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快晴の朝なのに、私だけが濡れていた。
瞬から告げられた残酷な現実は、この身にはまだ染みきっていない。
彼女ができたのだと、本来なら祝福してやるべき事象なのに、それは私の首を落とすほどに凄惨な事実だった。
きっと「ちゃんと区切りをつけてくる」などと彼女に宣言をして、瞬は今ごろ私の家へ向けてGT-Rを走らせているのだろう。
前もってまとめておいた瞬の着替えは、紙袋2つ分になった。彼の匂いなんてとっくに消えて、わが家の柔軟剤のそれになった瞬の部屋着やポロシャツたちが押し込められている。
愛車での移動が基本である彼と晩酌を交わすときは、どちらかの家に泊まるのがお決まりだった。
人の目のない小さな巣で、酒に酔ったはずみで指先が触れることもあった。くだらない罰ゲームだと称して、赤らむ彼の頬をついばむことだってあった。
それでも私たちの表面上の関係は「仲の良い幼なじみ」の域を出なかった。甘酸っぱい思いに浮かれて、曖昧な関係を続けることに悦を感じていた。それだけで、満たされた気になっていた。
着替えを取りに来ると約束した時間の5分前というところで、聞き慣れたエンジン音が階下で響く。それから30秒、1分、2分、――チャイムが鳴る。
玄関ドアをゆっくりと押し開ける。いつもなら「よっ」と機嫌良く笑って、晩酌の買い出しを渡してくれていた瞬なのに。その笑顔は、つい先週まで私に向けられていたはずなのに。
緊張で強ばった表情の瞬は、私の知っている彼ではなかった。
「悪い、急に無理言って」
決まりの悪そうに、瞬は視線を逸らす。
普段だったら躊躇なく玄関に上がるのに。瞬は開けられた玄関ドアを手で押さえて、その足は外廊下に揃えられたまま中に入ろうとはしなかった。
重たい空気にしたいわけじゃなかった。ほんの少しの間だけなら、笑顔を顔に貼り付けて瞬を見送ってあげられると思っていたのに。
先に瞬にそんな顔をされたら、私の厚化粧なんてすぐに崩れてしまうじゃないか。
彼なりに固めてきたのだろう「けじめ」の行動が、棘のついた鞭となって胸を締め付けてくる。
「・・・着替え、持ってくるから上がって」
上がり框 にでも腰掛けれていればと促したが、瞬の「けじめ」は頑なだった。近所の目もあるからと玄関内には招き入れたものの、彼の足はそれ以上前には進まなかった。
瞬は低い声で「頼む」とだけ口を開く。うん、と返事をしてしまえば、もう声は震えてしまいそうだった。
私は黙って部屋の奥へ着替えを取りに行った。
2つの紙袋を瞬に手渡すと、それと引き換えに大きめのビニール袋が手渡された。わざわざ確認しなくとも、袋の中身はすぐにわかった。
「ありがとう、持ってきてくれたんだね」
瞬の家に置かせてもらっていた私の着替えが、丁寧に折りたたまれて入っていた。ほんと、嫌になる。服の端を綺麗に揃えて畳める瞬なんて、私は知らないから。
「・・・凪、悪かったな」
「そんな、別に・・・」
やめてよ、そんな顔をするのは。謝るくらいなら私の恋心に責任をとってよ。それができないなら、罪悪感で染まった表情で私を見ないでよ。
瞬の方が苦い表情をするなんて、ずるいと思った。
あなたはこれから幸せになっていくのに。地獄に落ちるのは私だけなのに。
涙を流していいのは、私だけの権利のはずだ。
沈黙に落ちたくない一心が、苦し紛れにある忘れものを思い出させた。
「あのさ、あれ、よかったら持っていってよ」
うちにたくさんあっても困るからと、キッチンから一本、二本とワインボトルを持ち出す。
「ああ、そうだったよな・・・」
瞬のレースの賞金で買ったビンテージワインだった。あとで一緒に飲もうと保管していたが、もったいないからと開栓を先延ばしにしていた。飲まず終いとなったせっかくの高級ワインは、すっかりいわくつきの物品に成り下がっていた。
瞬としても、そんなものを彼女の待つ家に持ち帰るのは抵抗があるのだろう。
でも、それってフェアじゃないでしょ。
「・・・瞬、痛み分けだよ」
毒含みの言葉が私の口から落ちた。
「私一人で飲むには、荷が重いよ」
それは、フルボトルだからという意味ではない。
