魚の目に水見えず、人の目に空見えず
その日の五限目は6月の頭に行われる体育祭の種目決めであった。
中学に入って二度目の体育祭。
小学校と違い父兄の見学は少なく、陸上の競技大会の様な記録を測る種目が多いがその祭りを楽しみにしている者は多い。
副委員長が黒板に書き連ねる種目の数々を皆一様に見つめていた。
特に張り切っているのは運動部の面々で、体育祭の花形であるクラス別対抗リレーには足に自身のある生徒達が挙って立候補する。
対して余り運動に自信がない者達も全員参加以外の競技に何れか一つは参加しなくてはいけない為、そういった生徒は黒板と睨めっこをして少しでも自分に合った種目を探そうと必死であった。
わいわいがやがやと生徒達は友人と相談しながらも種目を選び、黒板は参加する生徒達の名前で埋まっていく。
「な、何とか綱引きに入れた」
「綱引き凄い人気だもんね」
余り走るのが得意ではないちほは走りを必要としない種目をと考えて綱引きに立候補したのだが同じ事を考えていた生徒は意外に多く、制限数を越えた為文句無しのじゃんけん勝負と相成った。
既に他の競技は殆ど埋まっており、負ければ唯一空きがある女子長距離走が待っている。
勝てば天国負ければ地獄の勝負に挑んだちほは何とか激闘の末に綱引きの選手の権利を勝ち取ったのだ。
そんなちほに対して既にハードル走の選手として決まり、早々に自分の席に座ってクラスメイト達の一挙一動を眺めていたひなたは労わりの言葉をかけた。
賑やかなクラスメイト達を見てひなたは振り返り、自身の後ろの席を見る。
「零ちゃん、今頃どうしてるんだろう」
「先生は体調不良とかじゃないって言ってたけど」
ひなたの後ろの席の住人である零は休みであった。
学年が変わり、クラスが一緒になって以降零が度々休んでいるのを知っているが未だその欠席の理由を聞けずにいる。
零ならば聞けば何でもない風に教えてくれる気がするのだが休んだ日の後は居眠りやぼんやりが酷く、朝から抱えて来るプレゼント問題もありなかなか聞くタイミングが見つからない。
ならば先生に聞いてみると「体調は悪くないぞ」と言うばかりで休む理由迄は教えてくれなかった。
体育祭でどの種目に参加するかがだいたい決まりクラスメイト達は雑談を、書記である生徒は種目毎に参加するクラスメイトの名前を用紙に記入していた。
五限目の授業が終わる時間が迫り、記入を終えた書記の生徒は教室隅の机で待機していた担任にその用紙を提出する。
それを受け取った担任教師は生徒達に残り時間を自由に使う許可を、日直に黒板を消す様に伝えて教室を出て行った。
たまたまその日、日直でもあった委員長は黒板を眺めつつ消していて気がついた。
「あ、」
彼から溢れた声に生徒達は声の主に、そして彼が見つめて硬直する黒板を注視する。
するとクラスメイトの間から伝染でもしたかの様に点々と声が上がる。
ひなたは何事かと黒板を見つめて呆けたクラスメイト達を見ていると隣に立っていたちほからも他の生徒同様に声が上がった。
「どうしようひなちゃん」
「えっ?!どうしたのちほちゃん」
困惑するちほに尋ねれば教室の前方から発端である委員長の大きな声が届く。
「桐山の事、すっかり忘れてた」
「ごめんね零ちゃん!」
「ごめんね桐山君!」
対局明けの登校早々にひなたとちほから手を合わせた状態で謝られた零は何事かと驚いた。
かくかくしかじかと訳を聞いて何だそんな
事かと強張っていた顔をゆるめる。
「僕もひなちゃん達に種目決めの事をお願いしてたわけでも無いし気にする事無いよ」
寧ろ気を使わせて申し訳ないという零にひなたとちほは互いの目を合わせる。
実は二人は零に対してもう一つ言わなければならないのだ。
「あの、それでね。零ちゃんが参加する種目なんだけど」
「先生が勝手に空いてる所に入れちゃって」
そこから二人の言葉は止まった。
やはり互いに目を合わせて言葉は聞こえて無くても会話はしているらしい。
そんな余程言いづらい種目はあったのか零は去年の体育祭を思い出そうとするのだが生憎去年の体育祭は対局が重なり不参加であった為参考にならなかった。
一体、二人の間にどんなやりとりがあったのか考えもつかない零に何やら決心した面持ちのひなたが告げる。
「障害物リレーのアンカーにされちゃったの」
二人の反応にどれ程過酷な種目が当てられたのかと思っていた零は障害物リレーと聞いて思わず拍子抜けをした。
言葉の通りコースに仕掛けられたあみを潜ったりスプーンで卵を運んだりと走者で異なった障害物を乗り越えるリレーであるがひなたの参加するハードル走よりかは幾分楽なのではというのが零の所見である。
そもそも二人がこんなにも過剰な反応をするのは参加する競技が障害物リレーだからではなく走る種目だからなのではと零は思えて来た。
元来零は運動は得意では無いが苦手でも無い。
小学生時代にはトレーニングをする幼馴染の横に並んで走ってみたりした事もあり、持久力はそこそこあるしそれ以外の競技も中の下程には出来ると自負している。
「僕は大丈夫だから安心してひなちゃん」
「零ちゃん・・・」
その後も一日中零はクラスメイト達から憐れみの言葉をかけられたり楽しみにしていると意地の悪そうな笑みで謎の声援を受けた。
結局ひなた達から心配される理由も自己完結したまま教えて貰うのを忘れ、それを帰り道に思い出し幼馴染に尋ねると言葉を濁された零の謎は静かに積る。
体育祭の予行練習では障害物リレーの練習もあったが軽いトラックの走り込みとバトンのパス練習だけで他の第1〜3走者と共に障害物は当日のお楽しみだと体育教師に言われた。
おかげで零の中で謎は深々と降り積もる雪の如く益々積もっていくのだが、体育祭前日に新人王戦の予選とも言える対局が入っていた零の頭はその謎を要らない物と判断してさっぱりと忘れていた。
⌘
高城めぐみは零のクラスメイトの一人である。
零が東京に転校して来てからずっと小中と同じクラスで、この4月のクラス変えでとうとう彼女は零が慕う幼馴染を抜いた最多数で同じクラスとなった。
それには学校に対してちょっと煩い母親が絡んでいる気がしないでも無いが高城めぐみはこの状況を有難く受け入れている。
長野から転校して来たという零にめぐみが抱いた感想は「小さい」だった。
後から知った情報ではクラスの誰より早い誕生日だと言うのに担任教師の隣で自己紹介をする零はクラスのどの女子より小さくて下の学年に混ざっても違和感が無い程小さかった。
体に合わせてか声も小さく、自己紹介は名前すらも殆ど聞こえず、担任が慌ててスピーカー代わりに零の言葉に続いて喋っていた。
その自己紹介で将棋をすると言っていた零は転校生に興味津々のクラスメイトに構わず休み時間は日がな将棋の本を読んでいるか席から窓の外の景色を見つめていて、そんな零がクラスの変わり者として認識を受けるのに時間はそうも掛からなかった。
零がクラスから弾き出されなかったのはいつの間にやら仲良くなっていた幼馴染の存在が大きい。
クラスの誰とでも分け隔て無く接する彼の態度は零に対しても同じで、気付けば常に二人は移動教室も休み時間も一緒に行動を共にしていた。
彼と行動を共にする零は変わり者というよりは手のかかる幼い弟の様な感じであり、将棋の本を片手に何処かへ意識を飛ばした零を幼馴染以外の、めぐみを含めたクラスメイト達もよく世話を焼いた。
主には将棋に意識を取られてその場に立ち尽くす零の手を引いて目的地に誘導したり、寝不足でふらついている零を支えて保健室に運んだり、特にめぐみは前者に遭遇する事が多く零の手を掴んで目的地に引っ張ろうとした時には掴んだ手をやんわりと握り返されてうっかり幼い従姉妹を思い出した。
ぼんやりしていても声をかければ返事はないけれど微笑み、手を握れば赤ん坊の手掌把握反射よろしく握り返し、誰よりも小さな体躯もあって零は転校して来てから新しい学年に進級するという頃にはクラスメイトの弟の様な妹の様な存在になっていた。
さて、高城めぐみは桐山零が中学生プロ棋士である事を知る数少ない人物である。
世間は零のプロ棋士デビューに大いに盛り上がったがこれから一般サラリーマン並、若しくはそれ以上に稼ぐ事が予想される零の顔出しや名前の公表は仕方ないにしも何処の学校に通っているかなどのプライベートは徹底的に秘匿された。
ニュース等で使われた写真も記者会見用に連盟が何とか零に作らせた対局時の凛々しい顔付きで、普段の茫洋とした幼い顔付きが印象強いクラスメイト達はまさか零が世間で話題の史上5人目の中学生プロ棋士とは気付きもしない。
そんな中めぐみが零の事を知ったのは偶然と好奇心からだった。
その日は雨で野球が出来ない幼馴染の彼と零が珍しく机を挟み話をしていた。
何時もは一緒にいるが会話は少なく晴れの日は幼馴染が野球をする側で、雨の日は別の友人と談笑する彼の側で本を読んでいるのに今日は零も本を手元に伏せて会話をしている。
余りにも珍しい光景にめぐみは不躾だと分かりながらも思わず聞き耳を立ててしまう。
内容はショウレイカイにプロキシと聞き馴れない単語が多かったが要は零が何かの会で昇段した事に幼馴染の彼が祝いの言葉をかけていたらしい。
そんな耳に入れた会話が頭に残っていためぐみは帰宅してすぐに母親に尋ねた。
「ショウレイカイって何?」
教育熱心な母親は何時もなら余計な事を考えてる暇があるなら勉強をしなさい咎めてくる所である。
質問して早々にそれを思い出しためぐみは自分の考え無しな行動に頭をおさえたくなったが母親の反応は珍しく穏やかなものだった。
「奨励会はプロの棋士を育てる機関の事よ」
「プロ、棋士?」
その何だか聞き覚えのある言葉にめぐみは頭を傾げた。
すると母親は立ったままのめぐみをリビングのソファーに招いて頼んでもいないのに事細かに奨励会とは、プロ棋士とは何たるか説明を始めた。
めぐみが気付いた頃には外の色は橙から紺色へと変わっておりそれでも話をやめない母親に夕飯の準備は良いのかと思っていれば天の助け。
父親の帰宅であるが何故か父までも母親の講義に参加して「お前もかブルータス!」と内心、めぐみは拳を握る。
数時間に及んだ母親の将棋講義with父親に疲れ果てためぐみに父親はどうして急に将棋に興味を持ったのか嬉しそうに尋ねられた。
めぐみは教室での零達の会話を話せば落ち着いてきたと思った両親の顔色が又しても興奮に色付いて来た事にめぐみは目眩を覚える。
両親の話を要約すると桐山零は先程めぐみが説明を受けたプロ棋士を目指す奨励会員で、実は夫婦揃って将棋好きという両親の最近一番の推しでもあった。
それ以来、めぐみの生活は少しだけ変わる。
