後藤零君
「さっきは私を呼んでくれてありがとう零」
そう言えば安心した様でカルガモの親子よろしく彼女の後ろについて流しで手を洗う。
昼食はサラダとコンソメスープ、ミートスパゲッティーであった。
そのメニューに近頃ダイエットを考えていた香子は片眉を吊り上げるが隣に座った零が顔を綻ばせて「おいしそう」と言うのでダイエットはもう暫く先延ばし。
とにかく夏までに痩せれば良いのだと自分を納得させて席に着く。
「いただきます」
零の言葉に香子と香子の母親が続いた。
フォークをぎこちなく使いミートスパゲッティーを食べる零の姿は見ていて微笑ましいものがあった。
一口サイズに巻く筈が一口大の塊となったスパゲッティーを解き、巻き直す事も出来ずそのまま口に入れたため零の口元はミートソースでベタベタで香子はそれを拭き取ろうとテーブルに置いたティッシュに手を伸ばすが閃めいた。
テーブルに置いていた携帯を手に取り、零の名前を呼んでこちらを向いたところをパシャり。
突然のフラッシュに零は眩しそうに目を瞬かせる。
「ちょっと香子、今は食事中よ」
「零の昼食の様子をあの人に送るだけよ。
あの人、零が三食きちんと食べたか確認の写真を送らないと奥さんに怒られるんでしょ」
何時もは食事前か食事後の写真を送っているらしいがたまにはこんな写真も良いだろうと香子は素早くメールを開き写真を添付して後藤に送る。
送った写真を見て後藤がどんな反応をしているか安易に想像がつく。
ついでに愛息子の写真を見て緩みきった表情を同僚達に見られると良いわと念も送った。
食後のお茶を飲んでいた香子の母親は「そうだ」と切り出した。
「お母さんこの後、歩の学校の保護者会に行くから洗濯物よろしくね」
「げっ、何で私が」
「ぼくも、ぼくもてつだいます」
面倒臭いと嫌な顔をする香子を他所に零はそう続いた。
最終手段で零を出しに回避しようとしていた香子は早々にその手が使えなくなったので諦めた。
「分かったわ。洗濯物は取り込んでおく」
「取り込んだままだと皺になっちゃうわね」
「・・・取り込んで畳んでおくわ」
にこにこと笑みを絶やさない母親に香子は内心計られたと思った。
香子が零を出しにお手伝いを回避しようとしたように彼女も零を出しにして香子にお手伝いを見事させる約束を果たしたのだ。
「香子お姉ちゃんぼくもたたむのてつだう」
手伝いの何が良いのか挙手してまで名乗り出る零に香子は頼りにしている事を伝えた。
将棋教え方は結局、無茶苦茶で良いので取り敢えず駒をさ指して間違いは指摘するという零には覚えのある教え方で落ち着いた。
暫くして余所行きの服装に化粧をした香子の母親はリビングに入るなりおやつの場所を香子に伝えると家を出て行った。
それから二人は3時のおやつ休憩を挟みながら将棋を指した。
攻めたり守ったり敵を討取らず目の前を素通りしたりとやりたい放題の盤であるが零が楽しそうにしているので香子もこれで良いかと納得する。
香子の携帯のアラームが鳴った。
集中し過ぎて洗濯物を取り込むのを忘れない様に香子自身がかけておいたアラームだ。
それを止めて香子は立ち上がると零に声をかけた。
「さあ、零。洗濯物を取り込むわよ」
盤を見つめていた零は生返事で答えながら一手指す。
それはしっちゃかめっちゃかで、それでも盤を整えつつ攻めていた香子の駒には痛い一手であった。
思わず盤を見つめ思案の耽けそうになる香子であったがこれではキリがないと後一歩の所で踏み止まる。
「私が洗濯物をハンガーや物干し竿から降ろすから零はそれを家の中に置いて来て頂戴」
香子の決めた役割分担に零は不満一つ溢さず、洗濯物を早々に取り込むとそのまま二人は家の中に移動して香子は服や靴下等細かい物を、零はタオル類と分担して畳み出した。
