魚の目に水見えず、人の目に空見えず

お店の休憩時間を利用して対局のネット配信を観ていたら若さでは言い訳にならない程細い零君の手首に驚愕した。
しかも以前より薄かった体が薄さを極めている様な気がして、こうしてはいられないと私は立ち上がった。
零君は成長期の男の子。
これから身長を伸ばそうと思ったら今がとても大切な時期だ。
朝昼晩と成長期に必要な栄養素を沢山とって欲しい所だが将棋が絡むとそれ以外の事に頓着しなくなる零君の事だから良くてカップ麺、悪くて学校の給食位で済ましているのだろう。
今の小柄で女の子みたいな零君も可愛いが、すらりと長身の零君も見てみたい。
その為にはやはり沢山栄養を摂って貰わなければと牛挽肉を買い物籠に入れた。
それにパン粉に牛乳、玉ねぎ。
メインに添えるじゃがいも人参、サラダはサニーレタスにベビーリーフと真っ赤なトマト。
ちょっとでもカロリーを摂ってもらい肉付きよくなってもらいたいからカリカリのベーコンが乗ったシーザーサラダなんか如何だろう。
それにコーンスープも付けて、主食はパンとご飯何方にするべきか。
結局、主食になりそうなパンが見つからなかったのでご飯にした。
ついでにカレー粉も買って明日の夕飯の算段もつける。
余った野菜で明日の夕飯はカレーにしよう。
丁度明日は金曜日。
カレーにするにはぴったりだ。
そうと決まれば精肉コーナーに戻り煮込み料理用にカットされた牛肉を購入した。
東京に住む様になってそこそこになる零君からするとカレーのお肉が牛肉で驚くかもしれないが私はこの牛肉の甘さが溶け込んだカレーが好きだ。
きっと零君も気に入ってくれる。
ふと、店内の時計を見たら四時を過ぎていた。
買い物に夢中になり過ぎて時間の進みに気づかなかった。
うっかりしていた。
私は慌ててレジに向かい、籠に入れた商品の精算をする。
それをエコバックに詰めて店を出て駆け出す。
暫く対局の予定がないから帰宅部である零君はきっとまっすぐに学校から帰って来るだろう。
今日は5限目が体育の授業だったからそれなりにお腹も空かして帰ってくる。
帰ってきてすぐは無理でも出来るだけ早く夕飯を食べさせてあげたい。
零君の家に入った私は昔懐かしい感じのするキッチンに入ると買ってきた物をバックから取り出し、早速調理に入った。
ご飯の炊飯に野菜のカット、シーザーサラダに温泉卵を付けたくて卵を茹でる準備をしていると玄関の扉が開く音が聞こえた。
この家に帰って来るのは零君しかいないので「おかえり」と台所から声をかけるけど反応がない。
きっと零君の事だから二階の自室に戻らず玄関側の書斎、今は零君の将棋部屋と化した部屋に篭ったのだろう。
しょうがない子だと思いながらも零君らしいと笑ってしまう自分がいる。
それでもお腹は空かしているだろうからと私は服の袖を捲り、肉を捏ねる作業に移った。

フライパンで焼き色を付けたハンバーグを温めておいたオーブンに移して十分焼き上げる。
その間に調理器具等を洗っておこうとしたところでチャイムの音が台所迄響いた。
いったい誰だろう。
回覧板?荷物の配達?
外を見ればいつの間にか薄暗く、こんな時間に零君を訪ねて来る人はいるのだろうかと、不審に思いながら玄関に向かう。
零君は玄関側の部屋に篭っているが集中し過ぎてきっとチャイムの音も聞こえていない。
書斎からは零君のものと思われる将棋の駒を指す音が微かに聞こえた。
その音をもっと聞きたくて、扉に耳を当てているともう一度チャイムが鳴らされた。
その音に私は我に返り、返事をしながら玄関の扉を開ける。
扉を開けるとモデルかと見紛う程綺麗な女性が立っていた。
零君にこんな綺麗な女性の知り合いがいるのかと驚いていると彼女も何故か、驚いた様な顔をしている。
何故そんなにも彼女は驚いているのだろうと、不思議に思いつつも突然登場した綺麗な女性への警戒度を上げた。
彼女はその美貌を生かし、自称霊験灼かで高価な壺でも売りつけようとする悪い女なのではとついつい悪い方向に考えてしまう。

「ここは桐山、零の家で合っていますか?」

そう尋ねてきた美女に私は渋々ながら頷き返した。
すると彼女は顔色を青く染め、ふらりふらりと数歩下がるとそのまま何も用件を言わず何処かへ敷地の外へと出て行ってしまう。
一体何だったのか、もしかして零君に付き纏う厄介な追っかけなのではと、やはり悪い方向に物を考えつつ台所に戻った。
いい具合に焼けたのだろう、台所にはハンバーグの香ばしい匂いが漂っていた。
うん。いい匂いだ。
きっと美味しいぞと焼きあがったハンバーグを前に自画自賛をしているとまたしてもチャイムが鳴った。
一体今日は何なんだと、余り間を置かずして鳴らされたチャイムの音に文句を溢しながら再び玄関へと向かう。
ドアノブに手をかけて扉を開けると











