後藤零君
零は部屋に鳴り響くインターホンの音に目を覚ました。
一度、二度では諦める事なく鳴り続けるインターホンの音に零は目を擦りベッドから降りると自室を出て玄関へと向かった。
一番奥にある零の子供部屋まで響く大きな音であるが後藤はまだ起きてないらしい。
しかし対局明け彼は何時もそうなので零は気にも止めなかった。
「ちょっとーまだ寝てるの?」
玄関に取付られた郵便受から声が聞こえる。
「香子お姉ちゃん!」
玄関扉の相手が不明確でゆっくりと近づいていた零であったが聞き知った声に慌てて扉に飛び付く。
「あら、その声零ね。
零、早く開けて頂戴。このままじゃ暑くてお化粧取れちゃう」
扉の向こうの香子に急かされて零は鍵を解錠しようと背伸びするが子供の零に扉の鍵は遠くやっとの思いで一つ解錠するがキーチェーン迄は手が届かない。
鍵の解錠の音に香子は扉を引くがまだキーチェーンかかる扉は彼女の顔の半分も開かなかった。
香子はキーチェーンを忌々しげに見つめながらこれでは零も開けられないと思ったのか彼女は零の父親である後藤の所在を尋ねる。
「後藤はどうしたの零。
あの人、昨日私が『今日は零の面倒を見る』ってメールを送ったから私が今日この時間に来る事を知ってる筈何だけど。
まさかもう仕事に行ったとかじゃないでしょうね」
後藤は子煩悩な男である。
なので幼い零を家に一人残して置いていくなんて事は天と地がひっくり返ってもあり得ない事なのだが約束の時間を過ぎているにもかかわらず今対応しているのが零一人となるとそのあり得ない事があり得てしまったのかと香子は思索する。
零がお父さんはまだ寝ていると言いかけた所で玄関の扉は再び完全に閉められた。
香子は急な事に何事かと零の名を何度も呼びながらドアノブをガチャガチャと回す。
「今、扉のチェーンを開けるから大人しく待ってろ」
扉を閉めたのは後藤であった。
寝起きらしい彼は眉間に寄せながらチェーンを外す。
すると香子は勢いよく開けて玄関へと飛び込んだ。
「おっそいわよ。せっかくのお化粧が崩れちゃうじゃない」
「香子お姉ちゃんはおけしょうしなくてもきれいだよ」
「あら、生意気な事言うわね零。一体そんな言葉何処で覚えてきたのかしら」
ちらりと後藤を見上げる香子。
彼女の視線に自分は知らないという後藤であるが零と関わる人間は限られているのでその限られた人間の中でそのような事を言うのは彼ぐらいしかいない。
実際、後藤が妻に言っていた言葉を零は真似したのだがまさかその場面を見られていたとも思っていないので彼の供述はある意味正しい。
「ちょっとやだ。まさかその格好昨日のままなんじゃないの」
後藤が肯定する前から信じられないと顔を顰めて嫌悪を露わにする香子。
香子は零を引き寄せて後ずさる。
後藤の格好はというと昨日来ていたシャツにスラックス、寝起きであろうぼさぼさの髪に無精髭。
指摘された後藤は罰が悪そうに踵を返して二人の先を歩く。
「さっさとお風呂に入って着替えなさいよ。
あら、零ったらこんなところに寝癖なんか付けちゃって可愛い」
自分と零に対してこの差、と後藤は寝癖を気にして自分の髪を撫で付ける零を可愛い可愛いと構う香子に呆れつつ促されるまま浴室に入った。
何度か後藤の家にお邪魔した事のある香子は勝手知ったるでリビングダイニングに移動するとテーブルに保冷バッグを置き中身を取り出した。
タッパーに詰められたのは野菜やハム、卵がふんだんに挟まれた彩り鮮やかなサンドイッチで、香子はそれを食器棚から取り出した皿へと取り分ける。
その様子を机越しに眺める零に香子は着替えと朝の身支度を整えるよう伝える。
