二人だけの嘘
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火曜の朝、私はいつも通り少し早めに出勤して、給湯室でお湯を湧かし始める。お気に入りのコーヒーバッグを開けて、今日も芳醇な香りに癒やされる。
昨日の今ごろは憂鬱な気持ちでここに立っていたけれど、何事もなく一日の仕事を終えられて、ほんの少し気持ちが落ち着いた気がする。朝の通勤時間も昨日ほど気が重たくはなかったし、感情の整理に涙を流すこともなくなった。
ただ、倉持さんとの一夜の記憶がなくなったわけではないし、それこそ「またそうしたい」という気持ちは抱えたままだ。彼に翻弄された記憶は頭だけでなく、体が鮮明に覚えている。
電気ケトルがカチッと鳴って、お湯が沸いたことを知らせる。マグカップに乗せたコーヒーバッグにお湯を注げば、心安らぐ香りが狭い給湯室内に広がる。
「お前、今日もコーヒーか」
目を細めて香りに浸っていたところ、男性の声に現実に引き戻される。ああ、また。あなたはどうして私を落ち着かせてくれないんだろう。
「倉持さん、おはようございます」
昨日みたいな景気の良い挨拶はできなかったけれど、落ち着いた声で返事ができた。
倉持さんは給湯室の入り口からひょっこりと顔を覗かせて、こちらを見ている。入ってこないのかな?と思っていたところで「邪魔していいか?」と一言断って、こちらへやってくる。
「いつもより早いですね」
「電車の乗り換え上手くいってさ、早く着いたんだよ」
倉持さんはくあ、と眠たそうに欠伸をする。今日もきっちりとスーツを身にまとっていて、ジャケットの下に着たベストは紺色だ。
「倉持さんも飲みますか、わたしのおすすめコーヒー。目が覚めますよ」
「いや、苦いからいらねーって」
「砂糖とミルクもありますけど」
気持ちを抑えるのも慣れてきた。私の半歩先に立つ倉持さんは、左肩に仕事用の鞄を掛けている。
「今日はいいや。金曜の歓迎会のことだけど」
「あ、はい」
「男の参加者まとめといたぜ。営業部ほとんど来られるってさ」
「ありがとうございます、よかった。女性の方も中村に根回ししてもらって、みんな来られるみたいです」
私の言葉に倉持さんはほっとしたような表情をした。
「じゃ、あとは店の予約と適当に予算考えておいてくれるか」
「わかりました。会社に経費申請してもいいんですよね?」
「ああ、申請しておいてくれ。部長の寸志もあるだろうけど、足りなかったら当日集金だな」
畳一枚ほどの空間で倉持さんと言葉を交わす。この様子を他の社員に目撃されたら、真由の言う通り「噂」になってしまうのだろうか。別に噂になるなら、なってしまえばいい。心の悪魔が囁いて倉持さんの顔を見ると、ぴたりと目が合ってしまう。
一瞬、時間が止まった気がした。倉持さんの視線はまっすぐに私を見ていて、呼吸を忘れそうになる。思わず足を一歩、彼に踏み出してしまいそうになる。でも、足だけはまだ時間が動き出していなくて、金縛りみたいに頭と体がちぐはぐになった感覚だ。
「男の参加者はあとでラインで送っとく」
その一言ですべての時間が動き始める。倉持さんは給湯室から出て行こうとするけど、私はそういえばと、あることに気が付く。
「あの、わたし倉持さんのライン知らなくて」
「え、そうだったか?」
目を丸くする倉持さんが可愛く見える。今まで彼を怖い人と思っていた自分を今すぐこの場に連れてきて「こんなに素敵な人なんだぞ」と教え込んでやりたい。可能であれば「もっと早くに親しくなっておけばよかったものを!」と、胸ぐらを掴みながら・・・。
「はい、たぶん」
私はそう言いながらスマホを手にして、ラインの友達欄を検索する。「倉持」「くらもち」、えっと確か下のお名前は「洋一」さん・・・いろいろと検索してみるけれど、画面には「該当なし」の文字。
「そっか、じゃ、これ読み取ってくれるか」
倉持さんはQRコードを表示したスマホの画面をこちらに向ける。彼の体の正面から読み取ろうとするけれど、光の反射でうまくできない。
どうしよう、反射しないように倉持さんの手を握るわけにもいかないし。
「あの、ちょっと角度が」
「ん、ああ悪い」
