夕暮れのシンデレラ
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高校生活のうちで、文化祭の準備に参加できるのは今年が初めてだ。毎年この時期は秋季大会の真っ最中。野球部は練習に集中するため、文化祭準備への参加は暗黙的に免除されていた。
「あ、ははっ、洋一よく似合ってるよ」
「うっせぇ!こっち見んな、笑うなっ」
けれど、夏に部活を引退した3年次においてはその暗黙はもうなくて、放課後の被服室、初めてともいえる学校行事への参加に私は胸を躍らせていた。
「さすが、洋一はネコ科が似合うね」
私はお腹を抱えながら笑う。被服室特有の幅の広い机、私の正面に座る洋一は悔しそうな表情で顔を赤らめている。頭の上に豹柄の猫耳を乗せて。
「クソ、余計な賭けなんかするんじゃなかったぜ」
「提案してきたのは洋一じゃん。まさか自分が負けるとは思ってなかったんだ?」
自分たちのクラスでは文化祭の出し物として舞台をやることになり、演目はシンデレラに決まった。舞台好きがいたことと、裁縫の得意な写真部と野球部のマネージャーがいたことが決定打となったようだった。
裁縫の得意な野球部マネージャーとは、つまり私のことで「選手のユニフォームの背番号を綺麗に縫い付けられる」というのが理屈らしい。
大方の衣装は先輩方が残したものをそのまま使用できるので、一からドレスを作るような大仕事はしなくて済む。ただ、経年劣化や保管方法の杜撰さのせいもあり、衣装の一部はある程度の補正が必要で、今はその補正作業に取り掛かっているところだ。
「じゃんけんで負けた方が罰ゲームだなんて、子どもみたいなことよく思いついたね」
言い出しっぺが負けるというのは世の常というか・・・準備室から小道具の猫耳カチューシャを引っ張り出してきたのは洋一自身だった。
本人も初めての文化祭準備への参加に、きっと浮ついているのかもしれない。カチューシャ片手に「じゃんけんしようぜ」と口角を上げていた5分前の洋一は、今の自分の姿を想像すらしていなかったんだと思う。
「うっせ。凪に付けさせようと思ったのによ、なんで俺なんだよ」
洋一はふてた顔で机に伏せる。
私と一緒に衣装係を拝命した洋一だけれど、その拝命理由は彼の裁縫能力を認められて、というわけではない。「大森さんがやるんだから、倉持も一緒にやりなよ。付き合ってるんでしょ」という、ややお節介な理由からだった。おまけに「野球漬けでデートすらしてなさそう」だなんて不名誉も押し付けられた。
まあ、そのおかげで今は被服室で私と洋一の二人だけでいられているわけで、クラスメイトのお節介には感謝している。
私は、主役のシンデレラが着るドレスの裾のほつれを丁寧に直していく。
野球部に入部した当初は、こうやって裁縫ができるようになるとは思ってもみなかった。貴子先輩が教えてくれたおかげ、そして日々の部員たちからの繕いの要請に、否応なしに腕前は上達していった。
「こういうのは言い出しっぺが負けるんだよ。・・・ぷっ、可愛いね、洋一」
「笑うな!あと10分だけだからな」
手元のスマホで時間を確認する洋一は「凪が付けたら可愛いと思ったんだよ」と拗ねる。わ、何それ、何だか気持ちがくすぐったい。
「わたし、そんな可愛らしいの似合わないよ。ほら、豹柄だし。さすがチーターさんだなって」
「言っとくけど、豹とチーターは別物だからな」
「そうなの? 同じネコ科じゃないの?」
「ネコ科は同じだけど、豹はヒョウ属、チーターはチーター属」
スマホを見ながらの洋一は、気取った様子もなく淡々と説明する。自分が「チーター」と呼称されることを意識して調べてみたのだとしたら、ちょっと可愛いなと思った。
「それ、調べたの? 自分がチーターさんだから」
「っるせ。たまたま調べて、覚えてただけだ」
よほど自分の猫耳姿が気に入らないのか、洋一は私を見ずにスマホを見てばかりだ。
裁縫においては私一人で済ませてしまうつもりでいたから、針仕事をする私とそれに付き添う洋一の図は予想通りだ。
大きく開いた窓から秋の涼しい風が入ってきて、カーテンを大胆に揺らす。
「ね、洋一。準備室から王子様用の衣装を持ってきてもらってもいい? サイズ感とか見ておきたいんだ」
