【チェ槙+狡噛フィギュアスケートパロ】
「いやいやいや無理です無理ですって!」
片手を振りわめくグソンの振り向き顔を、槙島のデバイスのカメラが映している。
フィギュアスケート選手槙島聖護がコーチのチェ・グソンと寝食を共にしているのはファンの間では有名な話で、毎晩インスタに上がるグソンの料理動画は再生数鰻登り。狡噛慎也と日本の、そして世界の、一位を争い続けている槙島は言うまでもなく、グソン自身徴兵中の不慮の事故で片目の視力を失い現役から退いた伝説の選手である。突然の引退を惜しむファンはまだ世界に数多いるし、それがあの槙島聖護の専属コーチ兼振付師になるのだから注目度は半端じゃない。
「だって槙島さん原作見たことあります!? 走ってるだけですよ、走ってるだけ! そこに生オーケストラ!? 振り付けが俺!? 無理ですよぉ完全に音響負けですってばぁ」
容姿も実力も最高峰の師弟のインスタグラム、しかし毎日上がる動画はスケートとは全く関係のない、グソンが料理をしながら槙島と話しているゆるすぎるものばかりだった。
さて、今日ただ愚痴を言うだけの動画になっているこれの発端は何かといえば、アニメコラボのアイスショー絡みで来た振り付け依頼である。
サイコパスオンアイス。謎の演算装置が支配する社会福祉と決断までそれに依存してしまった人々を描くSFミステリ。それをアイスショーにしようという一大企画が持ち上がっている。主演は狡噛慎也と槙島聖護、ストーリーはSF。となれば、そのコーチであり、伝説のプログラム「マトリックス」で自身もサイバーパンクの似合うイメージの強いチェ・グソンに振り付けの依頼が行くのは自然な成り行きだった。
勝手なナレーションを語り出す槙島に、グソンが叩きつけるようにオムレツをひっくり返しながら叫ぶ。
「麦畑走るだけのシーンに生オケ用意するからいい感じに振り付けてくださいとか言い出さなければ、ですがね!」
銃声が響く。
槙島の顔を映していたマッピングが硝子を砕くように掻き消え、はッと振り向くや否や、暗闇から飛び出した槙島が両の手足を広げて高く跳躍する。強く弾かれた手から拳銃が滑り落ちる。鈍い音が氷を打つ。ぐっと歯をくいしばり、全力で飛んできた拳を槙島はスピンでかわしざますぐに長い脚を氷に滑らせて避ける。氷の上を膝がくるくると流れるなめらかさに狡噛は敵役ながら感嘆の息を吐く。
サイコパスオンアイスの初演。多彩なアクションシーンをスケートで表現する場面はやはり斬新なのか観客も食い入るように見ている。
すかさず起き上がった槙島が立ったまま細い軸でスピンすれば、数瞬置いて 狡噛が逆回転のフライングスピンで返す。熾烈な殴り合いに見立てたスピンの応酬。
二人はステップを踏みながら一旦距離を取り、衣装の中からナイフを取り出して照明に翳す。
「お前だってそうだろう? 狡噛慎也」
睨み合いの中、来いよとばかりに槙島がナイフを揺らす。銀の刃が煌めく。
ステップからの四回転で狡噛が一気に距離を詰める。
二人は手を打ち合い、一度離れてツイズル――同時に流れるように滑りながら回転する――その末に相手に向かってターンし、腕を振り下ろす/槙島の手が手首に触れる/させるかと脚払いし/掴み返した手で槙島をぐるりと回転させる。いわゆるペアスケートの技・デススパイラルではあるが、普段縁のない技の大味さがかえって喧嘩めいた荒っぽさを醸し出している。
再び狡噛のコンビネーションジャンプが飛び込んでくる。つま先を開いて身体を倒しながらそれを迎え撃つ。
暗転と共に素早く脇に滑り込むと、次のシーンのために待機していた常守朱が声を潜めつつも、ぐっと拳を握りしめながら絶賛してくれた。
