと凪ちゃんにマインドセットしてもらってるんだな」
緒方の概説が、やけに腑に落ちた。
「・・・マインドセット、か」
無関係だと思っていた点同士が、だんだんとその距離を縮めていく。思い当たることが次々に浮かんで、追想が止まらなくなる。
凪はいつも穏やかに、相葉の気が済むまで言葉を引き出していた。相葉の熱量のすべてを受け止めてくれたし、何より無粋なアドバイスをすることは一度もなかった。
散歩から帰宅するころにはすっきりと頭の整理がついていたし、レース間近、制御できない昂りで眠れなかった夜はいつの間にかなくなっていた。
「・・・マジかよ」
彼女に付き合っていたはずの散歩は、すべて相葉のためだった。
額に手をつけた相葉は、大きな溜め息を漏らす。
「自覚なかったのかよ。ほんっと不器用だなぁ瞬は」
だいぶ酒が進み、顔色が紅潮にまで至った緒方はさらに続ける。
「そんなんじゃ、ほかの男に獲られても知らないぜー」
「は!?」
割れんばかりの勢いで、相葉はジョッキをテーブルに叩き置く。
普段なら深追いしない緒方だが、思いもよらず狼狽える相葉がおかしくて、酒の勢いに任せてもうひとつ追撃したくなった。
「凪ちゃんみたいなタイプってさ、MFGパイロットにはよく受けるだろ」
「・・・知らねえよ、そんなの」
「男に自覚させないような気の遣い方ができて、実績も上げさせてる。明るくて快活だけど、自分が前に出るタイプじゃないところがバランスいいよなー」
「そういうもんかよ、」
「そうだぜー。神15の常連陣なんてみんな粒ぞろいだろ、顔も資金もさ。ちゃんと捕まえておかねえと後悔するぞ」
「あの、緒方さん言い過ぎかもしれません」
「え?」
さすがの夏向も呆れて、緒方にストップをかける。
相葉が低く項垂れていることにようやく気が付いた緒方は、申し訳なさそうに彼の肩に手を置く。
「わ、悪い、瞬、そんなに効くとは思わなくて」
「いや、緒方の言うとおりだ」
漠然と抱いていた彼女の魅力をこうも簡単に緒方に詳述されて、相葉は痛恨の一撃をくらったような思いだった。しかも、それがまた的確なのも相葉の敗北心をさらに強くさせていた。
凪が相葉に惚れ込んでいることは揺るぎない事実で、それは相葉自身が肌で感じていることだった。
彼女から注がれる愛情の源泉は、相葉への長年の片思いに他ならなかった。だから、凪が相葉に妬くことはあっても、その逆はなかった。
凪が他人になびくなんて、彼女に限ってはあり得ない。頭ではそうだと断言できるのに、相葉の心中は激しくざわついていた。
「あーくそっ。今日は飲むぞ、飲み尽くすぞ!」
やけになってジョッキをあおる。緒方のそれも空になっていたので、迷うことなく焼酎セットを注文した。
「相葉先輩、飲みすぎには気をつけてくださいね」
「これが飲まずにやってられるか! 夏向がハタチだったら付き合わせてるところだぜ」
「英国では18歳からお酒を飲めます」
「うるせえ。ここは日本だ!」
「酒乱は凪さんに嫌われてしまいますよ」
「~~~~っ!」
思いもよらない夏向からのボディブローに、相葉はあっけなく撃沈する。
「くそ・・・なんか、悔しいぜ」
彼女の側にあると高をくくっていた情愛は、相葉の気が付かないうちに自身の側へ比重を重くしていた。それをやっと、相葉は自覚したのだった。
「瞬、素直になれよ。凪ちゃんに相当惚れてるんだろ」
「言うな緒方! ・・・もうわかったから」
身体の芯を駆けていく情動に、相葉は覚えがあった。
それはかつて、凪ではない異性に抱いていた熱愛由来の感情だった。彼女は自分だけのものだと、ままごとのようなフレンチキスであろうと他人に奪われたくはなかった。
そんな渦巻くような欲求は、凪が相葉の隣を歩くようになってからすっかり腹の奥で眠っていた。凪から揺らぎなく愛されているという無自覚の余裕が、相葉の心の平穏を保たせていたからだった。
どうしようもなく、凪に会いたくなった。
どうせ今ごろ、呆け面でもして家でだらけているんだろ。それなら今すぐ俺の隣に座って、陽気に笑っていてくれよ。
こんな思いを抱えて、正直どんな顔をして会ったらいいかわかんねえけど。
行き場のないこの独占欲を満たすには、凪の声を聞くしかなかった。滑らかな彼女の肌に触れて、その唇を濡らすほかに、相葉は手段を見つけられなかった。
ポケットからスマホを取り出すと、凪に向けてメッセージを打ち込む。
「なんだよ、もう迎え頼むのかよ。お開きには早いんじゃねえの」
それを見て、緒方が不平をこぼす。
「あ? お開きになんてしねえよ。・・・ちょっと、顔が見たくなったんだよ」
変わったことがあるものだと、緒方と夏向は顔を見合わせる。
照れ隠しのつもりなのだろうが、相葉の眉間にはすっかり皺が寄り、見るからに仏頂面だ。
「瞬・・・その表情だと、すっげえ不機嫌に見えるぞ」
「う、うるせえなっ。じゃあ、どんな顔したらいいんだよ」
「相葉先輩、スマイルです」
「それができれば苦労しねえって」
打ち込み途中のメッセージを完結させて、わずかな躊躇ののちに相葉は送信ボタンを押した。
『そろそろ迎えきてくれ』
会いに来てくれなどとは、到底恥ずかしくて言えるはずもなかった。きっと彼女は、色気がないと笑うだろう。
終わり
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