私の恋情を知りながら、逃げ去ってしまうあなたの罪の重さ。だから、痛み分け。
「そうだよな・・・ごめん。もらってく」
瞬はハッとして、床に置かれたワインボトルを手に取った。
そのワインを口に含みながら、わずかばかりでも私を慮 ってもらいたかった。そうでなければ、素直に身を引いた私の思いが浮かばれないから。
一生かかったってあなたの恋を肯定できないから。せめて痛みとなって、瞬の心に残りたかった。
「凪、元気でな」
最後の言葉を置いて、瞬は私に背を向ける。
ねえ、私たちはただの幼なじみなんだよ。あなたの恋が成就したら、それすらもなかったことになってしまうの。
こうなったのは中途半端に関係を踏み出した報いだった。決意もなしに、私があなたの肌に触れたから。
瞬との爽やかな友情を先に踏みにじったのは私だった。
「瞬も、元気でね。次のレースも応援してる」
彼の背中に、精一杯の強がりを投げる。
掠れる声で「ああ」と瞬は頷いて、その手がゆっくりとドアノブにかかる。
行かないで。もう終わりだなんて、背中を向けないで。
せめて学生のころのように、海辺を転げ回る友人であり続けてもらいたかった。
「・・・凪、ごめん、それはダメだ」
ひどい嗚咽に襲われながら、瞬の背中を縋り抱いていた。
新しい恋に向かう瞬にとって、私は後ろめたい存在にほかならなかった。いたずら心で指を絡ませたあの日から、こうなることは運命づけられていたのかもしれない。
引き止めようと抱きしめた彼の腰は硬くて、私の力ではびくともしなかった。
「凪・・・ごめん」
私の腕を引き離そうと、触れてきた瞬の手は震えていた。その指先の冷たさが、私にすべてを悟らせた。
柔らかく手首を掴まれて、体が離される。
短い呼吸の合間から私も「ごめん」を絞り出そうとしたが、うまくいかなかった。
瞬は何も言わずにするりと玄関を抜けていく。追いすがる気力はもうなかった。
あなたに惚れたことを後悔したことはない。ただ、ゴールまでの道のりを私は間違えてしまった。積み上がった小さなミスの山が、最終的に大きな亀裂となって結実した。
窓から差し込む太陽光は暖かくて、晴れやかな快晴の空が遠くまで伸びている。
大好きだったエンジン音を胸に響かせながら、私だけが深い悔恨の雨に濡れていた。
終わり
瞬から告げられた残酷な現実は、この身にはまだ染みきっていない。
彼女ができたのだと、本来なら祝福してやるべき事象なのに、それは私の首を落とすほどに凄惨な事実だった。
きっと「ちゃんと区切りをつけてくる」などと彼女に宣言をして、瞬は今ごろ私の家へ向けてGT-Rを走らせているのだろう。
前もってまとめておいた瞬の着替えは、紙袋2つ分になった。彼の匂いなんてとっくに消えて、わが家の柔軟剤のそれになった瞬の部屋着やポロシャツたちが押し込められている。
愛車での移動が基本である彼と晩酌を交わすときは、どちらかの家に泊まるのがお決まりだった。
人の目のない小さな巣で、酒に酔ったはずみで指先が触れることもあった。くだらない罰ゲームだと称して、赤らむ彼の頬をついばむことだってあった。
それでも私たちの表面上の関係は「仲の良い幼なじみ」の域を出なかった。甘酸っぱい思いに浮かれて、曖昧な関係を続けることに悦を感じていた。それだけで、満たされた気になっていた。
着替えを取りに来ると約束した時間の5分前というところで、聞き慣れたエンジン音が階下で響く。それから30秒、1分、2分、――チャイムが鳴る。
玄関ドアをゆっくりと押し開ける。いつもなら「よっ」と機嫌良く笑って、晩酌の買い出しを渡してくれていた瞬なのに。その笑顔は、つい先週まで私に向けられていたはずなのに。
緊張で強ばった表情の瞬は、私の知っている彼ではなかった。
「悪い、急に無理言って」
決まりの悪そうに、瞬は視線を逸らす。
普段だったら躊躇なく玄関に上がるのに。瞬は開けられた玄関ドアを手で押さえて、その足は外廊下に揃えられたまま中に入ろうとはしなかった。
重たい空気にしたいわけじゃなかった。ほんの少しの間だけなら、笑顔を顔に貼り付けて瞬を見送ってあげられると思っていたのに。
先に瞬にそんな顔をされたら、私の厚化粧なんてすぐに崩れてしまうじゃないか。
