囲碁と幽霊と見える人
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
その日緒方は街で人を待っていた。
近頃、手合いに棋院の仕事に師匠主催の研究会と予定がみっちりと詰まっていた緒方は彼女からの誘いを何度も断っていた。
それでも彼女は諦めず緒方の予定を把握し、自身の予定を調整して食事に行こうと誘った。
緒方はそれを了承していざ約束の当日。
朝から掛かって来た師匠からの電話に何事かと応じれば急な研究会のお誘い。
先日あったタイトル戦の検討をしようと言う誘いに緒方は一寸の迷いもなく応じた。
彼女との食事は夜である為、夕方に師匠の家を出れば良いという判断だった。
研究会は急な呼びかけであるが門下の殆どの者が出席し、大いに盛り上がりに盛り上がる。
一つの検討が終わっても弟子がまた違う棋譜を持ち出しまた検討。
攻め方で揉めると師匠が誰よりも有効な手を打ち出しまたそこで検討が始まりと燦々と照っていた日はいつの間にか柔らかな月明かりに変わり、緒方が彼女との約束の時間に気付いたのは軽食を運んで来た師匠の奥さんの言葉だった。
「あら、緒方さん。今日は夜からお約束があったんじゃありませんか?」
奥さんは緒方の姿を捉えるなり驚いてそう言った。
緒方は昼間、奥さんに夕方には自身が師匠の家からお暇する話をしていたのだ。
言われて漸く彼女との約束を思い出した緒方は部屋を抜けて電話を取り出す。
電話のディスプレイには彼女からの不在着信が何十件と入っていた。
彼女の名前で埋められた着信履歴から発信すればすぐに電話は繋がり挨拶もせぬまま彼女からの罵詈雑言を受ける。
日頃から緒方に対する鬱憤が溜まっていたのか今日の約束のドタキャン以外の話も持つ出され責めに責められた。
電話から耳を離しても聞こえる彼女の声にうんざりする緒方であるが彼女の話は要約すると緒方の仕事が忙し過ぎて構ってくれなくて寂しいと言う可愛い我儘で、緒方は何とか彼女を宥めると今度の自分の休みに彼女をデートに誘った。
何時もは自分から誘ってやっと重い腰を上げる緒方がデートを提案してきた事に彼女は驚き、喜んだ。
待ち合わせ場所である建物の前にいた緒方は喧騒に気がつく。
声からして男女が揉めているのか足音と共にその騒がしい声が聞こえてきた。
「離して下さい!」
自身の手を掴もうとする男の手を振り払いながら速足で駆けてくる少女とそれを追いかける青年。
途切れ途切れに聞こえてくる会話から少女はそんな気は無いのに青年がしつこく付き纏って来るらしい。
ちょっとお茶でもと、最早自棄にでもなっているのか強引に少女の腕を掴む青年に少女は再度腕を振り払おうとしたのだが青年の力に敵わず、余程強い力で掴まれているのか苦悶の表情を浮かべてる。
道を行き交う人々は男女の諍いに眉を顰めはしたが関わって余計な騒ぎに巻き込まれまいと二人を避けて歩いており、目の前の光景を静観していた緒方も男女の諍い等何処か他所でしてほしいと思っていた。
するりと、少女がもう片方の腕で抱いていた袋が地面へ落ちて中身が辺りに散らばる。
私立中学の試験の過去問題集に詰め碁の本に囲碁雑誌。
その雑誌は奇しくも先月、緒方の師匠が取材を受けて表紙を飾った囲碁雑誌であった。
地面に投げ出された囲碁雑誌を見て青年が目を細める。
「へー君、囲碁とかするんだ。あんな年寄り臭い遊びなんかより俺と楽しい事しようよ」
「嫌です。離して下さい」
少女の口から出た拒否の言葉に舌打ちをした青年は足元の雑誌を踏みつけるとぐしゃりと足を動かし表紙を歪めた。
