夏風邪
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「洋一、わたし、しばらく家を出るね」
「・・・は?」
平日の朝、普段より起きるのが遅かった妻の口から発せられたのは、耳を疑う言葉だった。
マスクをしてスーツケース片手にリビングに現れた凪は、真っ赤な顔で眉間に皺を寄せて、なんならその瞳は涙に濡れているように見える。
大事な妻をこんな表情にさせるようなことを俺はしたってのか? いつ? どこで? 全く身に覚えがない。
ストレッチ途中のまま固まる俺を見て、凪は咳込みながら「あのね」と続ける。その声は掠れていて、俺の知らないところで泣き腫らしたんじゃないかと心臓がバクバクする。
そういえば、いつもならナイター試合でも俺の帰宅を起きて待っている凪だが、昨夜は『今夜は先に寝るね。ごめんね』と連絡があって、帰宅したときには彼女はすでにベッドで寝息を立てていた。寝る前のキスもしなかった。起こしてキスするべきだったか?
先週は遠征続きで一緒に過ごせなかったから、そのせいか? いやでも、凪が遠征を理由に怒るはずがない。
一昨日の夕飯の感想の伝え方が良くなかったからか? いや、それもきっと違う。一昨日のオムライスは本人も会心の出来だと言っていて、本当に美味かったからベタ褒めしたぞ。・・・じゃあ、凪はなんで今、苦しそうな表情で俺を見てんだよ。
「凪、なんでだよ」
彼女の「あのね」の後を聞く前に、やっとの思いで立ち上がった俺は凪を抱きしめようと一歩踏み出す。だが、彼女は切なそうに「近付いちゃダメ」と俺から一歩退いてしまう。やべぇ、俺、終わった。彼女はまた咳込むと「洋一、よく聞いて」と俺を見上げる。無理だって、聞きたくねぇよ。朝の時点でスーツケースが用意されてるってことは、前から出て行く気でいたってことだろ。
俺は息をするのを忘れて、リビングの入り口に立つ彼女を呆然と見る。
「風邪ひいちゃったみたいで、洋一に移したくないからホテル療養するね」
*
「とりあえず、今晩の分のカレーは作っておいたから食べてね」
凪は冷蔵庫を開けて「カレー鍋はこれ、食材はある程度あるけど、自分で作るの大変だろうから出前でもいいから」と掠れる声で俺に説明をする。その背中は小さく丸まって、熱に浮かされているのか手が震えているようにも見える。
聞いたところ、昨夜から寒気がし始めて嫌な予感がしたからと、すぐにホテルの宿泊予約をして、俺のために食事の作り置きを準備してくれていたようだ。
「洋一、今すごく大事な時期でしょ。風邪なんて引いてチームを離脱したら、チャンスを棒に振っちゃうかもしれないし」
確かに凪の言うとおりで、ショートを守っていたベテラン選手が昨シーズン限りで引退し、今はチームとして新たな内野手レギュラーを選定しているところだ。その候補の一人として俺にも白羽の矢が立ち、プロ3年目、今年から出場機会が増えてきている。
ただそれは俺だけじゃない。複数選手でレギュラー争いを続ける中、風邪で戦線離脱をしてはチャンスを失いかねない。凪はそれをわかって、こうやって気遣ってくれている。
「凪、悪い・・・。本当は看病してやりてぇけど」
「うぅん、気にしないで。心配かけてごめんね」
凪はまた咳込んで、俺に風邪を移すまいと背中を向ける。その健気な姿が愛おしくて抱きしめたいのに、きっと凪は今それを望んではいない。
「もう、そんなシュンとしないで。大丈夫だから。3日もあれば元気になるよ」
3日!? そんなに凪と離れて暮らさないといけねーのかよ。一緒に暮らし始める前は一ヶ月会えないこともざらだったが、今の生活に慣れすぎて遠征でもないのに離れて暮らすなんて考えらんねぇ。
でも、凪だって風邪で苦しい中、俺を応援する気持ちでホテル療養を決めたんだもんな。ちょっと寂しいからって狼狽えてたら格好悪いよな。
