翡翠の目をした子供
残暑厳しい9月にしては冷たい雨の日であった。
その日島田は後輩棋士達に誘われてお酒を飲みに出かけていた。
外の天気は雨で夜半に近付くに連れて雨足は強くなると朝のニュースで天気予報士は言っていたし普段なら胃腸の事も考え断るのだが誘いをかけた棋士の一人の婚約祝いと聞き宴会に参加した。
目出度い事にお酒は進むし話は進む。
結局、宴会は二次三次会迄行われ帰る頃には外は土砂降りとなっていた。
「お客さん、お客さん」
制帽を深く被った運転手に声をかけられて島田は目を覚ました。
三次会の帰りに拾ったタクシーに乗った迄の記憶はあったが、乗ってすぐに眠ってしまったのか雨が打ちつけるタクシーの窓の向こうはいつの間にか見慣れた景色があった。
泥酔していると思われているのかタクシーの運転手は何処か不安げに「大丈夫ですか」と声をかけてくる。
対局明けとお酒の力によりうっかり寝てしまった島田であったが意識は意外にもしっかりしていた。
運転手が告げた金額を支払い、傘も忘れず手に持ってタクシーを後にする。
酷い雨だった。
開いた傘を雨が容赦なく叩きつける。
地面から跳ね返る雨で足元は不明瞭であったがもう何年も行き来した道なのでどうという事もなかった。
いい宴会だったと島田は先程迄の賑やかな宴会を振り返る。
宴会の主役となった後輩棋士は婚約者となった彼女とは一度別れたらしい。
高校から付き合っていた彼女であったがその棋士がB級1組に昇格した年から停滞。
それが2年続きとうとうB級2組に降格してしまった。
その頃の後輩棋士はいつ何処で見かけても苛ついており焦っていた。
長年連れ添った彼女はそんな彼に寄り添い付き合っていたのだが些細な事で後輩棋士が彼女に喧嘩を売る形での大喧嘩となり、彼女はその翌日そっと同棲していた部屋を出て行った。
それから紆余曲折あり、周りの協力で寄りを戻した後輩棋士は心を入れ替え彼女に尽くした結果今回の婚約が決まった。
そんな話を宴会の最中に聞いた島田は「若いな」という感想と共に7年程前に別れた彼女の顔を思い出す。
黒髪に翡翠色の瞳、童顔だった彼女。
その頃の島田は優秀過ぎる同世代の棋士達に置いて行かれないよう必死に将棋の研究に打ち込んでいた。
対局が近い日も遠い日も、朝も昼も晩も寝食を忘れて将棋盤に向かう日々。
付き合いだして暫くしてから同棲するようになった彼女はそんな島田を甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
その日島田は上機嫌だった。
タイトル戦の予選で自分より遥か上の棋士に勝ったのだ。
それまで研究はしてきた相手であるがそれでも勝率を考えると厳しい相手で、そんな相手に勝った島田は浮かれてケーキや惣菜、お酒を手土産に彼女の待つ家に帰った。
相手が投了を告げた瞬間に彼女の顔が頭に浮かんだ。
付き合ってから長い事デートにも連れて行かず二人で出掛けるとなると週末の買い出し位。
その時ばかりは荷物持ちとして半ば強制的に駆り出されはするがそれ以外は何処に行きたい連れて言ってとも言わず自分に寄り添ってくれた彼女。
タイトル戦はまだ予選であるが後2戦勝てばタイトル戦の挑戦者としてあの男、宗谷冬司の前に座れる。胸が震えた。
自分は此処まで来たのだ。
そうだ彼女に結婚を申込もう。
将棋会館からの帰り道にそう思った島田。
残念な事に時間が時間の為指輪は今日のところは諦めたが結婚の申込をする事は心に決めた。
日頃の献身的な彼女に感謝とプロポーズを
彼女はどんな顔をして受け止めてくれるのだろうか。
泣いて、笑って、最後は受け止めてくれるだろうか。
家に帰ると電気はつけておられず真っ暗だった。
夜ではあるが寝るには早い時間で、彼女の外出の予定も聞いていなかった島田は家の中を歩き回り彼女の姿を探した。
居間に戻れば食事の準備がされている。
聞いてはいないが急遽予定が出来たのだろうか。
プロポーズをすると決めたところで出鼻を挫かれた気がしたが急だったであろう外出にも関わらず夕飯を用意してくれた彼女の優しさに頬が緩む。
ふと、裏返しにして置かれた茶碗の下に白い紙を見つける。
行き先を書いてくれたのかと何気なしにその紙を引き抜き瞠目した。
その白い紙には彼女の可愛らしい字で短く『さよなら』と書かれていた。
島田の彼女は後輩棋士達のようにはいかなかった。
突然出て行った彼女の行方は知れずもう7年経った。
いなくなった当初は「どうして」と考えていたが年を重ねるごとに「そりゃそうだ」と納得する自分がいる。
それこそ喧嘩は少なくはあったが自分は彼女に何をしたのだろう。
彼女は自分に与えてくれたものは沢山あれども自分から彼女に与えたものなど数える程もなかったのだ。
ある日、テレビから「私はあなたの家政婦じゃないの!」と女優が夫役である俳優に向かって叫ぶ場面を見たがあの時の彼女もそう思っていたのかもしれない。
楽しい席である筈なのに思わず元彼女の事を思い出した島田は感傷的に成りかけていた自分を年だと嘲笑い手に持っていた日本酒でその感情ごと胃に流し込んだ。
家が近付いたのに気付き鍵を用意しようと鞄に手をかける。
そこで島田は自宅の玄関前にある黒い塊に気が付いた。
思わず熊か猪かと身構えるが此処は東京都文京区の千駄木である。
実家のある山形なら未だしも東京23区の内の一つであるここでそんな大きな野生動物がいるとは思えない。
では、嫌がらせか?と頭を傾げる。
ご近所とは深過ぎず浅過ぎず程よい距離感を保ってお付き合いしてきた島田であるがここ最近苛烈を極めてきた振飛車党重田と居飛車党二階堂の論争は最早ご近所迷惑と言われても仕方がない位に五月蝿い。
この黒い塊はゴミ袋で、近頃の騒がしさに対するご近所さんの無言の文句なのだろうか。
島田は玄関前の不審物に色々な検討をゆっくりつけながら近付いた。
結果で言えば玄関先にあった黒い塊は熊や猪と言った野生動物でもご近所さんの嫌がらせかでもなく、まだまだランドセルに背負われているような幼い子供だった。
思わず変な声が出て、その声に反応した子供がゆるゆると顔を上げる。
子供は黒縁のメガネをかけていたがその顔は別れた元彼女にそっくりだった。
「君、は誰だ」
島田は驚き過ぎて息がままならない。
声が震え嫌な汗が背中に流れる。
「零です。苗字は・・・ー」
零が告げた苗字は元彼女と同じ苗字であった。
雷が光、すぐさまそれを追い掛ける様に雷鳴が轟く。
雷が光った瞬間に照らされた零の瞳は元彼女と同じ翡翠色であった。
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