永遠の二人
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――コネクション研究施設
薄暗い部屋に、ルーカスのご機嫌な鼻歌が響いていた。キーボードを叩く彼の横顔は、子供が新しい玩具を手に入れた時と同じように、無邪気な狂気に満ちている。もう少しでこの忌々しい泥沼の仕事もひと段落する。邪魔な連中を自分の仕掛けた極上のトラップで消し去り、そして何より特等席である彼の隣には、念願の彼女が座っているのだから。最高の気分でないはずがなかった。
「……ねぇ、ルーカス」
隣でソワソワと身を固くしているのはティナだ。彼女はベイカー邸で起こった凄惨な事件の被害者の一人だった。それなのに、狂った歯車が噛み合うようにしてルーカスと出会い、いつしか二人は奇妙に惹かれ合うようになった。それが、他の多くの犠牲者たちと同じようになぶり殺される運命にあった彼女の命を繋ぎ止める、唯一の免罪符となったのだ。
「おい、気が散るだろ。可愛い顔が台無しだぜ?」
落ち着きなく視線を彷徨わせるティナに、ルーカスはキーボードから目を離さずにニヤニヤと笑いかけた。
「ごめん。でも、どうしても胸のざわつきが収まらなくて。あのクリスって呼んでた男……」
まだ生きている気がする。そう続けようとしたティナの口を、ルーカスは下品な笑い声で塞いだ。
「ハッ! あの脳筋野郎か? 俺の特製トラップにかかって、今頃は木っ端微塵だろ。心配すんなって、もう俺たちを邪魔する奴なんてどこにもいねぇよ」
ルーカスは鼻でせせら笑い絶対的な余裕を見せる。しかし、その歪んだ笑顔を見ても、ティナの胸の奥にある嫌な予感は消えてくれなかった。
「あとは、このデータをアイツらに送りつけるだけだ。めんどくせぇけど、足がついたらダルいからな。ここにあるデータは全部持って行かねぇと……」
画面が切り替わり、暗号化されたメールの送信画面がプログレスバーを伸ばしていく。ルーカスは中腰のまま、独特のユラユラとした妙な身のこなしでキーボードを叩き続けた。
「でも、これでやっと、全部終わるのね……ねぇルーカス、これから二人で何がしたい?」
ティナは、血塗られた未来の先にある、二人だけのささやかな生活に思いを馳せるように呟いた。
「そうだな……」
ルーカスはキーボードから手を離すと、ねっとりとした視線をティナに這わせ、意地悪く口角を吊り上げた。
「とりあえずお前をめちゃくちゃに抱き潰して、頭が空っぽになるまでヤりまくる。……その後のことは、それから考える」
「もう……私はもっと未来の話をしてたのに」
「そんなもん、これからいくらでも時間はあんだろ?」
ぶっきらぼうで、だけど彼なりの確かな執着が籠もった言葉に、ティナは頬を染めて小さく笑った。ルーカスはその顔を満足そうに見つめると、細く長い腕で彼女の身体を乱暴に引き寄せた。そしてどちらともなく引き寄せ合いしっとりと重なる唇。冷たいモニターの青白い光が、互いの舌を貪り合う二人の影を部屋の壁に不気味に浮かび上がらせていた。
何度も溺れるような深いキスを交わした後、ルーカスは満足げに自身の唇をチロリと舐めずる。そうして、ぴったりと身体を密着させたまま、再び二人はパソコンの画面へと向き直った。
ティナはキーボードを叩くルーカスの傷だらけで大きな手の甲を見つめながら、これから訪れるはずの二人の未来を夢見ようとした。
――その瞬間、室内を鋭い警告音が響き渡り、目の眩むようなバックアップ電源の光が真っ白にあたりを照らし出した。
「おい、なんだァ!? どうなってやがる……!」