「ほら、チーターさんが子猫ちゃんになってるよ」
「う、うるせぇ・・・病人は寝てろ」
熱でつらいはずなのに、凪は俺を励まそうと笑みを浮かべる。
「うん、ありがと。ホテルのチェックインが午後だから、それまで寝室にいるね。咳が出るからこっち来ちゃダメだよ」
「・・・わかった」
凪は子どもに言いつけるようにそう言うと、リビングから出て行こうとする。弱々しい足取りが心配で寝室くらいまでなら送ってやりたいが、近付いちゃダメと一蹴される気がして追いかけるのをやめた。「あ、」と何かを思い出したように、凪はリビングのドアから顔を覗かせる。
「もし万が一、風邪っぽいなって思っても、洋一は家にある薬は飲んだらダメだよ。ちゃんとチームドクターに相談してね」
「おう、わかってるよ。もう、いいから早く寝ろって」
プロスポーツ選手は安易に市販薬の服用はできない。凪は「必ずだよ」と念を押して、ドアを閉めようとする。
「あ、凪」
自分で「早く寝ろ」と言っておきながら、彼女を引き止めてしまう。凪はまたドアから顔を覗かせて「どうしたの?」と俺を見る。
「風邪、早く治せよ」
「うん、洋一は試合頑張ってね。ちゃんと見てるから」
「そんなのいいから寝てろ、野球バカ」
「野球バカに言われたくありませーん。あ、カレーは甘口にしてあるからね」
俺を元気づけようと軽口を叩く凪は、またゴホンと咳込む。痰交じりの咳が症状の重たさを物語っていて、一人で療養させてしまう申し訳なさに唇を噛む。
「ありがとな。楽しみにしとく。おやすみ」
「うん、おやすみ」
凪はひらひらと手を振って、今度こそ寝室へ向かった。彼女の背中を見送ると、俺はストレッチを再開する。
自分が大変なときに俺の心配ばかりする凪がたまらなく愛おしい。彼女の気持ちを裏切らないように、俺には俺のできることをしねぇと。
**
洋一は普段より早くに家を出たようで、私が目を覚ましたときにはすでにリビングは静かになっていた。
寝ていたベッドのシーツを剥がして洗濯機へ入れる。ちょうど洋一が帰ってくる時間帯に乾燥が終わるように設定してから、スーツケースを片手に家を出た。
「あつ・・・」
盛夏が過ぎたといっても、9月はまだまだ暑い。正直なところ夏の暑さなのか、発熱の熱さなのかはもうわからなくなっていて、事前に呼んでいたタクシーに何とか乗り込む。
まさか、こんな真夏に風邪を引くだなんて。きっと会社の先輩のお子さん経由でもらったウイルスだろう。子どもからもらう風邪はこっぴどくなると聞いたことがあるけれど、これは重たそうな風邪だと覚悟する。
予約していたビジネスホテルにチェックインして部屋に入ると、すぐ部屋着に着替えてベッドへ倒れ込む。家から持ち出した体温計は38.2度と表示されて、その数字を見ただけでも体はさらに重たくなる。
痰の絡む咳に、鼻は詰まりっぱなしで呼吸がしにくい。頭はぼうっとしてうまく働かない。ホテル療養しながら仕事でもしようと思っていたけれど、さすがにこの状況では無理そうだ。
家で十分すぎるくらい寝たはずなのに、風邪を引いているせいかいくらでも眠れそうだ。私はホテルのベッドに横になりながらスマホを開く。
『洋一、ホテルに着いたよ。熱あるけど大丈夫だから、試合頑張ってね』
時刻は15時前、すでにアップを始めているか、ギリギリ遅めの昼食を摂っているころだろうか。
今朝の洋一の落ち込んだ顔が思い浮かぶ。頭が働かないからといって、第一声で「しばらく家を出る」と言ったのは間違いだった。あんなに焦った洋一の表情を見るのは初めてで、可愛らしいと笑うのは申し訳ないと思いつつも、シュンと萎れた子猫の耳が見えてしまったのを思い出して小さく吹き出してしまう。
