時給$200の清掃作業
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化け物の興奮した犬のような息遣いが微かに聞こえ、足音がこちらに近づいてくる。
ヒタ……ヒタ……
あまりにゆっくりとした足音。先ほどまで俊敏な動きをしていたとは思えないほどだった。その遅さに思わず私は薄目を開けてしまった。
そこにいたのは予想もしない姿の化け物だった。
数メートル先に立ち止まったそれは、大きく開けた口に私のモップを咥えながらまるで犬がボールを運んでくるかのように、ずい、ずい、とモップを差し出している。
「………な、なに…?」
困惑と恐怖が入り混じり声にならない声が喉を鳴らす。化け物は私の反応を待っているかのように、差し出したモップをわずかに揺らした。その姿は、まるで「もう一回投げてくれ」と要求しているかのように思えた。
意図を理解した私は恐る恐る手を伸ばそうとした。しかし、モップに触れる直前で手が止まる。もし噛みつかれでもしたらどうする。鋭い牙がギラリとよだれで光っている。手に当たる化け物の吐息は生暖かく、それでいて臭い。
私は意を決してベタベタと湿った柄を掴んだ。私がモップを受け取った瞬間、化け物は声色高く嬉しそうに唸りを漏らす。尻尾のない尾てい骨あたりを左右に大きく揺らすその様子は、まるで褒められた子犬のように無邪気にはしゃいで見えた。
そして私の次の行動を待つかのように、その場に四つん這いでじっと私を見つめている。その愛らしい仕草に私の頭は混乱しきっていた。この化け物は何を求めている? 私はどうすればいい?
「………とってこい?」
私はモップを化け物の横、数メートル先目掛けて投げつけた。カランと音を立てて床に転がるモップ。すると、化け物は目にもとまらぬ速さでモップのところへ駆け寄り長い舌を柄に絡ませ、また私の下へモップを運びに戻ってきた。
私はまたモップを受け取り先ほどと同じように投げる。それを何度か繰り返す間、この化け物を観察しようと試みた。骨格は人間っぽいが、長い舌や鋭い爪はアリクイにも似ている気がする。仕草は犬のようだが犬ではない。「偽犬」その言葉が私の脳内に浮かんだ。
そして「とってこい」が何度か続き、さらにモップを遠くに投げてやった後、偽犬はこの遊びに飽きてしまったのかおもむろにモップを拾うのをやめた。
「…………」
室内が静寂に包まれる中、偽犬は私の方へじっとりと近づいてくる。そして立ちすくむ私を見上げ、右へ左へ微かに首を傾げたかと思うと、あの長い舌をゆるゆると伸ばし私の頬へ己の舌先を触れようとしてきた。
ここで悲鳴を上げようものなら偽犬は衝動的に反応し私を攻撃するだろう。そう察した私は恐れながらも偽犬の舌先を受け入れた。ぬるりと生温かい感触。舌は硬く、力加減を知らないそれは頬を大きくへこませた。粘度の高いよだれが顎を伝い、やがて首筋へと落ちていく。ゾワリと背筋に虫唾が走った。その行為が「味見」ではないことを祈りながら偽犬が気が済むのをひたすら待つ。
偽犬は私の頬を舐めながら軽く喉を鳴らしていた。はじめは強かった力加減は徐々に私の肌の弾力に合わせるように弱くなっていった。突くような仕草だったものが舌先を滑らせるようになり、私の顔を好き放題に舐め始めた。
グチュ……グチュ……
ヌル……
クチュ……
「も、やっ……やめ……」
あまりの執着的な動きに私は思わず声を漏らした。その言葉を理解したのか、偽犬はしぶしぶといった様子で舐めるのをやめるとやっと私を解放した。偽犬のよだれは首筋を伝い、服の襟元まで濡らしていた。
服の袖口で生臭くなった両頬を拭う。生理的な嫌悪感はあるものの不思議と嫌な気分ではない。自分でも理解できない感情が心の奥底から湧き上がる。私の目の前でじっと見つめるようにそこにいるのは紛れも無く化け物のはずなのに……
この地獄のような場所で体にこびりついていたはずの疲労感や不快感が端っこの方から少しずつはがれ落ちていく気がした。そして、そのはがれ落ちた隙間からほんの少しの温かい気持ちがじんわりと私の心に流れ込む。それは紛れも無くこの目の前にいる化け物から注がれるものだった。それに気付いた時、私の頬は自然とほころび笑みをこぼしていた。
自然と私の片手が偽犬へと伸びた、その時だった。
――カチャ、ガコンッ!