「さっきから気になってたけど零。あんた頬によだれの後付いてるわよ」
指摘されて思わず頬を触れば確かに涎が垂れて乾いたのかがさりとした感触がして零は慌てて洗面所にへと走った。
「朝食。勝手に準備したわ」
「すまん」
お風呂から上がり、髭も服装も整えた後藤がリビングダイニングに入るとテーブルにはサンドイッチとコーヒーが用意されていた。
後藤がついた席の向かい側ではこれを用意した香子と今まさにサンドイッチを食べようとする零が座る。
先ずはコーヒーを一口飲み、後藤は目の前のサンドイッチを観察した。
「因みにこのサンドイッチは」
「私が早起きして作ったものだけど」
香子の回答に驚愕した後藤は勢いよく立ち上がりサンドイッチを食べかけていた零に制止するよう言った。
というのも遡る事ほんの数日前の事である。
その日、後藤は同じ門下で兄弟子である幸田と同じ場所で仕事をしていてそのまま夕食でもと誘われた。
幸田の家に零を預かってもらっていたので仕事帰りに寄るつもりではあったのだが幸田からの夕食のお誘い。
始めは断っていたが幸田はそれでも熱心に誘い、後藤も幸田の家に帰る途中で零が寝てしまうとまた夕食を食べさせ損ね最悪入院中の妻に怒られてしまうと思った為結局誘いに乗る事にした。
その日の幸田家の夕飯は息子の歩リクエストで鳥の唐揚げに葉物野菜のサラダ、根菜の煮物であった。
後藤は幸田の横に、零は何時もの如く幸田の姉弟に取られ二人の間に座っている。
「今日の煮物は香子が手伝ってくれたんですよ」
幸田の妻は料理の途中で隣家の婦人に呼ばれて暫く台所から離れていたらしい。
その間、香子が煮物を仕上げてくれたのだと彼女はご飯をよそいながら嬉しそうに話した。
「やめてよお母さん。恥ずかしいじゃない」
香子は居心地悪そうに言うが彼女はよほど嬉しいのか笑顔のままだ。
幸田は後藤にお酒を進め運転があるからと断るとだったら泊まっていけば良いと言った。その言葉に反応したのは子供達で幸田以上に二人は酒を進めてくる。
それも断り、子供達が幸田の妻に注意されたところでいただきますのあいさつ。
各々、料理に箸を伸ばす。
その日のメインをリクエストした歩とダイエット中だとサラダを取った香子の二人以外は先程話題に上がった煮物へと箸が伸びていた。
大人達はほぼ同時、零は煮物を香子に取り分けてもらっていたタイムラグで少し遅れて口に入れる。
「・・・どう?」
煮物の評価を気にして大人達を伺う香子。
咀嚼をしていた者達の眉は少しずつ下がる。
「香子、あなた一体何をいれたの」
「しょっぱいなこの煮物」
その煮物のしょっぱさはちょっとお醤油入れ過ぎちゃったのレベルをゆうに超えていた。
最早砂糖と塩を入れ間違えたレベルである。
母親と後藤の反応に香子は狼狽える。
「ちゃんとお母さんの言ってた分量通り入れたわよ!」
「姉ちゃんこれまじでしょっぱ過ぎ」
大人達の反応に興味本意で煮物に手を出した歩は呻くように言った。
弟の反応に香子は「みんな何よ!」と自分でも味を確かめようと煮物を口に放り込むのだが
「うえっ、しょっぱい」
あまりのしょっぱさに香子は口元を押さえ何とか無理やり飲み込んだ。
聞けば彼女は自宅で使う砂糖は三温糖と知らず調味料棚にあった塩を砂糖と勘違いして指示されていた分量を鍋に入れたらしい。
それを聞いた幸田の妻は娘にこれまで家事手伝いをさせて来なかった事を後悔し、歩はまるで漫画のような失敗をした姉に口を開け呆れていた。
「もう、なによ。しょうがないじゃない砂糖って言ったら普通白でしょ?!