「もー! 鳥肌立ちましたよ狡噛さんー! この後わたしだなんてすごいプレッシャー!」
その背を軽く押して、槙島が苦笑しながらうながす。
「ほら、出番だよ」
仲良くリンクに出て行った二人は、夕暮れを模したオレンジのライトが当たった瞬間にはもう、緊迫した表情に変わっている。
「いい感じになってるじゃないか」
狡噛は、脇で真剣なまなざしで舞台を見つめる――というよりはもはや睨んでいるようにすら見えるチェ・グソンに、からかいともねぎらいともつかない声をかけた。
常守朱は氷上に横たわったまま、新体操のようにしなやかに手脚を動かして踊る。槙島がそれを見下ろしている。
照明がゆっくりと赤みを深めていく。重厚なオーケストラの演奏が空気を震わせる。
「生オケバックに、走ってるだけの振り付けとか言い出したときにはどうしようかと思ったけどな」
グソンも舞台から目を離さないままにやりと口角を上げた。
「俺はそんな振り付けにはしたくないって言いましたぜ。槙島さんはあんたとならガチでスピードスケートしてもいいとおっしゃってましたがね」
狡噛も笑った。
「生オケが泣くな」
ラストシーンが近づいてくる。
金色の波が揺らぐ。
夕焼け色の光でリンクが明るくなればそれは、満ちる麦穂の色に似たワンピースを纏った少女達の一糸乱れぬ群舞だと気づく。
ぱっと列が割れ、白いロングコート姿の槙島が現れる。他方のリンク端には狡噛がいる。麦穂の少女達は手を繋いで、牧歌的なピアノ音楽に合わせて同じステップを踏みながらはけていく。
狡噛がぐっと拳銃に見立てた手を胸に引きよせてしゃがみ込む。それから両手をぐっと突き出し、力強く回転する。
槙島が滑り出した。彼の役を象徴する牧歌的でクラシカルでありながら賛美歌に似た重厚さを併せ持つ「楽園」。
槙島は正確に音を拾う。楽譜の上に描かれた弧線 を靴の刃で刻むがごとく、なめらかに、しかし正確にリズムを切りながら。
それが、音楽に内在するメトロノームに聞こえる瞬間があるのだ。
槙島がオーケストラを従えているような。
会場の音を、いや、狡噛の呼吸までも支配しているような。ささやかな氷削音が、指先までしなやかに動く手足がタクトのような。
ーーさせない。
白い背中に羽根があるかのような軽やかさ。翻る裾。それらすべて簡単に抱きとめそうなのに、意外や迫ることすら難しい速度を併せ持つ。
させない。槙島、おまえの好きなようにはさせない。
追ってステップを踏むうちに自分の内側から溢れる悔しさとも狡噛というキャラの共感ともつかない感情が湧き上がってきて、がむしゃらに手を伸ばすように上体を踊らせながら狡噛は懸命に追い縋る。
ぐっと加速する。行ける。曲のテンポが急速に上がる。指を伸ばす。
しかし次の瞬間、狡噛は空を掻いてかすかにバランスを崩す。よろめいたのを気取られないよう氷上を膝で回転しながら見遣れば、槙島がうとりと両腕を広げながら大きく加速しながら踊り出すところだった。自由を謳うように全身を使って躍る槙島の足元に白いコートの裾が纏いつき、鮮やかな赤が散る。槙島のエッジの動きに合わせてマッピングされる、血を模した照明だ。
リンクの対岸から追うべく自らもジャンプを交えてタイミングを合わせながら、狡噛の表情は今度こそ演技とも湧き上がる感情ともつかず苦み走っている。
あの瞬間、本気で槙島を見失ったのだ。
予兆すらなく鮮やかなエッジの切り替えと加速に、振りつけを知る狡噛でさえ演技ではなく一瞬見失った。
上体を伸びやかに使って弧を描くとき、見上げたライトが強く瞳を射る。麦畑を走る時、「槙島」の目を灼いただろう残照を思う。蹴り上げた脚から散る氷の粒と風の冷ややかさが心地いい。気がつけば上がっていた息を整えながら目を閉じる。狡噛と同様、きっと自分もこの高揚感が自分のものなのか「槙島」のものなのか判らなかった。
