好きに気付いた日
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「凪、おにぎり食いてぇ」
ある日のオフ、朝食の準備をしようとキッチンに立つと朝のランニングを終えた洋一から朝食のリクエストが上がってきた。洋一の額には汗が浮かんでいて、リビングに設置されたウォーターサーバーへ向かうと、コップに水を注いで一気飲みする。
昨日の試合は先発投手の不調に始まり、打線の繋がりもなく大敗していた。ホームでの試合だったもののファンとしては“楽しくない”試合展開に、試合途中の観客の退席も多かったためか、洋一のご機嫌は少し斜めだ。
「おにぎりだけでいいの?」
「あと、卵焼き」
「うん、いいよ」
せっかくオフ日が被ったし、昨日の大敗を慰める意味でも少し豪華な朝食にする予定だっただけに「おにぎり」のリクエストに拍子抜けしてしまう。けれど、今日は洋一のご機嫌のためにそれくらいのリクエストは聞いてあげようと、海苔のストックを確認するため乾物入れを開ける。
炊飯器からは蒸気が立ち、ご飯の炊き上がる香りが鼻をくすぐる。炊きたてのご飯でおにぎりを握ったらさぞ美味しいんだろうな。
「なんでおにぎり?」
「いや、なんとなく」
洋一は後頭部を掻きながらバツが悪そうに視線を逸らす。「シャワー浴びてくるわ」と廊下に出て浴室に向かおうとしたけど、リビングと廊下を繋ぐドアからひょこりと顔を出して、キッチンに立つ私へ視線を向けてくる。
「昨日の試合悔しかったからよ、懐かしい味が食いたくなったんだよ」
「懐かしい味?」
洋一の言葉にすぐに記憶を辿れなくて、私は顎に手を当てて考え込んでしまう。ピピーと炊飯器の音が鳴り、ご飯が炊けたことを知らせた。
***
夏の予選が終わり、新チームが動き出した。最初こそまとまりに不安のある始動だったものの、紆余曲折を経てチームは一つになりつつある。
今日も暑い中での練習が続き、グラウンドは選手たちの声で活気がある。
「今日も、上手だなぁ」
私はウォータージャグを洗いながらノックを受ける彼の様子を眺める。際どい打球にも俊敏な動きで追いついて、華麗にアウトを取る倉持の姿に無意識に目が向いてしまう。
もともとスポーツが好きで、1年次に同じクラスになった幸子に誘われて野球部のマネージャーになった。名門校のマネージャーとして入部をするのには勇気がいったけど、こうやって選手たちを近くで応援できることにやりがいを感じている。
「凪!お昼ご飯の準備しに行くよ」
遠くから唯の声が聞こえて、見つめていた倉持から視線を外す。「ヒャッハー!」という威勢の良い声が聞こえて思わず振り向くが「凪早く!」の声に慌てて声の方へ向かった。
「早く作り始めないと間に合わないよ」
「ごめん、唯」
「また誰かさんのこと見てたんでしょ?」
唯と並んで歩いて食堂へ向かう中、呆れたように笑われる。
「えっ、見てないよ!ぜんぜん」
「どう見ても釘付けだった」
「それは、守備が上手だなって」
「ほら、やっぱり見てたじゃん」
唯はまた呆れたような表情。「倉持のこと気になるの?」と前髪の隙間から覗く右目に見つめられる。
「そんなのじゃないよ」
「ふーん?」
「今はそういう時期じゃないでしょ」
*
今日は普段よりも湿度が高く、重たい雲で覆われた空は灰色に濁っている。盛夏は過ぎたというのに気温はまだまだ高く、高い湿度が相まって少し体を動かすだけでも全身からは汗が噴き出してくる。
内野ノックが終了すると外野ノックが始まり、倉持は連携プレーの確認のため小湊に声を掛けた。ランナーの進塁具合やアウトカウント、打者の打順等、それぞれのシチュエーションによって内野手の動きは細かに変わる。
尊敬する先輩から学んだことを一つひとつ確認するように、新しい相棒と共有する。
「あの、洋さん」
口元にグラブを当てて話し始めるのは野球人の性なのかもしれない。プレーで確認でもあるのかと倉持は小湊の声へ振り向くが、相棒の口から出てきたのは思いもよらない言葉だった。
「大森先輩、洋さんのことずっと見てましたね」
「は?」
「え、気付いてないんですか」
「知らねーよそんなの。練習しろ、練習」
ほんの少し茶化したつもりであった小湊だったが、歯牙にも掛けない倉持は言葉のとおり「知らない」ようである。素直で嘘のない人だ。倉持が自覚をしていたら真っ先に顔に出ることを小湊は知っている。
