私たちは木の上から見守るだけです
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しばらくノックの見学をしていると、背後から近づいてくる足音に私は首を右に捻って後ろを振り返る。洋一も足音に気がついたようで、私とほぼ同時に振り向くと足音の主と視線が交わった。
「よ、倉持ご夫婦。久しぶり。礼ちゃんも変わらず美人だね」
「あっ、御幸。久しぶり」
「よお、やっと来たか」
グレーのチェスターコートに身を包んだ御幸は顔の横で手をプラプラと振りながら、こちらにやってくる。トップスとパンツは黒色にまとめられていて、なかなかお洒落だ。
「あら、御幸くん久しぶり。待っていたわ」
今日の見学にあたっては洋一と私だけでなく、御幸も予定を合わせて来ることになっていた。
「ひえー、相変わらずきっつい練習だな」
「な、もう二度とやりたくねーよな」
そんなことを言って、本心は「グローブ持ってくればよかった」のくせに。
右から礼ちゃん先生、私、洋一、御幸の順に並んでネット越しにノックの見学をする。あの頃は若かったよなー、十代だもんなー、ニカニカと笑う御幸は、息を切らして打球に必死に食らい付く後輩たちを見ては楽しそうだ。
御幸と会うのはもう2年ぶりだろうか。最後に会ったのは息子が中学2年生のとき、息子の所属するシニアの大会があるからと声を掛けてみたところ、わざわざ見に来てくれたんだっけ。
「倉持家のご長男も活躍しているみたいで」
「ええ、とても彼はとても有望よ」
「息子くん、見ないうちに体も大きくなったな」
「中学ンときに比べればな。まだこれからだろ」
「最近やっと、どんぶりご飯3杯に慣れてきたんだって」
「んなこと言ってたか?」
「たまに連絡くれるよあの子」
「俺には連絡来てねーぞ」と眉をひそめる洋一に御幸は高校時代と変わらず高く笑う。
「倉持くんも親だねー」
「るせーな。そりゃ気になるだろ」
「はは。ま、続きはこのあと聞かせてもらおうかな」
今月の初めに当時の3年B組のクラス会が開催されたのだが、私たち夫婦は用事があって参加できなかった。御幸も同様に不参加だったようで、代わりに3人だけで忘年会でもしようと約束をしていたのだ。
仕事の都合もある中でお互いの予定が合ったのが今日、12月29日という
「御幸くんと倉持くんは相変わらず仲が良いのね」
「やめてよ礼ちゃん。おっさん二人が仲良くしてたって、面白くないでしょ」
肩を竦める御幸に、洋一も頷いて言葉を続ける。「こいつ今でも俺くらいしか友達いないみたいっすよ」。それはあなたも同じでしょうよ、わが夫よ。
**
思い出の校舎をあとにして、呼んでいたタクシーに3人で乗り込む。助手席に私が座り、洋一と御幸には後部座席に座ってもらった。「俺が助手席でいいよ」と気を遣ってくれる御幸に、「久しぶりに会うんだから、洋一とたくさん話してあげて」と席を譲ったのだった。
私は左肩からシートベルトを引き、運転手に行き先を伝える。後部座席でも同様にシートベルトを引く音が聞こえて、車両が動き始めると同時に二人の楽しそうな会話が始まった。
「最近の練習もかなり進化してるみたいだぜ。AIだのVRゴーグルだの使ってるんだと」
「へー。俺らのころと違うのな。青道は金あるからなー」
野球部のやつらと連絡取り合ってあるか?、あいつの子どもも野球やってるらしいぞ、とか、話題は大人のするそれだけれど、二人の雰囲気は和気あいあいとしていて、懐かしい気持ちに私の口元は自然とほころぶ。
「お客さん、もしかして青道高校の生徒さんだったんですか?」
「はい、もうだいぶ昔ですけどね」
彼らの会話を聞いていたのか、運転手が話しかけてくる。
「そうですか。私もね、ここ20年タクシーやっていましてね、この辺りをずっと回っているもんで、青道高校の生徒さんを何度も乗せてきましたよ」
「もしかしたら、当時の私たちもお世話になっていたかもしれませんね」
「俺たち、野球部だったんですよ」
御幸の返事に、「青道高校の野球部さんでしたか!それは大変でしたね。樋口病院へ野球部員を乗せたこともありましたよ」と、さも有名人の誰々を乗せたことがある、と自慢をするようにはっはっは、と笑いながら運転手は続ける。
「あそこの病院の先生は、目つきは悪いが腕は確かだったね。もうだいぶ前にお辞めになったけどねぇ」
「あ、俺、その先生に診てもらったことあります」
脇腹を押さえながら小さく手を挙げる御幸に、私も洋一も思わず吹き出してしまった。
*
