導き
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路地裏の湿った空気を引き裂くように、アサルトライフルの乾いた銃声が響き渡った。アサルトライフルから放たれる、容赦のない鉛の雨。ティナは鋭い呼気とともに照準を走らせ、逃げていく影を冷徹に追い詰める。ティナの覗くスコープの先に映るのは、一体のリッカー。剥き出しの赤い筋肉としなやかな四肢を躍動させ、リッカーはヤモリのように垂直なアパートの壁を這い上がっていく。弾丸の何発かは確実にその肉を抉ったはずなのに、恐ろしいほどの跳躍力とスピードは一切衰える気配がない。とうとうアパートの屋上へと滑り込み、赤い影はその姿を消した。標的を逃したティナはチッと大きな舌打ちを響かせ、手慣れた動作で新しいマガジンを銃に叩き込む。
「また、この場所……一体何なのよ」
目の前のアパートの壁面には、星座のように無数の弾痕が刻まれている。すべて、ティナが刻みつけたもの。この場所に迷い込んだのは、これが初めてではなかった。まるで小賢しい羽虫を仕留め損ねたかのような、不快な焦燥感が胸を焼く。腕時計に目をやれば、あの化け物に数十分も翻弄されていることに気づき、苛立ちはさらに加速した。
奇妙なのは、あのリッカーが一度として本気でティナを仕留めようと襲いかかってこないことだ。ただ視界の端に現れては、挑発するようにその肢体をくねらせ、ティナをこの場所へと誘い出す。本来の任務に戻るために道を引き返そうとすると、行く手を阻むように現れて牙を剥く。まるで、このアパートへと強引に誘導するかのように。
「そんなにこの場所が好きなら、ここをあなたの墓場にしてあげるわ」
冷徹であるべきプロの思考が、募る苛立ちで躍起になっていく。ティナはアパートの外壁に備え付けられた非常階段の留め具を撃ち落とし、激しい音を立てて階段を駆け上がった。割れた窓から暗いアパートの室内へと侵入する。まだあのリッカーはこのアパートの澱んだ空気のどこかに潜んでいるはずだ。しらみ潰しに洗ってでも、ここで決着をつける。
アパートの内装は狭く、空気はひどく湿ってカビ臭い。最初に入った部屋に標的の気配はなかった。ティナはすぐに共用廊下へと滑り出る。アサルトライフルを構え、視線で天井と暗がりをなぞる。ふと、廊下の突き当たりにある角部屋の扉だけが、手招きするように大きく開いているのが目に入った。
(今度こそ、逃がさない……)
呼吸の音さえ殺し、足音を立てずにドアの影へと張り付く。そっと顔を出し、部屋の様子を窺った。奥の部屋からは微かな光が頼りなく漏れている。この狭い空間で不意を突かれれば、確実にこちらが不利になる。心臓の鼓動が高鳴るのを感じながら、ティナは指を引き金にかけたまま室内へ踏み込んだ。
静まり返った廊下を渡り、半開きになったドアを銃口で静かに押し開ける。そこはかつての寝室のようだった。リッカーの姿はない。その代わり、ティナの視線に飛び込んできたのは、埃の積もったベッドの上に横たわる小さな影だった。
(子供……?)
まだ幼い少女だった。ティナは弾かれたように駆け寄り、仰向けにその体を転がした。少女の瞼がかすかに震え、うっすらと瞳が開く。感染の兆候は見られないが、極限の脱水と飢えで今にも消え入りそうなほど衰弱していた。
「お、おかぁ……さん、おと……さん……?」
「もう大丈夫よ、助けに来たわ。ここは危険だから、私と一緒に安全な場所へ行きましょう」
「だ、れ……?」
「あなたの味方。さあ、抱っこするわね。少しだけ我慢して」
頼りないその体を優しく包み込むようにして抱き上げる。ティナはアサルトライフルを背中に回し、両腕で少女をしっかりと固定した。少女は安心したようにティナの胸に顔を埋め、そっと目を閉じる。その微かな体温に、ティナの張り詰めた心がほんの少しだけ温められた――その瞬間だった。
天井からぽたりと粘り気のある生温かい液体が落ちてきた。
息が止まる。ハッと頭上を見上げると、そこにはあのリッカーが張り付いていた。剥き出しの脳髄、そして濡れた長い舌をくねらせながら、リッカーはじっと二人を見下ろしていた。少女を保護することに気を取られ、至近距離に迫る殺気に気づかなかった己の不覚を呪った。
距離は目と鼻の先。武器は背中にあり、両手には子供を抱えている。今襲われれば、二人とも一瞬で肉塊に変えられる。ティナは心臓の激しい鼓動を抑えながら、静かに後退りして距離を取ろうとした。しかし、リッカーはそのわずかな動きを逃さず、天井から床へと音もなく滑り降りてきた。
殺される。
本能的な恐怖に、ティナは無意識に少女を強く抱きしめ、背中を丸めてその身を盾にした。背中を切り裂くであろう、凄絶な痛みを覚悟して目を瞑る。しかし、待てども激痛は訪れなかった。代わりに聞こえたのは、床を引っ掻く硬い爪の音が、自分のすぐ脇を通り過ぎていく気配だった。恐る恐る目を開けると、リッカーはティナを無視し、先ほどまで少女が横たわっていたベッドの上へと向かっていた。そして、残された少女の微かな体温を求めるかのように、その異形な肉体をシーツに丸め、静かに伏せたのだ。
「な、なんなの、あなた……」
困惑に満ちた声がこぼれる。そのかすかな音に、リッカーがゆっくりと頭をもたげた。眼球のない、ただ凶悪な牙だけが並ぶ顔がこちらを向く。すると、リッカーはゆるりとその長い舌を伸ばし、ティナの顔の前に差し出した。反射的に身を強ばらせて目を閉じると、次の瞬間、ぬるりとした驚くほど熱を持った感触が頬をゆっくりと撫で上げた。湿った、奇妙に甘やかで湿度を帯びた愛撫。
「――っ、」
恐怖の後に訪れた異質な温もり。その圧倒的な熱量に脳の処理が追いつかず、声にならない吐息を漏らしたまま、ティナはその場で凍りついてしまった。やっとの思いで目を開けると、リッカーはすでに興味を失ったように、再びベッドの上で背を向けて静かに丸まっていた。相手の気が変わる前に、ティナは弾かれたように寝室を飛び出した。
(まさか、あいつは……この子を救わせるために、私をここまで導いたの?)
