私たちは木の上から見守るだけです
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「わあ、懐かしいね」
懐かしの学び舎―――最も感慨深いのはグラウンドに対してだけれど――は、卒業をしてから20年以上の月日が経過しても私たちの目には変わらないように見えた。
正確にいえば、野球部の設備は時代に合わせてグレードアップしているようで、最近ではAI技術を用いた投球・打撃フォームの向上練習やVRゴーグルを使ったバッティング練習を取り入れているらしい。
私と夫の洋一は、共に3年間を過ごした青道高校にやってきた。校門をくぐり、目的地である野球部のグラウンドへ向かうところ。今日は
私たちの息子が青道高校野球部に入部したのは、今年の春のこと。夫の影響で幼いころから野球を始めた息子は、中学生時代は都内の強豪といわれるリトルシニアに所属、有り難いことに複数の高校から野球部推薦を受けていた。青道高校もそのうちの一つで、親としてはあえて母校を息子に推すことはしなかったが、「父さんには負けない」との本人の希望から、春から寮生活をスタートさせていた。
「こう寒いときに
「そうだね。今ごろ、死ぬ思いで練習しているんだろうね」
肩をすくめながら苦笑いをする夫は、物思いにというか、ある意味で畏怖の念を浮かべるような表情をする。何年経っても、あのウィンターキャンプを忘れることはできないのだろう。
マネージャーとして時間を共にした私でさえ、選手たち――同級生に、当時から付き合っていた洋一も含めて―――の鬼気迫る表情は未だに脳裏に焼き付いている。
ざ、ざ、と校庭の砂利を踏みしめながら、グラウンドへ歩を進める。
「この時期はやっぱギャラリーはいないな」
「そうだね。選手たちにとっては厳しい練習だけど、端から見たら面白くはないもんね」
春・夏の時期には野球部のグラウンドには練習を見に来るギャラリーやOBが多く来るようになるのだが、私の右側を歩く洋一の吐く息は白く染まっていて、今が野球の盛期ではないことを物語っている。12月29日、いわゆる地獄の冬合宿の最終日に私たちは母校を訪れたのである。
もちろん、明日には息子は帰省してくる予定なので、わざわざ今日、親が練習を見に来ることもないのだけれど、今夜は
校舎に植えられた桜の木はその葉を落とし、枝の先にはまだ膨らみとも言えない小さな蕾をつけて、冬の到来に身を縮めている。
「確かに俺らもキツかったけど、凪も大変だったよな」
「あら、どうしたの、急に」
母校の敷地に入ったことで、洋一も私もセンチメンタルな気持ちになっているのかもしれない。それもそうだ。自分たちの高校3年間の青春すべてを捧げた場所なのだから。
「いや、当時もそれはわかっていたけどよ、青道に戻ってくるといろいろ思い出すんだよ」
「俺は特に、凪が近くにいたから頑張れたかも」だなんて、今になってそんなことを言われると胸が熱くなってしまう。当時の私は、自分の存在なんてちっぽけで、何よりも彼を支えたのは洋一自身の野球へのプライドや意地、執念にも近いものだと思っていた。
ただ、結婚して十数年、日常生活での私への頼りっぷりを見ると、さっきの言葉もおだてではないのだろうと思える。
「ふふ、ま、
「ああ、いつもありがとうな」
グラウンドでは内外野ノックを受ける選手、素振りに力を注ぐ選手などで熱気を帯びている。息子の姿を探そうとも思ったが、あまり熱心に探してしまっては、年頃の息子に申し訳ないだろうか。それでも、思わずグラウンドを右から左へと眺めてしまうのはきっと親心だ。
冬の合宿の厳しさを知っている身としては、わが子の姿を目の当たりにしたら感極まってしまうかもしれない。
「あ、ほらあそこ。・・・礼ちゃん先生、お久しぶりです」
一塁側グラウンドのフェンス外に立って練習を見守る女性を見つける。スラリとした美脚のその女性の美貌は、いくら時を経ても衰えを知らないようだ。