相変わらず母親も父親も勉強をしろと煩いが以前に比べれば多少は丸くなったし家族三人でパソコンを前に談笑する機会が増えた。
話の内容は専ら学校での零の様子と彼の奨励会での対局の様子ではあるが以前の顔を合わせれば「勉強!勉強!」の息苦しい生活よりはましになったとめぐみは感じる。
それに零が普段の何割にも増して茫洋としているのが奨励会での対局を挟んだ前後だと分かってからは声にはしないが心の中で応援する様になった。
クラスメイト達が流行りの音楽やゲームの話をしている時も幼馴染が話かけない限り小難しそうな将棋本を読み勉強に励む零の姿にめぐみは好感も持っていた。
気付けはめぐみは両親と共に零のファンになっていた。
そんな彼が史上5人目の中学生プロ棋士となる事が決まった時、高城家はお祭りであった。
誕生日でもクリスマスでも無いのに母親はご馳走を作り、仕事の都合で近頃は帰りが遅かった父親はホールケーキを手に早々と帰宅した。
プロ棋士になった事を知る者は余りいないのかめぐみが知る限り校長先生と中学入学時には既に廃部となった将棋部の顧問、それに幼馴染の彼ぐらいだろう。
幼馴染は知っていて当然であろうが校長先生と将棋部の顧問だったという教師が嬉し泣をしながら「この度は、」と零の小さな肩を叩いて祝事を言っている場面に遭遇した時、めぐみは思わずたじろいた。
いい大人二人が階段下の物陰で泣いていて、祝われる立場の零が困惑しながらもハンカチやポケットティッシュを差し出して大人二人の面倒を見ていたのだから。
めぐみの気配に気付いた零は振り向くとめぐみにポケットティッシュを持って無いか尋ねた。
未だ零に対して賛辞を述べる大人達二人の涙や鼻水は止まる事なくほぼ新品だった零のポケットティッシュは今や殆ど中身を残していない。
めぐみは自身のポケットティッシュを渡すべく零へと歩みを進めて、序でに前々から言いたかった事も伝える事にした。
本当はプロ棋士デビューが決まった対局の次の日には「おめでとう」と言いたかったのだがその頃にはクラスメイト達の間で問題になっていた「桐山零のファン」の存在で零のファン=変質者の方程式が確立しており、幾ら同級生でそこまで変質な好意を抱いていなくても零のファンとクラスメイト達に認識されるのは良く無い状況であった。
その為、会話は勿論祝いの言葉さえ言えないめぐみであったが今は零とめぐみ、泣いた大人二人しかいない。
今がチャンスだとめぐみは意を決した。
「プロ棋士デビューおめでとう桐山君」
「え、ありがとう」
将棋を愛好とする者達以外からプロ棋士としてデビューをした事を悟られずいた零はめぐみの言葉に瞬きも忘れて固まっていた。
それから硬直を解くと恥ずかし気な笑みを浮かべて礼を返す零にめぐみは自身の顔が熱を持つのを感じると慌ててポケットティッシュを押し付けた。
「それ、返さなくても良いから!」
教師が二人もいるのを忘れ、飛び出した弾丸の如く勢いでめぐみはその場から退散する。
あまりの勢いで渡されたポケットティッシュを受け損ねて床に落とした零はめぐみの勢いと駆けていく足の速さに呆然としていた。
「良かったですね桐山君、同級生にも君のファンがいたようですよ」
「僕のファン・・・?」
零のハンカチとポケットティッシュを犠牲にして顔を整えた校長と零のやりとりをめぐみは知らない。
知って嘘でもファンでは無いと校長の言葉に訂正を入れておけばこの1年とちょっと過ぎた頃に起きる体育祭での騒ぎは起こらなかったであろう事をこの場から退散した彼女は知る由もなかった。
⌘
雨が振り続き例年より早くなるかもしれないとテレビで報じられた関東の梅雨入りで体育祭の延期が心配されていたが、心配は杞憂にに終わりその日は見事な快晴で体育祭日和であった。
晴れ晴れと雲一つない空に対して零の頭の中は晴れていない。
昨日行われた対局の一手一手が雨の様に零の頭の中で何度も降っては消えて降っては消えてを繰り返していた。
登校して来た零の姿を見るなりひなたもちほも他のクラスメイト達もこれは駄目だと思った。
普段よりも増して茫洋さが目立つ零に周りは今日の体育祭は止めておけと勧めるのだが当の本人は生返事を返すばかりで声が聞こえいるのかも怪しい。
そうこうしてる内に担任教師が教室に入って来て朝のホームルーム、生徒達にこの後グラウンドに移動する様に指示をする。
最後に担任教師は零に「桐山、お前大丈夫か?」と他のクラスメイト達もいる中で声をかけるのだがやはり生返事だった。
そんな零に担任教師は諦めをつけて他のクラスメイト達に、特にひなたには零から目を離さない様に声をかける。
「悪いが川本、後は桐山を頼んだぞ。お前が頼りだ」
こうなった零に対してひなたを介添えるのが一番有効だというのはクラスメイト、担任教師が新学年からこの2ヶ月で学んだ事である。
こうなると誰に対しても生返事や無視が多くなる零であるが何故かひなたの言葉だけは他に比べて聞こえいるし全てではないが応答も出来た。
これにひなたの苦労も考えてちほを添えると尚良い。
担任教師とクラスメイト達の視線を一身に受けて「任せて下さい」と頷いたひなたはいつにも増して甲斐甲斐しかった。
ぼんやりしている零は注意力も散漫していて小さな石ころでも平気でつまづくし、受け身も取らない。
そんな零のためにひなたは手を握ってグラウンド迄誘導した。
その姿は年の離れた姉弟さながらで、クラスメイトは勿論、学年の違う生徒教師陣も思わず微笑ましく二人を見守ってしまう。
生徒入場から始まり開会宣言、そして最後に準備体操を終えると生徒達は各自応援席への移動となった。
整然と席の作られた小学校の運動会と違い中学校の体育祭はクラス別に分けられブルーシートを敷いただけの簡素な応援席で、その混然とした様相を嫌がり応援席から離れた場所に持参した敷物を敷いて競技を応援する生徒もいた。
ひなた達もグラウンドがそれなりに見える場所を陣取り応援席を適える一人であり。
選手の入場口からかなり距離はあるがグラウンドは良く見えるし、側には木陰を作る程度に大きな木があるので太陽の強い陽射しも恐ろしくない。
そして最たる理由を上げるなら
「此処からなら零ちゃんファンの目も届かないしね」
一体何が目的なのかは考えたくも無いがクラスメイト曰く零のファンと思わしき不審者が朝から学校の周りをうろうろとしていた。
例年であれば来るもの拒まず近隣の住民も自由に入って競技に汗を流す生徒達を応援していたらしいが今年の体育祭は校門がしっかりと閉じられ招待券を持つ者以外は入れない。
それならばと見るからに生徒の応援に来たとは思えない年齢幅の広い男女様々な者達が唯一グラウンドを見渡せるフェンスの側に集まっており、不運にもそこは零達クラスメイトの真後ろでそんな彼等の視線から零を遠ざける為ひなたは態々少し便の悪い場所を陣取った。
グラウンドではさっそく1年生の徒競走が行われており、ひなた達はそれを見学しながらまめに零へと話し掛ける。
ひなたも最近気付いた事であるがぼんやりと何処かへ意識を飛ばした零に話し掛け続けていると話し掛けない時より意識がはっきりするのが早いのに気付いたのだ。
それを朝から行ったおかげか今の零はちほとやりとりが出来るくらいに戻って来ていた。
「もしかして桐山君寝不足?」
隈が出来てるよというちほの指摘にひなたが零の顔を覗けば確かに眼鏡が邪魔で分かりにくいが薄い下瞼に隈の様なものが薄っすら出来ている。
すかさずひなたが零に何徹目か問えば、ひなたの只ならぬ様子にゆっくりと顔を俯かせ、最後に体育座りで立てていた膝に顔を埋めた零は指を三本立てて見せた。
「さ、三徹ってそれはやばいよ零ちゃん!」
「体は大丈夫なの桐山君」
テレビや友達との長電話で夜更かしをしてしまっただけでも辛い覚えがあるひなたとちほには零の三徹は信じられないものだ。
いつにも増してぼんやりしていると思っていたが三徹と聞いて納得する。
「体は大丈夫だよ佐倉さん。寧ろ何だか何時もより気分が明るい気がするから」
それは世間で言うところの「ナチュラルハイ」なのではと二人は思う。
兎に角そんな徹夜続きの身体では午後迄保たないだろうからとひなたとちほは零の為に横になるスペースを作った。
「さあ、零ちゃん此処に寝て」
「競技の時間が近付いたら私かひなちゃんが起こすから」
さあ、と眠る様促す二人に零は首を横に振るうのだが結局零はひなた達に敵わなかった。
やはり身体は限界だったのか零が横になって暫く寝息が聞こえてきた。
零が確かに眠った事を確認した二人は顔を合わせて笑い合うと、幾ら木陰とはいえ輝く太陽の光は眩しいだろうとひなたは予備のタオルを顔に掛け、ちほは零のお腹が冷えない様にと自身が着ていたジャージの上着を掛けた。
零は夢を見ていた。
目を閉じて意識が沈む直前まで体育祭の喧騒を聞いていたからだろうか、長野から東京の学校へと転校して初めての運動会。
零は運動会が憂鬱だった。
突出して足が速い訳では無いし二人一組で挑む競技は誰も零と組みたがる同級生はいない。
クラスでダンスの発表をすれば下手くそ、皆の足を引っ張るなよと罵られた。
長野にいた時がそうであったのだから東京に転校してその状況が変わるとは思えずいっそ運動会を休みたいと保護者である大伯父に訴えれば零の好きにしなさいと言われてしまい性格上「じゃあ休む」とも言えず、何とか運動会に近づくにつれて降下していく気分を晴らそうと家に帰れば夜遅くまで棋譜を読み漁り一人で将棋を指し続けた。
運動会当日を迎えた頃には零は子供らしからぬ立派な隈を目の下にこさえていた。
嫌だなと思いながら挑んだ短距離走。
走る為に横一列に並んだ時、隣の子が声をかけてきた。
「大丈夫か?」
転校してきて声をかけられたのは初めてだった。
いや、何度かあったがそれは事務的な用事のものばかりで零を思って声をかけられたのは初めてだった。
返事は幾つでもあった。
「大丈夫」「気にしないで」とも返す返事は幾つでもあったのだがまさか声をかけられるとは思っていなかった零は咄嗟の反応が出来ず固まる。
口が乾いて声が出ない。
そうこうしているうちに先生から「位置について、よーい」と声が上がりスターターピストルが天に掲げられる。
グラウンド一帯に響くピストルの音に零は目を覚ました。
「あ、桐山君が起きたよひなちゃん」
「零ちゃんちょうど良かった!もうすぐ2年生の徒競走が始まるから入場口に行こ」
差し出された手を掴み立ち上がると寝起きで急に身体を起こしたせいか零は目眩を感じた。
足をもたつかせ一瞬、身体を傾かせた零をちほが慌てて支える。
やっぱり体調が悪いならと競技の棄権を勧める二人を零は大丈夫だからと宥めた。
「本当に?ほんとにほんとに大丈夫?零ちゃん」