突然の音にビクンッと大きく身体が跳ねた。咄嗟に音の方へ振り向くと、唯一の出入り口である扉が異音を響かせ、大きくがたつきながら音を立て開け放たれる。部屋の外には二人の武装した人間が立っていた。真っ黒なヘルメットに防護マスクを装備した彼らは大型の銃を構え、警戒しながらゆっくりと部屋に入ってきた。
「目標を確認。捕獲しろ」
先頭の一人がくぐもった声を上げ指示を出す。その声に反応した偽犬は私の方から視線を外すように頭を振り、危険を察知したかのように瞬時に天井へと飛び上がった。すると武装した二人は銃を構え、偽犬に向かって発砲した。
――ダダダッ!
「キャアッ!」
私は恐怖に悲鳴を上げその場に塞ぎ込んだ。大きな銃声が数回連続して鳴り響いた後、しんと静まり返った。恐る恐る顔を上げるとそこに偽犬の姿はなく、天井にはたくさんの弾痕が刻まれていた。弾痕はまるでヘビのように波打ちながら、開け放たれたままのダクトへと続いていた。きっと偽犬はあのダクトから逃げたのだろう。そう思った私はほっと胸を撫で下ろした。
武装した二人が足速に部屋を出た後、入れ替わるようにして入ってきた人影。あの二人とは対照的に真っ白な白衣を纏った人物に私は見覚えがあった。
「ティナさん、お怪我はありませんか?」
事務的な冷たい口調で話す女性社員は口角を上げながら私に近づき手を差し伸べてきた。胸の奥から不信感と怒りが込み上げるのを感じながら、私はその手を取ることなく立ち上がった。
「ご無事な様子で安心しました。では、こちらへ……」
「ちょっと待ってください!」
彼女に態度に私は声を荒らげた。あんなことがあった後なのに、なぜこの女はこんなにも平然としていられるのか。今も私の声に驚く素振りも見せず、静かにこちらを見ている。それは呆れたように面倒くさいとでも言いたげな表情だった。
「私、もうこの仕事辞めます!こんなことさせられるなんて聞いていなかったし、それに変な化け物まで出てきて……もう、私にはこの仕事は無理です!辞めさせてください!」
私の声に女性は眉一つ動かさなかった。しばらくの沈黙の後小さく息を吐き、女性は必死な私を嘲笑うような微笑みを見せてきた。
「……それがあなたの意見ですか?」
返された言葉に呆気にとられた。女性はゆっくりとこちらに近づき、白衣のポケットから小さく折りたたまれた紙を広げる。それを見せながら冷たい手を私の肩に置いた。
「契約書、サインしましたよね……あなたには、この職務に命を捧げる義務があるのよ」
契約書の小さな文字が私の目の前で揺らぐ。肩に置かれた手は静かに力を増し、そしてそのまま扉の外へと押しやられた。私は抵抗する間も無かった。
久しぶりに部屋の外に出て無機質な廊下を歩く。その間、契約内容を思い出そうとしても思い出せないでいる自分がいた。あの時、あの契約書をしっかり読んでいたら、この未来は変わっていたのだろうか。
来た道とは反対側を歩き続け、その先にあるエレベーターへと乗り込む。地下3階のこの場所よりも下へ。エレベーター内に感じる微かな重力が絶望と言う暗闇に沈ませているように感じた。開かれた扉の先は暗く、天井に保安灯がぼんやりと光る長い廊下。私はもう、普通の日常には戻れないのだと漠然と悟った。
この先にどんな未来が待っているのだろうか。頭に巡るのは不安と、私の頬を舐めた生温かいあの舌の感触。そして、再び会うことはないと思っていた偽犬の姿だった。
to be continued.