あんな表情を見せられたら名残惜しくなるけれど、昨日からホームでの連戦が始まっていた。遠征なら自宅療養でも構わなかったけど、毎日洋一が帰ってくるのなら風邪を移すわけにもいかない。
「ああ・・・洋一に会いたい」
呟く声は掠れている。続けて咳が1、2、3回、そして盛大なくしゃみ。重症だ。こんな状態で洋一と過ごしていたら共倒れだ。
家を出る前は洋一を心配させまいと気丈に振る舞っていたけど、一人でこうやってホテルにいるのはちょっと寂しい。
本人には言えないけれど、洋一が使っている枕カバーを拝借してホテルに持ってきた。寂しくなったら「洋一の香りだ~」なんて癒やされようと思っていたのをすでに解禁したい。
「我慢はよくない、解禁しよう」
ベッドから這い出てスーツケースを開く。丁寧に畳んだ洋一の枕カバーを取り出して、彼を抱きしめるように顔を埋める。一緒に住んで、同じ柔軟剤を使っているのに洋一からは私とは違ういい香りがする。
「・・・はあ、バカみたい。でも寂しい」
バカみたいだけれど、これが向こう3日間の心の支えだ。帰ったら洋一に気が付かれないように洗濯しないと。
また這うようにベッドに戻る。スマホが洋一からの連絡を通知する。まだ練習開始前だったのだろうか、この時間に返事が来るのは珍しい。
ラインのトークルームを開くと、一件の動画が添付されていた。動画を再生すると、本拠地のクラブハウスだろうか、インカメラで撮影された動画の中央には洋一がいて、背後には昼食中の球団選手やスタッフの姿がある。
『おう凪、ちゃんとホテル着いてよかったぜ。こっちはこれから昼飯食って、練習始まるとこ。熱あるならちゃんと寝てろよ。無理すんな。えーっと、あと、試合は無理に見なくていいから、寝てろ。じゃーな、また連絡する』
無理するな、寝てろと繰り返す洋一に口元が緩む。
遠征が続いたりすると、たまにこうやって自撮り動画を送ってきてくれる洋一。確か、初めて動画を送ってくれたのは入籍前だったっけ。あの頃はすれ違いの日々がつらかったなぁ。
懐かしい気持ちに思いを馳せるけれど、熱に浮かされた頭では回想にも限界があった。こんなボロボロの顔で動画で返事はできないからと、スマホに文字を打ち込んでいく。
『ありがとう。ちゃんと寝て、早く元気になるからね。今日も一番に応援してる!大好きだよ』
処方された薬をスポーツドリンクで流し込むと、腫れた喉に沁みて痛かった。洋一との約束どおり、ちゃんと寝ないと。
使い慣れないホテルの枕に頭を預けて掛け布団をかぶると、重だるい体はすぐに睡魔に飲み込まれた。
*
「おい倉持、なにやってんだ?」
「あ、お疲れっす。いや、うちの妻が風邪引いたみたいで、今ホテルにいるんすよ」
凪に送る動画を撮ったところで、クラブハウスにやってきたコーチに声を掛けられる。
「俺に移さないようにって気遣ってくれて」
「へえ、いい奥さんじゃん」
「そうなんすよ、熱あんのに夕飯の準備もしてくれてて」
コーチと連れ立って球団の食堂へ向かう。
「羨ましいな、新婚!」
「コーチのとこはどうなんすか」
「ああ、うちのも気を付けてくれてたな」
「っすよね。ほんと、ありがたいっすね」
ふと今日の帰宅時に凪の「おかえり」がないことを想像して、溜息を漏らしそうになる。すんでのところで飲み込むが、コーチは俺の顔を覗くと含み笑いを浮かべている。
「俺の顔になんか付いてます?」
「いや、倉持お前わかりやすいな」
「・・・え?」
「そうだよな、お立ち台でプロポーズするくらいだもんな、寂しいよな」
コーチはニヤニヤしながら俺の肩を叩く。え、俺そんな表情に出てたか!? 「わかるぞ、新婚だもんな」とコーチはなおも笑う。
「ちょ、やめてくださいよ!」
「寂しいとはいえ、練習には集中しろよな?」
「それとこれとは別ですって。監督に変なこと言わないでくださいよ!」
*