目に刺さる光を手で覆い隠しながら慌てて立ち上がるルーカスの叫び。ティナの最悪の予感は、完全に的中してしまった。
「そこまでだ、ルーカス!」
背後の重厚なハッチが開き、響き渡った怒声。それは死んだはずの男――クリス・レッドフィールドの地を這うような声だった。
「マジかよ、あの野郎生きてやがった……ッ! ティナ、逃げるぞ!」
ルーカスはティナの手首を骨が軋むほどの力で掴むと、引きずるようにして部屋から飛び出した。冷たい金属の廊下を走り抜け、背後で自動タレットを起動させる。目眩しの足止めにもなりゃしないことは分かっていた。ルーカスが逃げ込んだのは、巨大な培養タンクが並ぶ研究庫だった。もう、逃げ場はここしかない。無機質なカプセルや実験装置が乱立する広い室内。なんとか身を隠せる死角を探すしかなかった。
「ルーカス、どうなってるの!? あの男、死んだんじゃ……っ」
「クソ、クソッ、黙ってろ……!」
パニックを起こしかけるティナの口を、ルーカスは生温かい手のひらで強引に塞ぎ、部屋の最奥にある機材の隙間へと彼女を乱暴に押し込んだ。
「静かに隠れてろ。いいか? 絶対にここから出てくんじゃねぇぞ……あの野郎は、俺が殺す」
ルーカスは懐から、禍々しいナイフを引き抜く。その瞬間、研究庫の重い扉が不快な音を立てて開いた。クリスの足音が近づいてくる。ルーカスは低く舌打ちを漏らし、ティナの口から手を離した。その瞬間、ティナは本能的な恐怖から、去ろうとするルーカスの手首をギュッと掴み、自分の方へと引き戻そうとしてしまう。
行かないで。ここにいて。
喉まで出かかったその言葉を、ルーカスは冷酷に、そしてどこか焦れたように振り払った。そして彼女に背を向け、物陰からクリスの前に姿を現す。
「なんでまだ生きてるんだよ? 派手にくたばったはずだろ、あぁ!?」
ルーカスの歪んだ嘲笑が、広い研究庫に響く。
「メールを見たぞ。誰に情報を流している。コネクションか」
「お前は自分の心配だけしてりゃいいんだよ!」
次の瞬間、ルーカスは獣のような俊敏さでクリスに奇襲を仕掛けた。不意を突かれたクリスが床に倒れ込み、ルーカスはその上に馬乗りになって狂ったようにナイフを振り下ろす。しかし、百戦錬磨の兵士は怯まない。クリスはガラ空きになったルーカスの腹部へ、強烈な蹴りを叩き込んだ。
「がはっ……!」
巨体に蹴り飛ばされ、ルーカスは無様に後方へと転がった。這いつくばりながら、もう一度ナイフを構えて起き上がろうとした、その刹那。クリスが構えた銃口から、容赦のない銃撃が放たれた。激しい爆音とともに、ルーカスの頭部から鮮血が派手に飛び散る。至近距離で脳をぶち抜かれたルーカスは、痙攣を最後に、そのまま仰向けに倒れ伏した。
「クソ……なんだよこれ……おい、ウソだろ、俺が……」
額からとめどなく溢れる血にまみれながら、天才を自称する男は、信じられないといった様子で絶望を呟く。
「――ルーカスッ!!」
物陰でそれを見ていたティナは、正気を失ったように叫び、震える足で駆け寄った。倒れたまま動かないルーカスの傍らに膝をつき、その凄惨な傷口を見て息を呑む。額の割れ目から、どくどくと黒ずんだ血液が溢れ出していた。
「ティナ……出てくるな、って……言った、だろ……」
ルーカスは、視界を血で染めながら、呆れたように掠れた笑い声を漏らして彼女を見上げた。
「ティナ? まさか、君は……」
クリスの目が驚愕に見開かれる。押収した資料の中にあった拉致監禁された被害者リスト。そこに彼女の名前があったはずだ。なぜ、ルーカスの傍らで泣き叫んでいる。