深く靴の刃 を倒す。氷を撫でる。その甲に熱い何かが滴って目をしばたたかせた。
知らずおびただしい量の汗が滴り落ちている。競技でもここまで消耗しないのに。槙島は驚いたように目を見開いた後、幸せそうに微笑った。
やっぱり狡噛慎也、君はーー僕のーー。
夕闇に落ちるように転調する音楽に両腕を高く挙げ、前方に高く飛び上がる。その頂点でぐっと内側に力をよせて回転する、三回転半。次いで降りたつま先で氷を蹴り上げる。
パッと氷の粒が散り、暮れゆく麦畑に見立てた金色の光を乱反射する。その美しさと飛翔の高さに皆が固唾を呑んだ。同じくハッとした狡噛の目の前で金色のブレードが煌めく。それは四回閃いてから、ドンーーと、落ちてきた。自分の目の前に。
ラストを飾るシリアスなシーンだからと静粛に耐えていた観客からも思わずどよめきが上がる。しかし他に誰も見ることのない間際でそれを見た狡噛の嘆息はその比ではない。 悔しい。が、さすがだ。トリプルアクセルからの四回転、完全に空で回り切ってから降りるその余裕の高さ。衝撃音はまるで自分のほうが心臓を射抜かれたような心地すらした。
しかしめまいを起こしている暇さえない。すぐに体勢を立て直して横に並び立った槙島と回転を揃えて踊るように滑る。
狡噛も槙島もシングルではトップを争うスケーターではあるが、誰かと息を合わせての演技は初めてだ。本来の予定では自分に向かって跳んでくるはずではなかったのでタイミングに少しためらったが、槙島なら曲に合わせてすぐに入ってくるだろうという確信があった。かくしてその通りのタイミングで空気が揺れる。ターンの音がぴたりと重なる。狡噛さんも槙島さんも人に合わせる気まったくないですからねとグソンを不安がらしめていたシンクロナイズドツイヅルが、槙島だと不思議にそろう。そして次の見せ場、脚をそろえての四回転も。
「あの二人、そろうのも意外でしたけど、殺陣やアイスダンスの場面ですごく距離が近くても恐れていないのにびっくりですよ」とはアイスダンスにも詳しい朱の談だ。
着氷の音が全く一人の人間のもののようなのに、我ながら身震いがした。それまでに競技でも入れない難易度の高いコンビネーションジャンプを見せつけた後にこれなのだから槙島の怪物ぶりには舌打ちしか出ない。
それでも――乱れた呼吸が微かに耳を打つ――こいつも人間なんだ――奇妙な親しみが頭をもたげ、その瞬間に槙島が両手を広げた。
「なあ、どうなんだ狡噛」
後ろから抱き上げた首筋からかすかに汗の香りがする。
「君はこの後、僕の代わりを見つけられるのかい」
存外に重い槙島の身体を高くリフトしながら、
ふ……っと、自然に笑みがこぼれた。
「もう――二度と、御免だね」
「いやー、ただ走るだけのシーンにどう振り付けろっていうんだよ! っていうグソンさんの叫びを聞いたときは吹いちゃいましたけど、フタを開けたらすごいじゃないですか」
PSYCHO-PASS ON ICE、初演の大成功を祝う打ち上げ。
わいのわいのとそれぞれの話題に高じているが、だいたい「槙島さんと狡噛さんってもう人外ですよね」に収束されてしまう。
「ホントホント、何が走るだけだっつーの。競技でもやんないような構成さらっとぶちこんできてさ、オッサン意外と鬼畜だよな」
縢に酒を注がれながらからかわれたグソンがあわてて手を振る。
「いえいえいえ! あれはさすがに槙島さんのアドリブ! アドリブです! 本当は三回転半-二回転だったのをあの人がまさかの四回転つけてきて!」
本当ですってばだってリハーサルまでなかったでしょアレ! とほとんど悲鳴のような声を上げるコーチから皆が槙島に視線を移す。そして口々にため息がもれる。
