禁忌に触れた指先
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真依子の頭の中はすでに、リッカーのことでいっぱいだった。店で紅子に告げられた言葉など、帰路の途中に落としてしまっていたのだ。仕事帰りの空腹と、魔法のような駄菓子への期待を胸に『立体焼き』に齧りついた。香ばしい皮と濃厚な餡の甘みが口いっぱいに広がる。駄菓子とは思えないほどの本格的な味わいに感動しながらも真依子は急いでテレビの電源を入れ、ゲームの画面を起動した。
ディスプレイに映し出されたのは、不気味に蠢くリッカーの姿。真依子はゴクリと喉を鳴らし、震える手をゆっくりと画面へと伸ばした。液晶の感触があるはずの指先が、ヌッと画面の奥へ沈み込む。次の瞬間、ずっしりとした異様な重みと、生温かい湿り気が手に伝わった。思わず反射的に手を引っ込める真依子の目の前に這い出してきたのは、間違いなく“生きている”リッカーだった。
歓喜に打ち震える真依子。夢にまで見た推しが今、現実の世界に出てきたのだ。しかし、そんな真依子とは対照的に、突然狭くて見知らぬ場所に引っ張り出されたリッカーは激しく動揺しているようだった。
耳をつんざくような咆哮を上げ、長い爪を振るいながら狭いアパートの部屋を駆け回る。壁紙は大きく引き裂かれ、テレビも棚もなぎ倒され、部屋は一瞬にして足の踏み場もない惨状と化した。
「待ってリッカー!落ち着いてっ!大丈夫だからっ!」
真依子は暴れ回るリッカーをなんとか止めようと必死に呼びかけた。すると不思議なことに『立体焼き』の効果なのか、リッカーは真依子の言葉を理解したかのように動きを止め、荒い息を吐きながらその場にうずくまった。何とか落ち着かせることには成功したものの、息をつく暇もなく玄関のドアが激しく叩かれた。
「ちょっと真依子さん!大丈夫ですかっ!?すごい音しましたけど!」
大家さんの大きな声が玄関の向こうから聞こえる。心配とほのかに怒りの混じった声色にパニックになる真依子は、慌ててリッカーを押し入れの中に押し込むと、とっさにテーブルで扉を押さえた。
「す、すみません大家さん……えっと、あの……新しく買った家具を組み立ててたら崩れてしまって……」
苦し紛れの誤魔化しに大家さんは不審な視線で室内を覗き込もうとする。それを何とか誤魔化し、しぶる大家さんを追い返すことに成功した。張り詰めていた息を吐き出す真依子の額には冷や汗が溢れ出ていた。じっとりと濡れる前髪を払い、そっと押し入れの扉を開いた。
――それからの日々は、まさに地獄だった。
リッカーは狭い部屋に閉じ込められているストレスからか、ベランダの窓に張り付くようになった。外を見せないようにカーテンをしてもすぐに引き裂いてしまったため、リッカーを押し入れに閉じ込めている間にベランダの窓の外側からすだれをかけた。外からもし誰かにリッカーの姿を見られたりすれば騒動になるだろう。昼間も日が差し込まなくなったこの部屋には、不気味な湿度と冷たい空気が充満していた。
それでもリッカーは頻繁に外へ出たがるため、そのたびに真依子は身を挺して押さえつけなければならない。そのせいで身体中は傷だらけになった。本気を出していなくてもリッカーの鋭い爪は触れるだけで簡単に肌を割いてしまう。蚯蚓腫れや刃物でなぞられたような切傷で真依子の体はボロボロになっていった。
派遣の仕事に行こうにも、もし留守中にリッカーが暴れ出して外へ逃げ出したら……そう思うと恐ろしくて部屋を空けることすらできない。無断欠勤を重ねた結果、派遣の仕事はあっけなくクビになった。さらに、相変わらずの騒音と壁を叩くような異音に耐えかねた大家さんから、「今月中に出て行ってくれ」と退去通告を突きつけられてしまう。
無職になり、住む場所すら失うことになった真依子は、部屋の隅で丸くなるリッカーを見つめながら途方に暮れた。もっとよく考えて『立体焼き』を使えばよかった。紅子の警告を無視した自分の愚かさを、いくら後悔しても遅すぎた。
渦巻く後悔の念の中、ふと思い立ったは真依子決心したように立ち上がる。冷蔵庫の中にある肉や残り物を全て出すと、それを餌にリッカーを押し入れの中へと閉じ込めた。部屋を飛びだし、無我夢中で街を走る。周りの目など気にしている余裕なんてなかった。真依子は通勤に使っていた道を通りながら銭天堂を探し回る。あらゆる路地を入っても行き止まりばかりで野良猫一匹見つからない。結局あの店が再び姿を現すことはなかった。