「気安く……その名前、呼んでんじゃねぇよ……こいつは、俺のもんだ……ッ!」
ルーカスは怒りと憎悪を燃やし、残された最後の力でティナの手首を掴んだ。骨が砕けそうなほどの、尋常ならざる質量を持った怪力。
「なんだ、これ……あぁ、熱いな……。ハハ、こんな気分なのかよ……!」
ルーカスが自身の身体の限界を悟ったように狂った笑い声をあげた。傷口から流れ出る血は、赤から完全な黒へと変色し、その皮膚はねっとりと溶けるようにただれ始める。衣服を引き裂き、肉が、骨が、異常な速度で膨張し、変異していく。
「ルーカス、そんな……嫌、嘘でしょう!? ダメ、嫌ぁぁッ!」
目の前で『人間』の形を失っていく最愛の男に、ティナは涙を流して叫んだ。
「なぁ、ティナ……あいつに、思い知らせてやろうぜ……俺たちが、どれだけ、一つになれるかってさぁ……」
目の前に横たわっていたはずのルーカスは、もはや人間の原型を留めていなかった。ドロドロとした黒い粘液と、無数の菌糸が蠢く特異菌の巨大なバケモノへと変異を遂げていく。その圧倒的なクリーチャーの恐怖を前にして、ティナは腰を抜かし、狂ったように掴まれた腕を振り払おうとした。
「イヤッ! 離して、ルーカス! お願いだから、やめて!! イヤァァッ!」
しかし、すべては遅すぎた。掴まれた腕から侵入してきた黒い粘液は、ルーカス自身の狂気的な意思を持つようにして、ティナの身体にまとわりつき、飲み込もうと這い上がってくる。愛していたはずの、ルーカスだった『何か』。しかし今、彼女の心を支配しているのは、ただただ純粋な、喰い殺されるという生命の恐怖だけだった。
「ルーカス! 彼女まで道連れにするつもりか!」
クリスの叫びが響くが、変異体となったルーカスのくぐもった声がそれを遮る。
「うルせェ゙……! こいつハな、オレをアイしてんだよ……!ハナれル訳ねェだろ、おマエみたいなヤツには、一生わかンネェよナァァ!?」
黒い泥のような特異菌が、ティナの華奢な身体を容赦なく包み込んでいく。衣服を汚し、肌を侵食し、やがて彼女の身体のすべてを内側から支配しようと、開いた口や鼻の奥へと、生温かい粘液がドロドロとねじ込まれてきた。
「ごほっ……、ル……カ……っ、ぅ……!」
喉の奥まで容赦なく流れ込んでくるルーカスの体液に、ティナは激しくえずき、涙を流して苦悶する。しかし、ルーカスは彼女の拒絶さえも愛おしむように、さらに深く、その内側を自身の黒い泥で満たしていった。
「ソレと、ひとつ教えとイテやるよクリス……! オマエはココで、オレタチにコロされテ死ぬンだァ!!」
過激に変異を繰り返すルーカスの巨体を前に、クリスは銃を構え、顔を歪めながらその凄惨な光景を見上げることしかできなかった。そして――とうとう身体のすべてを黒い闇に飲み込まれたティナは、完全に光を失った世界へと閉じ込められた。
全身を包むのは、驚くほど生温かく、ねっとりとしたルーカスの熱。身体は鉛のように重く、泥沼の底に沈められたように指先一つ動かすことができない。痛みは、不思議となかった。けれど、ルーカスだったものに口も鼻も完全に塞がれ、肺を満たすのは酸素ではなく、鉄の匂いがする黒い粘液だけ。酸素を失った脳が、最後の狂ったアラートを鳴らし、視界が急速に狭まっていく。
(ルーカス……ルーカス……)
薄れゆく意識の淵で、ティナは何度も、心の中で彼の名前を呼び続けた。これが、二人が選んだ未来。暗闇の底で、ルーカスのドロドロとした愛の熱に完全に溶け合わされながら、ティナはついに、永遠の意識を手放したのだった。
end.