三温糖なんて存在も知らなかったのよ」
弟の視線に耐えかねて香子は叫び両手で手を覆った。
幸田の妻は手伝ってくれた香子に申し訳なさそうにしながらも煮物の皿を下げ、個人が取り分けた煮物の乗った皿も回収していく。
「あら、あなた」
自分のお皿と後藤と歩が差し出したお皿を盆に乗せ、夫の皿も回収しようとしてその皿に乗っていた煮物が綺麗さっぱり無くなっている事に気が付いた。
「取り分けた煮物、全て召し上がってしまったんですか?」
「取り分けた物を残すのは忍びない。それにせっかく香子が手伝った煮物だから全部食べてしまった」
「・・・馬鹿じゃないの。あんな塩っからいもの食べて体を悪くしても知らないんだから」
「まあ、確かにしょっぱかったがそれ以外は悪くなかった。次は頑張りなさい」
「云われなくても!次はもうこんな失敗しないわ」
未だ顔を両手で覆ったままの香子は幸田に諭され最後は小さく「はい」と答えた。
彼女の素直さに後藤は少し驚き、幸田の妻が息を吐き安堵していた時、歩が声を上げる。
「零!もうやめとけ!ぺっしろぺっ!」
見れば頬を少し膨らました零が歩に揺すぶられていた。
「そんな塩っからいの食べたら体に悪いって姉ちゃんも言ってただろ?!」
「零ってばあの煮物まだ食べてたの?!早く吐き出しなさい」
歩の声に気付いた香子は悲鳴の様に叫んだ。
しかし零は頑として譲らず口をおさえて二人の言葉を聞き入れる気がない。
「おのこしはだめ」
あまりの塩辛さに零は涙を浮かべながらも「いやいや」と口の中の物を吐き出させ様とする二人に抵抗する。
それどころかまだ皿に残る煮物に手を伸ばす零に歩は零をおさえ、香子は皿を取り上げる。
「おのこしするのはわるいこなの」
「これは失敗作だから残して良いんだよ」
「みんな残してるでしょ。早く口の中に残ってるのも吐き出しちゃいなさい」
お残しする事に激しく抵抗する零に、何としても零の口の中に残る煮物を吐き出させたい香子と歩。
しまいには大人も参戦してお残ししないよう頑張ってる零が泣き出し収集のつかない展開となりその日の夕食は散々であった。
その事を思い出していた後藤に香子は意地悪な笑みを浮かべた。
「嘘よ。これはお母さんが作ったサンドイッチ。
それに私もそう何度も砂糖と塩を間違えたりしないわよ」
心外だわと鼻息荒くさせる香子。
「早く食べちゃいなさいよ。時間ないんでしょ」
壁に掛けられた時計を見て確かに時間は無いと後藤は席に戻りサンドイッチに手を付けた。
朝食を手早く済ませ、後藤はジャケットに鞄、零に水筒と念のための着替えを詰めたリュックを持たせ三人は部屋を出る。
後藤が車の鍵を開けると香子は後部座席を開けて零をチャイルドシートに座らせ、香子が続いて乗り込む。
後藤も運転席に乗り込み車を発進させる。
「そういえばお前こっちに結構来るけど彼氏は良いのか」
桐山の妻と幸田の妻、それに後藤の妻三人による家族のプライバシーも何もあったものではない『棋士の妻の会』という恐ろしい情報網が存在する。
それによると香子は大学に入ってから新しい彼氏が出来たというのだが大学が休み、休講となると後藤の携帯を時にインターフォンを鳴らし零、零、零である。
妻は入院、自分も働く身で預ける所がない後藤としては(本人には決して言わないが)香子の存在はかなりありがたい。
が、此方に気を使うあまり彼女の私生活が台無しになってしまうのは後藤の本意でない。
後藤の妻と親しくしていた彼女の事なので変に気を使い彼氏の誘いも断り無理して此方まで来ているのではと思った後藤であるが
「ああ、あんな男とっくに別れたわ」
それは杞憂であった。
「本当にうっざい男だったわ。ちょっと付き合ってあげたら調子に乗って偉そうに人のする事に口を出してきて」