「三回転半-爪先踏切四回転かあ……」
「競技でもやらない。ってかできないよねえ」
それを思いつきでやらかして、しかも狡噛のほうに調整させる予定を無視してセカンドジャンプは狡噛の真横に着氷した。明らかな煽りだとはいえ、巻き込みで怪我をさせる懸念があるならやらない。絶対に狙った軌跡で成功させる自信満々のアドリブだ。
「とはいえ、ジャンプに100%なんてないんですから、明日からはやめてもらいます。絶対ですよ絶対」
狡噛さんに怪我でもさせたら責任取りきれないんですからと含めて言い聞かすグソンに、槙島はあっけらかんとした顔で「四回転トゥループはやってもいいんだろう?」などと言っている。
ため息をつく狡噛の腕をつつき、かがりが自分の端末を見せてくる。
「じゃーん! なんと応援タグ作ってくれましたァー!」
縢の手からそれを取り上げてスクロールする。
「『マジ二次元だった』……二次元?」
よく解らない感想に首を傾げて「次」「次」と読み上げていく。
素っ気なくも読み上げた後にありがとなとつけ足す狡噛を見て、グソンも真面目な人だなあとにこにこしている。しかしあるコメントで唐突にキレ始めたので槙島は笑ってしまった。
「『試合だけ見ていると完璧超人みたいでちかよりがたいイメージの槙島さんでしたが、2.5だとセリフがちょっと棒読みなので人間味を感じて好きになっちゃいました』……ンだとコラァ?」
一人で威嚇している狡噛に、縢があきれたように言う。
「コウちゃん、なに槙島への感想にキレてんの……」
槙島が笑いながら自分の端末を差し出す。
「君、僕のこと結構好きだろ」
僕のツイッターもフォローする? と聞いたら、やってないし要らんと即答されたので、それよりまずアカウント作りなよとそそのかしておく。
「なんでお前、ツイッターやってて炎上しないんだ……」
とりあえずは自分のインスタグラムのために勝手にツーショットを撮ることにした槙島だった。
片手を振りわめくグソンの振り向き顔を、槙島のデバイスのカメラが映している。
フィギュアスケート選手槙島聖護がコーチのチェ・グソンと寝食を共にしているのはファンの間では有名な話で、毎晩インスタに上がるグソンの料理動画は再生数鰻登り。狡噛慎也と日本の、そして世界の、一位を争い続けている槙島は言うまでもなく、グソン自身徴兵中の不慮の事故で片目の視力を失い現役から退いた伝説の選手である。突然の引退を惜しむファンはまだ世界に数多いるし、それがあの槙島聖護の専属コーチ兼振付師になるのだから注目度は半端じゃない。
「だって槙島さん原作見たことあります!? 走ってるだけですよ、走ってるだけ! そこに生オーケストラ!? 振り付けが俺!? 無理ですよぉ完全に音響負けですってばぁ」
容姿も実力も最高峰の師弟のインスタグラム、しかし毎日上がる動画はスケートとは全く関係のない、グソンが料理をしながら槙島と話しているゆるすぎるものばかりだった。
さて、今日ただ愚痴を言うだけの動画になっているこれの発端は何かといえば、アニメコラボのアイスショー絡みで来た振り付け依頼である。
サイコパスオンアイス。謎の演算装置が支配する社会福祉と決断までそれに依存してしまった人々を描くSFミステリ。それをアイスショーにしようという一大企画が持ち上がっている。主演は狡噛慎也と槙島聖護、ストーリーはSF。となれば、そのコーチであり、伝説のプログラム「マトリックス」で自身もサイバーパンクの似合うイメージの強いチェ・グソンに振り付けの依頼が行くのは自然な成り行きだった。
勝手なナレーションを語り出す槙島に、グソンが叩きつけるようにオムレツをひっくり返しながら叫ぶ。