薄暗い部屋に、ルーカスのご機嫌な鼻歌が響いていた。キーボードを叩く彼の横顔は、子供が新しい玩具を手に入れた時と同じように、無邪気な狂気に満ちている。もう少しでこの忌々しい泥沼の仕事もひと段落する。邪魔な連中を自分の仕掛けた極上のトラップで消し去り、そして何より特等席である彼の隣には、念願の彼女が座っているのだから。最高の気分でないはずがなかった。
「……ねぇ、ルーカス」
隣でソワソワと身を固くしているのはティナだ。彼女はベイカー邸で起こった凄惨な事件の被害者の一人だった。それなのに、狂った歯車が噛み合うようにしてルーカスと出会い、いつしか二人は奇妙に惹かれ合うようになった。それが、他の多くの犠牲者たちと同じようになぶり殺される運命にあった彼女の命を繋ぎ止める、唯一の免罪符となったのだ。
「おい、気が散るだろ。可愛い顔が台無しだぜ?」
落ち着きなく視線を彷徨わせるティナに、ルーカスはキーボードから目を離さずにニヤニヤと笑いかけた。
「ごめん。でも、どうしても胸のざわつきが収まらなくて。あのクリスって呼んでた男……」
まだ生きている気がする。そう続けようとしたティナの口を、ルーカスは下品な笑い声で塞いだ。
「ハッ! あの脳筋野郎か? 俺の特製トラップにかかって、今頃は木っ端微塵だろ。心配すんなって、もう俺たちを邪魔する奴なんてどこにもいねぇよ」
ルーカスは鼻でせせら笑い絶対的な余裕を見せる。しかし、その歪んだ笑顔を見ても、ティナの胸の奥にある嫌な予感は消えてくれなかった。
「あとは、このデータをアイツらに送りつけるだけだ。めんどくせぇけど、足がついたらダルいからな。ここにあるデータは全部持って行かねぇと……」
画面が切り替わり、暗号化されたメールの送信画面がプログレスバーを伸ばしていく。ルーカスは中腰のまま、独特のユラユラとした妙な身のこなしでキーボードを叩き続けた。
「でも、これでやっと、全部終わるのね……ねぇルーカス、これから二人で何がしたい?」
ティナは、血塗られた未来の先にある、二人だけのささやかな生活に思いを馳せるように呟いた。
「そうだな……」
ルーカスはキーボードから手を離すと、ねっとりとした視線をティナに這わせ、意地悪く口角を吊り上げた。
「とりあえずお前をめちゃくちゃに抱き潰して、頭が空っぽになるまでヤりまくる。……その後のことは、それから考える」
「もう……私はもっと未来の話をしてたのに」
「そんなもん、これからいくらでも時間はあんだろ?」
ぶっきらぼうで、だけど彼なりの確かな執着が籠もった言葉に、ティナは頬を染めて小さく笑った。ルーカスはその顔を満足そうに見つめると、細く長い腕で彼女の身体を乱暴に引き寄せた。そしてどちらともなく引き寄せ合いしっとりと重なる唇。冷たいモニターの青白い光が、互いの舌を貪り合う二人の影を部屋の壁に不気味に浮かび上がらせていた。
何度も溺れるような深いキスを交わした後、ルーカスは満足げに自身の唇をチロリと舐めずる。そうして、ぴったりと身体を密着させたまま、再び二人はパソコンの画面へと向き直った。
ティナはキーボードを叩くルーカスの傷だらけで大きな手の甲を見つめながら、これから訪れるはずの二人の未来を夢見ようとした。
――その瞬間、室内を鋭い警告音が響き渡り、目の眩むようなバックアップ電源の光が真っ白にあたりを照らし出した。
「おい、なんだァ!? どうなってやがる……!」
目に刺さる光を手で覆い隠しながら慌てて立ち上がるルーカスの叫び。ティナの最悪の予感は、完全に的中してしまった。