ルームミラーに映る香子はよっぽどその元彼氏との事は嫌な思い出なのか忌々しげに表情を歪めて話す。
「休みの日もしつこく遊びに行こうだの誘ってくるし。
誘いを断ってたら最後は自分と零どっちが大切なんだって」
「そりゃあ零だろ」
「でしょ!」
車内には子煩悩な後藤と話をよく分かっていない当事者の零のみだったので香子の発言を突っ込むものはいなかった。
同意した後藤に香子は前のめりになり彼の共感を得た事で少し表情を和らげていた。
「香子お姉ちゃん」
「何よ零」
「なんのおはなししてるの?」
盛り上がる二人に話がついていけない零は頭を傾げて香子に尋ねる。
「あんたとこれからもたくさん遊んであげるって話よ」
端的に言えばである。
香子の言葉に零は大きな瞳を瞬かせて「本当?」と尋ねた。
「本当よ本当。零は今日は何して遊びたい?」
「えっとね。しょうぎしたい」
「そんなの何時もしてるじゃない」
「ちがうの」
「違うって何よ」
意味がわからないと言う香子に否定の意味を込めて首を振るう零の代わりに後藤が説明する。
「零は詰め将棋じゃなくて対局がしたいらしい」
幸田家に零が行って遊ぶと言ったら将棋であり将棋と言っても詰め将棋。
これを零に教えたのは子供達ではなく幸田に桐山、後藤の大人達であった。
事の始まりは後藤が幸田と桐山に零が初めて喋った時の事を話していた時だ。
後藤はその日、赤ん坊の零を胸に抱きながら将棋雑誌を読んでいた。
丁度その号は詰め将棋の特集を組んでいて内容も専門家監修もありプロ棋士である後藤を悩み唸らせる程に難しい問題が揃っていた。それでもだいたいのものは解けたが最後に一問だけどうしても解けないものがあった。
ああでもないとこうでもないと幾つもの手を考え時には口に出し頭の中将棋盤で指してみるも上手くいかない。
気になり苛つき悶々する後藤の胸の上で彼と共に雑誌の図を見ていた零ははっきりした口調で「6七角」と呟いたのだ。それに驚きつつもそのまま駒を進めれば今まで悩んでいたのが嘘の様にするすると解けてしまう。
唖然とする後藤。
だがそばにいた妻の「もしかして今のが零が初めて喋った言葉?」という呟きに愕然とした。
夫婦はそれまで幾度となく子供が初めて何を喋るのか楽しみにしていたのだ。
しかしまさか初めて発した言葉は「6七角」。
「ママ」や「パパ」呼びを期待していただけに衝撃は凄まじく「6七角」の原因であろう後藤に対する妻の視線はとても鋭いものであった。
幸田と桐山にはその時の妻がどれ程冷たい表情をしていてとても恐ろしかったという話をしていたのだが、流石というべきなのか最早職業病というべきなのか幸田が食い付いたのは赤ん坊の零が詰め将棋を解くきっかけを作ったという事だった。
幸田はそばに置いていた将棋雑誌を手に取り幸田の姉弟と桐山の娘と一緒に居間でテレビを観ていた零を呼んだ。
居間では零が居間から出る事に不足を訴える姉の声が聞こえるがそれから暫くして零は大人三人のいる和室に表れた。
後藤が己の膝を叩くと零は嬉々として組まれた足の間に収まる。
「零君はこれ解けるかい」
幸田が開いて差し出したのは奇しくも何時ぞやと同じ雑誌の詰め将棋の特集であった。
流石に無理だろと後藤は思ったし桐山もきっと同じように思っていた。
その証拠に幸田が零に詰め将棋の問題を見せてからずっと苦笑いを浮かべている。
後藤も零が初めて喋った言葉で問題解けた時はうちの子は天才かと心の内で盛り上がりもしたが後々冷静になって考えてみればぶつぶつと側で言葉を溢していたのを反復しただけなのだと納得していた。
それに後藤は零に一度も将棋に関した事を何一つ教えていない。
唯一と言えば撮り溜めのテープ整理をきっかけに対局のテープを見ているぐらいである。