間もなく23時を迎えるころ、帰宅した俺は暗い部屋の電気を一人でつける。普段は凪が家で待ってくれているから、電気の付いていない家に帰ってくることはほとんどない。
シンと静かな部屋に自分の足音が聞こえて、テレビをつける気は起きなかった。シャワーは球場で済ませてきた。部屋着に着替えようと脱衣所へ向かうと、洗濯機に洗濯終了のランプが点灯していることに気が付いた。ドラム式の扉を開けると、ふんわりとした柔軟剤の香りに包まれた白いシーツが出てくる。
「ったく、気ぃ遣いすぎだろ」
ちょうど乾燥が終わったばかりなのだろう、シーツは程よく温かくて、凪を抱きしめているみたいだ。って、なに恥ずかしいこと考えてんだよ。
俺の帰宅時間に合わせてセットしていたのだろう。あんなに熱に浮かされた顔して、ここまでする必要なんてねぇのに。凪のことだから「風邪が移らないようにしただけだよ」と照れた顔で笑うんだろうな。
着替えを済ませてキッチンへ向かう。凪が作り置いてくれたカレー鍋を冷蔵庫から取り出して、火にかける。これからご飯を炊いてもいいが、さすがに面倒だ。確か、ご飯は冷凍庫にあったよな。
「・・・具がでけぇな」
お玉でカレーをぐるぐる回しながら、相変わらずの具の大きさに笑ってしまう。「大きい方が美味しいし、食べてて楽しいでしょ?」と子どもみたいなことを言う凪の顔が思い浮かんで、ったく、さっきから凪のことばかり考えてんな、俺。
温まったカレーをダイニングテーブルへ持っていく。いつもの味にほっと肩の力が抜けて、やっとテレビをつける気が起きた。
俺が遠征のとき、凪はいつもこうやって一人で飯食ってんのか。二人で住むように広めの部屋にしたが、それがかえって物寂しく感じる。
凪は今ごろ寝ているだろうか。睡眠の邪魔をするのも気が引けたが、彼女へ連絡を入れることにする。すぐに返事がなくても、朝起きて見てくれるだけで十分だ。
テレビ画面に映る芸人らの喋りはほとんど耳に入ってこない。ゴロゴロと大きくて食べにくいじゃがいもをスプーンで崩しながら、甘いカレーをおかわりした。
**
ホテル療養2日目の朝、時刻は10時すぎ。体調を崩しているときはいくらでも眠れるものだ。汗だくの体はベタベタとして気持ちが悪い。昨夜は急激に熱が上がってしまい、寝苦しいなんてものじゃなかった。結局、昨日の試合は見られずじまいで、一晩中、熱にうなされていた。
スマホを手に取ると、昨夜のうちに洋一から来ていた連絡に目を通す。
『シーツ洗ってくれてありがとな。カレーも美味かった。ちゃんと寝てるか? ゆっくり休めよ。とにかく寝てろ。無理に返事しなくていいから。おやすみ』
洋一らしい簡潔な文章に胸が温かくなる。
昨夜めいっぱい汗をかいたおかげで、熱はだいぶ下がったように感じる。体温計がピピッと鳴って、液晶を見ると37.5度の表示。痰交じりだった咳は乾いた咳に変わって、体のだるさもマシになった。ベッドの向かいにある鏡台に映る自分の顔は、昨日に比べるとすっきりしているように見える。
『おはよう。昨日は返事できなくてごめんね。ずっと寝てたみたい。熱も下がってきたよ。試合見られなかったから、これからハイライト見るね!』
洋一はもう起きているころだろうか。ナイター試合の翌日は洋一が寝ている間に私が仕事に出てしまうことも少なくないけど、もし起きていたら洋一の声を少しでも聞きたかった。
昨日のうちにコンビニで買っておいたおにぎりを冷蔵庫から取り出して、テレビをつけながら口に放る。食欲もあるし、ベッドから立ち上がった際の足取りもかなり軽くなった。
おにぎりを食べ終わるころ、ラインの通知音が部屋に鳴る。
『熱下がってきてよかったな。飯は食えてるか? 着替えとか必要なものあったら持ってくけど、どうする?』
洋一からのメッセージを開いて、すぐに通話ボタンを押す。ワンコール目の途中で『もしもし』とスピーカーから洋一の声が聞こえてくる。