「あーごめん。うっかり雑誌を踏んじゃった」
下卑な笑みを浮かべた青年の頭の上から低い声が降り注ぐ。
「おい、クソ餓鬼。その足を退けろ」
突然割り入ってきた緒方の気迫に青年だけでなく少女も肩を震わせた。
驚きか恐怖か、その場から動かない青年の襟首を掴むとその場からずらして踏まれて歪んだ囲碁雑誌と他2冊を拾い上げて持ち主である少女に渡す。
「君の家族の誰かが海王中を目指すのか」
拾い上げた問題集は緒方の師匠の母校の物で、緒方はつい気になり少女に尋ねた。
まさか緒方からそんな事を尋ねられるとは思ってもみなかったのか少女は酷く戸惑いながらも答える。
「あ、いえ、私です。担任の先生と祖父に強く勧められて一度受験してみようかなと思いまして」
今年、中学受験をすると言う少女に緒方も青年も驚いた。
緒方の見立てでは幼くても中学生、青年は小柄な高校生位に思って声をかけていたのだ。
小学生なら尚更青年の付き纏いは恐ろしかっただろうと、緒方はもっと早くに介入しなかった事を悔やんだ。
「海王中は俺の師匠の母校で良い学校だ。受験頑張れよ」
「ありがとうございます」
緒方からの思わぬ激励の言葉に少女は頭を下げた。
その背後で青年がゆっくり、ゆっくりと後退している事に気が付いた緒方はその青年の腕を掴んだ。
「おっと、逃げるなよ。見た所大学生か?小学生の女児にしつこく付き纏ったんだ。覚悟は出来てるだろうな」
今度は下卑な笑みを浮かべるのは緒方であった。
青年を締め上げ、何かあった時の為にと彼の学生証写しを取り靴跡で汚れた雑誌代も確りと少女に払わせた。
少女は必要無いと頭を振るうが緒方が睨みを利かす手前「じゃあそれなら」と金を差し出す手を引っ込める訳にもいかず青年は震える手で少女に千円札を握らせる。
少女は律儀に差額を青年に返そうとするが、それを緒方は止めた。
「それぐらい貰っておけ」
「だけど、」
納得いかないという様子の少女に緒方は青年の方へと向き直り差額分が必要か尋ねれば青年は首を横へと振るう。
青年は見るからに「や」の付く自由業としか見えない出で立ちの緒方から一分一秒でも早く離れたく必死だった。
その為ならたかが数百円の差額等惜しくも無い。
少女がお札を財布に仕舞うのを確認した青年は人当たりの良さそうな笑みを浮かべ「じゃあ、俺はこれで」と気付いた緒方の制止を聞かぬまま今度こそ逃げ出した。
その逃げ足の速さに緒方は悪態を吐きたくなったがまだ少女が残っているので出かけた悪態を何とか飲み込む。
残った少女は何度も緒方に頭を下げた。
少女が言うには書店を出た所で青年に声をかけられ、断りを入れてその場を立ち去ろうとしたが付き纏われ誰にも助けて貰えず書店からかなり離れた場所迄来たのだと言う。
彼女の話を聞いて緒方は助けに入って良かったと思いながらも、やはりもう少し早く助けに入れば良かったと内心後悔をする。
緒方は少女に今回の件を警察に相談する気がある様なら証言者が必要だろうと、先程写した青年の個人情報と共に携帯していた名刺を渡し別れた。
話した限り警察に駆け込む様子も無さそうな少女に緒方はもう会う事も無いだろうと、彼女と会う頃には少女の事等記憶の隅に追いやった緒方であるが少女事加茂鈴とはその後すぐ再会する事になる。
師匠が経営している碁会所に緒方が顔を出した時だった。
賑やかな店内の様子に師匠が来ているのかと一瞬考えた緒方であるがそんな予定は聞いていなかったのでその考えを打ち消す。
では、師匠の息子が来ているのかとも思ったがその様な賑わいでも無く、受付をしていた市河に尋ねると彼女は半笑いに答える。