「大丈夫だから。心配させてごめんね。ひなちゃん、佐倉さん」
スピーカー伝いに2年生は入場口前に集まるよう放送され、それを聞いた零は早く行こうと憂いた面持ちで此方を見る二人の背中を押した。
入場口に向かいながらも未だ零が心配だという二人を他所に零は先程迄見ていた夢を振り返る。
あの時声をかけてきた人物は覚えていたがピストルの合図と共に駆け出した自分がどうなったのか零は思い出せなかった。
学年全員が参加する徒競走は男女別の為、入場口前に着いた零はひなた達と別れた。
そのまま体育の授業で事前に練習した列に並ぶ。
零の滑走は後ろより三番目だった。
夏前の太陽の日差しに晒されながらさっさと自分の順番になり終わらないかと思うのだが男子よりも女子の滑走が早い為出番はまだまだ先である。
立っているだけなのに立ち眩んだ様な感覚が零を襲った。
頭を揺らす零に気付いてクラスメイトが声をかけてくれるが笑みを浮かべてやり過ごす。
女子の走りが終わりやっと入場出来た零は此方に気付いて手を振るひなたに手を振り返すと目を瞑り自分の番を待った。
夢の中でもそうだった。
運動会が嫌で嫌で、でもズル休みを選択する度胸もなくて兎に角早く終わってくれと喧騒から己の体調の変化から、周りから目を瞑り待っていた。
前の列が動けば自身も足を進め、動けばまた一歩。
漸く自分が走る番になり、位置に着いて
「そうだ。高橋君が僕を助けてくれたんだ」
目を開けた瞬間、視界の殆どを占めた幼馴染の顔に零は夢の続きを思い出した。
視界の情報に続き鼻が覚えのある匂いを嗅ぎつけ、その匂いが夢の続きを鮮明にさせる。
一人そうだったと自己完結を済ます零に対し高橋は何が何だか分からない。
「零、いったい突然何なんだ。俺に分かるように話してくれ」
零が長野から転校してきてそれなり経つが未だ高橋には零について理解に苦しむ事が多々ある。
まさに今もその状況だった。
今朝も相変わらず一緒に零と登校してきた高橋であるが対局明けとはいえいつにも増して茫洋とした零を言葉に出さずとも心配していた。
いつもなら階段を上がったすぐにある高橋の教室の前で別れるのだが心配の余り今日はそこより奥にある零の教室前迄付き添った。
何時も以上に茫洋としてる理由はこれまでの経験から寝不足だろうと踏んでおり、グラウンドで見かけた時は川本と佐倉に挟まれて横になる零に仮眠を取っているなら大丈夫だろうと油断していた。
様子がおかしいと思ったのは学年別徒競走で滑走の番を待っていた時である。
振り返った先に見えた小さな頭がゆらゆらとふらついて見えて嫌な予感がした。
体育祭に寝不足の零、ふらつく頭と何だか既視感のある状況に考え込んでいればいつの間にか自分の滑走する番となっていた。
考え事をしながらのうえ、陸上部の面々に挟まれてながらも無難な順位を得た高橋は未だ待機列の中で揺れる小さな頭を見つめる。
とうとう零が走る番となり、所定の位置に着く。
体育委員の生徒がスターターピストルを空に向け空いた手で片耳を塞いだ。
ピストルの音と共に既視感の理由を思い出した高橋が次に聞いたのは女子生徒の悲鳴だった。
意識を現実の視界に戻しコースを見ればスタートラインから少ししたところで零が倒れている。
突然の事で動けず騒ぐ周りを尻目に高橋は零の側へと駆け出した。
「零、しっかりしろ!零!」
「体を揺さぶらないで、転んだ拍子に頭を打っているかもしれないから」
高橋より先に駆け付けた保険医はテキパキと地面に倒れた零の診察を始める。
呼吸の有無、意識、外傷が無いか極力揺らさないようにそっと診察した保険医の見解は只の寝不足であった。
証拠に今コースの上に倒れた零からは規則正しい寝息が聞こえる。
保険医は倒れた時に頭を打っていないか気にしていたが零は意識を失い倒れる瞬間、器用に受け身を取ったのか頭に外傷は一つとしてなかった。
担架を呼ぼうとする保険医に断りを入れて高橋は自分が零を保健室に連れて行く事を申し出た。
零を保健室迄運び、ベットに寝かせ、覚えのある今の状況に昔と変わらないと笑って入ればこれである。
「いや、小学校の運動会でもこんな事があったなって思い出して」
「零もか?実は俺もだ」
「え、高橋君も思い出したの?」
体を勢いよく起こした零がくらりとまた身体を傾かせたので高橋はその身体を支えた。
その時、二人の目が合い数拍置いて二人は笑い出した。
「あの時からまったく変わらないな俺達」
「本当だね」
あの時と変わったと言えば高橋の身長ぐらいだろう。
高橋の出る種目は既に終わっており、零の出る種目は午後からである。
その為二人は時間が許す限り昔話に花を咲かせた。
「そういえば如何して寝不足だったんだ?」
幾ら対局があったとは言え対局日の翌日迄零が寝不足を引きずるのは珍しかった。
対局日前日迄研究に没頭している事はあれど、だいたい対局が終わったその日に精魂尽きて事切れるように眠りにつくので今日の様な事は誠に本当に稀である。
余程後を引きずる様な強い棋士だったのかと思ったが零の対局結果をいち早く知る為にパソコンの操作を覚えた祖父の情報ではそう難しい相手でも無いと言っていた事を思い出す。
高橋の疑問に零は視線を所在なさげに彷徨わせた。
「・・・対局帰りに次の相手の棋譜をコピーしに行ったんだけど」
次の対局の相手と聞いて高橋の頭に祖父の言葉が再び蘇る。
余りの祖父興奮気味な態度に戸惑い、殆ど聞き流す様な感じであったが次の対局相手は去年一昨年と新人王を取った相手でその棋士に勝ったら零が今年の新人王だと騒いでいたあれだろうかと思う。
「ついつい新しい棋譜を見つけて」
いくら将棋にそれ程詳しくなくても聞き覚えのあるタイトル名がぽろぽろと出てきて話が見えてきた高橋は頭を押さえる。
「つまりそれに夢中になって寝るのも忘れてたと」
見るに呆れて溜息を吐く高橋に零は弁明した。
翌日が体育祭なのと既に連日の研究と対局に疲れて何度も寝ようとしたのだが目を閉じると先程迄見ていた棋譜が頭の中に蘇る。
このままでは駄目だと頭に浮かんだ棋譜の内容を振り払い何度も寝返りを打っている内に気付いたら棋譜を手に夜を明かしていたのだとか。
幼馴染の変わらぬ悪癖に高橋は再度、溜息を溢した。
「とりあえず保険医の先生はベッドを使って良いと言っていたからもう少し寝ていろ」
再びされるがままにベッドに横になった零はかけ直された掛け布団越しに高橋の顔色を伺う。
「・・・怒った?高橋君」
普段から何かと生活に気をつけるようにと高橋に言われているだけに零はこの自業自得とも言える失態に彼が自分に呆れて見放すのではと恐る。
そんな零の心情を察してか、豆だらけの大きな手で布団から少しだけ飛び出た零の頭を撫でた。
「怒るよりも心配した。零が倒れてるのを見た時は心臓が飛び出るかと思った」
だからこれからはと言われて零は頷くとより布団の奥へと潜り込み、暫くして規則正しい寝息が聞こえた。
将棋に集中する余り寝食を忘れるのは零の悪い癖である。
それは重々理解しているが近頃は「プロたるもの体調管理も仕事の内」とでも誰かに言われたのだろう1年半程その悪癖に遭遇する事は無かった。
その為高橋はやっと零の悪癖が治ったと思っていたのだがどうやら鳴りを潜めていただけであり、もしかしたら高橋が部活に熱中している間にこの様な事が何度かあったのかもしれない。
この悪い癖を直してもらいたく高橋は今迄何度も口煩く諭して来ており、やっと今回その癖が直ったと思ったらこの展開。
自分が注意するのでは駄目なのか。
「どうしたものかな」
ふと、高橋脳内に浮かんだのは零がプロ棋士としてデビューする少し前の事。
実の息子より零を可愛いがる母親の命で煮物のお裾分けを渡しに行った時、呼び鈴を鳴らせど零は現れず電話の発信にも応えず、留守なのかと何気無しに零の将棋部屋となっていた書斎の窓を除けば中で零が将棋盤を前に倒れていた。
その時は対局を前に研究に熱中していた上、冬の長期休みという事もあり睡眠は勿論、食事迄忘れていたと高橋は零に後から聞いた。
しかし、発見した時は何事か分からず窓を叩いても反応がない。
仕方無しに窓を割って入ろうと足元に落ちていた手頃な石を拾った。
「そうだ零の師匠の娘さんに頼もう」
窓を割ろうと石を手に構えたところを彼女に声をかけられた。
自分達より遥か年上で、もう働きに出ているという彼女は綺麗な顔を怪訝に歪ませ高橋に声をかけて来た。
側から見れば不審者ととられかねず、現に不審の感情を露わにした彼女は手に携帯を構えていた。
そんな妙に通報に小慣れた彼女が零の将棋の師匠である幸田さんの娘・香子さんだと高橋が知ったのは彼女の持っていた零の家の合鍵を使って中に踏み込み、零の介抱にひと段落ついた頃である。
そこまで回想して高橋はプロ云々と零に説教をしたのは香子その人だったと思い出す。
高橋に妙案が浮かんだ。
今日の騒ぎを香子に報告して普段の零の不摂生な生活を正してもらおうと
自分が知らないだけでこんな事態を何度も起こしているのかも知れないしもう零の悪癖は香子の説教ではどうにもならないところ迄来ているのかも知れない。
けど香子が駄目なら彼女の父親であり零の師匠である幸田がいる。
早速、体育祭の後にでも香子にメールを送る事を決めた高橋は保健室の外からの賑やかな声に気付いた。
気付けばグラウンドから聞こえていた放送委員の赤組、白組とどっち付かずに応援する声が止んでおり代わりに流行りの音楽がBGMとして流れていた。
時計を見ればいつの間にか昼食の時間となっている。
廊下から聞こえる声は零の身を案じる内容で同じクラスの友達が零の様子を見に来たんだろうと察した高橋は零の布団に埋もれた頭を軽く撫でて保健室の出入り口に向かった。
⌘
「ひなちゃんどうしたの?」
ひなたと佐倉の昼食の誘いで目を覚ました零はグラウンドに戻っていた。
前日の夜にひなたからもらったのメールで昼食は彼女の姉が用意してくれると聞いており、木の下に敷いたレジャーシートに腰を下ろせば重箱二段のお弁当が出て来た。
どうやら零だけでなく佐倉の分もあるらしく二人はひなたから取り皿と箸を受け取りお弁当を食べていたのだがひなたの様子がおかしい。
取り皿を手にしながら虚空を仰いで惚けたままのひなたに零は佐倉に何かあったのか尋ねる。
「急にどうしちゃったんだろうね、ひなちゃん」
ひなたの只ならぬ様子に佐倉は苦笑いを浮かべながら彼女はデザート担当らしく食事に終わりを見せていた零に佐倉は自身が用意した果物とお菓子を勧めた。
何故ひなたがこうなったのか佐倉には分かっていた。
のだが、それを話すとなるとひなたの恋の話にも触れる事になる。