自分の体より遥かに大きなバスタオルに苦戦する零に香子がこの間から気になっていた事を尋ねた。
「零っていつからそんな良い子ちゃんになったのよ」
後藤零は元から大人しく聞き分けの良い子供である。
駄目と言われてばそこで大人しく我慢も出来るし注意すれば二度と同じ事はしない。
そんな子供ではあるが先程の様に人の家の手伝いを買って出る様になったのはつい最近の事である。
初めの頃は教育番組か何かの影響だろうと思って静観していた香子であるが近頃は何か手伝う事がないか探している様にも見える。
良い子ちゃんという形容は少し棘があるかと思った香子であるが言われた本人はその棘にも気付かず一拍して嬉しそうに目を輝かせた。
「ぼく、いいこ?」
「そうね。お手伝いをよくするのを見かけるし」
香子は幸田家だけでなく桐山の家でも手伝いを自ら進んで行っているのを知っている。
良い子であると肯定された零はそれはそれは嬉しそうにしていた。
如何してそんなにも良い子が良いのか尋ねれば零は声を潜めて「あのね」と香子に言った。
「いいこにしてたらお母さんがはやくびょういんからかえってくるの」
香子の中で零が人の家の手伝い迄買って出て良い子にしているのは自身の経験を踏まえて何か欲しい物があるのだと思った。
もしくはクリスマス。
良い子にはサンタクロースがプレゼントをくれるよ何て夢物語を信じているのだろうと予想していた。
だが実際は只、病気で入院していて会えない母親を想っての行動で香子は悲痛を胸に感じる。
母親が入院となった時、初めこそ不安の色を浮かべていた零であるが近頃はそれもなくあっけからんとしていた。
周りはまだ幼いからよく分かってないのだろう。
これ幸いとしていたが実際は確かにこの子供は母親のいない寂しさを感じていたのだ。
「お母さんはやくかえってこないかな」
「・・・その内帰って来るわよ。
だって零はこんなに良い子にしてるんだもの」
零の母親はそんなお手伝い程度で良くなる病気ではない。
ゆっくりと根気よく治療を続けてやっと治るか治らないかの病気である。
病気が見つかって暫くは通院と投薬が主であったが急なこの入院。
後藤や他の大人達の様子から退院の目処はついていないのだろうと香子は考える。
誰の入れ知恵か、零に対して無責任な事を言った相手に香子は恨み言を言いたくて仕方がない。
しかしそれを信じて疑わず懸命にお手伝いに励む零に香子は肯定するしかなかった。
「うわっ姉ちゃんが家の手伝いしてる」
これは天変地異の前触れだとまで失礼な事を言うのは学校帰りの歩である。
「歩お兄ちゃんこんにちは」
「零久しぶり。姉ちゃん、零が来てたなら教えてよ」
部屋の入り口に鞄を置いた歩は零の後ろに回り込むと自分の組んだ足の上に零を座らせた。
「教えるも何もあんたは学校でしょ?」
「そうだけど知ってたら友達と学校で駄弁らず帰って来たのに」
深いため息を吐きながら歩は零の頭に顎を乗せてうな垂れた。
「歩お兄ちゃんおもいよ」
手加減はしているのであろうが小さな身体で歩の頭を支えるのは難しく零の体勢は歩に押し潰されるように前屈状態となっていた。
そんな状態を見かねて香子は歩を嗜める。
「もう、止めなさいよ歩。
零こっちにいらっしゃい」
最後に父親の寝間着を畳終えた香子はそれを退かして自身の膝の上を叩いた。
歩の重さに耐え兼ねた零は香子の方へ避難しようとするが歩が零の腰をがっちりと掴んでいる為動けない。
「逃げるなよ零。久しぶりなんだから僕にも構えよ」
一番零が預けられる頻度が高い幸田家であるが歩と零の遭遇率は桐山家のちひろよりも低い。
というのも歩は学校以外にも友人と出掛ける事が多い上香子程零に対して予定を割いていない。