もう、どうしようもない。
このままリッカーを家に置いておけば自分の人生は破滅の道を辿るだろう。
真依子は決意を固め、近所のホームセンターへ立ち寄る。向かった場所は資材コーナー。一度も立ち寄ったことのない通路を早歩きで進む。材木の香りに包まれた通路の中に目当てのものを見つけた。鉈だ。その中でも一番大きなものを選びレジへと進む。
会計を済ませながらアパートまで帰る途中、脳内では大雑把なシミュレーションの映像が繰り返し流れ続けた。家に帰り静まり返った室内。そっと押し入れを開けると、満腹になったのかリッカーは規則正しい寝息を立てていた。
これが最初で最後のチャンスだった。
自分の人生を守るために、最愛の「推し」を自分の手で殺す。猛烈な罪悪感と胸を刺すような痛みに涙を流しながら、真依子は鉈の柄を強く握りしめた。息を殺し、そっと背後に忍び寄る。震える手で鉈を高く振り上げ、一気に振り下ろした。
しかし、そんな素人の浅知恵が通用する相手ではなかった。気配を察知したリッカーは、信じられない速度で身を翻し、攻撃をかわした。そして瞬時に飛躍すると押し入れから飛び出し、真依子に向かってむき出しの脳を蠢かせながら猛烈な威嚇の態勢を取る。
「ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!!」
半狂乱になった真依子は、泣き叫びながら無謀にも再び鉈を振りかざした。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。リッカーを見る目が狂気と悲しみに満ちていた。だが、明確な「敵意」を向けられた瞬間、リッカーの本能が解き放たれた。リッカーは繰り出された鉈をするりとかわすと、鋭い爪が交差するような激しい反撃を繰り出した。
リッカーは真依子に馬乗りになると大きな雄叫びをあげ、振りかざした爪を容赦なく真依子の腹部へと突き立てる。それは真依子の生命の炎が消え去るまで、何度も何度も攻撃を繰り返し行われた。
暗転する視界の中で真依子が最後に聞いたのは、獣のような荒い息遣いと、ベランダの窓ガラスが割れる音だった。
◇
『……次のニュースです。昨夜、都内のアパート一室で、この部屋に住む真依子さんが遺体で発見されました。警察によりますと、遺体の激しい損傷具合から、真依子さんを襲ったのは人間ではなく、熊などの大型で獰猛な野生動物の可能性が高いとみて捜査を進めています。……続いてのニュースです』
end.
ディスプレイに映し出されたのは、不気味に蠢くリッカーの姿。真依子はゴクリと喉を鳴らし、震える手をゆっくりと画面へと伸ばした。液晶の感触があるはずの指先が、ヌッと画面の奥へ沈み込む。次の瞬間、ずっしりとした異様な重みと、生温かい湿り気が手に伝わった。思わず反射的に手を引っ込める真依子の目の前に這い出してきたのは、間違いなく“生きている”リッカーだった。
歓喜に打ち震える真依子。夢にまで見た推しが今、現実の世界に出てきたのだ。しかし、そんな真依子とは対照的に、突然狭くて見知らぬ場所に引っ張り出されたリッカーは激しく動揺しているようだった。
耳をつんざくような咆哮を上げ、長い爪を振るいながら狭いアパートの部屋を駆け回る。壁紙は大きく引き裂かれ、テレビも棚もなぎ倒され、部屋は一瞬にして足の踏み場もない惨状と化した。
「待ってリッカー!落ち着いてっ!大丈夫だからっ!」
真依子は暴れ回るリッカーをなんとか止めようと必死に呼びかけた。すると不思議なことに『立体焼き』の効果なのか、リッカーは真依子の言葉を理解したかのように動きを止め、荒い息を吐きながらその場にうずくまった。何とか落ち着かせることには成功したものの、息をつく暇もなく玄関のドアが激しく叩かれた。
「ちょっと真依子さん!大丈夫ですかっ!?すごい音しましたけど!」
大家さんの大きな声が玄関の向こうから聞こえる。心配とほのかに怒りの混じった声色にパニックになる真依子は、慌ててリッカーを押し入れの中に押し込むと、とっさにテーブルで扉を押さえた。
「す、すみません大家さん……えっと、あの……新しく買った家具を組み立ててたら崩れてしまって……」
苦し紛れの誤魔化しに大家さんは不審な視線で室内を覗き込もうとする。それを何とか誤魔化し、しぶる大家さんを追い返すことに成功した。張り詰めていた息を吐き出す真依子の額には冷や汗が溢れ出ていた。じっとりと濡れる前髪を払い、そっと押し入れの扉を開いた。