零は信用のある人物なので話した話を他所で吹聴する事ないとは思うのだがやはりひなた本人がしていない話を佐倉がするわけにはいかず佐倉は只話を濁して未だ昼食に手をつけないひなたを昼休みの残り時間を理由に急かすしか無かった。
昼休みの残り少ない時間に慌てて唐揚げを食べたひなたが喉に詰まらせあわや窒息、等と騒ぎもあったが午後のプログラムは順調に行われた。
ひなたも走者として参加していた部活対抗リレーは佐倉と共に零はコースの側まで近付いて応援を行なった。
3年生に混ざり走るひなたは流石走者に選ばれただけに速く、バトンを手に零達が応援する前を駆け抜けたひなたはまるで若鹿の様で、佐倉の話では既に午前中に行われたハードル走では入賞を果たしたらしい。
が、健闘虚しくやはりと言って良いのか部活対抗のリレーは陸上部の優勝でひなたの種属する部は惜しくも4位で終わった。
この夏で部活を卒業する先輩達の思い出にと頑張っていたひなたはぎりぎり入賞を逃した事に悔しいと溢す。
零と佐倉は3年生もいる中で誰にも抜かれず順位を守った彼女を褒め讃えた。
「ひなちゃん凄く速かったよ」
「テニス部の人が後ろにいたのに抜かせなかったもんね」
賞賛を贈り、沈むひなたの気を紛らわせようと二人は関係の無い話題を振ったりしたが効果は現れず。
途中でひなたは部活の先輩だという人に呼ばれてしまい二人はひなたの帰りを大人しく待った。
暫くして戻って来たひなたの目には涙が潤んでおり二人が慌てて何かあったのかひなたに尋ねれば
「先輩が私達の為にリレー頑張ってくれてありがとうって」
ひなたは目元に溜まった涙を拭き取りながら先輩達とのやりとりを話してくれた。
部活の先輩達はリレーに参加したひなたや後輩達の気持ちを汲み取り感謝の言葉と迫る夏の最後の大会に意気込みを入れたらしくひなたや他の部活のメンバーは感極まって涙を流したのだとか。
そんなやりとりは何処の運動部でもあったのかちらほらと涙ぐみ上級生と話す生徒が見られた。
零が用意した濡れタオルやお弁当に付けていた保冷剤でひなたの目元の赤みが取れた頃、今度は佐倉が出場選手としてグラウンドに駆けて行った。
佐倉が選手として参加するクラス対抗の綱引きは零が保健室で眠っている間に勝ち進んでいたらしく今度はひなたに連れられてクラスの応援席、最前列で零はひなたと佐倉の応援に勤しんだ。
相手は3年生のクラスに勝った教師陣のチーム。
校長や教頭迄も混ざった大人ばかりのチームは流石決勝に残っていただけあり、容赦情け無くスタートの合図と共に力強く綱を引いた。
その勢いに綱を引こうにも腰を下げる事もままならず、体にロープを巻いた最後尾の者迄引きずられている。
余程教師陣に負けた事が悔しかったのか準決勝で敗れた3年生チームの応援を皮切りに全生徒が、他の競技では公平に応援していた放送委員迄もマイク越しに零のクラスを応援していた。
その声援に一度は持ち直した零のクラスチームであるが体育教師や運動部顧問も含む教師陣になす術なく綱引きの決勝は大人気ない教師陣の優勝で幕を閉じた。
「あ、そろそろ行かなくちゃ」
教師陣に負けたが準優勝となった佐倉を労っていた零は障害物競走の選手を招集かける放送に立ち上がる。
靴を履き、二人に行って来ますと声をかけようと零が顔を上げれば二人は何故か頬を赤らめて体をもじもじとさせていた。
何時もと違った二人にどうしたのか零は声をかけるのだが吃りつつも何でも無いと言われ終いには早く行かないと遅れると背中を押される。
「零ちゃん頑張ってね!」
「応援してるから!」
二人の只ならぬ様子が気になる零であるがこのままでは競技に遅れてしまう為何度か振り返りながらも入場口へと向かった。
「結局私達、桐山君に何も言わずに障害物競争に行かせちゃったね」
タオルを手に再びクラスの応援席に向かいながら佐倉は溢した。
生徒会種目である障害物リレーは第1から第4走者迄おり、その内第1から第3迄の障害物の内容はその年の生徒会によって変わるのだが零がなった第4走者だけは毎年借り物競争と決まっている。
というよりはその借り物競争が障害物リレーの目玉であり生徒達が体育祭で最も楽しみにしている物であった。
借り物競争は50メートル地点にお題の入った箱が置かれており、その中からお題を引いて借り物を探すのだが学年別クラスの数だけあるお題の中で一枚だけピンク色の紙で作られたお題が入っている。
白い紙のお題が「眼鏡をかけた人」「タオル」「校長先生」等という内容に対してピンクの紙には「好きな人」「憧れの人」等とありきたりと言えばありきたりとも言えるちょっと全校生徒の前では恥ずかしい内容のお題が各学年に1枚だけ混ぜられている。
去年の体育祭で上級生が見事「好きな人」と書かれたお題を引き上げた挙句、クラスメイト達に冷やかされながらも好きな人に突撃した上級生は相手に借りられる事を申し込む前にごめんなさいされるという悲劇があった。
さらにその悲劇は続きがあり好きな人からごめんなさいと断られた上級生はお題の「好きな人」を借りれぬままゴール迄向かい、ゴールに立った審判にお題の紙を渡して全校生徒に好きな人にフラれた事を暴露されるという結末付きである。
ひなたと佐倉は当初、零が障害物競争のしかも第4走者に決まった時は去年の悲劇が有り、どうしたものか悩みに悩んだのだが日を追う毎に零の好きな人って誰だろう、そんな人がいるのだろうかと好奇心が膨らむ。
零が去年、体育祭を休んでいて恒例の障害物がそういう内容だと知らないことも知っており何度か説明はしようと思ったが結局胸の内に膨らんだ好奇心が邪魔をして今日まで来てしまった。
「何も知らせず零ちゃんには申し訳無いと思ってる!でも・・・!」
そういうお年頃である。
普段はぼんやりしている零の恋話的なものをひなたも佐倉も聞きたい。
クラスメイトも同じ気持ちなのだろう障害物リレーの第4走者になった零を冷やかす者はいたがリレーの内容を詳しく説明する者はいなかった。
クラスの応援席に移動して好意で応援席の最善列に腰を下ろしたひなたはじっと零のいる待機列から目を離さない周りのクラスメイトの顔を見て確信する。
零にピンクの紙のお題を引いて欲しいと思っているのは私だけでは無いと
襷を肩から掛けた零はクラスメイトからバトンを渡される瞬間、咥えたパンを落としながら彼が何を言ったのか分からなかったが取り敢えず駆けた。
駆けた先には第1走者の時には無かった長机が置かれ、上には箱が一つ。
これをどうしたら良いのか分からず頭を傾げれば丁度側にあった3年生の応援席から箱の中のお題を引く様に言われて零は言われた通り箱に手を突っ込み中にあった紙を一枚引いた。
引いた紙は桃色なんて優しい色ではない派手なピンクの紙であった。
その余りの派手な色に困惑していれば何故か応援席が盛り上がりを見せる。
放送席では放送委員の生徒が興奮気味に零がピンクの紙を引いた事を実況していた。
紙を引いてから一体どうすればいいのか皆目検討のつかない零に側の応援席の3年生が紙に書かれた内容と合う人物をゴールに連れて行くのだと言われてやっと零は二つ折りになった紙を開いた。
紙に書かれたお題を読んだ零は再度駆け出しクラスの応援席へと向かった。
零が紙を箱から引き抜いた瞬間目の良いクラスメイトは零がピンクの紙を引いた事を告げた。
その声に続いて零がピンクの紙を引いた事を実況する放送にクラスの応援席は俄かに色めき立つ。
まさか本当にピンクの紙を引き当てる何てという驚きとお題は何だろうという興味。
クラスメイトの殆どはお題の内容を気にした。
頭に浮かぶのは見事「好きな人」というお題を引き当ててフラれた上級生の姿。
もし零が去年の上級生と同じお題を引いていたらという不安とあの普段茫洋とした零に好きな人がいるのかという疑問。
クラスメイトが騒めいていると渦中の零がこちらへと駆けて来るのが見えてますますクラスメイト達は騒がしくなる。
途中のクラスで足を止めるでも無くまっすぐクラスの応援席に来た零は頬を紅潮させて自身を見つめるクラスメイト達を見回した。
誰も零がどんなお題を引いたのか誰を探しているかなんて無粋な問いかけはしない。
只静かに彷徨う零の視線を追った。
「ええっと、ちょっとごめん」
そう言ってクラスメイトの中へ割り込み零が手を伸ばしたのは高城めぐみであった。
「高城さん、だっけ?ちょっと一緒に来てもらっても良いですか」
他のクラスメイトと一緒に零の探し者は誰だと動向を伺っていためぐみは突然の事に目を見開いた。
そして零に手首を掴まれためぐみはだんだんと顔を真っ赤に染めてはくはくと息を吐く。
クラスメイトはモーセの十戒の如くめぐみにグラウンド迄の道を開けてニヤついた顔のめぐみの友は靴をめぐみに持たせ背中を押した。
めぐみは零と後ろの友人の顔を交互に見るのだが友人もクラスメイト達も早く行けと言うだけで頭が混乱する中靴を履いて立ち上がろうとしたところで出された手を掴むと零に引かれ走った。
零がピンクの紙を引いた事は全校生徒が放送で知っている。
零とめぐみが通ると口笛を吹き囃し立てられてめぐみはそういう事なのだろうかと困惑するしか無い。
他のクラスは余程の難題なのか零とめぐみは2着でゴールをした。
「2着おめでとう桐山君。じゃあお題を確認させてもらおうか」
体育委員に言われるがまま零はピンクの紙を差し出す。
審判役である体育委員の側には放送委員がマイクを手に立っていてお題の内容と借りて来たものが正しいか否か体育委員の判断は彼を通して全校生徒に伝えられる。
めぐみは自身の心臓が早鐘を打つのを感じた。
全生徒も他の走者そっちのけで零達を注視している。
「お題は『大切な人』ですが、彼女がこの大切な人であっていますか?」
体育委員の言葉に頷く零。
その様子を放送委員がマイク越しに全生徒へ伝える。
「はい、彼女は僕のファンなので大切な人です」
「へ、ファン?」
思わぬ言葉に間抜けな声を出す放送委員。
ファンってあのファンだよね?と零の言葉の意味が分から溢れた声は彼が持ちマイクが拾っていた。
「高城さん?は桐山君のファンで、桐山君はファンだから高城さんが大切って事で良いのかな・・・?」
「わ、私はファンなんかじゃ」
「そうです。常日頃から師匠にはファンを大切にしなさいと言われてますのでファンであの彼女は僕の大切な人です」
「私はファンなんかじゃない!!」
障害物リレー第4走者
純粋に応援してくれるファンの方々を大切にしなさいは師匠の教え
幼馴染
やっと名前の出た人。零君のクラスメイトは愉快なのが多いなと思ってるし安心してる。
借り者にされたクラスメイト
私はファンなんかじゃない!とこの後、クラスメイトに言って回った。けどこれからもこそっと応援して行く。