歩本人としては割いても構わないのだが何せ零が幸田家にお邪魔するのは歩が学校に出かけた後の時間である。
後藤の仕事が長引けば夕飯の頃までいるが殆どは其れまでに帰ってしまう。
今日は学校で会った母親に零が来ている事を聞いて慌てて帰って来た歩であるが普段は放課後友人達と遊びに出たりするので歩と零はほぼ入れ違いのすれ違いであった。
なので今日は久しぶり、と言ってもたかが二週間ぶりであるが歩にとってはされど二週間ぶりである。
「歩お兄ちゃんくすぐったい」
香子の方へと避難を試みる零に歩は擽る事で足止めに成功した。
擽られ身を攀じる零を歩は抱え込み畳の上に転げる。
畳の上で転がり回る二人にせっかく畳んだ洗濯物を駄目にされては堪らないと香子は慌てて零が畳んだタオル類を自身の方へと引き寄せた。
暫く擽り擽られと遊んでいた二人であるが片や帰宅部、片やまだ小学校にも上がっていない幼児で息が上がるのは早かった。
「それで零は今日は何してたの?また将棋?」
歩の言う将棋は詰め将棋の事である。
彼に尋ねられた零は首を横に振り、口元に手を当てて嬉しそうな笑みを零しながら答えた。
「香子お姉ちゃんに将棋を教えてもらってたの」
「んんっ???」
「将棋と言っても対局の方よ」
零の返答に混乱仕掛けた歩に香子は付け加えた。
「へー珍しいいつも詰め将棋ばっかだったのに」
「この間、後藤と会館に行ってから零のマイブームらしいわ」
「それで零は将棋の指し方覚えたの?」
それこそ大人の好奇心から詰め将棋をする零であるがその解答は何時も本能というのか勘のような感覚に頼りきったものばかりで説明が出来ない。かと言って大人や自分達が将棋の指し方を教えた覚えもないので今回が初めての将棋講習になる筈である。
普段の付き合いから記憶力は悪くない子供であるので無問題だと思いきや香子の反応は芳しくなかった。
「駒の動きを零に教えてたんだけど途中で私も訳が分からなくなってきちゃって」
そう言ってリビングに移動した歩が見たのは駒があっちこっちに移動してもはや訳が分からない、けどちょっとだけ香子が劣勢な盤であった。
「姉ちゃんいくら暫く将棋を指してないからってこれは無いよ」
「仕方ないでしょ!零に駒の動きを教えようと思ったらこうなっちゃたのよ」
絶句の後に呆れ声で言った歩に香子は反論した。
ただ懇々と駒の動きを教えていると頭と手の動きが噛み合わず香子の頭がだんだん混乱して来てゲシュタルト崩壊手前まで来る。
だったらと先ずは零に適当に指さしてから誤りを指摘するで落ち着いた香子であるが結果がこの盤状である。
「ていうかさ」
歩は鞄からルーズリーフとペンを取り出し何かを書き出した。
ルーズリーフに書かれたのはいくつものマスと駒の絵と矢印で紙の端には「一マスだけ」「タテヨコ自在」と簡潔な説明が書かれている。
「予め紙に説明を書いとけば混乱しなくて良いんじゃない?」
零に数枚に渡る説明書を渡した歩は盤の前に零を座らせて「歩」の駒を指差した。
「この駒はどう動くの?」
「えっと、一マスだけまえに」
「じゃあ、こっちの駒は」
歩の問いに零は渡された紙を手に対応した。
カンニングペーパーがあるとはいえ聞かれた駒の動きにちゃんと答えられる零の姿に自分の先程迄の苦労は何だったんだと香子はソファに凭れて項垂れる。
「あれ、香子お姉ちゃん」
一通り駒の動きを理解出来たか確認出来たので対局の続きをとなったのだが歩と零が気付いた頃には香子はソファで寝息を立てていた。
「香子お姉ちゃんおねむ?」
「みたいだな。まあ昨日も学校の課題を夜中迄やってたし昼間も頭使ったみたいだから疲れて寝ちゃったんだろうな」