「そこまでだ、ルーカス!」
背後の重厚なハッチが開き、響き渡った怒声。それは死んだはずの男――クリス・レッドフィールドの地を這うような声だった。
「マジかよ、あの野郎生きてやがった……ッ! ティナ、逃げるぞ!」
ルーカスはティナの手首を骨が軋むほどの力で掴むと、引きずるようにして部屋から飛び出した。冷たい金属の廊下を走り抜け、背後で自動タレットを起動させる。目眩しの足止めにもなりゃしないことは分かっていた。ルーカスが逃げ込んだのは、巨大な培養タンクが並ぶ研究庫だった。もう、逃げ場はここしかない。無機質なカプセルや実験装置が乱立する広い室内。なんとか身を隠せる死角を探すしかなかった。
「ルーカス、どうなってるの!? あの男、死んだんじゃ……っ」
「クソ、クソッ、黙ってろ……!」
パニックを起こしかけるティナの口を、ルーカスは生温かい手のひらで強引に塞ぎ、部屋の最奥にある機材の隙間へと彼女を乱暴に押し込んだ。
「静かに隠れてろ。いいか? 絶対にここから出てくんじゃねぇぞ……あの野郎は、俺が殺す」
ルーカスは懐から、禍々しいナイフを引き抜く。その瞬間、研究庫の重い扉が不快な音を立てて開いた。クリスの足音が近づいてくる。ルーカスは低く舌打ちを漏らし、ティナの口から手を離した。その瞬間、ティナは本能的な恐怖から、去ろうとするルーカスの手首をギュッと掴み、自分の方へと引き戻そうとしてしまう。
行かないで。ここにいて。
喉まで出かかったその言葉を、ルーカスは冷酷に、そしてどこか焦れたように振り払った。そして彼女に背を向け、物陰からクリスの前に姿を現す。
「なんでまだ生きてるんだよ? 派手にくたばったはずだろ、あぁ!?」
ルーカスの歪んだ嘲笑が、広い研究庫に響く。
「メールを見たぞ。誰に情報を流している。コネクションか」
「お前は自分の心配だけしてりゃいいんだよ!」
次の瞬間、ルーカスは獣のような俊敏さでクリスに奇襲を仕掛けた。不意を突かれたクリスが床に倒れ込み、ルーカスはその上に馬乗りになって狂ったようにナイフを振り下ろす。しかし、百戦錬磨の兵士は怯まない。クリスはガラ空きになったルーカスの腹部へ、強烈な蹴りを叩き込んだ。
「がはっ……!」
巨体に蹴り飛ばされ、ルーカスは無様に後方へと転がった。這いつくばりながら、もう一度ナイフを構えて起き上がろうとした、その刹那。クリスが構えた銃口から、容赦のない銃撃が放たれた。激しい爆音とともに、ルーカスの頭部から鮮血が派手に飛び散る。至近距離で脳をぶち抜かれたルーカスは、痙攣を最後に、そのまま仰向けに倒れ伏した。
「クソ……なんだよこれ……おい、ウソだろ、俺が……」
額からとめどなく溢れる血にまみれながら、天才を自称する男は、信じられないといった様子で絶望を呟く。
「――ルーカスッ!!」
物陰でそれを見ていたティナは、正気を失ったように叫び、震える足で駆け寄った。倒れたまま動かないルーカスの傍らに膝をつき、その凄惨な傷口を見て息を呑む。額の割れ目から、どくどくと黒ずんだ血液が溢れ出していた。
「ティナ……出てくるな、って……言った、だろ……」
ルーカスは、視界を血で染めながら、呆れたように掠れた笑い声を漏らして彼女を見上げた。
「ティナ? まさか、君は……」
クリスの目が驚愕に見開かれる。押収した資料の中にあった拉致監禁された被害者リスト。そこに彼女の名前があったはずだ。なぜ、ルーカスの傍らで泣き叫んでいる。
「気安く……その名前、呼んでんじゃねぇよ……こいつは、俺のもんだ……ッ!」