中学に入って二度目の体育祭。
小学校と違い父兄の見学は少なく、陸上の競技大会の様な記録を測る種目が多いがその祭りを楽しみにしている者は多い。
副委員長が黒板に書き連ねる種目の数々を皆一様に見つめていた。
特に張り切っているのは運動部の面々で、体育祭の花形であるクラス別対抗リレーには足に自身のある生徒達が挙って立候補する。
対して余り運動に自信がない者達も全員参加以外の競技に何れか一つは参加しなくてはいけない為、そういった生徒は黒板と睨めっこをして少しでも自分に合った種目を探そうと必死であった。
わいわいがやがやと生徒達は友人と相談しながらも種目を選び、黒板は参加する生徒達の名前で埋まっていく。
「な、何とか綱引きに入れた」
「綱引き凄い人気だもんね」
余り走るのが得意ではないちほは走りを必要としない種目をと考えて綱引きに立候補したのだが同じ事を考えていた生徒は意外に多く、制限数を越えた為文句無しのじゃんけん勝負と相成った。
既に他の競技は殆ど埋まっており、負ければ唯一空きがある女子長距離走が待っている。
勝てば天国負ければ地獄の勝負に挑んだちほは何とか激闘の末に綱引きの選手の権利を勝ち取ったのだ。
そんなちほに対して既にハードル走の選手として決まり、早々に自分の席に座ってクラスメイト達の一挙一動を眺めていたひなたは労わりの言葉をかけた。
賑やかなクラスメイト達を見てひなたは振り返り、自身の後ろの席を見る。
「零ちゃん、今頃どうしてるんだろう」
「先生は体調不良とかじゃないって言ってたけど」
ひなたの後ろの席の住人である零は休みであった。
学年が変わり、クラスが一緒になって以降零が度々休んでいるのを知っているが未だその欠席の理由を聞けずにいる。
零ならば聞けば何でもない風に教えてくれる気がするのだが休んだ日の後は居眠りやぼんやりが酷く、朝から抱えて来るプレゼント問題もありなかなか聞くタイミングが見つからない。
ならば先生に聞いてみると「体調は悪くないぞ」と言うばかりで休む理由迄は教えてくれなかった。
体育祭でどの種目に参加するかがだいたい決まりクラスメイト達は雑談を、書記である生徒は種目毎に参加するクラスメイトの名前を用紙に記入していた。
五限目の授業が終わる時間が迫り、記入を終えた書記の生徒は教室隅の机で待機していた担任にその用紙を提出する。
それを受け取った担任教師は生徒達に残り時間を自由に使う許可を、日直に黒板を消す様に伝えて教室を出て行った。
たまたまその日、日直でもあった委員長は黒板を眺めつつ消していて気がついた。
「あ、」
彼から溢れた声に生徒達は声の主に、そして彼が見つめて硬直する黒板を注視する。
するとクラスメイトの間から伝染でもしたかの様に点々と声が上がる。
ひなたは何事かと黒板を見つめて呆けたクラスメイト達を見ていると隣に立っていたちほからも他の生徒同様に声が上がった。
「どうしようひなちゃん」
「えっ?!どうしたのちほちゃん」
困惑するちほに尋ねれば教室の前方から発端である委員長の大きな声が届く。
「桐山の事、すっかり忘れてた」
「ごめんね零ちゃん!」
「ごめんね桐山君!」
対局明けの登校早々にひなたとちほから手を合わせた状態で謝られた零は何事かと驚いた。
かくかくしかじかと訳を聞いて何だそんな
事かと強張っていた顔をゆるめる。
「僕もひなちゃん達に種目決めの事をお願いしてたわけでも無いし気にする事無いよ」
寧ろ気を使わせて申し訳ないという零にひなたとちほは互いの目を合わせる。
実は二人は零に対してもう一つ言わなければならないのだ。
「あの、それでね。零ちゃんが参加する種目なんだけど」
「先生が勝手に空いてる所に入れちゃって」
そこから二人の言葉は止まった。
やはり互いに目を合わせて言葉は聞こえて無くても会話はしているらしい。
そんな余程言いづらい種目はあったのか零は去年の体育祭を思い出そうとするのだが生憎去年の体育祭は対局が重なり不参加であった為参考にならなかった。
一体、二人の間にどんなやりとりがあったのか考えもつかない零に何やら決心した面持ちのひなたが告げる。
「障害物リレーのアンカーにされちゃったの」
二人の反応にどれ程過酷な種目が当てられたのかと思っていた零は障害物リレーと聞いて思わず拍子抜けをした。
言葉の通りコースに仕掛けられたあみを潜ったりスプーンで卵を運んだりと走者で異なった障害物を乗り越えるリレーであるがひなたの参加するハードル走よりかは幾分楽なのではというのが零の所見である。
そもそも二人がこんなにも過剰な反応をするのは参加する競技が障害物リレーだからではなく走る種目だからなのではと零は思えて来た。
元来零は運動は得意では無いが苦手でも無い。
小学生時代にはトレーニングをする幼馴染の横に並んで走ってみたりした事もあり、持久力はそこそこあるしそれ以外の競技も中の下程には出来ると自負している。
「僕は大丈夫だから安心してひなちゃん」
「零ちゃん・・・」
その後も一日中零はクラスメイト達から憐れみの言葉をかけられたり楽しみにしていると意地の悪そうな笑みで謎の声援を受けた。
結局ひなた達から心配される理由も自己完結したまま教えて貰うのを忘れ、それを帰り道に思い出し幼馴染に尋ねると言葉を濁された零の謎は静かに積る。
体育祭の予行練習では障害物リレーの練習もあったが軽いトラックの走り込みとバトンのパス練習だけで他の第1〜3走者と共に障害物は当日のお楽しみだと体育教師に言われた。
おかげで零の中で謎は深々と降り積もる雪の如く益々積もっていくのだが、体育祭前日に新人王戦の予選とも言える対局が入っていた零の頭はその謎を要らない物と判断してさっぱりと忘れていた。
⌘
高城めぐみは零のクラスメイトの一人である。
零が東京に転校して来てからずっと小中と同じクラスで、この4月のクラス変えでとうとう彼女は零が慕う幼馴染を抜いた最多数で同じクラスとなった。
それには学校に対してちょっと煩い母親が絡んでいる気がしないでも無いが高城めぐみはこの状況を有難く受け入れている。
長野から転校して来たという零にめぐみが抱いた感想は「小さい」だった。
後から知った情報ではクラスの誰より早い誕生日だと言うのに担任教師の隣で自己紹介をする零はクラスのどの女子より小さくて下の学年に混ざっても違和感が無い程小さかった。
体に合わせてか声も小さく、自己紹介は名前すらも殆ど聞こえず、担任が慌ててスピーカー代わりに零の言葉に続いて喋っていた。
その自己紹介で将棋をすると言っていた零は転校生に興味津々のクラスメイトに構わず休み時間は日がな将棋の本を読んでいるか席から窓の外の景色を見つめていて、そんな零がクラスの変わり者として認識を受けるのに時間はそうも掛からなかった。
零がクラスから弾き出されなかったのはいつの間にやら仲良くなっていた幼馴染の存在が大きい。
クラスの誰とでも分け隔て無く接する彼の態度は零に対しても同じで、気付けば常に二人は移動教室も休み時間も一緒に行動を共にしていた。
彼と行動を共にする零は変わり者というよりは手のかかる幼い弟の様な感じであり、将棋の本を片手に何処かへ意識を飛ばした零を幼馴染以外の、めぐみを含めたクラスメイト達もよく世話を焼いた。
主には将棋に意識を取られてその場に立ち尽くす零の手を引いて目的地に誘導したり、寝不足でふらついている零を支えて保健室に運んだり、特にめぐみは前者に遭遇する事が多く零の手を掴んで目的地に引っ張ろうとした時には掴んだ手をやんわりと握り返されてうっかり幼い従姉妹を思い出した。
ぼんやりしていても声をかければ返事はないけれど微笑み、手を握れば赤ん坊の手掌把握反射よろしく握り返し、誰よりも小さな体躯もあって零は転校して来てから新しい学年に進級するという頃にはクラスメイトの弟の様な妹の様な存在になっていた。
さて、高城めぐみは桐山零が中学生プロ棋士である事を知る数少ない人物である。
世間は零のプロ棋士デビューに大いに盛り上がったがこれから一般サラリーマン並、若しくはそれ以上に稼ぐ事が予想される零の顔出しや名前の公表は仕方ないにしも何処の学校に通っているかなどのプライベートは徹底的に秘匿された。
ニュース等で使われた写真も記者会見用に連盟が何とか零に作らせた対局時の凛々しい顔付きで、普段の茫洋とした幼い顔付きが印象強いクラスメイト達はまさか零が世間で話題の史上5人目の中学生プロ棋士とは気付きもしない。
そんな中めぐみが零の事を知ったのは偶然と好奇心からだった。
その日は雨で野球が出来ない幼馴染の彼と零が珍しく机を挟み話をしていた。
何時もは一緒にいるが会話は少なく晴れの日は幼馴染が野球をする側で、雨の日は別の友人と談笑する彼の側で本を読んでいるのに今日は零も本を手元に伏せて会話をしている。
余りにも珍しい光景にめぐみは不躾だと分かりながらも思わず聞き耳を立ててしまう。
内容はショウレイカイにプロキシと聞き馴れない単語が多かったが要は零が何かの会で昇段した事に幼馴染の彼が祝いの言葉をかけていたらしい。
そんな耳に入れた会話が頭に残っていためぐみは帰宅してすぐに母親に尋ねた。
「ショウレイカイって何?」
教育熱心な母親は何時もなら余計な事を考えてる暇があるなら勉強をしなさい咎めてくる所である。
質問して早々にそれを思い出しためぐみは自分の考え無しな行動に頭をおさえたくなったが母親の反応は珍しく穏やかなものだった。
「奨励会はプロの棋士を育てる機関の事よ」
「プロ、棋士?」
その何だか聞き覚えのある言葉にめぐみは頭を傾げた。
すると母親は立ったままのめぐみをリビングのソファーに招いて頼んでもいないのに事細かに奨励会とは、プロ棋士とは何たるか説明を始めた。
めぐみが気付いた頃には外の色は橙から紺色へと変わっておりそれでも話をやめない母親に夕飯の準備は良いのかと思っていれば天の助け。
父親の帰宅であるが何故か父までも母親の講義に参加して「お前もかブルータス!」と内心、めぐみは拳を握る。
数時間に及んだ母親の将棋講義with父親に疲れ果てためぐみに父親はどうして急に将棋に興味を持ったのか嬉しそうに尋ねられた。
めぐみは教室での零達の会話を話せば落ち着いてきたと思った両親の顔色が又しても興奮に色付いて来た事にめぐみは目眩を覚える。
両親の話を要約すると桐山零は先程めぐみが説明を受けたプロ棋士を目指す奨励会員で、実は夫婦揃って将棋好きという両親の最近一番の推しでもあった。
それ以来、めぐみの生活は少しだけ変わる。
相変わらず母親も父親も勉強をしろと煩いが以前に比べれば多少は丸くなったし家族三人でパソコンを前に談笑する機会が増えた。