(あの醜悪な化け物に、そんな知性や情愛のようなものが存在するなんて、あり得るの?)
そんな疑問が頭の中を激しく支配する中、ティナは腕の中の少女を落とさないよう、アパートの階段を駆け降りた。路地裏に飛び出したところで、それまで静かだった無線が耳障りな音を立てて繋がる。
「ティナ、どこにいる。応答しろ」
「……メインストリートの路地裏、アパートを出たところ。生存者を一名保護したわ。まだ幼い女児。かなり衰弱しているけれど、感染はしていない」
「よくやった。……ところで、お前を執拗に追い回していたアイツはどうなった?」
隊長の問いかけに、ティナは一瞬、言葉を詰まらせた。無意識のうちに、今しがた飛び出してきたアパートの暗い窓を見上げる。
「奴なら……」
脳裏に、頬を撫でたあの熱い湿り気が、鮮明に蘇る。
「……奴なら、私が始末しました。もう追ってきません」
「そうか、上出来だ。生存者を連れてすぐに駅へ戻れ。もうすぐ出発する」
「了解」
無線が切れ、冷たい静寂が戻る。もう一度アパートを見上げたが、窓の暗がりにあの赤い影が揺れることはなかった。ティナは静かに眠る少女を抱き直し、駅へと続く荒廃した道を全力で走り抜けた。頬に残る、あの奇妙な熱と湿り気を、きっと生涯忘れることはないだろうと思いながら。
end.
「また、この場所……一体何なのよ」
目の前のアパートの壁面には、星座のように無数の弾痕が刻まれている。すべて、ティナが刻みつけたもの。この場所に迷い込んだのは、これが初めてではなかった。まるで小賢しい羽虫を仕留め損ねたかのような、不快な焦燥感が胸を焼く。腕時計に目をやれば、あの化け物に数十分も翻弄されていることに気づき、苛立ちはさらに加速した。
奇妙なのは、あのリッカーが一度として本気でティナを仕留めようと襲いかかってこないことだ。ただ視界の端に現れては、挑発するようにその肢体をくねらせ、ティナをこの場所へと誘い出す。本来の任務に戻るために道を引き返そうとすると、行く手を阻むように現れて牙を剥く。まるで、このアパートへと強引に誘導するかのように。
「そんなにこの場所が好きなら、ここをあなたの墓場にしてあげるわ」
冷徹であるべきプロの思考が、募る苛立ちで躍起になっていく。ティナはアパートの外壁に備え付けられた非常階段の留め具を撃ち落とし、激しい音を立てて階段を駆け上がった。割れた窓から暗いアパートの室内へと侵入する。まだあのリッカーはこのアパートの澱んだ空気のどこかに潜んでいるはずだ。しらみ潰しに洗ってでも、ここで決着をつける。
アパートの内装は狭く、空気はひどく湿ってカビ臭い。最初に入った部屋に標的の気配はなかった。ティナはすぐに共用廊下へと滑り出る。アサルトライフルを構え、視線で天井と暗がりをなぞる。ふと、廊下の突き当たりにある角部屋の扉だけが、手招きするように大きく開いているのが目に入った。
(今度こそ、逃がさない……)
呼吸の音さえ殺し、足音を立てずにドアの影へと張り付く。そっと顔を出し、部屋の様子を窺った。奥の部屋からは微かな光が頼りなく漏れている。この狭い空間で不意を突かれれば、確実にこちらが不利になる。心臓の鼓動が高鳴るのを感じながら、ティナは指を引き金にかけたまま室内へ踏み込んだ。
静まり返った廊下を渡り、半開きになったドアを銃口で静かに押し開ける。そこはかつての寝室のようだった。リッカーの姿はない。その代わり、ティナの視線に飛び込んできたのは、埃の積もったベッドの上に横たわる小さな影だった。
(子供……?)