「あ、洋一? 連絡ありがと。元気になってきたよ」
『おう。声はまだ掠れてるな』
「うん、なかなか咳が止まらなくて。食欲はあるから、さっきおにぎり食べてたとこ」
『食べられるなら心配いらねーな。さっきラインしたけどよ、着替えは足りてるか? ホテルまで持ってくけど』
洋一の優しさが嬉しくて、スマホを持つ手に力が入る。本当は着替えを口実に会いたいけれど、まだ咳が出るし、このせいで風邪を移してはせっかくのホテル療養の意味がない。
「ありがとう、ホテルのランドリー使うから着替えは心配ないよ」
『そっか・・・』
たぶん、洋一も着替えを口実に会えたらと、私と同じことを考えていたんだろう。でもきっと、私がそれを断ることも洋一はわかっているんだと思う。
「洋一、会いたいよ。まだ一日なのに、すごく寂しい」
『バカ、寂しがり屋かよ。俺が遠征で家空けてるときは、そんなこと言わねーくせに』
洋一は優しく鼻で笑う。まったく、素直じゃないんだから。“男が寂しがるなんて格好悪い”とか思って、口に出せないでいることくらいわかっている。だからこそ私から「寂しいね」とあえて口に出すんだ。
普段から生活リズムが違うし、遠征でほぼ一週間会えないこともある。だからこそ、同じ気持ちでいるよ、って思いを伝えることはすごく大事なんだ。
「遠征とはわけが違うよ。風邪引いてるからかな、すごく洋一が恋しい」
『・・・俺は風邪引いてなくても凪が恋しいけど』
拗ねたような声でそんなことを言われたら、また熱が上がってしまいそうだ。電話の向こうで恥ずかしそうに目を伏せている洋一が想像できてしまう。
「うん、わたしだっていつでも洋一が恋しいよ。仕事してるときも、試合中も、遠征でいないときも、ずっとだよ」
『あーもー、わかったよ。いいから、早く風邪治せ。じゃねーと恋しくたって会えねぇだろ』
「そうだね、ごめんね。仕事の休みも明日までだし、気合い入れて治すから」
『おう、頼むぜ。あと、昨日のハイライトは見なくていいから」
洋一が「見なくていい」と言うということは、昨日は試合出場はなかったのだろう。私は「わかった」と短く返事をする。
『とにかくちゃんと寝てろ。俺は体調なんともねぇから』
「そっか、よかった。じゃ、またね。今日も頑張れ、洋一」
通話を終えると、ベッドから下りてシャワーへ向かう。昨夜の汗を流して、ホテルに頼んでベッドリネンも交換してもらおう。体は楽になってきたから、リハビリがてら食料調達のためにコンビニでも行こうか。
*
シーツの取り替えられたベッドに横になる。乾いた咳は相変わらずだけど、洋一の枕カバーを抱きしめながらスマホを見る。
ライブ配信の通知がスマホに届き、そちらへ意識を向ける。洋一の所属球団のSNSで練習風景のライブ配信が始まったようだ。最近はプロ野球界でも球団ごとにYouTubeの配信や各種SNSでの情報発信が増えていて、洋一の所属球団も同じだ。
平日のライブ配信を誰が見られるんだろうと不思議に思いつつ視聴を開始すると、意外にも多くの視聴者がいるようだ。
よく見知った球場で選手たちが各々ストレッチをしたり、素振り、フリーバッティングなどアップをしている映像が流れる。スマホ画面に食いついて洋一の姿を探してしまうのは妻としての責務だ。
配信画面には「滝沢選手いないのかな~」「内崎かっこいい!」などファンからのコメントが流れていく。
「あ、洋一いた」
カメラがティーバッティングをする選手へ向くと、そこには愛する夫の姿があった。コーチと組んで、左打席の構えで一球一球確認するようにバットを振る。
「倉持選手~!」「今日も盗塁決めてー!!」「右打席も見たい!」配信画面にコメントが流れていくのを一つひとつ目で追っていく。