ヒタ……ヒタ……
あまりにゆっくりとした足音。先ほどまで俊敏な動きをしていたとは思えないほどだった。その遅さに思わず私は薄目を開けてしまった。
そこにいたのは予想もしない姿の化け物だった。
数メートル先に立ち止まったそれは、大きく開けた口に私のモップを咥えながらまるで犬がボールを運んでくるかのように、ずい、ずい、とモップを差し出している。
「………な、なに…?」
困惑と恐怖が入り混じり声にならない声が喉を鳴らす。化け物は私の反応を待っているかのように、差し出したモップをわずかに揺らした。その姿は、まるで「もう一回投げてくれ」と要求しているかのように思えた。
意図を理解した私は恐る恐る手を伸ばそうとした。しかし、モップに触れる直前で手が止まる。もし噛みつかれでもしたらどうする。鋭い牙がギラリとよだれで光っている。手に当たる化け物の吐息は生暖かく、それでいて臭い。
私は意を決してベタベタと湿った柄を掴んだ。私がモップを受け取った瞬間、化け物は声色高く嬉しそうに唸りを漏らす。尻尾のない尾てい骨あたりを左右に大きく揺らすその様子は、まるで褒められた子犬のように無邪気にはしゃいで見えた。
そして私の次の行動を待つかのように、その場に四つん這いでじっと私を見つめている。その愛らしい仕草に私の頭は混乱しきっていた。この化け物は何を求めている? 私はどうすればいい?
「………とってこい?」
私はモップを化け物の横、数メートル先目掛けて投げつけた。カランと音を立てて床に転がるモップ。すると、化け物は目にもとまらぬ速さでモップのところへ駆け寄り長い舌を柄に絡ませ、また私の下へモップを運びに戻ってきた。
私はまたモップを受け取り先ほどと同じように投げる。それを何度か繰り返す間、この化け物を観察しようと試みた。骨格は人間っぽいが、長い舌や鋭い爪はアリクイにも似ている気がする。仕草は犬のようだが犬ではない。「偽犬」その言葉が私の脳内に浮かんだ。
そして「とってこい」が何度か続き、さらにモップを遠くに投げてやった後、偽犬はこの遊びに飽きてしまったのかおもむろにモップを拾うのをやめた。
「…………」
室内が静寂に包まれる中、偽犬は私の方へじっとりと近づいてくる。そして立ちすくむ私を見上げ、右へ左へ微かに首を傾げたかと思うと、あの長い舌をゆるゆると伸ばし私の頬へ己の舌先を触れようとしてきた。
ここで悲鳴を上げようものなら偽犬は衝動的に反応し私を攻撃するだろう。そう察した私は恐れながらも偽犬の舌先を受け入れた。ぬるりと生温かい感触。舌は硬く、力加減を知らないそれは頬を大きくへこませた。粘度の高いよだれが顎を伝い、やがて首筋へと落ちていく。ゾワリと背筋に虫唾が走った。その行為が「味見」ではないことを祈りながら偽犬が気が済むのをひたすら待つ。
偽犬は私の頬を舐めながら軽く喉を鳴らしていた。はじめは強かった力加減は徐々に私の肌の弾力に合わせるように弱くなっていった。突くような仕草だったものが舌先を滑らせるようになり、私の顔を好き放題に舐め始めた。
グチュ……グチュ……
ヌル……
クチュ……
「も、やっ……やめ……」
あまりの執着的な動きに私は思わず声を漏らした。その言葉を理解したのか、偽犬はしぶしぶといった様子で舐めるのをやめるとやっと私を解放した。偽犬のよだれは首筋を伝い、服の襟元まで濡らしていた。
服の袖口で生臭くなった両頬を拭う。生理的な嫌悪感はあるものの不思議と嫌な気分ではない。自分でも理解できない感情が心の奥底から湧き上がる。私の目の前でじっと見つめるようにそこにいるのは紛れも無く化け物のはずなのに……
この地獄のような場所で体にこびりついていたはずの疲労感や不快感が端っこの方から少しずつはがれ落ちていく気がした。そして、そのはがれ落ちた隙間からほんの少しの温かい気持ちがじんわりと私の心に流れ込む。それは紛れも無くこの目の前にいる化け物から注がれるものだった。それに気付いた時、私の頬は自然とほころび笑みをこぼしていた。
自然と私の片手が偽犬へと伸びた、その時だった。
――カチャ、ガコンッ!