香子が眠ってしまった事を確認した零はリビングを飛び出すとすぐに戻って来た。
手には先程零が畳んだタオルケットで、それを拡げると香子の体へとかけた。
「零、気がきくじゃん」
「おんながからだひやすんじゃねえっていつもお父さんが」
他人が聞けば「え、それ後藤さんの台詞?」と驚くところであるが歩は後藤の愛妻家っぷりを知っていたので何も驚かなかった。
寧ろあの人らしいな、とまで思っている程度に幸田家では(勿論桐山家でも)後藤の愛妻家っぷりはもはや常識である。
香子が寝てしまった為将棋の続きは断念せざる負えず、香子が零の為にと用意していたアニメ映画でも見せようか思案していた歩のズボンの裾を零が引っ張った。
「歩お兄ちゃんしょうぎしよ、しょうぎ」
姉程ではないが零を溺愛する歩は足にくっついて将棋をする事をお強請りして来る零が可愛く思うのだが
「将棋かー」
将棋を指すとなると話は別である。
「いつもの詰め将棋じゃ駄目?」
「対局したい」
「ええー・・・」
何時もは素直で大人しいと評判の零であるが、どうも将棋となると聞き分けがない。
将棋番組がやってればチャンネルを変える事は許さないし、殆ど読めないであろう将棋雑誌を読んでいるところを邪魔すれば怒るし、詰め将棋の誘いを断れば涙を目に溜めて地団駄を踏む。
零は聡い子なので詰め将棋の誘いに関しては将棋が出来る人出来ない人、忙しい人忙しくない人を選んで誘うので殆ど断られる事は無いのだが歩だけはその誘いを何度か断った事があった。
理由としてはゲームで忙しい、気分じゃないと言った感じで、初めの内は零もめげずに誘って来るのだがそれでも駄目だと分かると俯き唇をきつく結んで地団駄を踏む。
だいたい此処まで来ると歩も観念して誘いに乗るのだがつい一度だけ魔がさした。
地団駄を踏んでも我関せずとしていたらどうなるのか試したら見事暫く零から避けられた。
声をかけても無視、目が合おうものなら顔を背けられ終いには「歩お兄ちゃんいじわる。きらい」とまで言われてしまった。
零は聡い子だった。
だから零は歩が自分の様子を観察する為にわざと素っ気ない態度をとっていたのを分かっていたのだ。
あれはもう嫌だとしみじみ歩は思う。
何だかんだ歩も零を溺愛する人間の一人なのだ。
「じゃあ疲れるから一局だけな」
渋々誘いに応じた歩に零は満面の笑みを浮かべた。
思わずパシャり。
またもや襲われた突然のフラッシュに零は目を瞬かせる。
写真が確かに撮れた事を確認した歩は携帯を胸ポケットにしまい何事も無かったかのように駒を並べ出した。
「零が先手、ハンデはどうする」
「はんで?」
聞き慣れない言葉にきょとんして首を傾げる零に歩は思わずまた携帯を構えそうになったが流石に2回目である。
零も学習したのか歩が胸ポケットに手を伸ばした所で自身の手で目を隠してしまう。
それに撮影を断念した歩は一度並べた駒を手に取り自陣の駒を玉だけにする。
「ハンデっていうのはこう、」
するとすかさず
「歩お兄ちゃん。ちゃんと駒並べなきゃ駄目だよ」
よくは分かっていないのだろうが零は駒落ちを良しとはしなかった。
せめて飛車落ち、香落ちと思ったがどの駒が欠けても零は「歩お兄ちゃん駒忘れてるよ」と譲らない。
結局対局初心者の零に歩は平手での戦いとなった。
「ただいま」
「お邪魔します」
ちょうど家の入り口で会った香子達の母親と後藤は二人一緒に家の中へと入って来た。
二人の声に返事はなく後藤はてっきり香子と零は散歩にでも出かけたのかと考えたのだが香子の靴も零の靴も玄関あった為隣にいた彼女がその考えを否定した。
玄関には二人だけでなく息子の靴もあった為、彼女は家内の異様な静けさに頭を傾げる。
「あらあら」
リビングに入った所で彼女はそんな声を溢した。