「ん? ああ、わかった」
私の言葉に洋一はスマホから顔を上げて、頭の上のカチューシャを机に置いて立ち上がる。あ、まだ10分経っていないのにと思うけれど、口には出さずにドレスの補正を続ける。
身長のあるトルソーに着せられたシンデレラの衣装は、まるで有名な映画に出てきそうな風格をまとっている。星空をまとったような淡い水色、フレアスリーブの華やかな袖に、プリンセスラインがいかにもお姫様を思わせて、女性だったら誰しもが憧れる可憐さだ。
「なあ、凪」
ドレスに見惚れていると、立ち上がった洋一が歩いてきて、私の右側に立つ。何かと顔を見上げれば、彼の手が私の左肩に置かれて、洋一に優しく引き寄せられる。
「洋一、どうしたの」
どうしたの、だなんて少しわざとらしいだろうか。「凪」と私の名前を低く囁く洋一の声に、彼が今どんな気持でいるのかはすぐにわかった。
私のこめかみは洋一の制服のベルトに触れて、肩から二の腕にかけて、すり、と撫でられる。私たち二人しかいない被服室は静かで、わずかな衣擦れの音が聞こえてきそうなほどだ。
補正の手を止めて、裁縫針を針山に刺す。洋一を見上げると彼も私を見下ろしていて、お互いの視線がぱちりと合う。
「洋一、キスしてほしいな」
「バカ、わざわざ言わなくていいって」
言われなくてもそのつもりだった、そう言いたげな洋一は腰をかがめる。
「野球漬けでデートすらしてなさそう」そんなクラスメイトからの評価はわりと的を射ていて、現役当時は部活がデートと言っても過言ではなかった。それでも人目を忍びながら二人の時間を作る努力はしていたし、こんな雰囲気になるのだって初めてじゃない。
近付いてくる洋一の端正な顔に心臓が跳ねて、目を閉じる。柔らかな唇が触れて、照れくささで体温が上がる感覚がした。
「・・・衣装、取ってくる」
「う、うん」
私に背を向けて準備室へ向かう洋一。その耳が赤く染まって見えたのは、秋の夕日に照らされているせいだろうか。
*
「これ、本当に着るのかよ」
王子様役の衣装を持ってきた洋一は「俺だったら絶対に着ねぇ」と苦々しい表情をする。
誰もが知るあの王子様のデザインに仕立てられた衣装は、映画の世界からそのまま出てきたかのようだ。
白地の衣装には金色の肩章が飾られて、襟章に刺繍された青道高校の校章には製作者のこだわりを感じる。赤いサッシュをたすき掛けにすると、同じ赤色で揃えられたズボンとの相性は抜群だ。
「洋一、似合いそうだけどなぁ」
「やだよこんなの、動きにくそうだし」
「動きにくいって、これ着て野球するわけじゃなんだから」
「そういう意味じゃねーよ」
小さく吹き出す私に、洋一はちょっと不機嫌そうに視線を逸らす。
はじめこそ王子様役には御幸が抜擢されたものの、ガタイが良すぎて衣装が入らないだろうと却下された。御幸の次は――ということで洋一にも白羽の矢が立ったけど、シンデレラ役が私ではないという理由でこれまた却下された。
「凪、なんで主役降りたんだよ」
「だって恥ずかしいんだもん。演技なんてできないし」
年頃の高校生だ。お姫様、王子様役に進んで手を挙げるのにはみんな抵抗があって、シンデレラという題目はあっさり決まったものの、配役の決定は難航していた。
「大森が主役なら倉持も相手役をやるだろう」との意見は確かにあったけれど、私は丁重にお断りしたんだ。シンデレラを務める度胸があるなら、野球部のマネージャーのような影の存在なんかしていない。
最終的には、クラス内で最近付き合い始めたカップルが手を挙げて、事なきを得たのだった。
「俺は見たかったけどな、凪のドレス姿」
何気なく頷きかけて――、ん?と洋一を窺う。照れ隠しだろうか、「なんだよ」と視線を逸らす洋一に、私の胸の中はむずむずとかゆくなっていく。
「その衣装は着たくねぇけど、凪が主役やるなら俺も一緒にやっても悪くないなって思ってたぜ」
「えっ、ほんとに?」
驚いて立ち上がる。洋一からそんな言葉が出てくるなんて。
初めての文化祭の参加を洋一が楽しみにしているのは感じていた。けど、自分が舞台の主役に立つことを「悪くない」だなんて言うなんて。それに、私と一緒ならって言った?