大森を気の毒に思いながらも、小湊は小さく吹き出してしまう。「洋さんを落とすのは手強そうだなぁ」そんなことを考えていると、後頭部に軽くチョップを食らうのであった。
「練習に集中しろ!」
*
食堂の調理場からはご飯の炊き上がる香りが立ちこめる。過酷な練習をする選手のお腹を満たすためには並の炊飯器では足りず、二升炊きの炊飯器は複数台がフル稼働だ。
炊き上がった大量のご飯はふっくらと美味しそうだが、これをすべておにぎりに握ることを考えると正直ぞっとしてしまう。幸子と春乃はそれぞれ別の仕事をしているから、今おにぎりを握れるのは私と唯だけだ。
「おにぎりじゃなくてもいいと思わない?」
「わけるけど、塩分も必要だし。ほら、倉持も食べるから」
「もう、倉持は関係ないでしょ!」
唯にいじられるものの、倉持もおにぎりを食べることを考えたら頑張って握ろうと思えてしまうのは、きっと彼のプレーが魅力的だからだ。
満を持して、炊きたてのご飯にしゃもじを十字に入れてかき混ぜる。立ち昇る湯気に目を細めていると、屋外の雨音に気が付く。
「え、雨?」
唯も驚いて顔を上げる。ポタポタと大粒の雨が落ちる音は瞬く間に早くなり、雨粒が屋根を叩く音で室内が包まれる。
「夕立だ。みんな、大丈夫かな」
食堂の窓から外を眺める。窓を開けるのを躊躇するほどの大雨に、練習中の部員たちが気がかりだ。
「この雨じゃ練習は中断だね」
「おにぎり間に合わないよ、唯」
少しすると雨から逃れてきた部員たちが食堂と寮になだれ込んでくる。「雨やべーな!」「このあと練習できんの?」「びしょ濡れだ風呂入りてえー!」と口々に言い合う部員達。それに遅れて、一つの傘を分け合った幸子と春乃も食堂へ逃れてくる。
「二人とも大丈夫だった!?」
「うん、平気。一旦練習は中止だってさ」
幸子は濡れた肩をタオルで拭う。
「でもこの雨じゃ、雨が上がったとしてもグラウンド使えるんですかね?」
「春乃にしては鋭いな」
春乃をいじるように笑う幸子に、私も唯も続けて笑ってしまう。
「ま、その判断をするのは監督だから。とりあえず今は待機ね」
幸子のリーダーシップにみんな頷く。「あれ、おにぎりはこれから?」と調理場を覗く幸子は私と唯の顔を交互に見た。
「ちょうどこれから始めるところでして」
「えへへ」
「何やってんだよもう!ほら、全員で一気に握るよ!」
*
マネージャー全員でおにぎりを握る間、選手たちは濡れたシャツを着替えたり、食堂で談笑したり、室内練習場へ向かう選手もいた。当然ながら倉持の姿は食堂になくて、彼のことだからきっと自主練に向かったのだろう。って、どうしてまた倉持のことばかり。
夕立が来てから30分ほどが経過し、炊飯器のご飯のほとんどがおにぎりへと変身を遂げていた。無事に雨が上がったところで食堂に部長が現れる。
「今日の練習は中止だ。各自、自主練をしても構わないし、疲れが溜まっているものは無理せず休養するように」
この場にいないものにも伝えておいてくれ、と言い置くと部長は食堂から出て行った。春乃が言っていたとおり、雨は上がったもののグラウンドには水が溜まってしまい練習の続行が難しいとの判断のようだった。
時間をかけて握ったおにぎりが部員たちのお腹に消えていくのはあっという間で、少し目を離しているうちにおにぎりの並んだステンレスのバットはきれいに空になっていた。
マネージャーで手分けして調理場で洗い物をしているところに、1年生の沢村くんがやってくる。
「マネさんたち、いつもありがとうございます!」
そう言って頭を下げると「おにぎりうまかったっす!あの特大のやつはどなたが?!」と続ける。
「おー沢村、良い心がけじゃねぇか」
沢村くんの背後から顔をひょっこり出したのは倉持で、調理場にいるマネージャーたちをぐるりと見た彼の視線は最後に私へと向けられる。でもそれはほんの一瞬で、また調理場全体に倉持の視線は戻ってしまう。
「いつもありがとな。ごちそうさん」
私たちマネージャーは顔を見合わせて笑うと、「はいはい、あんたたちもいつもお疲れ様!」と幸子が代表して返事をした。
「あと沢村、特大おにぎりは凪の特製だよ」
「おおー!大森先輩でしたか!」
「えっ、わたしのやつそんなに大きかった?!」
