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【チェ槙+狡噛フィギュアスケートパロ】

「なんだあれは」
 リンクへの通路を向かってくる頓珍漢な衣装のスケーターに、狡噛は振り向いて二度見する。
 純白に赤い縁の綿帽子である。神前結婚式で花嫁がかぶるような。しかし着ているものは真っ白な水干風の衣装で、統一性……がないわけではないし共に和装ではあるし、御伽噺のような美しさはあるものの、不思議な組み合わせである。
 チェ・グソンが走ってきてその目の前に跪いたので、ようやくそれが槙島聖護だと気づいた。グソンは胸元の赤い紐飾りを結い直しながら綿帽子の中の顔を見つめて親密に何かささやく。なにを言ったのかは聞こえなかったが、槙島は嬉しそうに笑いをにじませて答えた。
「それは、とても楽しみだな」

 リンクに出て行く後ろ姿を見送りながらチェ・グソンに話しかける。
「槙島、何やるんだっけ」
「ボレロですよ」
 そう言ってグソンはにやりと笑うが、ボレロ? あれがボレロ? 和風のボレロなんて聞いたことがない。
 狡噛はリンクの中を中継するモニターに目を遣った。
 画面は暗い。やがて、細い光が差し込んで、まっすぐに伸ばされた指先を映し出した。
 光は腕に、顔に、からだに。ぽつねんとした証明は舐めるように視点を映し、槙島の指はそれをなぞるように自らのからだを撫で回す。
 全身があらわになるにつれて個々には手本のように美しく見えた姿形に違和感が生じていく。手首はあらぬ方向に捻じ曲げられ、軟体動物のようにくねり、ゆったりと舞う指先とまるで違うリズムが氷の底から響いてくる。
 脚が照らされる。金色の刃が上体の優雅な動きとはまるで違うリズムをタップダンスのように踏み鳴らしている。厳密には、上半身がかぼそいフルートをなぞりながら、下半身は自身が小太鼓になったかのようにリズムを刻んでいる。
 やがて全身があらわになり、中央の氷が赤い照明で染められた。暗闇の中を一点だけ照らし出す赤いスポットライトは、ダンスの異様さとも相まって、血塗られた大皿のようですらある。

 不気味なのは振り付けだけではない。かなりの時間が経過しているが槙島は「スケート」をしていないのである。
 ようやく動き出したそのときにも一瞬、観客の多くは滑っていると思わなかったくらいだ。ダンスの一環のようにまっすぐに脚を上げてからワンストロークしただけで、槙島は脚をまったく動かさずにリンクの端に向かって流れ着く。その間、相変わらず手は何かを差し伸べるように踊りながらだ。
 リンクの最端で手を挙げた槙島は、手首のねじれた奇妙なダンスを再び繰り返す……と思いきや、いきなりかぶっていた綿帽子を放り投げて高く跳躍した。トリプルアクセルを流れるように着氷しながら、手は羞じらうように顔を覆う。そのしなやかな指の隙間から見えた顔は赤と白の折り紙のような縮緬のマスクで覆われており、目は紅で跳ね上げるように縁どられ、白絹のような目尻にはまじないのような花文様が描かれている。
 さらに手を伸ばし、高らかなワルツジャンプをして自らの手にキスすると、紅く縁取られた目で挑発的に笑い、リンクを駆け抜けるように滑り出す。
 静から動へ。この勢いでリンクの空気を切り替える。
 煽るように、指揮するように、腕を、髪を、振り乱し、挑発的に手招きする。
 自在に切り替わるターンが細やかな弧を描きながら加速するメインメロディーを刻む。高く振り上げた金のブレードから舞い上がる氷の破片が、赤の照明を帯びて爆ぜる火の粉のように散った。


 モダンバレエ「ボレロ」。クラシックバレエのイメージで見た人間の多くが面食らうことだろう。解釈を乗せなければそこにストーリーはなく、ロマンティックもない。作曲者がかろうじて意図した「酒場で踊るジプシーに煽られて欲情する酔客」という文脈さえも、モーリス・ベジャールの振り付けは、裸に剥かれたかのような衣装と簡素な舞台装置で削ぎ落としてしまう。残るのは獣のような欲情だけだ。
 まるで生け贄に上げられたようなか細い女性ダンサー「メロディ」が少年に扮して単調かつ異様な動作を繰り返し、「リズム」と呼ばれる筋肉質な男性ダンサーの群舞がそれを取り囲む。呪術めいたシンプルなダンスなのになぜか見てはならない物を見たような気がして目を背けるのはなぜか。突きつけられるのは官能を超えたグロテスクか、すました顔を剥がれるような嗜虐性か。
「その倒錯を表現するのに、僕が上半身裸になったとしても何か違うだろう」
「異形の花嫁になるんだよ」
 と御伽噺の婚礼衣装を提案したのは槙島だ。
 が、このプログラムを元のバレエよりグロテスクな血の匂いを与えたのはコーチであり振付師のチェ・グソンだ。
「世界一美しい魔性の花嫁にしますよ」


 思わず手を叩こうとした狡噛が、はっと唇を噛んだ。
 関係者だけの観客席はまばらながら、それでも熱烈な手拍子が湧き起こっている。それを煽るように槙島は朱に彩られた目で意味ありげに笑い、打ちつけられる音に合わせて天に手を差し伸べ、ぐっと背を傾けた――まま豪快に回転する。
 メロディはリズムに捧げられ、リズムはメロディのものとなる。リズムに扇動されるメロディは、オーケストラで増えていく楽器そのものの暗喩にも見える。ーーとなれば、シングルスケートでボレロを演る障壁はリズムの演者の不在となるが、槙島は挑発的にこう言ってみせた。

 「リズム」の演者を出せないならば、文字通りリズムそのものを我が物にすればいい。つまり、魅了された観客の手拍子だ。

 警戒してまばたきをした狡噛の目さえも後ろで高く脚を上げたまま揺るぎないビールマンスピンに魅了されている。

「ところで始まる前、何の話をしていたんだ?」
 ふと思い出してチェ・グソンに尋ねると、グソンは肩をすくめてにやりと笑った。
「いやなに、ロクでもねぇ話ですよ」


――帰国後の14日隔離には、俺も遠慮しませんから。
ーーへえ……それは誘惑しがいがある。とても楽しみだな。
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