話の内容は専ら学校での零の様子と彼の奨励会での対局の様子ではあるが以前の顔を合わせれば「勉強!勉強!」の息苦しい生活よりはましになったとめぐみは感じる。
それに零が普段の何割にも増して茫洋としているのが奨励会での対局を挟んだ前後だと分かってからは声にはしないが心の中で応援する様になった。
クラスメイト達が流行りの音楽やゲームの話をしている時も幼馴染が話かけない限り小難しそうな将棋本を読み勉強に励む零の姿にめぐみは好感も持っていた。
気付けはめぐみは両親と共に零のファンになっていた。
そんな彼が史上5人目の中学生プロ棋士となる事が決まった時、高城家はお祭りであった。
誕生日でもクリスマスでも無いのに母親はご馳走を作り、仕事の都合で近頃は帰りが遅かった父親はホールケーキを手に早々と帰宅した。
プロ棋士になった事を知る者は余りいないのかめぐみが知る限り校長先生と中学入学時には既に廃部となった将棋部の顧問、それに幼馴染の彼ぐらいだろう。
幼馴染は知っていて当然であろうが校長先生と将棋部の顧問だったという教師が嬉し泣をしながら「この度は、」と零の小さな肩を叩いて祝事を言っている場面に遭遇した時、めぐみは思わずたじろいた。
いい大人二人が階段下の物陰で泣いていて、祝われる立場の零が困惑しながらもハンカチやポケットティッシュを差し出して大人二人の面倒を見ていたのだから。
めぐみの気配に気付いた零は振り向くとめぐみにポケットティッシュを持って無いか尋ねた。
未だ零に対して賛辞を述べる大人達二人の涙や鼻水は止まる事なくほぼ新品だった零のポケットティッシュは今や殆ど中身を残していない。
めぐみは自身のポケットティッシュを渡すべく零へと歩みを進めて、序でに前々から言いたかった事も伝える事にした。
本当はプロ棋士デビューが決まった対局の次の日には「おめでとう」と言いたかったのだがその頃にはクラスメイト達の間で問題になっていた「桐山零のファン」の存在で零のファン=変質者の方程式が確立しており、幾ら同級生でそこまで変質な好意を抱いていなくても零のファンとクラスメイト達に認識されるのは良く無い状況であった。
その為、会話は勿論祝いの言葉さえ言えないめぐみであったが今は零とめぐみ、泣いた大人二人しかいない。
今がチャンスだとめぐみは意を決した。
「プロ棋士デビューおめでとう桐山君」
「え、ありがとう」
将棋を愛好とする者達以外からプロ棋士としてデビューをした事を悟られずいた零はめぐみの言葉に瞬きも忘れて固まっていた。
それから硬直を解くと恥ずかし気な笑みを浮かべて礼を返す零にめぐみは自身の顔が熱を持つのを感じると慌ててポケットティッシュを押し付けた。
「それ、返さなくても良いから!」
教師が二人もいるのを忘れ、飛び出した弾丸の如く勢いでめぐみはその場から退散する。
あまりの勢いで渡されたポケットティッシュを受け損ねて床に落とした零はめぐみの勢いと駆けていく足の速さに呆然としていた。
「良かったですね桐山君、同級生にも君のファンがいたようですよ」
「僕のファン・・・?」
零のハンカチとポケットティッシュを犠牲にして顔を整えた校長と零のやりとりをめぐみは知らない。
知って嘘でもファンでは無いと校長の言葉に訂正を入れておけばこの1年とちょっと過ぎた頃に起きる体育祭での騒ぎは起こらなかったであろう事をこの場から退散した彼女は知る由もなかった。
⌘
雨が振り続き例年より早くなるかもしれないとテレビで報じられた関東の梅雨入りで体育祭の延期が心配されていたが、心配は杞憂にに終わりその日は見事な快晴で体育祭日和であった。
晴れ晴れと雲一つない空に対して零の頭の中は晴れていない。
昨日行われた対局の一手一手が雨の様に零の頭の中で何度も降っては消えて降っては消えてを繰り返していた。
登校して来た零の姿を見るなりひなたもちほも他のクラスメイト達もこれは駄目だと思った。
普段よりも増して茫洋さが目立つ零に周りは今日の体育祭は止めておけと勧めるのだが当の本人は生返事を返すばかりで声が聞こえいるのかも怪しい。
そうこうしてる内に担任教師が教室に入って来て朝のホームルーム、生徒達にこの後グラウンドに移動する様に指示をする。
最後に担任教師は零に「桐山、お前大丈夫か?」と他のクラスメイト達もいる中で声をかけるのだがやはり生返事だった。
そんな零に担任教師は諦めをつけて他のクラスメイト達に、特にひなたには零から目を離さない様に声をかける。
「悪いが川本、後は桐山を頼んだぞ。お前が頼りだ」
こうなった零に対してひなたを介添えるのが一番有効だというのはクラスメイト、担任教師が新学年からこの2ヶ月で学んだ事である。
こうなると誰に対しても生返事や無視が多くなる零であるが何故かひなたの言葉だけは他に比べて聞こえいるし全てではないが応答も出来た。
これにひなたの苦労も考えてちほを添えると尚良い。
担任教師とクラスメイト達の視線を一身に受けて「任せて下さい」と頷いたひなたはいつにも増して甲斐甲斐しかった。
ぼんやりしている零は注意力も散漫していて小さな石ころでも平気でつまづくし、受け身も取らない。
そんな零のためにひなたは手を握ってグラウンド迄誘導した。
その姿は年の離れた姉弟さながらで、クラスメイトは勿論、学年の違う生徒教師陣も思わず微笑ましく二人を見守ってしまう。
生徒入場から始まり開会宣言、そして最後に準備体操を終えると生徒達は各自応援席への移動となった。
整然と席の作られた小学校の運動会と違い中学校の体育祭はクラス別に分けられブルーシートを敷いただけの簡素な応援席で、その混然とした様相を嫌がり応援席から離れた場所に持参した敷物を敷いて競技を応援する生徒もいた。
ひなた達もグラウンドがそれなりに見える場所を陣取り応援席を適える一人であり。
選手の入場口からかなり距離はあるがグラウンドは良く見えるし、側には木陰を作る程度に大きな木があるので太陽の強い陽射しも恐ろしくない。
そして最たる理由を上げるなら
「此処からなら零ちゃんファンの目も届かないしね」
一体何が目的なのかは考えたくも無いがクラスメイト曰く零のファンと思わしき不審者が朝から学校の周りをうろうろとしていた。
例年であれば来るもの拒まず近隣の住民も自由に入って競技に汗を流す生徒達を応援していたらしいが今年の体育祭は校門がしっかりと閉じられ招待券を持つ者以外は入れない。
それならばと見るからに生徒の応援に来たとは思えない年齢幅の広い男女様々な者達が唯一グラウンドを見渡せるフェンスの側に集まっており、不運にもそこは零達クラスメイトの真後ろでそんな彼等の視線から零を遠ざける為ひなたは態々少し便の悪い場所を陣取った。
グラウンドではさっそく1年生の徒競走が行われており、ひなた達はそれを見学しながらまめに零へと話し掛ける。
ひなたも最近気付いた事であるがぼんやりと何処かへ意識を飛ばした零に話し掛け続けていると話し掛けない時より意識がはっきりするのが早いのに気付いたのだ。
それを朝から行ったおかげか今の零はちほとやりとりが出来るくらいに戻って来ていた。
「もしかして桐山君寝不足?」
隈が出来てるよというちほの指摘にひなたが零の顔を覗けば確かに眼鏡が邪魔で分かりにくいが薄い下瞼に隈の様なものが薄っすら出来ている。
すかさずひなたが零に何徹目か問えば、ひなたの只ならぬ様子にゆっくりと顔を俯かせ、最後に体育座りで立てていた膝に顔を埋めた零は指を三本立てて見せた。
「さ、三徹ってそれはやばいよ零ちゃん!」
「体は大丈夫なの桐山君」
テレビや友達との長電話で夜更かしをしてしまっただけでも辛い覚えがあるひなたとちほには零の三徹は信じられないものだ。
いつにも増してぼんやりしていると思っていたが三徹と聞いて納得する。
「体は大丈夫だよ佐倉さん。寧ろ何だか何時もより気分が明るい気がするから」
それは世間で言うところの「ナチュラルハイ」なのではと二人は思う。
兎に角そんな徹夜続きの身体では午後迄保たないだろうからとひなたとちほは零の為に横になるスペースを作った。
「さあ、零ちゃん此処に寝て」
「競技の時間が近付いたら私かひなちゃんが起こすから」
さあ、と眠る様促す二人に零は首を横に振るうのだが結局零はひなた達に敵わなかった。
やはり身体は限界だったのか零が横になって暫く寝息が聞こえてきた。
零が確かに眠った事を確認した二人は顔を合わせて笑い合うと、幾ら木陰とはいえ輝く太陽の光は眩しいだろうとひなたは予備のタオルを顔に掛け、ちほは零のお腹が冷えない様にと自身が着ていたジャージの上着を掛けた。
零は夢を見ていた。
目を閉じて意識が沈む直前まで体育祭の喧騒を聞いていたからだろうか、長野から東京の学校へと転校して初めての運動会。
零は運動会が憂鬱だった。
突出して足が速い訳では無いし二人一組で挑む競技は誰も零と組みたがる同級生はいない。
クラスでダンスの発表をすれば下手くそ、皆の足を引っ張るなよと罵られた。
長野にいた時がそうであったのだから東京に転校してその状況が変わるとは思えずいっそ運動会を休みたいと保護者である大伯父に訴えれば零の好きにしなさいと言われてしまい性格上「じゃあ休む」とも言えず、何とか運動会に近づくにつれて降下していく気分を晴らそうと家に帰れば夜遅くまで棋譜を読み漁り一人で将棋を指し続けた。
運動会当日を迎えた頃には零は子供らしからぬ立派な隈を目の下にこさえていた。
嫌だなと思いながら挑んだ短距離走。
走る為に横一列に並んだ時、隣の子が声をかけてきた。
「大丈夫か?」
転校してきて声をかけられたのは初めてだった。
いや、何度かあったがそれは事務的な用事のものばかりで零を思って声をかけられたのは初めてだった。
返事は幾つでもあった。
「大丈夫」「気にしないで」とも返す返事は幾つでもあったのだがまさか声をかけられるとは思っていなかった零は咄嗟の反応が出来ず固まる。
口が乾いて声が出ない。
そうこうしているうちに先生から「位置について、よーい」と声が上がりスターターピストルが天に掲げられる。
グラウンド一帯に響くピストルの音に零は目を覚ました。
「あ、桐山君が起きたよひなちゃん」
「零ちゃんちょうど良かった!もうすぐ2年生の徒競走が始まるから入場口に行こ」
差し出された手を掴み立ち上がると寝起きで急に身体を起こしたせいか零は目眩を感じた。
足をもたつかせ一瞬、身体を傾かせた零をちほが慌てて支える。
やっぱり体調が悪いならと競技の棄権を勧める二人を零は大丈夫だからと宥めた。
「本当に?ほんとにほんとに大丈夫?零ちゃん」