食堂内には沢村くんをはじめ数名の部員が残っている。昼食を済ませた一部の部員は室内練習場へ向かったり、土手へランニングに出たものもいるようだ。
今日の練習は中止になったし、雨も上がったからもう帰ろうかなと、調理場のシンクを拭き上げてふと食堂内に目をやる。
「倉持先輩! 休めって言われても、オレ何したらいいかわかんねーっす!」
「休むんだから何もしなくていーだろ、バカは寝てろ」
「バカってなんすかー!!」
食堂にいてもグラウンドにいても、この二人の会話は変わらないなと笑ってしまう。
「こんな昼間に寝れねーっすよ! 何かしやしょう!」
「何かってなんだよバカ村」
「まあまあ洋さん。部屋からトランプ持ってきたんでどうですか?」
大騒ぎの倉持と沢村くんを見かねた小湊くんが二人の間に割って入る。彼の手には青色のトランプがあって、それを見た二人は目を丸くする。
「僕の部屋にあって。たぶん卒業した先輩が忘れていったものです」
「おー!春っちいいところに!」
「僕も今日はオフにしようと思って、よかったら一緒にやろうよ栄純くん」
彼らのやり取りを俯瞰していたところ、くるりと小湊くんの視線がこちらを向く。前髪でその表情は読み取れないけれど、調理場にいるマネージャーたちを見渡したかと思えば、真っ直ぐに私と目が合った――気がした。
「よかったらマネさんたちもどうですか?」
*
仕事もないからと帰るつもりでいたところ、小湊くんと目が合ってしまい私もトランプに参加することになった。春乃はスコアブックの書き方を勉強したいからと席を外したが、幸子はノリノリで、その後ろから唯も参加の意を示している。
「くだらねぇ、俺は部屋で休むわ」
「洋さん、付き合ってあげないと栄純くんオーバーワークするかもしれませんよ」
部屋に戻ろうとする倉持を絶妙な理由付けで小湊くんが引き止める。責任感の強い倉持のことだから、そう言われてこの場を離れるわけにもいかないのだろう。倉持は自分の頭をぐしゃぐしゃと掻き回すと、音を立てて食堂の椅子を引いて腰掛けた。
「ったく、世話が焼けるぜ」
「ゾノさんもすぐ来ますから」
小湊くんが一度部屋へ戻った際にゾノくんと鉢合わせたようで、トランプの話をしたとろ「ワイも行くで!」と乗り気だったようだ。
「よかったじゃん、凪」
「小湊くんが倉持のこと引き止めてくれたね」
耳打ちしてくる唯は幸子と目を合わせてニヤニヤしていて、幸子に肘で突かれる。倉持が部屋に戻ろうとしたときは確かに残念だと思ったけれど、引き止めてもらえて嬉しかったとか、そんなはずはない。いつの日か幸子にも「また倉持を見てる」と言われたことがあったけど、それはただ華麗なプレーに見惚れているだけだから。
「おう集まっとるな!勝負ごとは負けへんで!」
女子三人でコソコソと話し合っているところにゾノくんも合流する。
「ま、せっかくやるなら負けたくはねぇよな」
「倉持!お前には負けへん!」
「なんで俺なんだよ」
「じゃあ負けた人は罰ゲーム、っていうのはどうですか?」
「罰ゲームか!燃えるな!」
小湊くんの提案に沢村くんが食いつく。
「負けた人はタイヤ引きランニングとかどうっすか?」
「そんなの私たちできないよ!」
「沢村バカでしょ!」
タイヤ引きの案にはマネージャー陣から猛反発が上がる。さすがに私もそれには乗っかれなくて、程よい罰ゲームがないか辺りを見渡してみると食堂の端に置かれたバットが目に入った。
「罰ゲーム、素振りってのはどうかな?」
私が右手を挙げて口を開くと、幸子と唯、小湊くんがなるほどと頷いてくれる。
「大森先輩、素振りいいですね!」
「ただ、選手のみんなと私たちが同じ回数は難しいからハンデが欲しいかな」
「ヒャハハ!じゃあ俺たちが負けたら素振り500回、マネージャーは100回でどうよ」
私の言葉に倉持が続けてくれる。調子が良いときの笑い声が、彼の乗り気を表しているようだ。勝負事になると目を光らせるのはうちの野球部員の共通点かもしれない。
「素振り100回か、さっちんどうする?」
「やるよ!負けなきゃいいんだからさ!ね、凪?」
「うんっ。わたしが言い出したのに引けないよ」
小湊くんがトランプを配り、倉持、ゾノくん、小湊くん、沢村くん、幸子、唯、私の7人のババ抜き対決が始まった。
つづく
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