苦戦する私に気が付いた倉持さんは私の横に移動してくる。二人横に並んで、身を寄せて倉持さんのスマホ画面にカメラを向けた。すん、と鼻に触れる香り。それはあの夜に鼻に触れたのと同じ、倉持さんの香りだ。
自分の二の腕に倉持さんの腕が当たると、肩を掴まれた大きな手の感覚がフラッシュバックする。夜の息遣いが耳に蘇って、息が詰まりそうになる。
『倉持洋一さんを友達追加しますか』画面に現れた文字は目に入らなくて、倉持さんの顔を見る。目が合って、倉持さんの瞳の奥を覗き込む。あ、やっぱり揺れてる。私は思わず顎を上げてしまう。
「おい」
瞬間、頭の上に倉持さんのチョップが落ちてくる。
「ここオフィス」
倉持さんはバツの悪そうな、申し訳なさそうな表情で私を見る。けれど、私を傷つけないようにと気を遣ってか、声色は明るくて、チョップの手は優しかった。
狭い空間で一瞬近すぎた距離に、倉持さんも何かを感じていた気がした。
「ご、ごめんなさい。あの」
無意識とはいえ、また大胆なことをしてしまった。こんなことをしては勘違い女だと揶揄されてしまう。そうならないように行動を慎まなければと思っていたのに。
「じゃ、頼んだぜ、幹事さん」
倉持さんはくるりと踵を返すと、後ろ手に手を振りながら給湯室をあとにする。倉持さんの残り香とコーヒーの香りが鼻に残って、私は鼻をすすりながらスマホ画面に目を向けた。
『倉持洋一さんを友達追加しますか』、『はい』。
**
木曜日、一人で会社近くのカフェで昼食をとる。真由に声を掛けたけれど「今日は西川さんとお昼なの」と振られてしまった。彼女の手の早さに思わず「頑張って」と苦笑ったのは、つい20分ほど前の話し。
店内が見渡せる広めのソファ席を手に入れた私は、早々に昼食を食べ終えて、食後の紅茶に舌鼓を打つ。
明日は西川さんの歓迎会だ。お店の予約と経費申請は済ませたし、乾杯の音頭は加藤課長に、締めの言葉は部長にそれぞれ根回ししてある。あとは当日を迎えるだけだ。
温かい紅茶に口を付けて、深く息を吐く。このカフェは紅茶一つ取っても種類豊富で、おまけにハーブティーもあるから女性に人気だ。
たまには一人でのランチタイムも良いものだ、なんて悠長に思いながらカフェの出入り口に目を向ける。そこには見知った二人組の男性が店内に入ってくるところ。ああ、またこんなときに。
カフェのスタンド看板に貼られたメニュー表を眺めるのは、加藤課長と倉持さんだ。会社近くのカフェだから社内の人が来てもおかしくはないのだけれど、今週はやけに倉持さんとの遭遇が多い。そういえば加藤課長は紅茶が好きと言っていたから、倉持さんは課長に付き合わされているんだろう。
「加藤さん、俺こんなカフェ飯じゃ腹足んねーっすよ」
倉持さんの声が耳に入ってきて、思わず笑ってしまう。普段、昼食をどこでとっているのかはわからないけれど、倉持さんがお洒落なカフェにいる姿は想像がつきにくい。ベスト姿でマグカップを手にする倉持さんが座っていたら、絵にはなりそうだけど。
「足りなかったら追加していいぞ。たまには俺に付き合え倉持。この店は紅茶がうまいんだ」
「っす。じゃ、このハンバーグプレートで」
「ライスは大盛りでいいか」
「お願いします」
倉持さんは「先輩に言われたら断れねぇ」、そう言いたげな顔をしている。「加藤さん、席とっておきますね」と倉持さんは店内へ歩を進める。
「あ、」
彼らの様子をずっと見ていたおかげで、店内へ歩いてくる倉持さんと目が合ってしまう。
「おう、大森、偶然だな。今日は一人か」
「お疲れ様です。今日は中村に振られちゃって」
「俺は加藤さんに付き合わされてさ、こんな店初めて来たぜ」
倉持さんは居心地悪そうに店内を見渡す。
「いつもはどこでお昼食べてるんですか?」
「適当。町中華とか、会社から少し歩くけどトンカツ屋があってよ、量も多いしうまいんだ」
言葉を交わしていると、会計を終えた加藤課長がこちらにやってくる。私に気が付いた課長は小さく手を挙げて「大森も今日はここか」とニカッと笑う。
「課長、お疲れ様です」
「おい倉持、席はどうした」
「あ、やべ」
加藤課長の追及に倉持さんは周りを見渡して慌てた顔をする。店内はランチタイムということもあって、食事をするOLで席はいっぱいだ。みんな紅茶を楽しみに来ているから、すぐに席は空きそうにない。