「麦畑走るだけのシーンに生オケ用意するからいい感じに振り付けてくださいとか言い出さなければ、ですがね!」
銃声が響く。
槙島の顔を映していたマッピングが硝子を砕くように掻き消え、はッと振り向くや否や、暗闇から飛び出した槙島が両の手足を広げて高く跳躍する。強く弾かれた手から拳銃が滑り落ちる。鈍い音が氷を打つ。ぐっと歯をくいしばり、全力で飛んできた拳を槙島はスピンでかわしざますぐに長い脚を氷に滑らせて避ける。氷の上を膝がくるくると流れるなめらかさに狡噛は敵役ながら感嘆の息を吐く。
サイコパスオンアイスの初演。多彩なアクションシーンをスケートで表現する場面はやはり斬新なのか観客も食い入るように見ている。
すかさず起き上がった槙島が立ったまま細い軸でスピンすれば、数瞬置いて 狡噛が逆回転のフライングスピンで返す。熾烈な殴り合いに見立てたスピンの応酬。
二人はステップを踏みながら一旦距離を取り、衣装の中からナイフを取り出して照明に翳す。
「お前だってそうだろう? 狡噛慎也」
睨み合いの中、来いよとばかりに槙島がナイフを揺らす。銀の刃が煌めく。
ステップからの四回転で狡噛が一気に距離を詰める。
二人は手を打ち合い、一度離れてツイズル――同時に流れるように滑りながら回転する――その末に相手に向かってターンし、腕を振り下ろす/槙島の手が手首に触れる/させるかと脚払いし/掴み返した手で槙島をぐるりと回転させる。いわゆるペアスケートの技・デススパイラルではあるが、普段縁のない技の大味さがかえって喧嘩めいた荒っぽさを醸し出している。
再び狡噛のコンビネーションジャンプが飛び込んでくる。つま先を開いて身体を倒しながらそれを迎え撃つ。
暗転と共に素早く脇に滑り込むと、次のシーンのために待機していた常守朱が声を潜めつつも、ぐっと拳を握りしめながら絶賛してくれた。
「もー! 鳥肌立ちましたよ狡噛さんー! この後わたしだなんてすごいプレッシャー!」
その背を軽く押して、槙島が苦笑しながらうながす。
「ほら、出番だよ」
仲良くリンクに出て行った二人は、夕暮れを模したオレンジのライトが当たった瞬間にはもう、緊迫した表情に変わっている。
「いい感じになってるじゃないか」
狡噛は、脇で真剣なまなざしで舞台を見つめる――というよりはもはや睨んでいるようにすら見えるチェ・グソンに、からかいともねぎらいともつかない声をかけた。
常守朱は氷上に横たわったまま、新体操のようにしなやかに手脚を動かして踊る。槙島がそれを見下ろしている。
照明がゆっくりと赤みを深めていく。重厚なオーケストラの演奏が空気を震わせる。
「生オケバックに、走ってるだけの振り付けとか言い出したときにはどうしようかと思ったけどな」
グソンも舞台から目を離さないままにやりと口角を上げた。
「俺はそんな振り付けにはしたくないって言いましたぜ。槙島さんはあんたとならガチでスピードスケートしてもいいとおっしゃってましたがね」
狡噛も笑った。
「生オケが泣くな」
ラストシーンが近づいてくる。
金色の波が揺らぐ。
夕焼け色の光でリンクが明るくなればそれは、満ちる麦穂の色に似たワンピースを纏った少女達の一糸乱れぬ群舞だと気づく。
ぱっと列が割れ、白いロングコート姿の槙島が現れる。他方のリンク端には狡噛がいる。麦穂の少女達は手を繋いで、牧歌的なピアノ音楽に合わせて同じステップを踏みながらはけていく。
狡噛がぐっと拳銃に見立てた手を胸に引きよせてしゃがみ込む。それから両手をぐっと突き出し、力強く回転する。
槙島が滑り出した。彼の役を象徴する牧歌的でクラシカルでありながら賛美歌に似た重厚さを併せ持つ「楽園」。
槙島は正確に音を拾う。楽譜の上に描かれた