「驚きすぎだろ。ま、この衣装じゃ俺もたぶん着られなさそうだな」
言いながら、トルソーに着せた王子様の衣装をツンツンと指先で突く。
「御幸が着れねぇ衣装が俺には着られるってのも、癪に障るしな」
衣装の胸の辺りをさすりながら、洋一は「俺だって胸板あるんだぜ」と無邪気に笑う。身長のサイズでいえばぴったりかもしれないけど、部活で鍛えた身体の厚みは確かにこの衣装では包みきれないかもしれない。
「そっか、洋一も着れないか。・・・わたしも洋一の王子様姿、見たかったんだけどな」
ぽつりと本音がこぼれ落ちる。
配役決めで一度はお鉢が回ってきたとき、洋一と一緒に主役を務められるなら、って正直なところ少し嬉しかったんだ。
ドレスを身に纏った私の隣には王子様の洋一がいて、舞台上で手を繋ぐんだ。大勢の前で永遠の愛を誓い合って、それはまるで将来の自分たちの姿を想起させるようで。
でも、これまで部活を理由にクラス行事にろくに参加してこなかった手前、高校生活最後で大役をさらうのはクラスメイトに対して気が引けた。それに洋一が舞台の主役を億劫に思っているかもしれないと考えたら、安請け合いはできなかった。
「俺は王子様ってガラじゃねーだろ」
「わたしだって、シンデレラって感じじゃないよ」
シンデレラみたいに透けるような白い肌も、お姫様のような華奢さも私にはない。代わりにあるのは日に焼けた肌と、マネージャー業で鍛えた腕っぷし。
裁縫の腕前だけはシンデレラらしさに加えてもいいかもしれないけれど。
開けた窓から入ってきた風に吹かれて、ロングトレーンの裾が舞い上がる。夕日に照らされて、スカートに織り込まれた繊細な金色の刺繍が輝く。きっと、王子様の衣装の金色の刺繍とお揃いなんだ。
「わたしがもう少し華奢だったら、着てみたかったかな、ドレス」
「何言ってんだよ。俺から見たらすげー華奢だぜ」
それは洋一なりの気遣いなのだろうか。でも、洋一にそう思ってもらえているだけで十分だ。
「主役、やりたかったなら受ければよかっただろ」
洋一がこちらに歩いてきて、ドレスの裾を手に取る。
だって、それは洋一が嫌がるかと思って、そう口にしかけて飲み込んだ。違う、主役の話が自分に回ってきたときは嬉しかったけど、本当に自分が主役を務めたかったわけじゃない。
「いいの、わたしは根っからのマネージャー気質だから」
ただ私は、ドレスを着て、王子様の洋一と並びたかっただけなんだ。でも、そんなこと恥ずかしくて言えなかった。
「お前、ほんとバカだな」
「え?」
洋一は呆れたように、でも優しく溜息をつく。
スカートが夕日に照らされると、また金色の刺繍がキラキラと光って、まるで魔法がかけられたみたいだ。
「ドレス、着たいんだろ」
「・・・でも、わたし主役じゃないし」
「だからって着ちゃなんねぇってわけじゃないだろ。凪が直したんだから、着る権利くらいあると思うぜ」
私は「でも」と小さく呟く。確かにドレスは着たい、着てみたい。女としての憧れだもの。けれど、シンデレラだなんて柄じゃないし、恥ずかしいんだ。
洋一は煮え切らない私を見かねたのか、右手で自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。何か言おうとして、照れ隠しをするときの仕草だ。
少しの間があって、「さっきも言ったけどよ」と口を開く。