洋一の球団ユニフォーム姿は何度見てもグッとくるものがあるし、こうやってファンに覚えてもらえていると思うと喜びが込み上げてくる。昨シーズンの終わりから洋一のグッズ販売も始まり、応援席でタオルが掲げられることも増えてきた。
洋一はライブカメラの存在に気が付くと、少しだけ動きを止めてカメラ目線になる。思わず手を振りたくなるのを我慢して、画面越しの洋一の顔をじっとみる。ああ、今日も格好いい。
「チーターこっち見た!」「くらもち選手~!」コメントが次々に流れていく中、洋一は被っていた帽子を取ると、カメラに向かって頭を下げる。
「律儀だなぁ」
カメラが近付いても自分の練習に集中する選手が多い中、律儀な姿に口元が綻んでしまう。
洋一はコーチと言葉を交わすと、右打席でのティーバッティングを始めた。3球ほど打ったところでカメラは別の選手を写しにその場を離れる。
「なんか、ファン目線で見ちゃったなぁ」
ホテルの部屋で一人呟く。洋一が寂しさで調子を落としていたらどうしよう、なんて心配はしていなかったけど、集中している姿を目にできて安堵する。
午後の検温は37.1度、あともう一息で平熱だ。明日は洋一の試合後に球場へ迎えに行こう。そのためにもしっかり休養を取ろうと、眠たくない瞼をやや強引に閉じた。
**
ホテル療養3日目、咳も痰も減って、体のだるさもほぼ取れた。出勤日と変わらない時間帯に目が覚めたし、お腹もしっかり空いている。空腹というのは体調の指標の一つだ。フロントへ朝食ビュッフェの申込みをして、身支度を整え始めた。
クロワッサンを食べながら、洋一のチームのチケットサイトを開く。せっかく迎えに行くのなら、現地で試合観戦もしたい。洋一には内緒だ。体が元気になると、気力もどんどん湧いてくるものだ。当日チケットでも、平日だから予約はすぐにできた。
「よし、もう大丈夫。すごく元気!」
すごく、はちょっと強がりだけど、日常生活に支障のないくらいには元通りだ。レイトチェックアウトで14時までホテルの部屋にいられるから、無理せずに最後までゆっくり過ごすことにする。
荷物をまとめながら、私を支えてくれた洋一の枕カバーを抱きしめる。我ながらバカだなぁと自嘲してしまうけど、これがなかったらきっと寂しくて風邪は治らなかったかもしれない。「なにバカなこと言ってんだよ」っていう洋一の呆れ顔が思い浮かんで、照れくささで熱が戻ってきそうだ。
自宅に到着したのは15時近くで、洋一はすでに家を出ている。計画通りである。ホテルでの朝食中に洋一に連絡をして、彼の出掛ける時間を教えてもらっていた。洋一に内緒で球場まで迎えに行くのだから、家で鉢合わせてしまってはサプライズが台無しだ。
スーツケースを開けて、着替えを洗濯機へ放り込んでいく。洗濯カゴに入れられた洋一の下着たちも洗濯機へ入れる。
家の中はシンと静かだ。洋一が一人で過ごしていたにしては、家の中はとても片付いている。片付いているというより、生活感がないというべきか。きっと食事を適当に済ませて、布団に入る程度の動きしかしていないのだろう。
「今日もナイターだけど、球場に向かうのは試合後半でいいかな」
車は洋一が乗っていっているから、電車で球場へ向かうことにする。試合開始は18時だけど、病み上がりの体でフル観戦をする自信はない。球場に行くと思わずビールが飲みたくなっちゃうし・・・。
*
球場に到着したのは20時を回ったころ。試合は終盤に差し掛かり、7回裏。得点3-2と1点ビハインドの場面。打席にはDHのベテラン強打者・村中選手が立つ。
私は外野応援席の後方から球場を眺める。ここからではバッターボックスはかなり小さく見えるが、球場の雰囲気を味わうには十分だ。
村中選手がバットを振り抜く、まるでこちらに向かってくるかのような打球、球場内が「わあー!」という歓声に包まれる。レフト前にシングルヒット、一塁を踏んだ村中選手がガッツポーズを見せると、それに合わせて観客は拍手をする。
