隙間に口づけを
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集会所に響き渡る歓声は、狂った地獄の祭囃子そのものだった。私は建物の割れたガラス窓の隙間から、その凄惨な光景をじっと見つめていた。
「コロセッ! コロセッ! コロセッ!」
煽り立てる観衆の絶叫が、処刑台に膝をつかされた一人の男性へと浴びせられる。
「お前ら頭がおかしいぞ! ふざけるな、離せ!」
男性の必死の叫びも、狂気の一端と化した街には届かない。彼はまだ感染していない、私と同じまともな人間だった。キジュジュの街を埋め尽くした、あの悍ましい寄生生物のせいで、彼の命は今ここで理不尽に刈り取られようとしている。
「やめろッ! 頼む、助けてくれ……!」
男性が涙を流して懇願する視線の先には、拡声器を手にしたサングラスの男がいた。あの男が一言、冷酷な合図を出せばすべてが終わる。そして処刑台の傍らには、頭から不気味な黒い布袋を被った、圧倒的な巨体の男が佇んでいた。彼が手にするのは、自身の体格に見合う巨大なギロチンの斧。その大刃には幾多の犠牲者の血が幾重にもこびりつき、赤黒く変色していた。
「コロセッ!」
拡声器を通した非情な命令と同時に、巨躯の処刑人が動いた。
凄まじい風切り音とともに、巨大な斧が重力を味方にして振り下ろされる。肉を断ち、骨を砕く鈍い衝撃音。男性の叫び声は一瞬で途絶え、その頭部が無残に床をゴロゴロと転がった。
「ウォオオオーーーッ!!!」
爆発するような歓声の中、観客たちは全身で興奮を表現するように両手を挙げて飛び跳ねる。処刑人は血塗られた斧を深く突き刺さった床から引き抜くと、無造作にそれを肩へと担ぎ、重い足取りでゆっくりとその場を離れていった。残された死体にはどこからともなくカラスが群がり肉を貪り始める。そんな地獄絵図をどこか冷めた目で静かに見続けられる自分もきっとどうかしているのだ。私は静かに自嘲の息を吐きながら、建物を後にした。
今日も肌を焦がすような強い日差しが照りつけている。カラカラに乾いた地面を踏みしめる度、足元から土埃が舞い上がった。私は集会所を横切り、放置された廃車を踏み台にして高い塀を飛び越える。
「オンナ……オンナ……」
背後から漏れる、血走った目を向けた奴らの呻き声。以前なら恐怖で竦んでいたその視線にも、今ではすっかり慣れてしまっていた。未感染の私が、あの男性のように処刑されずにこの街を堂々と歩けるのには、明確な理由がある。私を殺そうとすれば、反対にその身を無残に切り裂かれることを、この街の狂人たちは本能で知っているのだ。私を庇護するその「理由」は、この街の最も深い地下にいた。
「ねえ、居る?」
外の刺すような日差しも届かない地下室はひんやりと涼しく、そしてどこか生温かい湿気に満ちていた。私の小さな声が暗闇の中で何倍にも膨らんで響き渡る。ランタンの鈍い光に照らされているのは圧倒的な質量を持つ大きな背中。シュッ、シュッ、と規則正しく響く鉄の擦れる音が、私の声に反応してぴたりと止まった。彼はゆっくりと巨体をこちらへ巡らせる。
「ティナ……また来たのか」
布袋の奥から響く声は、先ほど処刑台で浴びた冷徹な威圧感とはまるで違う、どこか困惑を孕んだ低い響きを含んでいた。
「来ちゃダメだった?」
「何回も言っているはずだ。仕事を終えた直後は、ここへ来るなと」
「別に、血なんて見慣れたよ。それに死体も……あなたが、冷酷に人を殺すことにもね?」
私は布袋の下にあるであろう彼の表情を想像しながら、ゆっくりと距離を詰めていく。きっと、困ったような、呆れたような、ひどく不器用な顔をしているに違いない。巨大な斧の傍らには彼が使った大きな砥石が置かれ、周囲には血を洗い流した水がくすんだピンク色になって流れていた。その悍ましい光景とは裏腹に、彼は驚くほど几帳面な男だった。乱雑に見える道具の配置にも彼なりの厳格な法則性がある。私は彼のすぐ横にある作業台に腰掛け、動きを再開した彼の無骨な手元をじっと見つめた。