ほどなくして目的地のお店に到着する。助手席の私がタクシー代を支払おうとすると、御幸は「俺が払うよ」とクレジットカードを出してくるが、「こちらが誘ったんだからさ、これくらいいいよ」とその手を制した。御幸の横で「そーだそーだ」と頷く洋一。
「じゃ、お言葉に甘えて。ありがとう」
「その代わり」
「へ?」
タクシーの後部座席から降りながら、洋一はニヤリと笑う。私もそれに続く。
「今日はたくさん飲もうね!」
「ヒャハ!そういうことだ」
御幸の右腕を洋一が、左腕を私が組み、引きずり込むように入店した。
*
乾杯!それぞれ手に持ったビールジョッキをガチンと当てて、冷えたビールを思い思いに口に運ぶ。ボックス席の通路側に洋一、その隣の壁側に私が座り、テーブル越しの正面に御幸が腰掛ける。
話題は先ほど見てきたウィンターキャンプ、さらには私たちの息子についてだった。
「さすが倉持の息子というか、良い守備してたよな」
「お前に褒められると変な感じするな」
御幸の言葉に洋一が謙遜しないのは、わが子への自信や愛情からだろうか。
夫だって、わが子の野球の実力がどれほどなのか、青道野球部員の中で多少なりとも目立てていることはわかっているから、チームメイトとして共に戦ってきた御幸から息子を褒められて嬉しくないはずがない。少なくとも、私はすごく嬉しい。
「しかし、よく青道にしたよな。大森としては、そのへんどうだったの?」
私を旧姓で呼ぶのは高校の同級生たちだけだ。テーブルを挟んで反対側に座る御幸は、若干頬を赤くして私に話を振ってくる。そういえば、御幸はお酒があまり強くないんだっけ。
「私も洋一も、あえて青道は勧めなかったよ」
「いくつか野球推薦あったのによ、わざわざ青道を選びやがってさ」
「この
「父さんには負けない!って感じ?」
ただ、私は知っているのだ。息子が青道を選んだ理由が、父への対抗心だけではないことを。幼いころから野球の楽しさを教えてくれた父親へ対する感謝、ビデオで見る父親の青道野球部時代の卓越したプレーに対する憧れであることを。
洋一が3杯目のビールを飲み終え、ゴト、とテーブルにジョッキを置く。御幸はようやっと1杯目を飲みきるところだ。
「次はなに飲む?」
洋一にアルコールのメニューを渡しながら、自分も次の注文を決めるために一冊のメニューを二人で眺める。
「お前ら、いつもこんな感じで飲んでんの?」
「うん、私たちちょうど同じくらい飲めるからさ」
「
卓上の呼び出しボタンを押しながら、洋一は続ける。
「お前もたまにはうち遊びこいよ」
「えー、お二人の愛の巣に?」
「愛の巣って・・・結婚してもう何年経ってると思ってるのよ」
ご注文お伺いします――店員が私たちのテーブルへやってくる。
「私、日本酒にしようかな」
「じゃ、日本酒1合、お猪口は・・・御幸も飲むか?」
「あー、うんじゃあ少しもらおうかな」
「お猪口3つでお願いします」
*
「そういえば、青心寮 綺麗に建て替えられてたなぁ」
私たちに合わせて日本酒をちびりちびりとあおる御幸の目はトロンとしている。話題は未だに母校についてだ。
「5号室のあの伝統、まだ続いているらしいぜ」
楽しそうな洋一に、「ああ、あれか」と本人から聞き及んだ新入寮生歓迎の儀式を思い浮かべる。
「えっ、
「らしいよ。息子が入寮するときにやられたんだって」
「親子で5号室とか、絶対 礼ちゃんの仕業だろ」
*
「じゃ、そろそろお開きにするか」
時刻は21時をまわったところ。お互いたらふく――気持ちよくお酒を飲み、思い出話しもし尽くしたところで、店を出ることにする。
結局、御幸はあのあとお猪口を一杯だけ飲み干したところでノンアルコールに切り替え、帰るころにはほぼ
私も洋一ももう半合ずつ飲めそうなところで、合い言葉にしている“お酒は引き際が大事”を思い出して、御幸同様にノンアルに切り替えていた。
「大森、誘ってくれてありがとな」
「うん、楽しかったね」
「倉持も、奥さん大事にしろよ」
「ああ、またな」
年末の夜の空気はキンと冷え込んでいる。御幸は白い息を吐きながら、やってきたタクシーに乗り込んで私たちに手を振った。
「私たちも帰ろっか」
「そうだな」
洋一は車道に半身を乗りだして、次々にやってくるタクシーの一台を手を挙げて止めた。目の前にきたタクシーのドアが開くと、今度は二人で後部座席に乗り込む。先に乗り込む私の手を洋一は瞬時に握り、「ゆっくりでいいぞ」とエスコートしてくれる。
洋一は私の手を握ったまま続いて乗車し、シートベルトをつけるために一瞬手を離したが、またすぐにつなぎ直してくれるのであった。
(信頼し合っているご夫婦は素敵ですね)