三塁側ベンチにいた監督が出てきて、走る手振りをしながら主審に声を掛ける。選手交代の合図だ。スタジアムDJが高らかに代走を告げる。
「ファーストランナー村中に変わりまして、代走・倉持洋一!!」
ヘルメットを被った洋一がベンチから出てくる。今日はスタメン出場じゃなかったから気に掛かっていたけれど、洋一らしい出場機会に胸が熱くなる。
近くの応援団から「倉持―!盗塁決めろー!」「走れー!」と檄が飛ぶ。私も応援団に混ざって「頑張れー!」と声を張るけど、乾いた咳が2回、3回と出てしまった。暑いけれどマスクを付けてきてよかった。
一塁ベースの村中選手とハイタッチをした洋一は、球場全体へ一礼する。きっと球団ファンは洋一の盗塁を期待しているだろうし、監督の意図も同じだろう。それがわかっているからこそ、見ているこちらはハラハラして気が気でない。
「頑張れ、洋一」
大音量の応援歌は、緊張で私の耳にはほとんど入ってこない。まるで投手を挑発するかのような洋一の大胆なリード。モーションを盗んだかのような完璧なスタートで洋一は二塁へ走る、華麗なスライディング、相手捕手はボールを投げられず、盗塁成功!
ノーアウトランナー二塁という場面に、球場が湧き上がる。私も思わずガッツポーズをして、歓声に紛れて声を上げる。
外野応援席からは逆転を望むチャンステーマが演奏され、男声パートと女性パートに分かれた熱い応援が球場内に響く。今日一番の盛り上がりだ。
続く打者のタイムリーにより洋一はホームへ帰還、同点に追いつくと打線の繋がりを見せこの日の試合は3-4で勝利した。
*
ヒーローインタビューを見終えて、観客たちが球場を後にしていく姿を見送る。選手用の駐車場で愛車を見つけると、スペアキーを使って車内に乗り込む。夜とはいえ9月はまだ蒸し暑く、洋一を外で待つのはさすがにしんどい。
車内のエアコンをつけて運転席をリクライニングすると、さっそくアップされた先ほどの試合ハイライトを再生する。スタメン出場ではなかったものの、洋一らしい代走起用での活躍、すごく格好良かった。
しばらく車内で過ごしていると、球場の選手通用口から着替えを済ませた選手たちが出てくる。ベテランの村中選手と並んで歩くのは、同じくベテランの栗田選手だ。今年でプロ20年目、長い年月をプロ野球選手として居続けること、そして活躍を続けることのすごさを彼らを見ていると感じる。
少しすると通用口から洋一が出てくるのが見えて、私はルームミラーを見ながら手櫛で髪を整えて、車から降りた。
「洋一!」
左肩に荷物を掛けた洋一は、私の声に気が付くと目を丸くして思わず足を止める。「・・・凪?」と呟いたかと思うと、こちらに向かって駆け寄ってくる。喜びがこぼれるような洋一の表情に、私は両手を広げて彼を迎える。
「凪、お前いつからいたんだよ」
洋一の腕が私を強く抱きしめる。
「来るなら連絡しろよ」
「うん、ごめんね。洋一を驚かせたくて」
周りの選手たちからの視線を感じるけれど、洋一は気にせず私を抱きしめ続ける。シャワーを終えた洋一からはふんわりとしたいい香りが漂ってくる。
「試合、途中から見てたよ。洋一の盗塁、完璧だったね!」
「なんだ、見てたのかよ!」
照れくさそうに鼻を掻く洋一は私の顔を見て「熱、ちゃんと下がったんだろうな?」と自分の額をくっつけてくる。
「なんか、顔赤いし、ちょっと熱くねぇか?」
「こんなところでくっつかれたら、熱くもなるよ!」
周囲を見渡すと若い選手らがこちらを見て、口々に「あれが倉持さんの奥さん?」「新婚いいなー」と笑いながら通り過ぎていく。ああ、恥ずかしい。洋一に会えたのはすごく嬉しいけど、人前でこんなこと。
「洋一、みんな見てるから」
「なんだよ、わかったって」