「大丈夫だから。心配させてごめんね。ひなちゃん、佐倉さん」
スピーカー伝いに2年生は入場口前に集まるよう放送され、それを聞いた零は早く行こうと憂いた面持ちで此方を見る二人の背中を押した。
入場口に向かいながらも未だ零が心配だという二人を他所に零は先程迄見ていた夢を振り返る。
あの時声をかけてきた人物は覚えていたがピストルの合図と共に駆け出した自分がどうなったのか零は思い出せなかった。
学年全員が参加する徒競走は男女別の為、入場口前に着いた零はひなた達と別れた。
そのまま体育の授業で事前に練習した列に並ぶ。
零の滑走は後ろより三番目だった。
夏前の太陽の日差しに晒されながらさっさと自分の順番になり終わらないかと思うのだが男子よりも女子の滑走が早い為出番はまだまだ先である。
立っているだけなのに立ち眩んだ様な感覚が零を襲った。
頭を揺らす零に気付いてクラスメイトが声をかけてくれるが笑みを浮かべてやり過ごす。
女子の走りが終わりやっと入場出来た零は此方に気付いて手を振るひなたに手を振り返すと目を瞑り自分の番を待った。
夢の中でもそうだった。
運動会が嫌で嫌で、でもズル休みを選択する度胸もなくて兎に角早く終わってくれと喧騒から己の体調の変化から、周りから目を瞑り待っていた。
前の列が動けば自身も足を進め、動けばまた一歩。
漸く自分が走る番になり、位置に着いて
「そうだ。高橋君が僕を助けてくれたんだ」
目を開けた瞬間、視界の殆どを占めた幼馴染の顔に零は夢の続きを思い出した。
視界の情報に続き鼻が覚えのある匂いを嗅ぎつけ、その匂いが夢の続きを鮮明にさせる。
一人そうだったと自己完結を済ます零に対し高橋は何が何だか分からない。
「零、いったい突然何なんだ。俺に分かるように話してくれ」
零が長野から転校してきてそれなり経つが未だ高橋には零について理解に苦しむ事が多々ある。
まさに今もその状況だった。
今朝も相変わらず一緒に零と登校してきた高橋であるが対局明けとはいえいつにも増して茫洋とした零を言葉に出さずとも心配していた。
いつもなら階段を上がったすぐにある高橋の教室の前で別れるのだが心配の余り今日はそこより奥にある零の教室前迄付き添った。
何時も以上に茫洋としてる理由はこれまでの経験から寝不足だろうと踏んでおり、グラウンドで見かけた時は川本と佐倉に挟まれて横になる零に仮眠を取っているなら大丈夫だろうと油断していた。
様子がおかしいと思ったのは学年別徒競走で滑走の番を待っていた時である。
振り返った先に見えた小さな頭がゆらゆらとふらついて見えて嫌な予感がした。
体育祭に寝不足の零、ふらつく頭と何だか既視感のある状況に考え込んでいればいつの間にか自分の滑走する番となっていた。
考え事をしながらのうえ、陸上部の面々に挟まれてながらも無難な順位を得た高橋は未だ待機列の中で揺れる小さな頭を見つめる。
とうとう零が走る番となり、所定の位置に着く。
体育委員の生徒がスターターピストルを空に向け空いた手で片耳を塞いだ。
ピストルの音と共に既視感の理由を思い出した高橋が次に聞いたのは女子生徒の悲鳴だった。
意識を現実の視界に戻しコースを見ればスタートラインから少ししたところで零が倒れている。
突然の事で動けず騒ぐ周りを尻目に高橋は零の側へと駆け出した。
「零、しっかりしろ!零!」
「体を揺さぶらないで、転んだ拍子に頭を打っているかもしれないから」
高橋より先に駆け付けた保険医はテキパキと地面に倒れた零の診察を始める。
呼吸の有無、意識、外傷が無いか極力揺らさないようにそっと診察した保険医の見解は只の寝不足であった。
証拠に今コースの上に倒れた零からは規則正しい寝息が聞こえる。
保険医は倒れた時に頭を打っていないか気にしていたが零は意識を失い倒れる瞬間、器用に受け身を取ったのか頭に外傷は一つとしてなかった。
担架を呼ぼうとする保険医に断りを入れて高橋は自分が零を保健室に連れて行く事を申し出た。
零を保健室迄運び、ベットに寝かせ、覚えのある今の状況に昔と変わらないと笑って入ればこれである。
「いや、小学校の運動会でもこんな事があったなって思い出して」
「零もか?実は俺もだ」
「え、高橋君も思い出したの?」
体を勢いよく起こした零がくらりとまた身体を傾かせたので高橋はその身体を支えた。
その時、二人の目が合い数拍置いて二人は笑い出した。
「あの時からまったく変わらないな俺達」
「本当だね」
あの時と変わったと言えば高橋の身長ぐらいだろう。
高橋の出る種目は既に終わっており、零の出る種目は午後からである。
その為二人は時間が許す限り昔話に花を咲かせた。
「そういえば如何して寝不足だったんだ?」
幾ら対局があったとは言え対局日の翌日迄零が寝不足を引きずるのは珍しかった。
対局日前日迄研究に没頭している事はあれど、だいたい対局が終わったその日に精魂尽きて事切れるように眠りにつくので今日の様な事は誠に本当に稀である。
余程後を引きずる様な強い棋士だったのかと思ったが零の対局結果をいち早く知る為にパソコンの操作を覚えた祖父の情報ではそう難しい相手でも無いと言っていた事を思い出す。
高橋の疑問に零は視線を所在なさげに彷徨わせた。
「・・・対局帰りに次の相手の棋譜をコピーしに行ったんだけど」
次の対局の相手と聞いて高橋の頭に祖父の言葉が再び蘇る。
余りの祖父興奮気味な態度に戸惑い、殆ど聞き流す様な感じであったが次の対局相手は去年一昨年と新人王を取った相手でその棋士に勝ったら零が今年の新人王だと騒いでいたあれだろうかと思う。
「ついつい新しい棋譜を見つけて」
いくら将棋にそれ程詳しくなくても聞き覚えのあるタイトル名がぽろぽろと出てきて話が見えてきた高橋は頭を押さえる。
「つまりそれに夢中になって寝るのも忘れてたと」
見るに呆れて溜息を吐く高橋に零は弁明した。
翌日が体育祭なのと既に連日の研究と対局に疲れて何度も寝ようとしたのだが目を閉じると先程迄見ていた棋譜が頭の中に蘇る。
このままでは駄目だと頭に浮かんだ棋譜の内容を振り払い何度も寝返りを打っている内に気付いたら棋譜を手に夜を明かしていたのだとか。
幼馴染の変わらぬ悪癖に高橋は再度、溜息を溢した。
「とりあえず保険医の先生はベッドを使って良いと言っていたからもう少し寝ていろ」
再びされるがままにベッドに横になった零はかけ直された掛け布団越しに高橋の顔色を伺う。
「・・・怒った?高橋君」
普段から何かと生活に気をつけるようにと高橋に言われているだけに零はこの自業自得とも言える失態に彼が自分に呆れて見放すのではと恐る。
そんな零の心情を察してか、豆だらけの大きな手で布団から少しだけ飛び出た零の頭を撫でた。
「怒るよりも心配した。零が倒れてるのを見た時は心臓が飛び出るかと思った」
だからこれからはと言われて零は頷くとより布団の奥へと潜り込み、暫くして規則正しい寝息が聞こえた。
将棋に集中する余り寝食を忘れるのは零の悪い癖である。
それは重々理解しているが近頃は「プロたるもの体調管理も仕事の内」とでも誰かに言われたのだろう1年半程その悪癖に遭遇する事は無かった。
その為高橋はやっと零の悪癖が治ったと思っていたのだがどうやら鳴りを潜めていただけであり、もしかしたら高橋が部活に熱中している間にこの様な事が何度かあったのかもしれない。
この悪い癖を直してもらいたく高橋は今迄何度も口煩く諭して来ており、やっと今回その癖が直ったと思ったらこの展開。
自分が注意するのでは駄目なのか。
「どうしたものかな」
ふと、高橋脳内に浮かんだのは零がプロ棋士としてデビューする少し前の事。
実の息子より零を可愛いがる母親の命で煮物のお裾分けを渡しに行った時、呼び鈴を鳴らせど零は現れず電話の発信にも応えず、留守なのかと何気無しに零の将棋部屋となっていた書斎の窓を除けば中で零が将棋盤を前に倒れていた。
その時は対局を前に研究に熱中していた上、冬の長期休みという事もあり睡眠は勿論、食事迄忘れていたと高橋は零に後から聞いた。
しかし、発見した時は何事か分からず窓を叩いても反応がない。
仕方無しに窓を割って入ろうと足元に落ちていた手頃な石を拾った。
「そうだ零の師匠の娘さんに頼もう」
窓を割ろうと石を手に構えたところを彼女に声をかけられた。
自分達より遥か年上で、もう働きに出ているという彼女は綺麗な顔を怪訝に歪ませ高橋に声をかけて来た。
側から見れば不審者ととられかねず、現に不審の感情を露わにした彼女は手に携帯を構えていた。
そんな妙に通報に小慣れた彼女が零の将棋の師匠である幸田さんの娘・香子さんだと高橋が知ったのは彼女の持っていた零の家の合鍵を使って中に踏み込み、零の介抱にひと段落ついた頃である。
そこまで回想して高橋はプロ云々と零に説教をしたのは香子その人だったと思い出す。
高橋に妙案が浮かんだ。
今日の騒ぎを香子に報告して普段の零の不摂生な生活を正してもらおうと
自分が知らないだけでこんな事態を何度も起こしているのかも知れないしもう零の悪癖は香子の説教ではどうにもならないところ迄来ているのかも知れない。
けど香子が駄目なら彼女の父親であり零の師匠である幸田がいる。
早速、体育祭の後にでも香子にメールを送る事を決めた高橋は保健室の外からの賑やかな声に気付いた。
気付けばグラウンドから聞こえていた放送委員の赤組、白組とどっち付かずに応援する声が止んでおり代わりに流行りの音楽がBGMとして流れていた。
時計を見ればいつの間にか昼食の時間となっている。
廊下から聞こえる声は零の身を案じる内容で同じクラスの友達が零の様子を見に来たんだろうと察した高橋は零の布団に埋もれた頭を軽く撫でて保健室の出入り口に向かった。
⌘
「ひなちゃんどうしたの?」
ひなたと佐倉の昼食の誘いで目を覚ました零はグラウンドに戻っていた。
前日の夜にひなたからもらったのメールで昼食は彼女の姉が用意してくれると聞いており、木の下に敷いたレジャーシートに腰を下ろせば重箱二段のお弁当が出て来た。
どうやら零だけでなく佐倉の分もあるらしく二人はひなたから取り皿と箸を受け取りお弁当を食べていたのだがひなたの様子がおかしい。
取り皿を手にしながら虚空を仰いで惚けたままのひなたに零は佐倉に何かあったのか尋ねる。
「急にどうしちゃったんだろうね、ひなちゃん」
ひなたの只ならぬ様子に佐倉は苦笑いを浮かべながら彼女はデザート担当らしく食事に終わりを見せていた零に佐倉は自身が用意した果物とお菓子を勧めた。
何故ひなたがこうなったのか佐倉には分かっていた。
のだが、それを話すとなるとひなたの恋の話にも触れる事になる。