「ねぇ、人の首を切り落とす時って、どんな感覚なの?」
「知ってどうする」
「別に。ただちょっと気になっただけ」
「……お前は知らなくていい」
冷たい鉄と砥石が擦れ合う音の合間に、静かに交わされる会話。研ぎ澄まされ鈍い輝きを取り戻した斧を見て、彼は満足げに重い息を吐いた。そして、それを壁際に倒れないよう慎重に立てかける。返り血で汚れた前掛けを無造作に脱ぎ捨て、二の腕まで覆っていた分厚い革手袋を外すと、彼の屈強でたくましい肉体が露わになった。脳天から肩にかけて乱雑に釘で打ち付けられた布袋は被ったまま、彼はお手製のドラム缶で作られた椅子へと腰を下ろす。
「ティナ……」
先ほどよりも、明らかに一段と柔らかくなった声。私はその音を待っていた。その声を合図にするようにして彼へと近づき、大きく曲げられた彼の強靭な膝の上へとそっと自身の身体を預ける。その瞬間、二人だけの濃密な時間が地下の静寂に流れ出した。
「また軽くなったか?」
「そう? あなたの身体が大きすぎるから、そう見えるだけじゃない?」
「ちゃんと食っているのか」
「んー、最近はあんまり。暑くて食欲がなくて、リンゴばかり食べてるかな」
「……肉を食え」
「ふふ、こんな血生臭い場所で言われたら、さらに食欲がなくなりそう」
彼の太ももに触れる私の手。先ほどまで激しい作業をしていたからか、彼の強靭な身体は驚くほど熱を帯びていた。私はその心地よい体温に自身の体重をすべて預けるようにして、ぎゅっと彼に抱きついた。太く逞しい彼の腹回りに圧倒的な男らしさを感じ、こっそりと胸の中で頬を緩ませる。
「何を笑っている」
「好きな人とこうして触れ合えて、嬉しく思っちゃダメ?」
その言葉に彼はあからさまに動揺したように顔をふいと横へ逸らした。否定してこないということは、それが彼にとっての肯定を意味している。初対面の時から私たちは言葉にできないほどの強い引力で惹かれ合い、こうして肌を触れ合わせるようになった。だけど、彼は決して自分から私を強く抱きしめようとはしなかった。大きな手が、私の背中のすぐ近くで微かに震えているのが分かる。首を一撃で撥ね落とすその怪力で、もし自分から強く触れてしまえば、この華奢な少女を容易く壊してしまうかもしれない――そんな本能的な恐怖と怯えが、彼の肉体を縛りつけているのだ。欲望のままにすべてを奪い去りたいという男としての情動と、大切にするあまり触れられないという葛藤の狭間で、彼はいつも息が詰まるような戦いをしている。その焦らされるような彼の理性が、女の私の中にある、あるひとつの欲求を限界まで引き上げてしまった。
「ねえ……キスしたい」
その言葉に、彼の巨躯がビクリと面白いくらいに跳ね上がった。
「なんだ、いきなり」
「キス、しよ? したくない?」
「……今まで、しなかっただろう」
「だからしたいの。だめ?」
「だめもなにも……無理だろう」
彼の低い声から、どうしようもない無力感が漏れ出していた。無理というのも、彼の頭部を完全に覆い隠しているこの無骨な布袋のせいだ。たった一枚の布のせいで、私たちは唇すら重ねられないというのか。あの布は彼が処刑人であるための誇りであり、同時に私たちを阻む呪縛だった。
彼はひどく困惑した様子で言葉を詰まらせた。いつもなら、こんな風に彼を困らせたりはしない。ただ静かに抱き合っているだけで、大人の関係としての満足を得られていたはずなのに。
「無理なんて言葉で、簡単にまとめないで」