だから急に詰め将棋の問題を出されてもこの幼い息子は分からないだろうと思ったその時、零は後藤の想像を良い意味で裏切った。
はっきりと確かな声で零は解答したのだ。
それには後藤も桐山も、問題を与えた幸田も目を丸くさせて驚いた。
幸田は零の解答が正しい事を伝えると次のページをめくり新しい問題を提示した。
零はそれもあっさり答え、幸田がページをめくり零が答え、が雑誌の問題がなくなるまで続いた。
「零君はどうして答えが分かるんだい」
後藤からは何も教えていないと聞いた桐山が尋ねる。
零は桐山の質問に頭を傾げて答えた。
「きもちわるいの」
その言葉に後藤は調子が悪いのかと聞くがそう意味ではなく
「ほかのとこにこまがくるときもちわるいの。だからそうじゃなくなるこまとばしょをえらんだの」
大人達には零の言葉が理解出来なかった。
理解は出来ないが幼い零が詰め将棋が出来ると分かると今度はどれだけ出来るのか気になる大人達。
家中の詰め将棋の本を掻き集め、解きやすい様にと将棋盤を持ち出し駒を並べて零がどれだけ解けるのか見極めようと問題を出した。
それに幸田の姉弟が加わり、零本人も詰め将棋の問題を出されても嫌な顔もしないものだからそれは定番となった。
この事があり幸田家で零と将棋となると
=詰め将棋となったのだが
「零、あなた将棋指せるの?」
今回は詰め将棋でなく対局の将棋がしたいらしい。
「一応この前、会館に連れて行った時に習ったらしいんだがな出来る出来ないと言えば出来ないな」
零はきちんと駒の進みを理解出来ていない。
「駄目じゃない」
「そこでだ。香子、お前が将棋を教えてやれ」
香子の「はぁっ?!」という声と同時に車は幸田家に到着した。
動揺しながらもチャイルドシートから降りようとする零を手伝う香子。
運転席から降りた後藤がチャイルドシート側の扉を開けると零が車の外に出てしまうので香子も慌てて車を降りる。
「私、人に将棋を教えた事なんてないいんだけど」
「それはプロの棋士も棋匠も無理だったから期待にしてねえ」
暗に教え方が下手でも構わないと言われている様で香子は顔をむっとさせる。
「まあ、それ以来将棋がしたいって大変だからこいつが満足するまで付き合ってくれ」
零の頭をなでた続きで自分に伸びてきた後藤の手を香子は払いのけた。
「しょうがないわね。零が将棋したいって言うのに断るわけにはいかないわ」
深々と息を吐きながらも了承した香子に後藤は「悪い」と後藤は声をかける。
「じゃあ、零。行って来るからな」
後藤は屈んで零の視線に合わせる。
暫しの別れの挨拶に零の翡翠色の瞳が潤んだ。
「お父さんいってらっしゃい」
泣くまでいかないが寂しさの色を纏い先程迄の元気は何処へやら小さく手を振るう零に後藤は胸を締め付けられる思いだった。
正直、離れがたいと感じる後藤に香子は冷めた視線を向ける。
「一体、このやり取り何回するつもりよ」
香子が分かるのはこのやり取りを幸田家に零を預けられる時は毎度しているという事だ。
その証拠に先程家の前を通った近所の老婦人が「今日は零君いるのね」と話してもいないのにそう言いながら通り過ぎて行った。
何時もしているやり取りなのに何故こんな今生の別れの様に出来るのか香子理解出来なかった。
「もう、後藤!あなた時間ないんでしょ。
さっさと仕事に行きなさいよ」
ほらほらと香子は無理やり後藤を立たせて車へと追いやる。
「零は私と将棋するんでしょ。
ほら、もう一度元気に挨拶しなさい」
将棋という言葉を聞いた零は現金であった。
さっきまでの憂いた表情は何処へやら。
片腕を上げるろ大きく振り「お父さんいってらっしゃい。おしごとがんばってね」と言った。
我が子ながらその態度の変わり様に後藤は苦笑いを浮かべて手を振り返すしかなかった。
「じゃあ、仕事が終わったら連絡頂戴。
行くわよ零」