続いて後藤がリビングの光景を見て笑いを漏らす。
リビングに置かれたソファーで香子が、その側には歩が零を抱き抱えて眠っていた。
「遊び疲れて眠っちゃったのかしら」
「・・・あれ、母さんおかえり」
浅い眠りだったのか歩は薄く目を開いた。
抱えた零を落とさないよう上半身を起こし、欠伸を漏らす。
「後藤さんも来てるじゃん」
挨拶を交わして「零、」と歩が小さな身体を揺すると小さく開いた目を擦りゆるゆると顔を上げる。
「お父さんおかえりなさい」
まだしっかりと覚醒していないのか覚束ない足取りで零は後藤の側に駆け寄る。
起きたばかりで身体の温かい零を抱き上げ、零からのスキンシップを感受していればいつの間にか後藤の横には部屋の賑いに目を覚ました香子が立っていた。
「零、落としたわよ」
「ありがとう香子お姉ちゃん」
零が後藤に駆け寄る途中で落としたルーズリーフの束を香子は零に返すと彼女は視線を後藤へと向けた。
「もう帰るの?夕飯は?」
「今日はこのまま帰らせてもらう」
「泊まってけばいいのに」
「そうもいかないだろ」
「じゃあ、零だけ置いてってよ」
「もっと無理な話だな」
寝起きで少し不機嫌な香子と軽口を叩いていればキッチンの方から彼女を嗜める声が聞こえた。
「香子、我儘言わないの。
零君はこの後お母さんのお見舞いに行くんだから」
母親の言葉に香子と零は瞳を瞬かせ「本当に?」と後藤に尋ねた。
後藤は頷き応える。
「やっとあいつが許可をくれてな」
あいつとは後藤の妻である。
その彼女が入院している病院は面会時間内であればいつ誰でもお見舞いに行けるのだが入院したタイミングが悪かった。
彼女が入院した直後に院内で季節遅れのインフルエンザが流行り出したのである。
高熱をだすインフルエンザは最悪の場合、脳炎にかかる可能性もあるからと彼女は幼い零は勿論の事、仕事が忙しい後藤もあまり病院に来ないよう言った。
その為、彼女が入院してからというもの零は一度も母親の見舞いに行けていないし後藤も殆ど行けていない。
だがこの度やっと院内のインフルエンザが完全に終息したのである。
その連絡を対局明けにもらった後藤は対局明けの疲れなど何のその。
会館を出る時の足は誰よりも軽やかだったとか逸話休題。
久しぶりに会える母親に喜ぶ零に香子は仕方ないと諦めた。
「また来なさいよ零。別にこっちは毎日来てくれても良いんだから」
眠気も吹っ飛んだのか喜ぶ零の頬を香子は軽く摘んで玩ぶ。
「幸せそうな顔しちゃって」
「久しぶりにお母さんに会えるんだもんな。良かったな零」
「うん!お父さんはやくはやく」
善は急げとばかりに後藤の肩を叩いて急かす零の姿に香子と歩は笑った。
幸田家の面々に挨拶をして別れた後藤は別れ間際に香子に言われた言葉を思い出す。
「零をあまり良い子ちゃんにしないでね」
何時もの勇ましいそれでいて少しの憐憫の色を含んだ彼女の表情と言葉に思い当たる事のあった後藤は小さく溜息を吐いた。
「良い子にしてたらお母さんはやく帰ってくる?」
その言葉が発せられた現場に後藤はその日が休みで居合わせていた。
妻に病気が見つかり暫くは投薬と通院の生活であったが季節の変わり目に体調を崩した彼女は医師から経過観察も兼ねての入院を勧められたのだ。
後藤としては普段の投薬と通院だけで大丈夫かと不安に思っていた所であったので治療が進むかもしれない入院には賛成だった。
しかし懸念もあった。
幼い零の存在である。
入園出来る保育園が見つからず、今まで母親と共に一日を過ごしてきた零が母親なしに生活出来るのか夫婦は懸念していた。
医師はすぐにでも何ならこの話の後そのまま入院とまで言っていたらしいがそんな急にという訳には行かず後藤の妻は一時帰宅をしてきた。