無言のままの彼を見上げれば、布袋の奥にある見えない視線が、じっと私を捉えているのが分かった。何も言わず、ただ優しく私の背中をそっと支えるように添えられているだけの手。彼はあまりにも優しすぎる。あの処刑台で命乞いをする人間の首を無慈悲に切り落とし、真っ赤な血飛沫と歓声を浴びていた姿が、まるで嘘なのではないかと思えるほどに。私は彼の膝から静かに降りると、作業台の上に置かれていた小型のナイフを手に取った。これなら、私の手でも扱いやすい。
「……何をするつもりだ」
「黙ってて。あなたがしてくれないなら、私がしてあげる」
「おい、何を言っている。やめろ、ティナ……」
動揺のあまり声のトーンを落とす彼の頬へ、そっと片手を添える。本気で抵抗すれば、私なんて赤子の手をひねるように簡単に引き剥がせるはずなのに、彼は私の言葉通り、怯えたようにじっと動かなくなった。私は彼の布袋の上から唇の位置を慎重に指先で確認し、少しだけ生地を浮かせた。彼の肌を絶対に傷つけないよう、全神経を集中させてナイフの刃先で小さな切り込みを入れる。ピリピリと音を立てて破れほつれた隙間から、彼の本当の唇が姿を現した。
それは、想像していたよりもずっと厚く、男らしい唇だった。過酷な環境のせいで皮膚は荒れ、所々小さく切れて溝になっている。困惑のあまり、何を言うでもなくパクパクと微かに動くその無防備な唇がたまらなく愛おしかった。
「後で綺麗に縫ってあげるから……だから、許してね?」
そう囁きながら、私はゆっくりと顔を近づけた。布袋を固定している刺さったままの釘に当たらないよう、角度を慎重に変えながら、そっと互いの唇を重ね合わせる。
「んっ……」
初めて直に触れ合った彼の唇の熱さ。優しく、ゆっくりと重なったそれだけで、私の胸はこれまでにないほどの切なさと熱情で締め付けられた。やっと、本当の意味で彼と触れ合えた。その事実に、身体の奥がじんわりと熱くなる。
「んっ、んぅ……」
「……っ」
何度も触れては離し、確かめるように角度を変えて重ねるうち、口付けは徐々に深く、濃密なものへと変貌していった。その瞬間、彼の細い糸のようにつながっていた理性が、ついに音を立てて決壊したのが分かった。彼は私の腰を大きな手でぐっと力強く引き寄せると、まるで私の息そのものを残さず飲み干そうとするかのように激しく吸い付いてきた。
「んんっ……! んっ、は……」
布袋の埃っぽい匂いと、彼の狂おしいほど雄々しい体臭が混ざり合い、私の肺の隅々までを暴力的に侵食していく。私が息苦しさに耐えかねてわずかに口を開くと、彼はそれを強引なまでの俊敏さで逃さず捉え、自身の熱い舌を容赦なく絡めてきた。くちゅり、と静かな地下室に水音が淫らに響き渡る。鼻腔から抜けるお互いの熱い吐息すらも、脳内を狂わせてしまいそうなほどに気持ちいい。彼の手が今度は壊してしまう恐怖を忘れたかのように、私の背中を強く、だけど愛おしさを押し殺すように激しく抱きしめてくる。
「はぁっ、ん……っ」
どちらからともなくわずかに唇を離し、視線を交わすように向き直る。お互いの呼吸はすっかり荒くなり、湿った空気の中で熱い吐息が重なった。隙間から覗く彼の厚い唇も、ひどく艶めいたまま、だらしなく熱を吐き出している。
「ティナ……」
彼の唇がゆっくりと動き、布袋の隙間から私の名前が零れ落ちた。地鳴りのように低く、だけどひどく甘いその響き。
「……なんか、すごく新鮮。もう一度、呼んで?」
「ティナ……」
「もっと、壊れるくらい呼んで」
「ティナ……ティナ……ッ」
地下の閉ざされた空間に、彼の低く痺れるような声が反響する。その音の振動が、私の腹の底を容赦なく震わせた。私はもう一度と強請るように、彼の厚い唇へと自ら顔を近づける。そして彼もまた、抑えきれなくなった欲望を曝け出すように、今度は自分から深く、深く唇を重ね合わせてきた。これまで抑え込んできたお互いの熱量をすべて吐き出すように、何度も、何度も抱き合いながら、私たちは暗い地下の底で、果てることのない大人の口付けを交わし続けたのだった。
end.