「俺が凪のドレス姿が見たいんだよ。着てみろよ、俺のために」
恥ずかしそうに視線を逸らす洋一。私の胸は今日で一番くらいに早くなって、少しの間、息をするのを忘れてしまう。頭の中で洋一の言葉を繰り返せば、体中がじわじわと熱くなっていく。
立ち上がって、トルソーに着せたドレスに触れる。
「いいのかな、着てみても」
「おう、着てみろ。たぶん似合うから」
「もう、そこは絶対って言ってよ。ただでさえ自信ないのに」
「ヒャハハ、いいから着てみろ」
洋一はいたずらっぽく笑って「あっち向いてるからよ」と私に背を向ける。おそるおそるトルソーからドレスを脱がせる。可憐なドレスを手に取ると、子どもの頃からの憧れが疼き出して、私は着ていた制服のジャケットを脱いで机に置いた。
*
ドレスに腕を通すと、想像していたよりも重量を感じた。準備室から持ち出したドレス用のパニエをスカートの下に履いてみれば、見違えるようにふんわりと可愛らしさが増す。
露出した二の腕が少し肌寒いけど、憧れていたドレスを着られた嬉しさで胸の中は温かい。
「洋一、ちょっといいかな」
私に背を向けて着替えを待つ洋一に声をかけると、「おう」と短く返事をして見ていたスマホから顔を上げる。私もまた彼に背中を向けた状態で、最後の仕上げをお願いする。
「背中のジッパー、自分で上げられなくて。お願いしてもいい?」
「おう、いいぜ」
洋一はドレスの長い裾を踏まないように足下を気にしながら、私に歩み寄る。首筋に息が触れそうな距離に立つと、ゆっくりとジッパーを引き上げる。
「凪、こっち向けよ」
「・・・うん」
一歩、二歩と洋一が後ろに下がる。私は裾を後ろに回しながら、ゆっくりと彼の方を向く。
水色のドレスがふわりと広がって、気分はすっかりお姫様だ。自然と所作は淑やかになり、微笑む自分の口元は普段より柔らかくなる。
「どう、かな?」
小さな声で尋ねる。改めて洋一の顔を見ると、やっぱり照れくさい。もう少し細ければ良いのに、と思いながら二の腕をさすって、洋一の言葉を待つ。
「おお、いいじゃん。似合うぜ、凪」
「そうかな、やっぱり恥ずかしいよ」
「恥ずかしくねぇよ。すげぇ似合うって、可愛い」
洋一は真剣な表情で私を「可愛い」と言う。ドレス姿の自分と制服のままの洋一とのギャップに照れくささが増して、視線を床に落としてしまう。
洋一の足がこちらに歩いてくる。着慣れないドレスに私は動くことができなくて、洋一が目の前に来るのをただ黙って待つ。
「よ、洋一?」
彼の手が頬に触れる。「凪」と掠れた声が聞こえて、腰に添えられた洋一の手に優しく引き寄せられる。触れ合う唇はほんのりと温かい。
「ヒャハ、凪、顔真っ赤だぞ」
「えっ、だって、仕方ないでしょ・・・!」
そう言う洋一だって、真っ赤な耳をしているくせに。きっと自覚していないんだろうな。
「わたしばかり衣装着てて、照れくさいよ」
「じゃあ、俺はこれでも付けてみるか?」
冗談ぽく笑いながら、罰ゲームで付けていた猫耳カチューシャを手に取る洋一。
「それじゃ従者だよ。洋一は、わたしの、」
王子様なんだから、そんな言葉は口から外へは出てこなくて、こそばゆい気持ちで視線を逃がす。
「わかってるよ。・・・寒くねぇか、シンデレラ?」
低く囁く声に顔を上げる。いつもの洋一だったら、からかい口調で小突いてくるようなシチュエーションなのに。洋一のくすぐったくなる言葉に私の心臓は早くなる一方だ。