後藤にも医師の話をし、夫婦の考えがまとまった事で零を呼んで入院の話を切り出す。
零は話をすんなり聞き分けた。
聞き分けがいい子だと思っていたがここまで良いのかと舌を巻いていれば「じゃあ、僕もびょういんにいくじゅんびをしなくちゃ」と立ち上がる零に夫婦は幼い子供との間にある認識の齟齬を理解した。
慌ててもう一度座らせて入院の話をし、その入院は母親一人だけで零はついて行けないのだと改めて説明すれば想像通り。
いや、想像以上に零は泣いて喚いて取り乱した。
何時もの大人しい聞き分けのいい子供はそこにはいなかった。
自分の感情を露わにする年相応の幼い子供がいた。
再度立ち上がった零は母親に抱きつき彼女服を涙に濡らした。
何を言っても「いやいや」と首を振り拒否をする。
「零はお母さん病気なの知ってるだろ」
「うん」
「お母さんの病気早く治ってほしいよな」
「うん」
後藤の問い掛けに零は顔を上げて答えた。
その目も目元も真っ赤で顔は涙や鼻水でぐちゃぐちゃである。
そんな我が子を抱き上げた彼女は近くに置かれたティッシュを手に取ると優しく拭き取る。
「病気を早く治すには入院がどうしても必要なんだ。
それともお母さんと離れ離れになるくらいなら入院しない方が良いか?」
「いや!」
後藤は我ながら酷い事を聞くと思った。
せっかく彼女が色々と拭いて綺麗にした顔も逆戻りである。
どちらに対して嫌なのか母親にしがみつき「いやいや」を繰り返す零の頭を彼女は優しく撫でた。
入院はずっとではない。
お医者さんから許可が出れば戻ってくる。
その事を優しくゆっくりと彼女は説明する。
「本当にお母さん帰ってくるの?」
「お医者さんから許可が出たらね。それまで零は良い子でいられる?」
「・・・ぼく、いいこでいる」
だから早く帰って来てと抱きつき甘える零に彼女は笑ってその背中を撫でた。
ここまでは良かった。
此処まではよくある話である。
そもそも彼女の言う良い子は「お母さんがいなくても我慢出来る?」という良い子であってそれ以上のものは求めていない。
しかし零の中の良い子は違った。
幼い零は母親の言葉をそのまま受け取り自身が「良い子」で入れば母親はすぐにでも病院を出てくると考えた。
それを裏付ける様に零は後藤の妻が入院したのを境に人の手伝いをしたがる様になったのである。
まだそれぐらいならいいが元々大人しく将棋の事を除けば我儘は少なく無茶苦茶な事も言わない大人しい子供なのに明らかに子供らしくない遠慮までする様になった。
何も知らない人間は生まれ持った性格だろうと思い「零君は良い子ね」なんて言うものだから後藤はそのらしくない行動が増長している様な気がしてならない。
きっとこの頭の悪くない子供は自身が「悪い子」で入れば母親は病院から出てこないと考えているのであろう。
「お父さんこれなに?」
零の声に現実に引き戻された後藤はルームミラー越しに零が掲げた物を確認した。
青空にお城、仲間の猫を背景に将棋の駒を掲げた王様猫の絵本。
将棋の駒を見て自分の掲げた絵本がどういった内容か察しているのだろう零の瞳が期待で燦々と輝いていた。
「零へのお土産だ。
何時も良い子でいるご褒美にな」
将棋の絵本だと言えば後部座席から嬉しそうな声が聞こえる。
早速本を開いているのだろう。
ページが捲られる音と共に零の声は聞こえなくなり再度ミラーを見れば絵本を読んでるとは思えない真剣な表情の零の顔が見えた。
「零をあまり良い子ちゃんにしないでね」
香子の言葉が又またしても後藤の頭に過ぎる。
「分かってる。分かっているんだが」
もはや将棋に関わる事以外に幼さを失いつつある零にどうすれば良いのか後藤は分からなかった。