まだ幼い少女だった。ティナは弾かれたように駆け寄り、仰向けにその体を転がした。少女の瞼がかすかに震え、うっすらと瞳が開く。感染の兆候は見られないが、極限の脱水と飢えで今にも消え入りそうなほど衰弱していた。
「お、おかぁ……さん、おと……さん……?」
「もう大丈夫よ、助けに来たわ。ここは危険だから、私と一緒に安全な場所へ行きましょう」
「だ、れ……?」
「あなたの味方。さあ、抱っこするわね。少しだけ我慢して」
頼りないその体を優しく包み込むようにして抱き上げる。ティナはアサルトライフルを背中に回し、両腕で少女をしっかりと固定した。少女は安心したようにティナの胸に顔を埋め、そっと目を閉じる。その微かな体温に、ティナの張り詰めた心がほんの少しだけ温められた――その瞬間だった。
天井からぽたりと粘り気のある生温かい液体が落ちてきた。
息が止まる。ハッと頭上を見上げると、そこにはあのリッカーが張り付いていた。剥き出しの脳髄、そして濡れた長い舌をくねらせながら、リッカーはじっと二人を見下ろしていた。少女を保護することに気を取られ、至近距離に迫る殺気に気づかなかった己の不覚を呪った。
距離は目と鼻の先。武器は背中にあり、両手には子供を抱えている。今襲われれば、二人とも一瞬で肉塊に変えられる。ティナは心臓の激しい鼓動を抑えながら、静かに後退りして距離を取ろうとした。しかし、リッカーはそのわずかな動きを逃さず、天井から床へと音もなく滑り降りてきた。
殺される。
本能的な恐怖に、ティナは無意識に少女を強く抱きしめ、背中を丸めてその身を盾にした。背中を切り裂くであろう、凄絶な痛みを覚悟して目を瞑る。しかし、待てども激痛は訪れなかった。代わりに聞こえたのは、床を引っ掻く硬い爪の音が、自分のすぐ脇を通り過ぎていく気配だった。恐る恐る目を開けると、リッカーはティナを無視し、先ほどまで少女が横たわっていたベッドの上へと向かっていた。そして、残された少女の微かな体温を求めるかのように、その異形な肉体をシーツに丸め、静かに伏せたのだ。
「な、なんなの、あなた……」
困惑に満ちた声がこぼれる。そのかすかな音に、リッカーがゆっくりと頭をもたげた。眼球のない、ただ凶悪な牙だけが並ぶ顔がこちらを向く。すると、リッカーはゆるりとその長い舌を伸ばし、ティナの顔の前に差し出した。反射的に身を強ばらせて目を閉じると、次の瞬間、ぬるりとした驚くほど熱を持った感触が頬をゆっくりと撫で上げた。湿った、奇妙に甘やかで湿度を帯びた愛撫。
「――っ、」
恐怖の後に訪れた異質な温もり。その圧倒的な熱量に脳の処理が追いつかず、声にならない吐息を漏らしたまま、ティナはその場で凍りついてしまった。やっとの思いで目を開けると、リッカーはすでに興味を失ったように、再びベッドの上で背を向けて静かに丸まっていた。相手の気が変わる前に、ティナは弾かれたように寝室を飛び出した。
(まさか、あいつは……この子を救わせるために、私をここまで導いたの?)
(あの醜悪な化け物に、そんな知性や情愛のようなものが存在するなんて、あり得るの?)
そんな疑問が頭の中を激しく支配する中、ティナは腕の中の少女を落とさないよう、アパートの階段を駆け降りた。路地裏に飛び出したところで、それまで静かだった無線が耳障りな音を立てて繋がる。
「ティナ、どこにいる。応答しろ」
「……メインストリートの路地裏、アパートを出たところ。生存者を一名保護したわ。まだ幼い女児。かなり衰弱しているけれど、感染はしていない」
「よくやった。……ところで、お前を執拗に追い回していたアイツはどうなった?」
隊長の問いかけに、ティナは一瞬、言葉を詰まらせた。無意識のうちに、今しがた飛び出してきたアパートの暗い窓を見上げる。
「奴なら……」
脳裏に、頬を撫でたあの熱い湿り気が、鮮明に蘇る。
「……奴なら、私が始末しました。もう追ってきません」
「そうか、上出来だ。生存者を連れてすぐに駅へ戻れ。もうすぐ出発する」
「了解」
無線が切れ、冷たい静寂が戻る。もう一度アパートを見上げたが、窓の暗がりにあの赤い影が揺れることはなかった。ティナは静かに眠る少女を抱き直し、駅へと続く荒廃した道を全力で走り抜けた。頬に残る、あの奇妙な熱と湿り気を、きっと生涯忘れることはないだろうと思いながら。
end.
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