突然の音にビクンッと大きく身体が跳ねた。咄嗟に音の方へ振り向くと、唯一の出入り口である扉が異音を響かせ、大きくがたつきながら音を立て開け放たれる。部屋の外には二人の武装した人間が立っていた。真っ黒なヘルメットに防護マスクを装備した彼らは大型の銃を構え、警戒しながらゆっくりと部屋に入ってきた。
「目標を確認。捕獲しろ」
先頭の一人がくぐもった声を上げ指示を出す。その声に反応した偽犬は私の方から視線を外すように頭を振り、危険を察知したかのように瞬時に天井へと飛び上がった。すると武装した二人は銃を構え、偽犬に向かって発砲した。
――ダダダッ!
「キャアッ!」
私は恐怖に悲鳴を上げその場に塞ぎ込んだ。大きな銃声が数回連続して鳴り響いた後、しんと静まり返った。恐る恐る顔を上げるとそこに偽犬の姿はなく、天井にはたくさんの弾痕が刻まれていた。弾痕はまるでヘビのように波打ちながら、開け放たれたままのダクトへと続いていた。きっと偽犬はあのダクトから逃げたのだろう。そう思った私はほっと胸を撫で下ろした。
武装した二人が足速に部屋を出た後、入れ替わるようにして入ってきた人影。あの二人とは対照的に真っ白な白衣を纏った人物に私は見覚えがあった。
「ティナさん、お怪我はありませんか?」
事務的な冷たい口調で話す女性社員は口角を上げながら私に近づき手を差し伸べてきた。胸の奥から不信感と怒りが込み上げるのを感じながら、私はその手を取ることなく立ち上がった。
「ご無事な様子で安心しました。では、こちらへ……」
「ちょっと待ってください!」
彼女に態度に私は声を荒らげた。あんなことがあった後なのに、なぜこの女はこんなにも平然としていられるのか。今も私の声に驚く素振りも見せず、静かにこちらを見ている。それは呆れたように面倒くさいとでも言いたげな表情だった。
「私、もうこの仕事辞めます!こんなことさせられるなんて聞いていなかったし、それに変な化け物まで出てきて……もう、私にはこの仕事は無理です!辞めさせてください!」
私の声に女性は眉一つ動かさなかった。しばらくの沈黙の後小さく息を吐き、女性は必死な私を嘲笑うような微笑みを見せてきた。
「……それがあなたの意見ですか?」
返された言葉に呆気にとられた。女性はゆっくりとこちらに近づき、白衣のポケットから小さく折りたたまれた紙を広げる。それを見せながら冷たい手を私の肩に置いた。
「契約書、サインしましたよね……あなたには、この職務に命を捧げる義務があるのよ」
契約書の小さな文字が私の目の前で揺らぐ。肩に置かれた手は静かに力を増し、そしてそのまま扉の外へと押しやられた。私は抵抗する間も無かった。
久しぶりに部屋の外に出て無機質な廊下を歩く。その間、契約内容を思い出そうとしても思い出せないでいる自分がいた。あの時、あの契約書をしっかり読んでいたら、この未来は変わっていたのだろうか。
来た道とは反対側を歩き続け、その先にあるエレベーターへと乗り込む。地下3階のこの場所よりも下へ。エレベーター内に感じる微かな重力が絶望と言う暗闇に沈ませているように感じた。開かれた扉の先は暗く、天井に保安灯がぼんやりと光る長い廊下。私はもう、普通の日常には戻れないのだと漠然と悟った。
この先にどんな未来が待っているのだろうか。頭に巡るのは不安と、私の頬を舐めた生温かいあの舌の感触。そして、再び会うことはないと思っていた偽犬の姿だった。
to be continued.
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