「コロセッ! コロセッ! コロセッ!」
煽り立てる観衆の絶叫が、処刑台に膝をつかされた一人の男性へと浴びせられる。
「お前ら頭がおかしいぞ! ふざけるな、離せ!」
男性の必死の叫びも、狂気の一端と化した街には届かない。彼はまだ感染していない、私と同じまともな人間だった。キジュジュの街を埋め尽くした、あの悍ましい寄生生物のせいで、彼の命は今ここで理不尽に刈り取られようとしている。
「やめろッ! 頼む、助けてくれ……!」
男性が涙を流して懇願する視線の先には、拡声器を手にしたサングラスの男がいた。あの男が一言、冷酷な合図を出せばすべてが終わる。そして処刑台の傍らには、頭から不気味な黒い布袋を被った、圧倒的な巨体の男が佇んでいた。彼が手にするのは、自身の体格に見合う巨大なギロチンの斧。その大刃には幾多の犠牲者の血が幾重にもこびりつき、赤黒く変色していた。
「コロセッ!」
拡声器を通した非情な命令と同時に、巨躯の処刑人が動いた。
凄まじい風切り音とともに、巨大な斧が重力を味方にして振り下ろされる。肉を断ち、骨を砕く鈍い衝撃音。男性の叫び声は一瞬で途絶え、その頭部が無残に床をゴロゴロと転がった。
「ウォオオオーーーッ!!!」
爆発するような歓声の中、観客たちは全身で興奮を表現するように両手を挙げて飛び跳ねる。処刑人は血塗られた斧を深く突き刺さった床から引き抜くと、無造作にそれを肩へと担ぎ、重い足取りでゆっくりとその場を離れていった。残された死体にはどこからともなくカラスが群がり肉を貪り始める。そんな地獄絵図をどこか冷めた目で静かに見続けられる自分もきっとどうかしているのだ。私は静かに自嘲の息を吐きながら、建物を後にした。
今日も肌を焦がすような強い日差しが照りつけている。カラカラに乾いた地面を踏みしめる度、足元から土埃が舞い上がった。私は集会所を横切り、放置された廃車を踏み台にして高い塀を飛び越える。
「オンナ……オンナ……」
背後から漏れる、血走った目を向けた奴らの呻き声。以前なら恐怖で竦んでいたその視線にも、今ではすっかり慣れてしまっていた。未感染の私が、あの男性のように処刑されずにこの街を堂々と歩けるのには、明確な理由がある。私を殺そうとすれば、反対にその身を無残に切り裂かれることを、この街の狂人たちは本能で知っているのだ。私を庇護するその「理由」は、この街の最も深い地下にいた。
「ねえ、居る?」
外の刺すような日差しも届かない地下室はひんやりと涼しく、そしてどこか生温かい湿気に満ちていた。私の小さな声が暗闇の中で何倍にも膨らんで響き渡る。ランタンの鈍い光に照らされているのは圧倒的な質量を持つ大きな背中。シュッ、シュッ、と規則正しく響く鉄の擦れる音が、私の声に反応してぴたりと止まった。彼はゆっくりと巨体をこちらへ巡らせる。
「ティナ……また来たのか」
布袋の奥から響く声は、先ほど処刑台で浴びた冷徹な威圧感とはまるで違う、どこか困惑を孕んだ低い響きを含んでいた。
「来ちゃダメだった?」
「何回も言っているはずだ。仕事を終えた直後は、ここへ来るなと」
「別に、血なんて見慣れたよ。それに死体も……あなたが、冷酷に人を殺すことにもね?」
私は布袋の下にあるであろう彼の表情を想像しながら、ゆっくりと距離を詰めていく。きっと、困ったような、呆れたような、ひどく不器用な顔をしているに違いない。巨大な斧の傍らには彼が使った大きな砥石が置かれ、周囲には血を洗い流した水がくすんだピンク色になって流れていた。その悍ましい光景とは裏腹に、彼は驚くほど几帳面な男だった。乱雑に見える道具の配置にも彼なりの厳格な法則性がある。私は彼のすぐ横にある作業台に腰掛け、動きを再開した彼の無骨な手元をじっと見つめた。
「ねぇ、人の首を切り落とす時って、どんな感覚なの?」