恥ずかしさで体は熱を持っている。けれど、窓からそよぐ風は少し冷たくて「ちょっと、肌寒いかな」と答える。
「なら、これでも着てろ」
洋一は柔らかく微笑むと、着ていた制服のジャケットを脱ぐ。
「あ、でも、それなら、自分の着るからっ」
そう言って、自分の制服に手を伸ばそうとする。けど、その手は簡単に洋一に払われてしまう。
「いいから、俺の着てろって」
「・・・うん」
肩に掛けられた制服からは、大好きな洋一の香りがした。服に残る彼の温もりが心地良くて、唇を噛みしめてしまう。
「ありがとう、洋一。嬉しい」
「ヒャハハ、珍しく
「洋一が優しいからだよ」
ふふ、と笑うと彼は照れたように自分の頬を掻く。今だったら、お願いしたら王子様の衣装を着てくれるかな、と洋一の背中越しに衣装へと視線を投げてみる。“お願い”をする前に私の目線に気が付いた洋一に「言っとくけど、俺はあんなの着ねぇからな」と釘を刺されてしまう。
「やっぱりだめ?」
「サイズ合わねぇもんをどうやって着んだよ」
「それは、確かに・・・」
試しに着てみてよと食い下がろうとも思ったけど、やめることにする。
憧れのドレスに袖を通すことができて、洋一に可愛いと言ってもらえて、私の胸の中はもういっぱいだ。
窓の外に目をやると、遠くの街並みに太陽が沈み始めるところだった。洋一もそれを見て「そろそろ日が沈むな」とぽつりと呟く。
「・・・なあ、凪、少し歩けるか?」
何やら思いついた顔の洋一は、私が着るドレスの裾を見ながら聞いてくる。
「えっと、ゆっくりなら歩けると思う」
「よし、ちょっと頑張ってみろ」
洋一は私の手を取ると、被服室のドアに向かって歩き始める。ロングトレーンの裾を踏んでしまわないように気をつけながら、小幅な足取りで歩く。けれど、慣れないドレスでは上手に進むのはなかなか難しい。
「待って、ドレス、踏んじゃいそうだよっ」
「これ、俺が持てば歩けるか?」
洋一は長い裾をひとまとめに手に持つ。もう片方の手は私と繋いだまま、ドアを抜けて廊下を進んでいく。足下が軽くなった私は、洋一に引かれるがまま彼に付いていく。
「ね、どこ行くの?」
「ちょっといいとこ」
振り向いて微笑む洋一は、なんだか王子様みたいだ。制服姿の王子様はおとぎ話のようだとは言えないけれど、その背中はたくましくて愛おしい。
廊下を進んだ先、屋上へ続く階段を目の前に私の足はすくんでしまう。
「待って、階段は怖いよ。転んじゃいそう」
「大丈夫、俺がいるだろ」
いたずらっぽく笑う洋一に促されて、一歩ずつ階段を昇っていく。私が転ばないようにと、握られた彼の手に力が入る。寄り添いながら、ゆっくりと屋上への扉に近付いていく。
扉の前に立つと、洋一は私の手を離してドアノブに手を掛ける。開け放たれた扉から秋の風が吹き抜けたかと思うと、目の前に広がる茜色の光に満ちた輝く夕日に、私は息を呑んだ。
「ほら、お手をどうぞ、シンデレラ」
夕日を背に甘い台詞を口にする洋一は、くすぐったそうな表情で私に手を差し出す。私はクス、と笑って、差し出された洋一の手に自分の手を重ねる。
「はい、王子様」
遠景の街並みに沈んでいく夕日が、校舎の屋根や遠くの木々を温かく照らす。雲の隙間から放射状に放たれる輝きが眩しくて、でもこの美しさを記憶に刻みたくて、溜息を漏らしながら目の前の絶景に目を細める。