ルーカスは怒りと憎悪を燃やし、残された最後の力でティナの手首を掴んだ。骨が砕けそうなほどの、尋常ならざる質量を持った怪力。
「なんだ、これ……あぁ、熱いな……。ハハ、こんな気分なのかよ……!」
ルーカスが自身の身体の限界を悟ったように狂った笑い声をあげた。傷口から流れ出る血は、赤から完全な黒へと変色し、その皮膚はねっとりと溶けるようにただれ始める。衣服を引き裂き、肉が、骨が、異常な速度で膨張し、変異していく。
「ルーカス、そんな……嫌、嘘でしょう!? ダメ、嫌ぁぁッ!」
目の前で『人間』の形を失っていく最愛の男に、ティナは涙を流して叫んだ。
「なぁ、ティナ……あいつに、思い知らせてやろうぜ……俺たちが、どれだけ、一つになれるかってさぁ……」
目の前に横たわっていたはずのルーカスは、もはや人間の原型を留めていなかった。ドロドロとした黒い粘液と、無数の菌糸が蠢く特異菌の巨大なバケモノへと変異を遂げていく。その圧倒的なクリーチャーの恐怖を前にして、ティナは腰を抜かし、狂ったように掴まれた腕を振り払おうとした。
「イヤッ! 離して、ルーカス! お願いだから、やめて!! イヤァァッ!」
しかし、すべては遅すぎた。掴まれた腕から侵入してきた黒い粘液は、ルーカス自身の狂気的な意思を持つようにして、ティナの身体にまとわりつき、飲み込もうと這い上がってくる。愛していたはずの、ルーカスだった『何か』。しかし今、彼女の心を支配しているのは、ただただ純粋な、喰い殺されるという生命の恐怖だけだった。
「ルーカス! 彼女まで道連れにするつもりか!」
クリスの叫びが響くが、変異体となったルーカスのくぐもった声がそれを遮る。
「うルせェ゙……! こいつハな、オレをアイしてんだよ……!ハナれル訳ねェだろ、おマエみたいなヤツには、一生わかンネェよナァァ!?」
黒い泥のような特異菌が、ティナの華奢な身体を容赦なく包み込んでいく。衣服を汚し、肌を侵食し、やがて彼女の身体のすべてを内側から支配しようと、開いた口や鼻の奥へと、生温かい粘液がドロドロとねじ込まれてきた。
「ごほっ……、ル……カ……っ、ぅ……!」
喉の奥まで容赦なく流れ込んでくるルーカスの体液に、ティナは激しくえずき、涙を流して苦悶する。しかし、ルーカスは彼女の拒絶さえも愛おしむように、さらに深く、その内側を自身の黒い泥で満たしていった。
「ソレと、ひとつ教えとイテやるよクリス……! オマエはココで、オレタチにコロされテ死ぬンだァ!!」
過激に変異を繰り返すルーカスの巨体を前に、クリスは銃を構え、顔を歪めながらその凄惨な光景を見上げることしかできなかった。そして――とうとう身体のすべてを黒い闇に飲み込まれたティナは、完全に光を失った世界へと閉じ込められた。
全身を包むのは、驚くほど生温かく、ねっとりとしたルーカスの熱。身体は鉛のように重く、泥沼の底に沈められたように指先一つ動かすことができない。痛みは、不思議となかった。けれど、ルーカスだったものに口も鼻も完全に塞がれ、肺を満たすのは酸素ではなく、鉄の匂いがする黒い粘液だけ。酸素を失った脳が、最後の狂ったアラートを鳴らし、視界が急速に狭まっていく。
(ルーカス……ルーカス……)
薄れゆく意識の淵で、ティナは何度も、心の中で彼の名前を呼び続けた。これが、二人が選んだ未来。暗闇の底で、ルーカスのドロドロとした愛の熱に完全に溶け合わされながら、ティナはついに、永遠の意識を手放したのだった。
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