「知ってどうする」
「別に。ただちょっと気になっただけ」
「……お前は知らなくていい」
冷たい鉄と砥石が擦れ合う音の合間に、静かに交わされる会話。研ぎ澄まされ鈍い輝きを取り戻した斧を見て、彼は満足げに重い息を吐いた。そして、それを壁際に倒れないよう慎重に立てかける。返り血で汚れた前掛けを無造作に脱ぎ捨て、二の腕まで覆っていた分厚い革手袋を外すと、彼の屈強でたくましい肉体が露わになった。脳天から肩にかけて乱雑に釘で打ち付けられた布袋は被ったまま、彼はお手製のドラム缶で作られた椅子へと腰を下ろす。
「ティナ……」
先ほどよりも、明らかに一段と柔らかくなった声。私はその音を待っていた。その声を合図にするようにして彼へと近づき、大きく曲げられた彼の強靭な膝の上へとそっと自身の身体を預ける。その瞬間、二人だけの濃密な時間が地下の静寂に流れ出した。
「また軽くなったか?」
「そう? あなたの身体が大きすぎるから、そう見えるだけじゃない?」
「ちゃんと食っているのか」
「んー、最近はあんまり。暑くて食欲がなくて、リンゴばかり食べてるかな」
「……肉を食え」
「ふふ、こんな血生臭い場所で言われたら、さらに食欲がなくなりそう」
彼の太ももに触れる私の手。先ほどまで激しい作業をしていたからか、彼の強靭な身体は驚くほど熱を帯びていた。私はその心地よい体温に自身の体重をすべて預けるようにして、ぎゅっと彼に抱きついた。太く逞しい彼の腹回りに圧倒的な男らしさを感じ、こっそりと胸の中で頬を緩ませる。
「何を笑っている」
「好きな人とこうして触れ合えて、嬉しく思っちゃダメ?」
その言葉に彼はあからさまに動揺したように顔をふいと横へ逸らした。否定してこないということは、それが彼にとっての肯定を意味している。初対面の時から私たちは言葉にできないほどの強い引力で惹かれ合い、こうして肌を触れ合わせるようになった。だけど、彼は決して自分から私を強く抱きしめようとはしなかった。大きな手が、私の背中のすぐ近くで微かに震えているのが分かる。首を一撃で撥ね落とすその怪力で、もし自分から強く触れてしまえば、この華奢な少女を容易く壊してしまうかもしれない――そんな本能的な恐怖と怯えが、彼の肉体を縛りつけているのだ。欲望のままにすべてを奪い去りたいという男としての情動と、大切にするあまり触れられないという葛藤の狭間で、彼はいつも息が詰まるような戦いをしている。その焦らされるような彼の理性が、女の私の中にある、あるひとつの欲求を限界まで引き上げてしまった。
「ねえ……キスしたい」
その言葉に、彼の巨躯がビクリと面白いくらいに跳ね上がった。
「なんだ、いきなり」
「キス、しよ? したくない?」
「……今まで、しなかっただろう」
「だからしたいの。だめ?」
「だめもなにも……無理だろう」
彼の低い声から、どうしようもない無力感が漏れ出していた。無理というのも、彼の頭部を完全に覆い隠しているこの無骨な布袋のせいだ。たった一枚の布のせいで、私たちは唇すら重ねられないというのか。あの布は彼が処刑人であるための誇りであり、同時に私たちを阻む呪縛だった。
彼はひどく困惑した様子で言葉を詰まらせた。いつもなら、こんな風に彼を困らせたりはしない。ただ静かに抱き合っているだけで、大人の関係としての満足を得られていたはずなのに。
「無理なんて言葉で、簡単にまとめないで」
無言のままの彼を見上げれば、布袋の奥にある見えない視線が、じっと私を捉えているのが分かった。何も言わず、ただ優しく私の背中をそっと支えるように添えられているだけの手。彼はあまりにも優しすぎる。あの処刑台で命乞いをする人間の首を無慈悲に切り落とし、真っ赤な血飛沫と歓声を浴びていた姿が、まるで嘘なのではないかと思えるほどに。私は彼の膝から静かに降りると、作業台の上に置かれていた小型のナイフを手に取った。これなら、私の手でも扱いやすい。