彼なりに固めてきたのだろう「けじめ」の行動が、棘のついた鞭となって胸を締め付けてくる。
「・・・着替え、持ってくるから上がって」
上がり
瞬は低い声で「頼む」とだけ口を開く。うん、と返事をしてしまえば、もう声は震えてしまいそうだった。
私は黙って部屋の奥へ着替えを取りに行った。
2つの紙袋を瞬に手渡すと、それと引き換えに大きめのビニール袋が手渡された。わざわざ確認しなくとも、袋の中身はすぐにわかった。
「ありがとう、持ってきてくれたんだね」
瞬の家に置かせてもらっていた私の着替えが、丁寧に折りたたまれて入っていた。ほんと、嫌になる。服の端を綺麗に揃えて畳める瞬なんて、私は知らないから。
「・・・凪、悪かったな」
「そんな、別に・・・」
やめてよ、そんな顔をするのは。謝るくらいなら私の恋心に責任をとってよ。それができないなら、罪悪感で染まった表情で私を見ないでよ。
瞬の方が苦い表情をするなんて、ずるいと思った。
あなたはこれから幸せになっていくのに。地獄に落ちるのは私だけなのに。
涙を流していいのは、私だけの権利のはずだ。
沈黙に落ちたくない一心が、苦し紛れにある忘れものを思い出させた。
「あのさ、あれ、よかったら持っていってよ」
うちにたくさんあっても困るからと、キッチンから一本、二本とワインボトルを持ち出す。
「ああ、そうだったよな・・・」
瞬のレースの賞金で買ったビンテージワインだった。あとで一緒に飲もうと保管していたが、もったいないからと開栓を先延ばしにしていた。飲まず終いとなったせっかくの高級ワインは、すっかりいわくつきの物品に成り下がっていた。
瞬としても、そんなものを彼女の待つ家に持ち帰るのは抵抗があるのだろう。
でも、それってフェアじゃないでしょ。
「・・・瞬、痛み分けだよ」
毒含みの言葉が私の口から落ちた。
「私一人で飲むには、荷が重いよ」
それは、フルボトルだからという意味ではない。
私の恋情を知りながら、逃げ去ってしまうあなたの罪の重さ。だから、痛み分け。
「そうだよな・・・ごめん。もらってく」
瞬はハッとして、床に置かれたワインボトルを手に取った。
そのワインを口に含みながら、わずかばかりでも私を
一生かかったってあなたの恋を肯定できないから。せめて痛みとなって、瞬の心に残りたかった。
「凪、元気でな」
最後の言葉を置いて、瞬は私に背を向ける。
ねえ、私たちはただの幼なじみなんだよ。あなたの恋が成就したら、それすらもなかったことになってしまうの。
こうなったのは中途半端に関係を踏み出した報いだった。決意もなしに、私があなたの肌に触れたから。
瞬との爽やかな友情を先に踏みにじったのは私だった。
「瞬も、元気でね。次のレースも応援してる」
彼の背中に、精一杯の強がりを投げる。
掠れる声で「ああ」と瞬は頷いて、その手がゆっくりとドアノブにかかる。
行かないで。もう終わりだなんて、背中を向けないで。
せめて学生のころのように、海辺を転げ回る友人であり続けてもらいたかった。
「・・・凪、ごめん、それはダメだ」
ひどい嗚咽に襲われながら、瞬の背中を縋り抱いていた。
新しい恋に向かう瞬にとって、私は後ろめたい存在にほかならなかった。いたずら心で指を絡ませたあの日から、こうなることは運命づけられていたのかもしれない。
引き止めようと抱きしめた彼の腰は硬くて、私の力ではびくともしなかった。
「凪・・・ごめん」
私の腕を引き離そうと、触れてきた瞬の手は震えていた。その指先の冷たさが、私にすべてを悟らせた。
柔らかく手首を掴まれて、体が離される。
短い呼吸の合間から私も「ごめん」を絞り出そうとしたが、うまくいかなかった。
瞬は何も言わずにするりと玄関を抜けていく。追いすがる気力はもうなかった。
あなたに惚れたことを後悔したことはない。ただ、ゴールまでの道のりを私は間違えてしまった。積み上がった小さなミスの山が、最終的に大きな亀裂となって結実した。
窓から差し込む太陽光は暖かくて、晴れやかな快晴の空が遠くまで伸びている。
大好きだったエンジン音を胸に響かせながら、私だけが深い悔恨の雨に濡れていた。
終わり
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