「今日は若い女の子が来てて皆さん浮足立ってるんですよ」
碁も打たずに女の子一人に構っているという常連客達に市河は呆れていたが、緒方はそんな彼等の気持ちも理解出来たので曖昧に言葉を返す。
しかしこの碁会所に女の子が来たと言うのは本当に珍しい事だったので俄然興味が湧いた緒方は常連客に囲まれて碁を打つ女の子がどんなものか覗きに行った。
常連客で出来た人垣に近付くにつれて碁石が盤に打たれる音がよく聞こえてくる。
プロの打つ音と比べても遜色のその無い音に緒方は片眉を上げた。
緒方が来た事に気付いた常連客達は声をかけては口々に女の子を賞賛する。
「若くて、しかも女の子なのに凄いですよ」
「皆あの子に挑みましたが私も含めて手酷くやられてしまいました」
そう言いながらも余程良い戦いだったのか皆が満足気な表情をしていて一部ではこの後、再戦を行いたいと言う者達もいる。
そうこうしている内に女の子の対戦相手であった北島が投了していた。
頭を下げた北島に礼を返す女の子の声に緒方は聞き覚えがあり内心頭を傾げる。
女の子の健闘を讃えて声をかけた常連客に女の子が振り向き、緒方か女の子か分からない声が上がった。
もしかしたら二人同時だったのかもしれない。
北島の向かいの席に座っていたのはつい先日、男に付き纏われて困っていた所を緒方が助けた加茂鈴その人であった。
「あれ、緒方先生と鈴ちゃん知り合いだったのかい?」
一人の発した言葉に二人が肯定も否定もしない間に雰囲気から察して二人が知り合いだと辺りに広まる。
すると緒方と鈴が師弟に似た関係だと勝手に解釈する者が現れて、その者の発言に納得する者が多数現れる。
「緒方先生のお弟子さんとくりゃあ強い筈だ」
「俺達が負けても仕方ない」
わっはっはっと、勝手に勘違いして笑いだす常連客達に緒方は誤解をどう解こうが眉間を押さえながら考えていればすっと手が上がった。
誤解に続く誤解に困っていた鈴である。
「緒方先生は、先日困っていた私を助けて下さった恩人で、」
全員が自分を見ているのに戸惑っているのか「その、」と尻すぼみ気味に言葉が続いた時には殆ど周りの者は聞き取れずにいた。
そんな鈴に代わり、所々端折りながら先日の事を緒方が説明すると皆が一様に緒方と鈴の関係を理解した顔になるのだがここでまた誰かが「つまり鈴ちゃんは緒方先生に会いたくてここまで来たと!」と言うものだから辺りは色めき立つので緒方はどうしてそうなるのか頭を押さえた。
緒方の出で立ちに慣れた常連客達は突然降って来た恋話に頬を緩ませ緒方を小突き、鈴には緒方がどういう人間なのか語りに語った。
受付の方では話に混ざりたいが仕事が立て込んでいて仕方なく聞き耳を立てる市河。
鈴は突然の展開についていけず緒方に助けを求める様に何度も視線を向ける。
その視線に常連客達はまたしても熱の篭った視線だと己の妄想に都合よく勘違いをした。
これでは事の収拾が付かないと思った緒方は自分と同じく常連客に囲まれた鈴を引き寄せて
「こいつはまだ小学生で、俺はそんなガキを愛でる趣味はない」
と高らかに言い放った。
鈴が小学生だという事が余程信じられないのか苦笑いを浮かべ口々に冗談をと常連客達は言うが鈴は学校名に学年、クラス迄言うと服のポケットに手を突っ込み掴んだそれを皆の前に出す。
それは小学校の名前が記された名札で、常連客達はやっとそこで鈴小学生なのだと理解した。
浮ついた雰囲気から一変、常連客達は鈴に対して自身の勘違いを謝罪する。