罪状を告げ、男の手首に手錠が掛けられる。
香子はその様子を物陰から伺っていた。
何故、彼女がこの様な場所に隠れているのかというと今、正にパトカーで連行されようという男は香子の父親の弟子である桐山零のストーカーで、その男が零の住む家から当たり前の顔をして出て来たので零を尋ね訪れた香子が警察に通報したのだ。
通報したのが香子だとバレて逆恨みされない様、物陰に隠れる指示をしたのはこの様な場面にもう嫌という程慣れてしまった近所の駐在所のお巡りさんである。
パトカーが発進する音が聞こえ、エンジン音が遠ざかるのを確認してから香子は物陰から出る。
お巡りさんは苦笑いを浮かべて香子に声を掛けた。

「今回の犯人は以前から零君に付き纏っていたストーカーだった。
零君は何時も通り書斎で将棋をしていて無事」

零の無事と聞いて香子は安堵の息を漏らす。

「犯人は何故か台所に侵入して料理を作っていたよ。一体、犯人は侵入先の家で料理なんかして何が目的だったのか」

相変わらずここに来る犯人達の動機が解らないと困惑するお巡りさんに今度は香子が苦笑いを浮かべる番だった。
それから一応、念の為に家の中と、庭、それから周辺で他に怪しい人がいないか確認してもらい、もう遅い時間なので調書はまた後日という事になった。
帰って行くお巡りさんに頭を下げて見送った香子はすぐさま踵を返してばたばたと慌ただしく家の中に入る。

「零!」

玄関を潜ってすぐにある書斎に入ると床を棋譜で散らかし、将棋盤を前に検討する零に飛びついた。

「あれ、香子さん。こんにちは。今日はいらっしゃる日でしたっけ?」

香子に飛びつかれ、床に香子共々倒れて
も動じず応えた零は何時も通りの頭に将棋の事しかないぼんやり具合だった。

「そうよ。今日はお母さんがちらし寿司を作ったから夕方にそっちに行くってお昼にメールをしたでしょ!」

気付かなかったと零はシャツの胸ポケットから携帯を取り出し操作するが機体はうんともすんともいわない。

「・・・どうも充電が切れてたみたいです」

「もう!あんたは何時も何時も携帯を忘れた、充電切れてたって!ちゃんと携帯は携帯らしく携帯して小まめに充電しなさいよ!!」

身体を起こした香子は馬鹿馬鹿と、悪態を吐きながら零の薄い胸板を叩いた。

「すみません」

一体、何の事だか分からない零であるがこれまでの経験上、香子がこうして怒る時は自分に非があるらしいので素直に謝る。

「後、戸締りも!どうせ今日の朝も将棋の事でも考えてて鍵も掛けずに学校に行ったんでしょ!だからあんな、」

「あんな?」

身体をお越し、こてんと首を傾げた零を前に香子は唇を噛んだ。
言いたい事を飲み込み、彼の薄い胸を叩いていた自身の手を膝へと戻す。

「兎に角、ちゃんと出掛ける時は戸締りをしっかりして携帯は充電をしっかりして携帯する」

「はい」

「後、朝昼晩と食事はちゃんと摂りなさい。お昼は学校の給食があるだろうからそんなに心配は無いけど朝と夜も食べなさい」

香子は徐に零の腕を取ると指で手首、肘周り、二の腕と触った。
シャツ越しでも分かる肉の感じられない骨張った腕に香子は眉を釣り上げる。

「この前のネット中継を観てて思ったけどあんたまた痩せたでしょ。これ以上痩せるんならお父さんに言い付けてやるから」

「香子さんそれは、」

「お父さんきっと心配して怒るわよ。そんな不健康な生活をしている子供を一人暮らしさせられないって」

きっとそうなればすぐにでも目白の家に零を連れて行こうとする父親の姿が香子の頭に浮かんだ。

「師匠には言わないで下さい。お願いします」

零もそれが想像出来たのだろう身長差から自然と上目遣いで懇願する零に香子は思わず呻き声を漏らす。

「だったら、そうならない為にもちゃんとご飯を食べなさい」

そうしてちょっとでも肉付きも血色良くなれば今日の様な不法侵入者は少しは減るだろうと香子は心の中でそっと思った。






今日の犯人
千駄ヶ谷でハンバーグが美味しいと有名なカフェを営む。対局のネット中継で零君の細さに驚愕してこれは何とかせねばと馳せ参じた。お店は一身上の都合により暫くお休み。

訪ねて来たお姉さん
尋ねた先で不審者と出くわした今日の被害者。通報は手慣れたもので発信履歴は警察に向けての発信で埋まっている。

書斎で将棋を指してた子
将棋と周りの気遣いで何も気付いていないしこれからも気付かない。

放置されたハンバーグと食材の皆さん
実はこのハンバーグ達こそ今回最大の被害者。

ちらし寿司
海老に烏賊、イクラと具材が豪華なちらし寿司。この後、零君と香子ちゃんが美味しく頂きました。
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