「あの、よかったらお二人とも一緒に座りますか」
「お、いいのか、悪いな」
「加藤さん、少しは遠慮しましょうよ」
もともとは3人掛けのスペースの席で、2名掛けのソファにテーブルを挟んで一人掛けの椅子が置かれている。混雑した店内で一人で広い席を陣取るのにも気が引けていたし、私はソファから立ち上がって一人掛けの椅子に座り直した。
「ありがとな大森」
「いえ、とんでもない」
倉持さんと加藤課長は並んでソファに座る。少しして二人が注文したプレートが運ばれてきた。
「そういえば大森、この間のデータの整理ありがとうな。良くできてて助かったよ」
「あ、ほんとですか。よかったです」
「加藤さん、こいつに仕事振るのはいいっすけど、期限とか確認してやってくださいよ」
「え、俺言ってなかったっけ?」
それは先週の金曜日に倉持さんに言われたことだ。『お前なあ、仕事もらうのはいいけどいつまでに必要かくらい確認しろよ』あの時の倉持さんの言葉を思い出して、情けない気持ちが蘇る。「でも、確認しなかったのはわたしなので」と弁明する。
「こいつ、金曜遅くまで残業してたんですよ。絶望した顔しながら」
倉持さんは私を軽く指さして、いたずらっ子のように笑う。加藤さんはそれを聞いて「マジかよ!それは本当に申し訳ない!」と顔の前で拝むように両手を擦り合わせた。
男性の食事は本当に早い。あっという間にプレートを平らげた二人は、加藤課長は紅茶、倉持さんはミルクティーを飲みながら談笑を始める。倉持さんの前には食後のデザートまで置かれていた。
「そういえば大森、明日の幹事よろしく頼むな」
「はい、加藤課長も乾杯のご挨拶お願いしますね」
私はすでに自分の紅茶を飲み終えてしまって、手持ち無沙汰に思いながらお冷やを口にする。
「あの焼鳥屋も久しぶりだな。いつぶりだっけか?」
加藤課長の何気ない言葉に、胸の中が騒がしくなる。
「4月の新卒の歓迎会以来っすね」
倉持さんはミルクティーを一口、加藤さんの問いに答える。私は思わず口をつぐんでしまって、手に持ったままのコップに視線を落とす。水面がゆらゆらと揺れて、自分の心の動揺を映しているようだ。
「あの店はハツがうまいんだよな」
「そうですね、事前注文でハツもお願いしてありますよ」
「お、そうか。気が利くな大森」
「わたしも久しぶりに行くので楽しみです」
“わたしも久しぶり”、さらりとついた嘘に倉持さんの視線が動いた気がした。ふと腕時計を見ると、13時を回るところ。
「すみません、わたし先にオフィスに戻りますね」
「ああ、もうそんな時間か」
遅れてやってきた二人は、もうしばらく店内で過ごすつもりなのだろう。私は椅子から立ち上がって、飲み終えた紅茶のカップを手にする。
「では、お二人はごゆっくり」
下げ台へカップを戻してカフェをあとにする。加藤課長へついたささやかな嘘が、なんだか倉持さんとの共犯のような気がして変な気分だった。
*
オフィスに戻ってデスクに座っても、カフェでのことが頭の中をぐるぐるとしている。加藤課長の「あの焼鳥屋も久しぶりだな」に対しての、罪のない嘘。あの夜の秘密を知っているのは私と倉持さんだけ。
営業部みんなでとはいえ、あの焼鳥屋に行ったらきっと思い出してしまう。頬をつつかれた指の感触、「まだ帰りたくないです」と口走り、あなたともっと一緒にいたいと縋ったあの日の感情を。
誰にも言えない優越感と胸のモヤモヤが織り交ぜになる。明日の歓迎会が終わったあと、倉持さんと二人で何か起きて欲しい。心底不純な気持ちが沸き起こって、自分で自分が嫌になる。
あの日の多幸感をもう一度、あなたと共に味わいたい。今、倉持さんはどんな気持ちでいるんだろうか。
「・・・はあ」
仕事中に考えることじゃない。3日ぶりに「仕事は仕事」のおまじないを思い出して、何度も頭の中で繰り返す。けれど、気持ちのどこかで金曜日に期待をした自分は居座ったままで、書類を整理する手はしばらく止まってしまうのであった。
二人だけの嘘 終わり
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