その殆んどが緒方をおじさんと評し、そんな彼との仲を疑った事。
こんなおじさんとの仲を疑われて嫌だったよね?と緒方に大変失礼な謝罪であったが緒方はまた何かを言って話が拗れてはと耐え、謝罪を受ける鈴は何と返せば良いのか只管に困った。
その場もやっと収束しかけた所で鈴が壁に掛けられた時計を見て声を上げた。
慌てて鞄と上着を手に取る鈴に何事かと皆が注視する。
夕飯の買い物が済んでいないのだと慌てふためく鈴に側にいた人間が片付けは良いからと言うと、鈴は申し訳無さそうに頭を下げた。
「皆さん今日は相手をして頂いてありがとうございました」
再度、深々と頭を下げた鈴に周りもつられて頭を下げた。
頭を上げた鈴は踵を返すと、受付の市河にも挨拶をして碁会所を出て行く。
その様を呆然と見送った面々の誰が言ったのか「やっぱり若い子は良いね」と漏らした。
自分達の孫と同じ位の年で囲碁が出来る女の子。
あんな孫がいたら毎日楽しく囲碁が打てて良いだろうにと妄想に耽ながら各々席へ戻って行く常連客達を見ていた緒方は碁盤を見続ける北島に気がつく。
何か気になる事でもあったのか気になった緒方は碁石が整然と並んだ碁盤を見つめた。
特に変わった手のない盤面である。
気になると言えばよく北島が苦手とする所を上手く突いているとこだろうか
と、迄考えて緒方は違和感に気付いた。
「緒方先生も気付かれましたか」
静かな声で北島が言う。
「北島さん、一応確認しますが彼女と対局するのは初めてだったんですよね」
北島が緩慢な動作で首肯するのを確認して再度碁盤を見つめた緒方は先程迄平凡に見えた盤面がとても異様に見え思えた。
加茂鈴が何者なのか気になった緒方は使える伝手という伝手を使って彼女の経歴を調べたが分かったのは両親と離れて祖父宅に住んでいる事位である。
その祖父が実は元タイトル保持者だとか元名人だったという経歴も無い。
囲碁大会で入賞どころか大会にすら出場した事もない何処にでもいる小学六年生。
そんな調査報告書を机に置いて緒方は疲れた目を解そうと眉間を揉み込む。
一体、自分はあの子供に何の期待をしているのか緒方は自問自答を行う。
やはり北島との対局は偶然なのかと思う一方、報告書と同じく机に置かれたあの日の棋譜達がなら私達も偶然なのかと緒方に問う。
「偶然にしては出来すぎているな」
緒方はそう溢すと棋譜に書かれた鈴の名前を撫でた。
結局、調べても何も分からずじまいである緒方は鈴が碁会所に来たら色々尋ね様と画策していたが、その当の本人が碁会所に現れない。
自分の孫程の年である鈴に再戦を挑もうとしていた面々は碁会所に誰かが入って来れば振り向き、鈴じゃ無いと分かると溜息を吐いて向き直るを繰り返していた。
「初めて来た碁会所でああも騒がれちゃ来づらいわよね」
と言ったのはあの日の騒ぎを少し離れて見ていた市河の言葉である。
落ち込む常連客達の様子に当惑するのは緒方と検討を行なっていた塔矢アキラであった。
あの日たまたま用事で碁会所に来ていなかったアキラは市河から後日、事の顛末を聞いたのだが向かいに座る兄弟子を含めて何をそこまで一回来ただけの少女を彼等が待つのか分からない。
そんな気持ちが顔に出ていたのか緒方から件の彼女がこの碁会所で行った対局を記した棋譜が渡される。
手練れが集まるこの碁会所で対局を行なって全勝した事は確かに凄いと思ったアキラであるがそれでも緒方がそこまで気にする程棋力があるとは思えなかった。
「まだまだ見立てが甘いなアキラ君。打ち方はどう思う」
「それは、よく皆さんの弱い所をよく突けていると」