「大森さんに倉持くん。久しぶりね。待っていたわ」
失礼、お二人とも倉持さん、でしたね。茶化すように微笑む礼ちゃん先生は同性の私でも見惚れるというか、女性として目標としたい佇まいを備えている。
「高島副部長、お久しぶりです」
「あら、今は副部長じゃなくってよ」
お邪魔でなければ、と事前に礼ちゃん先生に連絡を取り、野球部の練習を見に来ることになっていた。ギャラリーのいない時期だし、貴方たちなら大歓迎よと快く受け入れてもらったのだ。
「この季節にグラウンドに来ると、嫌な記憶が蘇りますね」
冗談交じりに笑う洋一に、礼ちゃん先生はまたクスリと笑う――ええ、きっと彼らも今同じ気持ちよ。
「
私では到底聞けそうにない質問を夫の洋一は臆さずに礼ちゃん先生へ投げかける。
親である私たちに気を遣ってか、それとも本心なのか、礼ちゃん先生は丁寧な言葉で息子を褒めあげてくれた。――「まるで、当時の倉持くんを見ているようだわ」
「親の背中を追っているようでは、まだまだです」
「そうかしら。でも、青道に来て大いに刺激を受けているのは間違いないわ」
「これからノックのようね。気になるでしょうから見ていきましょうか」
「あ、はい」
当時から変わらない高いヒールをコツリと鳴らして、「どうぞこちらへ」と手招く礼ちゃん先生についていく。ホームベースのバックネット裏。グラウンド全体を見渡せるその場所からは、内野の守備につく選手の顔が一人ひとりよく見えた。
逆を言えば、選手側からもこちらはある程度はよく見えるわけで、息子が私たちを見つけたらどんな気持ちになるだろうと考えると、申し訳ない気持ちにもなる。思わず、体を半分だけ、礼ちゃん先生の後ろに重ねてしまった。
「隠れなくてもいいだろ、見つかったりはしねーよ」
「そ、そうかな」
「
言われてみれば、確かにそうかもしれない。マネージャーであった当時、夫――当時は彼氏だったけれど――の活躍を間近で見たくてよく練習を見ていたけれど、のちのちに洋一から私が練習を見ていたことを指摘されたことは一度もなかった。
それだけ野球に集中していたということだ。今日のノックのあのプレー、すごく格好良かったねと伝えても、「いつ見てたんだよ、気がつかなかった」とばかり答えられていたな。そういう野球一筋なところも、洋一に惚れた一因でもあった。
学生時代の甘い記憶を辿っていると、聞き慣れた声にハッと顔を上げる。「まだまだぁ!」息を切らしつつも、怒声に近い迫力のある声。
ショートのポジションに目を向けるとそこには最愛の――――
「何がまだまだだ!バテてんじゃねぇか倉持!!!」
息子の何倍もの太い迫力を携えた声は、ノッカーを務める三年生のものだ。
硬球を金属バットで打つ高い音とともに「っしゃおらぁあ」、自らが持つ気合いをそのまま吐き出すような、一方で今にでも事切れてしまいそうな声が響く。
ノッカーの打球は二塁ベースを掠め、センター前に抜けるような鋭い軌道を描く。連日の走り込み、猛練習ですでに限界を迎えているであろう体に鞭を打つように、打球に飛び込む。グローブに収まった打球を瞬時に右手に持ち替えると、崩れた体勢をすぐさま立て直し、正確なスローイングで一塁手のミット目がけて白球が放られた。
―――ナイス ショート!! 息子のファインプレーにグラウンド全体が盛り上がる。
「わあ!」と声が出そうになるのを飲み込んで、洋一の顔を覗く。わが子のプレーを見て、夫はどんな顔をしているのだろうか。あからさまに顔を覗き込んでしまうときっと嫌な顔をされるだろうから、本人にバレないように表情を盗み見る。
「やるじゃねーか、あいつ」
小さく呟く洋一は、親として息子の成長を喜び、同じ野球人としての対抗心を備えた表情でノックを見つめ続けた。
息子が高校一年生ってことは、ご夫婦はアラフォーですね。
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