「すごい、きれい」
「教室から見るのとはまた違うだろ」
「うん、ぜんぜん違う」
いつもと変わらない夕日がこんなにも美しく見えるのは、ここが屋上だからだろうか。きっと、それだけじゃない。
眼前に広がる夕日が特別な輝きを放っているのは、憧れのドレスを身に纏って、大好きな洋一と手を繋いで眺めているからなんだと思う。
「洋一、わたしすごく幸せ」
「おう」
言葉少なく夕日を眺める。彼の手が腰に触れて、優しく引き寄せられる。洋一の肩に軽く頭を預ければ、囁く声に「凪」と呼ばれて、どちらからともなく顔が近付いていく。
現実とは思えないロマンチックな空間に、頭が蕩けそうだ。きっと洋一も同じ気持ちで、私を見る瞳は甘く潤んでいるようにさえ見えた。
お互いの唇が触れそうになって瞼を下ろすと、ふと、遠くから聞き慣れた複数の声が耳に入ってきて、思わず動きが止まってしまう。洋一もそれに気がついて、悔しそうな表情で髪をかき回す。
「ちっ、あいつらうるせーな、こんなときに」
遠くのグラウンドから聞こえる野球部の声。甘い雰囲気の中、まるで彼らに覗き見されたような感覚がして、洋一と目を見合わせて笑ってしまう。
「なんか、懐かしいね、こういうの」
「バカ、変なこと思い出させんな」
現役のときもこれに近いことがあったような気がする。生活の中心は野球で、人目を忍ぶのはなかなか大変だったな。
「わたしはいい思い出だと思ってるよ」
「そうかもしれねぇけど、なんか気に入らねぇ・・・あいつらあとで締める」
「こら、大会も近いんだからさ」
「凪は後輩に甘ぇんだよ」
「そうかな。洋一にも優しくしてたと思うけど」
「優しいのと甘いのは意味が違うんだよ」
なぜだか洋一は拗ねた顔で目を逸らす。
かすかに聞こえる威勢の良い声が夏の記憶を思い出させるけど、屋上を抜ける風はだんだんと冷えてきて、偲ぶ気持ちとは反対に夏の面影はとうに過ぎ去っていた。風の冷たさから逃れるように、洋一に借りている制服の袖口を握る。
「凪、寒くねぇか?」
「うん、大丈夫」
「無理すんなよ」
「ありがとう。夕日が沈むまで、洋一と見てたくて」
耳の近くで「そうだな」と呟く洋一の声には、いつもより深い愛おしさが滲んでいた。後輩たちに水を差されてしまったけれど、またお互いに寄り添えば、この空間にいるのは私たち二人だけのような気がしてくる。
「洋一、キスして」
「だから、わざわざ言わなくていいって」
仕切り直しとばかりに笑い合うと、今度こそお互いに目を閉じて、唇の柔らかさを伝え合う。私は洋一の肩に手を置いて、夕日のせいか赤くなった彼を抱き寄せた。
「凪、好きだぜ」
「うん、わたしも。洋一が大好き」
もう一度、慈しむように口づけを交わす。視線を絡めると、心がくすぐられたような気持ちでまた二人揃って笑った。
眩しく輝く夕日が街並みに沈んでいって、茜色の光がドレスを温かく染める。
腰に触れる洋一の手に優しく引き寄せられて、抱きしめ合う。胸にそっと額を寄せると、洋一の鼓動が心地良く響いて、自分の鼓動と共鳴しているような気がする。
沈んでいく夕日に永遠の愛を誓うように、私たちは強く手を握り合った。
終わり
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