アキラはそこまで言って明らかに矛盾した事を言った自分の口を閉じた。
棋譜を一枚捲ってはまた一枚捲って、対局の内容を確かめる。
先程迄は何とも思わなかった棋譜が一つの矛盾に気付く事で何れも異常に感じる。
「これを打ったのは一体誰なんですか」
「アキラ君より一つ年上の女の子だよ」
煙草から口を離した緒方が紫煙を吐き出し、答えた。
対局に取材、地方への巡業に師匠主催の研究会。
それに加えて鈴の件も有り、何度目かのデートのドタキャンにとうとう緒方の彼女はキレた。
朝一番に緒方宅へ乗り込んで来た彼女は口論と言うには程遠い一方的な罵倒を緒方に浴びせた末、彼女は床に膝を付きさめざめと泣きながら「私と囲碁どっちが好きなの?」と問うた。
歴代の彼女達からの口からも聞いた台詞に緒方は間髪入れず答える。
「囲碁だな」
そう答えた瞬間、彼女は立ち上がるとテーブルの上に置いていた花瓶を緒方に向かって投げつけた。
飛んで来た花瓶から身を守った緒方であるが中に入っていた水からは身も守れず見事ずぶ濡れになる。
そんな緒方を泣き濡らした顔の彼女は一瞥すると落ち着きを取り戻して「さようなら」と、冷えた声で告げて緒方宅から出て行った。
花瓶を投げられ緒方も床も水浸しであるが以前、歴代何番目かの彼女に頰を叩かれてその跡を見た弟弟子に散々笑われた事を思い出した緒方は頰を叩かれるよりマシかと辺りの惨状を見て思った。
緒方は我が身より床に落ちて割れた花瓶の片付けを優先して始める。
この行動が仇となったのかは分からないが季節はちょうど変わり目で涼しいのか暑いのかはっきりとしない季節に一人、二人と体調子を崩していた。
棋院でも緒方が足繁く通う研究会でも風邪を引く者は多数出ており、ニュースキャスターも流行りの風邪に気をつける様にと注意喚起をしている。
室内とは言え暫く濡れ鼠のままでいた緒方は翌日、見事に熱を出す。
その日は幸いにも対局も仕事も無く、研究会はあったが事情を話せば師匠から養生する様にと言われ電話ながら緒方は思わず頭を下げた。
「近頃の君は何やら根を詰めすぎていた様な所がある。この機会によく休みなさい」
師匠の言葉に緒方は確かに近頃は色々調べていたりして忙しくしていた事を思い出す。
電話を終えた緒方は市販の風邪薬を飲むと布団を被り眠りに入った。
一体、寝入ってからどれ位経ったのか緒方は寝汗で濡れたパジャマの感触の悪さに目を覚ます。
着替えの序でに渇いた喉を潤そうと緒方が立ち上がった所で玄関のチャイムが鳴った。
特に来客の予定も無ければ何か配達される予定もない。
何時もの緒方ならここで覚えの無い訪問に無視を決め込む所であるが何故かこの日の緒方は気怠い体を引き摺って迄してインターフォンのディスプレイの前に立った。
もう一度部屋に響いたチャイムの音にボタンを一つ押せばディスプレイに訪問者の顔が映し出される。
その覚えのある顔に緒方は思わず目を見開きながら何方様かと扉の向こうの相手に尋ねた。
「あの時助けて頂いた鶴です」
ディスプレイに向かって冗談交じりに喋るのは緒方が碁会所で来るのを待っていた加茂鈴であった。
西陽が部屋に入る頃、一人家に残っていた鈴は買ったばかりの問題集を解いていた。
何時もなら夕飯の支度に洗濯物にと家中を走り周っている時間帯であるが昨日から家には鈴しかおらず、夕飯も簡単な物で済ませるつもりなので何時もの様に慌てる必要もない。
買ったばかりの問題集はもう殆ど終わっており、残り数頁であるのを確認した鈴は最後の頁を目処に夕飯の支度をしようと考えていたが突如響いた廊下からの声に鈴は驚いて顔を上げる。