――それからの日々は、まさに地獄だった。
リッカーは狭い部屋に閉じ込められているストレスからか、ベランダの窓に張り付くようになった。外を見せないようにカーテンをしてもすぐに引き裂いてしまったため、リッカーを押し入れに閉じ込めている間にベランダの窓の外側からすだれをかけた。外からもし誰かにリッカーの姿を見られたりすれば騒動になるだろう。昼間も日が差し込まなくなったこの部屋には、不気味な湿度と冷たい空気が充満していた。
それでもリッカーは頻繁に外へ出たがるため、そのたびに真依子は身を挺して押さえつけなければならない。そのせいで身体中は傷だらけになった。本気を出していなくてもリッカーの鋭い爪は触れるだけで簡単に肌を割いてしまう。蚯蚓腫れや刃物でなぞられたような切傷で真依子の体はボロボロになっていった。
派遣の仕事に行こうにも、もし留守中にリッカーが暴れ出して外へ逃げ出したら……そう思うと恐ろしくて部屋を空けることすらできない。無断欠勤を重ねた結果、派遣の仕事はあっけなくクビになった。さらに、相変わらずの騒音と壁を叩くような異音に耐えかねた大家さんから、「今月中に出て行ってくれ」と退去通告を突きつけられてしまう。
無職になり、住む場所すら失うことになった真依子は、部屋の隅で丸くなるリッカーを見つめながら途方に暮れた。もっとよく考えて『立体焼き』を使えばよかった。紅子の警告を無視した自分の愚かさを、いくら後悔しても遅すぎた。
渦巻く後悔の念の中、ふと思い立ったは真依子決心したように立ち上がる。冷蔵庫の中にある肉や残り物を全て出すと、それを餌にリッカーを押し入れの中へと閉じ込めた。部屋を飛びだし、無我夢中で街を走る。周りの目など気にしている余裕なんてなかった。真依子は通勤に使っていた道を通りながら銭天堂を探し回る。あらゆる路地を入っても行き止まりばかりで野良猫一匹見つからない。結局あの店が再び姿を現すことはなかった。
もう、どうしようもない。
このままリッカーを家に置いておけば自分の人生は破滅の道を辿るだろう。
真依子は決意を固め、近所のホームセンターへ立ち寄る。向かった場所は資材コーナー。一度も立ち寄ったことのない通路を早歩きで進む。材木の香りに包まれた通路の中に目当てのものを見つけた。鉈だ。その中でも一番大きなものを選びレジへと進む。
会計を済ませながらアパートまで帰る途中、脳内では大雑把なシミュレーションの映像が繰り返し流れ続けた。家に帰り静まり返った室内。そっと押し入れを開けると、満腹になったのかリッカーは規則正しい寝息を立てていた。
これが最初で最後のチャンスだった。
自分の人生を守るために、最愛の「推し」を自分の手で殺す。猛烈な罪悪感と胸を刺すような痛みに涙を流しながら、真依子は鉈の柄を強く握りしめた。息を殺し、そっと背後に忍び寄る。震える手で鉈を高く振り上げ、一気に振り下ろした。
しかし、そんな素人の浅知恵が通用する相手ではなかった。気配を察知したリッカーは、信じられない速度で身を翻し、攻撃をかわした。そして瞬時に飛躍すると押し入れから飛び出し、真依子に向かってむき出しの脳を蠢かせながら猛烈な威嚇の態勢を取る。
「ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!!」
半狂乱になった真依子は、泣き叫びながら無謀にも再び鉈を振りかざした。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。リッカーを見る目が狂気と悲しみに満ちていた。だが、明確な「敵意」を向けられた瞬間、リッカーの本能が解き放たれた。リッカーは繰り出された鉈をするりとかわすと、鋭い爪が交差するような激しい反撃を繰り出した。
リッカーは真依子に馬乗りになると大きな雄叫びをあげ、振りかざした爪を容赦なく真依子の腹部へと突き立てる。それは真依子の生命の炎が消え去るまで、何度も何度も攻撃を繰り返し行われた。
暗転する視界の中で真依子が最後に聞いたのは、獣のような荒い息遣いと、ベランダの窓ガラスが割れる音だった。
◇
『……次のニュースです。昨夜、都内のアパート一室で、この部屋に住む真依子さんが遺体で発見されました。警察によりますと、遺体の激しい損傷具合から、真依子さんを襲ったのは人間ではなく、熊などの大型で獰猛な野生動物の可能性が高いとみて捜査を進めています。……続いてのニュースです』
end.