それが、音楽に内在するメトロノームに聞こえる瞬間があるのだ。
槙島がオーケストラを従えているような。
会場の音を、いや、狡噛の呼吸までも支配しているような。ささやかな氷削音が、指先までしなやかに動く手足がタクトのような。
ーーさせない。
白い背中に羽根があるかのような軽やかさ。翻る裾。それらすべて簡単に抱きとめそうなのに、意外や迫ることすら難しい速度を併せ持つ。
させない。槙島、おまえの好きなようにはさせない。
追ってステップを踏むうちに自分の内側から溢れる悔しさとも狡噛というキャラの共感ともつかない感情が湧き上がってきて、がむしゃらに手を伸ばすように上体を踊らせながら狡噛は懸命に追い縋る。
ぐっと加速する。行ける。曲のテンポが急速に上がる。指を伸ばす。
しかし次の瞬間、狡噛は空を掻いてかすかにバランスを崩す。よろめいたのを気取られないよう氷上を膝で回転しながら見遣れば、槙島がうとりと両腕を広げながら大きく加速しながら踊り出すところだった。自由を謳うように全身を使って躍る槙島の足元に白いコートの裾が纏いつき、鮮やかな赤が散る。槙島のエッジの動きに合わせてマッピングされる、血を模した照明だ。
リンクの対岸から追うべく自らもジャンプを交えてタイミングを合わせながら、狡噛の表情は今度こそ演技とも湧き上がる感情ともつかず苦み走っている。
あの瞬間、本気で槙島を見失ったのだ。
予兆すらなく鮮やかなエッジの切り替えと加速に、振りつけを知る狡噛でさえ演技ではなく一瞬見失った。
上体を伸びやかに使って弧を描くとき、見上げたライトが強く瞳を射る。麦畑を走る時、「槙島」の目を灼いただろう残照を思う。蹴り上げた脚から散る氷の粒と風の冷ややかさが心地いい。気がつけば上がっていた息を整えながら目を閉じる。狡噛と同様、きっと自分もこの高揚感が自分のものなのか「槙島」のものなのか判らなかった。
深く
知らずおびただしい量の汗が滴り落ちている。競技でもここまで消耗しないのに。槙島は驚いたように目を見開いた後、幸せそうに微笑った。
やっぱり狡噛慎也、君はーー僕のーー。
夕闇に落ちるように転調する音楽に両腕を高く挙げ、前方に高く飛び上がる。その頂点でぐっと内側に力をよせて回転する、三回転半。次いで降りたつま先で氷を蹴り上げる。
パッと氷の粒が散り、暮れゆく麦畑に見立てた金色の光を乱反射する。その美しさと飛翔の高さに皆が固唾を呑んだ。同じくハッとした狡噛の目の前で金色のブレードが煌めく。それは四回閃いてから、ドンーーと、落ちてきた。自分の目の前に。
ラストを飾るシリアスなシーンだからと静粛に耐えていた観客からも思わずどよめきが上がる。しかし他に誰も見ることのない間際でそれを見た狡噛の嘆息はその比ではない。 悔しい。が、さすがだ。トリプルアクセルからの四回転、完全に空で回り切ってから降りるその余裕の高さ。衝撃音はまるで自分のほうが心臓を射抜かれたような心地すらした。
しかしめまいを起こしている暇さえない。すぐに体勢を立て直して横に並び立った槙島と回転を揃えて踊るように滑る。
狡噛も槙島もシングルではトップを争うスケーターではあるが、誰かと息を合わせての演技は初めてだ。本来の予定では自分に向かって跳んでくるはずではなかったのでタイミングに少しためらったが、槙島なら曲に合わせてすぐに入ってくるだろうという確信があった。かくしてその通りのタイミングで空気が揺れる。ターンの音がぴたりと重なる。狡噛さんも槙島さんも人に合わせる気まったくないですからねとグソンを不安がらしめていたシンクロナイズドツイヅルが、槙島だと不思議にそろう。そして次の見せ場、脚をそろえての四回転も。