私の抵抗に洋一は諦めて、抱きしめる腕を離す。心配そうに私の顔を見つめると、今度は手のひらを私の額に当ててくる。
「ちょっと熱い気もするけど、もう大丈夫なんだな?」
「うん、もう平熱だよ。少し咳は出るけど、大丈夫。とりあえず車乗ろう」
運転席のドアを開けて乗り込もうとすると、洋一に腕を掴まれて止められてしまう。
「試合で疲れてるでしょ、わたし運転するよ」
「ダメ。病み上がりは助手席にでも座ってろ」
洋一の優しさに口元が綻ぶ。「ニヤついてんじゃねぇ」と頭にチョップを食らうけど、私をエスコートするように助手席のドアを開けて座らせてくれる。
「ありがとう、洋一」
運転席に座った洋一はオーディオディスプレイに触れて、お気に入りの曲を流す。右手をハンドルに添えたまま私をチラリと見ると、車外をぐるりと見渡して、視線がまた戻ってくる。
「どうしたの」と口を開くと、洋一の顔がゆっくりと近付いてくる。「凪」と柔らかく掠れた声で名前を呼ばれて、左手でマスクを顎下にずらされる。風邪が移っちゃうからダメ、そんな建前は言葉にならなくて、私は洋一の動きに合わせて目を閉じる。
「凪、会いたかった」
愛おしさの滲む声が車内に落ちて、洋一の唇と触れ合う。私は彼の頬を撫でると「寂しい思いさせてごめんね」とはにかんだ。
「別に、元気になったならそれでいいんだよ」
洋一は照れくさそうにハンドルを握り直すと、車を発進させる。自宅まで車で20分ほどの道のり、多くは言葉を交わさないけれど隣に洋一がいるだけで安心感で胸がいっぱいになる。
「そういえば、俺の枕カバーが見つからねぇんだよ」
「えっ!? あ、そうなの。家に帰ったとき、洗濯カゴにあったよ」
「マジ? ならいいんだけどよ」
ホテル療養の心の拠り所に持ち出しただなんて言えるはずもなくて、慌てて取り繕うと洋一はあまり気に留めていない様子でハンドルを握る。進行方向を見ながら、肩をすくめるように言葉を続けた。
「凪がホテルに持っていったのかと思ってたぜ」
洋一はヒャハハ!と自嘲気味に笑うと「さすがにそれはねぇよな?」とこちらを見る。そんなことないよ!と咄嗟に返せればよかったのだが、こういうときに機転の利かない自分がちょっと嫌になる。
すぐに返事のない私に、洋一は「マジかよ!」と察したようにまた笑った。
「だって、一人でホテルで過ごすだなんて寂しいんだもん」
「ヒャハハ! 凪、どんだけ俺のこと好きなんだよ」
洋一はご機嫌な様子で目を細める。
「今度また風邪引いたときは、俺のTシャツでも持ってくか?」
「もう!そんなのいいよ!」
なるほど、Tシャツという手があったか!なんてバカなことを考えるのはよそう。
洋一は楽しそうにハンドルを握る。その横顔が対向車のライトに照らされて、愛おしいほど格好よく見えた。
「ま、それ以前に風邪ひかねぇように気をつけろよな」
「そうだね」
「俺も、寂しかったんだからよ」
「うん、知ってる」
私の言葉に洋一は前を向いたまま「柄じゃねぇこと言わせんな」と小さく鼻を鳴らした。
自宅まであと5分ほどだろうか。車窓に映る夜景が流れていく。
「洋一、わたしね、洋一のこと大好きだよ」
「・・・やめろよ、運転中に」
「ごめん、じゃあ帰ったらたくさん言わせてね」
洋一は「バーカ」とまんざらでもない表情をして、ハンドルを握る手に力が入ったように見えた。
今すぐに彼を抱きしめたくて、愛おしい気持ちが溢れてくる。けれど、帰宅するまではこの気持ちを温めておこう。
家に着いたら、思いっきり抱きしめて「愛してる」とたくさん伝えるんだ。洋一が隣にいてくれるだけで、こんなにも晴れやかな気持ちになれる。そして、風邪なんか引かないように、二人でずっとそばにいようねって約束しよう。
終わり
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