零は信用のある人物なので話した話を他所で吹聴する事ないとは思うのだがやはりひなた本人がしていない話を佐倉がするわけにはいかず佐倉は只話を濁して未だ昼食に手をつけないひなたを昼休みの残り時間を理由に急かすしか無かった。
昼休みの残り少ない時間に慌てて唐揚げを食べたひなたが喉に詰まらせあわや窒息、等と騒ぎもあったが午後のプログラムは順調に行われた。
ひなたも走者として参加していた部活対抗リレーは佐倉と共に零はコースの側まで近付いて応援を行なった。
3年生に混ざり走るひなたは流石走者に選ばれただけに速く、バトンを手に零達が応援する前を駆け抜けたひなたはまるで若鹿の様で、佐倉の話では既に午前中に行われたハードル走では入賞を果たしたらしい。
が、健闘虚しくやはりと言って良いのか部活対抗のリレーは陸上部の優勝でひなたの種属する部は惜しくも4位で終わった。
この夏で部活を卒業する先輩達の思い出にと頑張っていたひなたはぎりぎり入賞を逃した事に悔しいと溢す。
零と佐倉は3年生もいる中で誰にも抜かれず順位を守った彼女を褒め讃えた。
「ひなちゃん凄く速かったよ」
「テニス部の人が後ろにいたのに抜かせなかったもんね」
賞賛を贈り、沈むひなたの気を紛らわせようと二人は関係の無い話題を振ったりしたが効果は現れず。
途中でひなたは部活の先輩だという人に呼ばれてしまい二人はひなたの帰りを大人しく待った。
暫くして戻って来たひなたの目には涙が潤んでおり二人が慌てて何かあったのかひなたに尋ねれば
「先輩が私達の為にリレー頑張ってくれてありがとうって」
ひなたは目元に溜まった涙を拭き取りながら先輩達とのやりとりを話してくれた。
部活の先輩達はリレーに参加したひなたや後輩達の気持ちを汲み取り感謝の言葉と迫る夏の最後の大会に意気込みを入れたらしくひなたや他の部活のメンバーは感極まって涙を流したのだとか。
そんなやりとりは何処の運動部でもあったのかちらほらと涙ぐみ上級生と話す生徒が見られた。
零が用意した濡れタオルやお弁当に付けていた保冷剤でひなたの目元の赤みが取れた頃、今度は佐倉が出場選手としてグラウンドに駆けて行った。
佐倉が選手として参加するクラス対抗の綱引きは零が保健室で眠っている間に勝ち進んでいたらしく今度はひなたに連れられてクラスの応援席、最前列で零はひなたと佐倉の応援に勤しんだ。
相手は3年生のクラスに勝った教師陣のチーム。
校長や教頭迄も混ざった大人ばかりのチームは流石決勝に残っていただけあり、容赦情け無くスタートの合図と共に力強く綱を引いた。
その勢いに綱を引こうにも腰を下げる事もままならず、体にロープを巻いた最後尾の者迄引きずられている。
余程教師陣に負けた事が悔しかったのか準決勝で敗れた3年生チームの応援を皮切りに全生徒が、他の競技では公平に応援していた放送委員迄もマイク越しに零のクラスを応援していた。
その声援に一度は持ち直した零のクラスチームであるが体育教師や運動部顧問も含む教師陣になす術なく綱引きの決勝は大人気ない教師陣の優勝で幕を閉じた。
「あ、そろそろ行かなくちゃ」
教師陣に負けたが準優勝となった佐倉を労っていた零は障害物競走の選手を招集かける放送に立ち上がる。
靴を履き、二人に行って来ますと声をかけようと零が顔を上げれば二人は何故か頬を赤らめて体をもじもじとさせていた。
何時もと違った二人にどうしたのか零は声をかけるのだが吃りつつも何でも無いと言われ終いには早く行かないと遅れると背中を押される。
「零ちゃん頑張ってね!」
「応援してるから!」
二人の只ならぬ様子が気になる零であるがこのままでは競技に遅れてしまう為何度か振り返りながらも入場口へと向かった。
「結局私達、桐山君に何も言わずに障害物競争に行かせちゃったね」
タオルを手に再びクラスの応援席に向かいながら佐倉は溢した。
生徒会種目である障害物リレーは第1から第4走者迄おり、その内第1から第3迄の障害物の内容はその年の生徒会によって変わるのだが零がなった第4走者だけは毎年借り物競争と決まっている。
というよりはその借り物競争が障害物リレーの目玉であり生徒達が体育祭で最も楽しみにしている物であった。
借り物競争は50メートル地点にお題の入った箱が置かれており、その中からお題を引いて借り物を探すのだが学年別クラスの数だけあるお題の中で一枚だけピンク色の紙で作られたお題が入っている。
白い紙のお題が「眼鏡をかけた人」「タオル」「校長先生」等という内容に対してピンクの紙には「好きな人」「憧れの人」等とありきたりと言えばありきたりとも言えるちょっと全校生徒の前では恥ずかしい内容のお題が各学年に1枚だけ混ぜられている。
去年の体育祭で上級生が見事「好きな人」と書かれたお題を引き上げた挙句、クラスメイト達に冷やかされながらも好きな人に突撃した上級生は相手に借りられる事を申し込む前にごめんなさいされるという悲劇があった。
さらにその悲劇は続きがあり好きな人からごめんなさいと断られた上級生はお題の「好きな人」を借りれぬままゴール迄向かい、ゴールに立った審判にお題の紙を渡して全校生徒に好きな人にフラれた事を暴露されるという結末付きである。
ひなたと佐倉は当初、零が障害物競争のしかも第4走者に決まった時は去年の悲劇が有り、どうしたものか悩みに悩んだのだが日を追う毎に零の好きな人って誰だろう、そんな人がいるのだろうかと好奇心が膨らむ。
零が去年、体育祭を休んでいて恒例の障害物がそういう内容だと知らないことも知っており何度か説明はしようと思ったが結局胸の内に膨らんだ好奇心が邪魔をして今日まで来てしまった。
「何も知らせず零ちゃんには申し訳無いと思ってる!でも・・・!」
そういうお年頃である。
普段はぼんやりしている零の恋話的なものをひなたも佐倉も聞きたい。
クラスメイトも同じ気持ちなのだろう障害物リレーの第4走者になった零を冷やかす者はいたがリレーの内容を詳しく説明する者はいなかった。
クラスの応援席に移動して好意で応援席の最善列に腰を下ろしたひなたはじっと零のいる待機列から目を離さない周りのクラスメイトの顔を見て確信する。
零にピンクの紙のお題を引いて欲しいと思っているのは私だけでは無いと
襷を肩から掛けた零はクラスメイトからバトンを渡される瞬間、咥えたパンを落としながら彼が何を言ったのか分からなかったが取り敢えず駆けた。
駆けた先には第1走者の時には無かった長机が置かれ、上には箱が一つ。
これをどうしたら良いのか分からず頭を傾げれば丁度側にあった3年生の応援席から箱の中のお題を引く様に言われて零は言われた通り箱に手を突っ込み中にあった紙を一枚引いた。
引いた紙は桃色なんて優しい色ではない派手なピンクの紙であった。
その余りの派手な色に困惑していれば何故か応援席が盛り上がりを見せる。
放送席では放送委員の生徒が興奮気味に零がピンクの紙を引いた事を実況していた。
紙を引いてから一体どうすればいいのか皆目検討のつかない零に側の応援席の3年生が紙に書かれた内容と合う人物をゴールに連れて行くのだと言われてやっと零は二つ折りになった紙を開いた。
紙に書かれたお題を読んだ零は再度駆け出しクラスの応援席へと向かった。
零が紙を箱から引き抜いた瞬間目の良いクラスメイトは零がピンクの紙を引いた事を告げた。
その声に続いて零がピンクの紙を引いた事を実況する放送にクラスの応援席は俄かに色めき立つ。
まさか本当にピンクの紙を引き当てる何てという驚きとお題は何だろうという興味。
クラスメイトの殆どはお題の内容を気にした。
頭に浮かぶのは見事「好きな人」というお題を引き当ててフラれた上級生の姿。
もし零が去年の上級生と同じお題を引いていたらという不安とあの普段茫洋とした零に好きな人がいるのかという疑問。
クラスメイトが騒めいていると渦中の零がこちらへと駆けて来るのが見えてますますクラスメイト達は騒がしくなる。
途中のクラスで足を止めるでも無くまっすぐクラスの応援席に来た零は頬を紅潮させて自身を見つめるクラスメイト達を見回した。
誰も零がどんなお題を引いたのか誰を探しているかなんて無粋な問いかけはしない。
只静かに彷徨う零の視線を追った。
「ええっと、ちょっとごめん」
そう言ってクラスメイトの中へ割り込み零が手を伸ばしたのは高城めぐみであった。
「高城さん、だっけ?ちょっと一緒に来てもらっても良いですか」
他のクラスメイトと一緒に零の探し者は誰だと動向を伺っていためぐみは突然の事に目を見開いた。
そして零に手首を掴まれためぐみはだんだんと顔を真っ赤に染めてはくはくと息を吐く。
クラスメイトはモーセの十戒の如くめぐみにグラウンド迄の道を開けてニヤついた顔のめぐみの友は靴をめぐみに持たせ背中を押した。
めぐみは零と後ろの友人の顔を交互に見るのだが友人もクラスメイト達も早く行けと言うだけで頭が混乱する中靴を履いて立ち上がろうとしたところで出された手を掴むと零に引かれ走った。
零がピンクの紙を引いた事は全校生徒が放送で知っている。
零とめぐみが通ると口笛を吹き囃し立てられてめぐみはそういう事なのだろうかと困惑するしか無い。
他のクラスは余程の難題なのか零とめぐみは2着でゴールをした。
「2着おめでとう桐山君。じゃあお題を確認させてもらおうか」
体育委員に言われるがまま零はピンクの紙を差し出す。
審判役である体育委員の側には放送委員がマイクを手に立っていてお題の内容と借りて来たものが正しいか否か体育委員の判断は彼を通して全校生徒に伝えられる。
めぐみは自身の心臓が早鐘を打つのを感じた。
全生徒も他の走者そっちのけで零達を注視している。
「お題は『大切な人』ですが、彼女がこの大切な人であっていますか?」
体育委員の言葉に頷く零。
その様子を放送委員がマイク越しに全生徒へ伝える。
「はい、彼女は僕のファンなので大切な人です」
「へ、ファン?」
思わぬ言葉に間抜けな声を出す放送委員。
ファンってあのファンだよね?と零の言葉の意味が分から溢れた声は彼が持ちマイクが拾っていた。
「高城さん?は桐山君のファンで、桐山君はファンだから高城さんが大切って事で良いのかな・・・?」
「わ、私はファンなんかじゃ」
「そうです。常日頃から師匠にはファンを大切にしなさいと言われてますのでファンであの彼女は僕の大切な人です」
「私はファンなんかじゃない!!」
障害物リレー第4走者
純粋に応援してくれるファンの方々を大切にしなさいは師匠の教え
幼馴染
やっと名前の出た人。零君のクラスメイトは愉快なのが多いなと思ってるし安心してる。
借り者にされたクラスメイト
私はファンなんかじゃない!とこの後、クラスメイトに言って回った。けどこれからもこそっと応援して行く。