「あの二人、そろうのも意外でしたけど、殺陣やアイスダンスの場面ですごく距離が近くても恐れていないのにびっくりですよ」とはアイスダンスにも詳しい朱の談だ。
着氷の音が全く一人の人間のもののようなのに、我ながら身震いがした。それまでに競技でも入れない難易度の高いコンビネーションジャンプを見せつけた後にこれなのだから槙島の怪物ぶりには舌打ちしか出ない。
それでも――乱れた呼吸が微かに耳を打つ――こいつも人間なんだ――奇妙な親しみが頭をもたげ、その瞬間に槙島が両手を広げた。
「なあ、どうなんだ狡噛」
後ろから抱き上げた首筋からかすかに汗の香りがする。
「君はこの後、僕の代わりを見つけられるのかい」
存外に重い槙島の身体を高くリフトしながら、
ふ……っと、自然に笑みがこぼれた。
「もう――二度と、御免だね」
「いやー、ただ走るだけのシーンにどう振り付けろっていうんだよ! っていうグソンさんの叫びを聞いたときは吹いちゃいましたけど、フタを開けたらすごいじゃないですか」
PSYCHO-PASS ON ICE、初演の大成功を祝う打ち上げ。
わいのわいのとそれぞれの話題に高じているが、だいたい「槙島さんと狡噛さんってもう人外ですよね」に収束されてしまう。
「ホントホント、何が走るだけだっつーの。競技でもやんないような構成さらっとぶちこんできてさ、オッサン意外と鬼畜だよな」
縢に酒を注がれながらからかわれたグソンがあわてて手を振る。
「いえいえいえ! あれはさすがに槙島さんのアドリブ! アドリブです! 本当は三回転半-二回転だったのをあの人がまさかの四回転つけてきて!」
本当ですってばだってリハーサルまでなかったでしょアレ! とほとんど悲鳴のような声を上げるコーチから皆が槙島に視線を移す。そして口々にため息がもれる。
「三回転半-爪先踏切四回転かあ……」
「競技でもやらない。ってかできないよねえ」
それを思いつきでやらかして、しかも狡噛のほうに調整させる予定を無視してセカンドジャンプは狡噛の真横に着氷した。明らかな煽りだとはいえ、巻き込みで怪我をさせる懸念があるならやらない。絶対に狙った軌跡で成功させる自信満々のアドリブだ。
「とはいえ、ジャンプに100%なんてないんですから、明日からはやめてもらいます。絶対ですよ絶対」
狡噛さんに怪我でもさせたら責任取りきれないんですからと含めて言い聞かすグソンに、槙島はあっけらかんとした顔で「四回転トゥループはやってもいいんだろう?」などと言っている。
ため息をつく狡噛の腕をつつき、かがりが自分の端末を見せてくる。
「じゃーん! なんと応援タグ作ってくれましたァー!」
縢の手からそれを取り上げてスクロールする。
「『マジ二次元だった』……二次元?」
よく解らない感想に首を傾げて「次」「次」と読み上げていく。
素っ気なくも読み上げた後にありがとなとつけ足す狡噛を見て、グソンも真面目な人だなあとにこにこしている。しかしあるコメントで唐突にキレ始めたので槙島は笑ってしまった。
「『試合だけ見ていると完璧超人みたいでちかよりがたいイメージの槙島さんでしたが、2.5だとセリフがちょっと棒読みなので人間味を感じて好きになっちゃいました』……ンだとコラァ?」
一人で威嚇している狡噛に、縢があきれたように言う。
「コウちゃん、なに槙島への感想にキレてんの……」
槙島が笑いながら自分の端末を差し出す。
「君、僕のこと結構好きだろ」
僕のツイッターもフォローする? と聞いたら、やってないし要らんと即答されたので、それよりまずアカウント作りなよとそそのかしておく。
「なんでお前、ツイッターやってて炎上しないんだ……」
とりあえずは自分のインスタグラムのために勝手にツーショットを撮ることにした槙島だった。