「鈴さん、鈴さん!猫です!私、猫は嫌い何です!早く追い払って下さい」
きゃあきゃあと隣の部屋の障子戸から逃げて来た女の影は鈴に助けを求めた。
気配に敏感な猫はこの家の敷地に入るどころか周辺迄寄り付かないと言うのに本当に猫がこの家の中に入るのかと疑いながらも鈴は椅子から立ち上がり障子戸から廊下の様子を窺う。
「猫は嫌です。あの鋭い爪で私の住処でもある障子をばりばり引っ掻く!」
忌々しく、恐ろしいと言う影は猫のいる方角を指差す。
そこには尾を二つに分け、二本足で立つ虎柄に猫がいた。
「こんばんは」
猫背の背をより曲げてお辞儀をする猫につられて鈴もその場で頭を下げた。
「お夕飯刻に申し訳ありません。こちらは妖怪の悩みや困った事を何でも聞いてくれる相談所で良かったでしょうか」
相談所等開いた覚えもない鈴であるが心当たりはあった為、訪ねてきた猫を自室へと迎えた。
猫又であるが客人でもあるのでぬるめのお茶を祖父が昔に使っていたお猪口に淹れて差し出した。
余程喉が渇いていたのか猫又は出されたお猪口を両手で持ち上げると喉を鳴らしながら全て飲み干す。
一服した猫又はさっそくですがと話を切り出すとある人間の話を始めた。
普段は普通の猫の振りをして生活しているという猫又は以前の飼い主の影響で囲碁が好きだった。
自身で打つというより碁石が碁盤に打たれるあの音が好きで何時もとあるお宅の庭に入ってはその音を聞いていると言う。
その家には月に何度か碁打ちが沢山集まる時が有り、その集まりに来る内の一人が煙草を吸いに縁側に出て来ては猫又を撫でてくれるのだという。
「今日もその集まりがあったんですが何時も私を撫でてくれる人間がいなくてですね。どうしたのかと思えば風邪をひいて寝込んでいると言うんですよ」
猫又の飼い主だった人間は病弱な男だった。
日に何時間も外には出られない弱い体で、酷い時は何日も布団の上に横たわっている様な人間だった。
彼には猫と暇潰しにと家人が彼に与えた碁盤と碁石しかなく、対局する相手のいない彼は飼い猫を向かいに置いては碁石をひたすら並べていた。
死因は風邪から来る肺炎だった。
彼の年の離れた弟が外から家に風邪を持ち込み、それに罹った彼は風邪に抵抗する力も無くそのまま亡くなった。
「あの人間は私の飼い主と違って体は丈夫ですがもしも何て思うと気が気でなくて」
猫又とはいえ見た目は只の猫である自分の代わりにその人間の様子を見てきてほしい、可能であれば看病をして来てもらえると有難いと、後半部分が猫又の本音だろう。
鈴は少し考えて見せたが了承した。
風邪をひいたという人間の所迄の案内は猫又がしてくれるらしく猫又に言われるがままに準備をした鈴は影女に見送られ家を出た。
猫又の案内する道は正に猫の道と言わんばかりの道無き道で、家と家の境の小さな隙間を通り誰かの家の庭を横切り鈴はまるで自身が猫になったかの様な錯覚に陥入る。
「ここからは少し目を瞑って下さい」
鈴は言われるがままに瞳を閉じた。
瞳を閉じて何も見えていない鈴の手を猫又がその小さく柔らかな手で掴み先導する。
耳元で声が聞こえても足元の道がアスファルトでも舗装のされていない道の感触でも鈴は目を閉じ続けた。
そして猫又に目的地に着いた事を告げられて閉じていた瞳を開くと目の前には扉。
気付いた時には猫又が2回目のインターフォンを押した所で、インターフォンの側のマイクから聞き覚えのある声で何方様かと尋ねられる。
その覚えのある声の主に検討のついた鈴はお伽話に出て来る鶴の様に言葉を返した。
3/3ページ