「……何をするつもりだ」
「黙ってて。あなたがしてくれないなら、私がしてあげる」
「おい、何を言っている。やめろ、ティナ……」
動揺のあまり声のトーンを落とす彼の頬へ、そっと片手を添える。本気で抵抗すれば、私なんて赤子の手をひねるように簡単に引き剥がせるはずなのに、彼は私の言葉通り、怯えたようにじっと動かなくなった。私は彼の布袋の上から唇の位置を慎重に指先で確認し、少しだけ生地を浮かせた。彼の肌を絶対に傷つけないよう、全神経を集中させてナイフの刃先で小さな切り込みを入れる。ピリピリと音を立てて破れほつれた隙間から、彼の本当の唇が姿を現した。
それは、想像していたよりもずっと厚く、男らしい唇だった。過酷な環境のせいで皮膚は荒れ、所々小さく切れて溝になっている。困惑のあまり、何を言うでもなくパクパクと微かに動くその無防備な唇がたまらなく愛おしかった。
「後で綺麗に縫ってあげるから……だから、許してね?」
そう囁きながら、私はゆっくりと顔を近づけた。布袋を固定している刺さったままの釘に当たらないよう、角度を慎重に変えながら、そっと互いの唇を重ね合わせる。
「んっ……」
初めて直に触れ合った彼の唇の熱さ。優しく、ゆっくりと重なったそれだけで、私の胸はこれまでにないほどの切なさと熱情で締め付けられた。やっと、本当の意味で彼と触れ合えた。その事実に、身体の奥がじんわりと熱くなる。
「んっ、んぅ……」
「……っ」
何度も触れては離し、確かめるように角度を変えて重ねるうち、口付けは徐々に深く、濃密なものへと変貌していった。その瞬間、彼の細い糸のようにつながっていた理性が、ついに音を立てて決壊したのが分かった。彼は私の腰を大きな手でぐっと力強く引き寄せると、まるで私の息そのものを残さず飲み干そうとするかのように激しく吸い付いてきた。
「んんっ……! んっ、は……」
布袋の埃っぽい匂いと、彼の狂おしいほど雄々しい体臭が混ざり合い、私の肺の隅々までを暴力的に侵食していく。私が息苦しさに耐えかねてわずかに口を開くと、彼はそれを強引なまでの俊敏さで逃さず捉え、自身の熱い舌を容赦なく絡めてきた。くちゅり、と静かな地下室に水音が淫らに響き渡る。鼻腔から抜けるお互いの熱い吐息すらも、脳内を狂わせてしまいそうなほどに気持ちいい。彼の手が今度は壊してしまう恐怖を忘れたかのように、私の背中を強く、だけど愛おしさを押し殺すように激しく抱きしめてくる。
「はぁっ、ん……っ」
どちらからともなくわずかに唇を離し、視線を交わすように向き直る。お互いの呼吸はすっかり荒くなり、湿った空気の中で熱い吐息が重なった。隙間から覗く彼の厚い唇も、ひどく艶めいたまま、だらしなく熱を吐き出している。
「ティナ……」
彼の唇がゆっくりと動き、布袋の隙間から私の名前が零れ落ちた。地鳴りのように低く、だけどひどく甘いその響き。
「……なんか、すごく新鮮。もう一度、呼んで?」
「ティナ……」
「もっと、壊れるくらい呼んで」
「ティナ……ティナ……ッ」
地下の閉ざされた空間に、彼の低く痺れるような声が反響する。その音の振動が、私の腹の底を容赦なく震わせた。私はもう一度と強請るように、彼の厚い唇へと自ら顔を近づける。そして彼もまた、抑えきれなくなった欲望を曝け出すように、今度は自分から深く、深く唇を重ね合わせてきた。これまで抑え込んできたお互いの熱量をすべて吐き出すように、何度も、何度も抱き合いながら、私たちは暗い地下の底で、果てることのない大人の口付けを交わし続けたのだった。
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