香子腕を引かれた零は少し振り返りまた小さく手を振った。
零が香子に連れられ幸田家に入って行く迄を見守ると後藤は車に乗り込みエンジンを掛ける。
後藤は香子手を引かれながらも此方に向かって小さく手を振る零を思い出しながらもまだ始まってもいない対局に早く終わらせようと表情を普段の何割増しにも険しくして後藤は決意した。
「ただいま」
「おじゃまします」
香子に続いて零も挨拶をすれば奥の部屋から香子の母親がぱたぱたと駆けてくる。
「おかえり香子。零君もいらっしゃい」
脱いだ靴を揃えて玄関の端に寄せていた零は笑顔で迎えてくれる香子の母親に恐縮しながら頭を下げる。
「サンドイッチごちそうさまでした。
すごくおいしかったです」
そう朝食のお礼を言うと彼女は頬を緩めて「お粗末様です」と返してくれる。
「もう!玄関で喋らないで部屋に入りましょうよ」
何時迄も動かない二人に業を煮やした香子は左手で零を右手で母親の背中を押し進めた。
「盤と駒を取ってくるわ」
リビングに入るなりそう言って廊下に出て行ってしまう香子。
零が所在なさげになっていると香子の母親はソファに座る様に勧めた。
彼女は台所へと入り飲み物の準備をする。
テレビには彼女が気を使ってつけてくれた子供向けの番組がやっていた。
妙にリアルな顔付きの人面機関車達がテレビ画面の中でどったんばったんと大騒ぎをしている。
零はそのキャラのリュックを持っているので現在進行形で勘違いされているが零はこの番組があまり好きではない。
リュックも後藤が独断と偏見により買ってきたもので零の趣味でも(もっと言えば後藤の妻の)趣味ではない。
リュックの絵柄と違い彫りが深くリアルな相貌でやりとりをする機関車達に零は思わず側のクッションを引き寄せ抱きしめる。
「ほら、零。将棋するわよ将棋」
自室から盤と駒を持ってきた香子はソファーに座る零の足元にそれらを置いてテレビに気付いた。
「何よこれ見てるの?違う?じゃあ音が邪魔だから消すわよ」
零が首を横に振るのを確認して香子はリモコンを手に取りテレビの電源を落とした。
床に腰を下ろし駒を並べ出した香子に零も慌てて駒を並べる。
「何だ駒の並べ方は知ってるのね」
「このまえ、お父さんとしょうぎかいかんにいったときにおぼえたの」
「へー凄いじゃない。そういえば零は誰に将棋を教えてもらったの?」
どうせ零の面倒を押し付けられたC級の棋士あたりだろうと思いながら尋ねた香子であるが零の口から出た名前に思わず吹き出す。
「柳原棋匠」
「あと、三角さんと横溝さんと松本さん」と零は指折りながら他三名の名も上げるが一人目の名前が豪華過ぎて耳に入らなかった。
「そう言えば後藤の奴言ってたわね」
香子が車を降りる際後藤の「それはプロの棋士も棋匠も無理だったから期待にしてねえ」という言葉。あの時は聞き流していたが確かに棋匠も無理だったと言っていた。
「因みに教えてくれた人達はどんな様子で教えてくれたの?」
「うーんうーんっていいながらおしえてくれたよ」
「棋匠が唸りながら」
先程迄は零にしっかり将棋の指し方を教えて後藤を驚かせてやろうと一人息を巻いていた香子であるがだんだんとその意気込みは何処へやら出来る気がしなくなって来ていた。
「と、取り敢えず指すわよ!」
「はい!」
自分を鼓舞する様に大きな声で言った香子につられて零も元気よく返事をした。
それから先ずは将棋を指す前の礼儀から教えて簡単にルールを説明した。
ルールは既に説明を受けていて理解もしていたのでおさらい程度にさっさと済まし本題である駒の説明に入った。
のだが、香子は唸っていた。
「えっと、ちょっと待って」
一人、沈思に耽る香子。
あーでもないこーでもないと彼女は手元の駒を動かしながらぶつぶつと呟く。
口で説明しては理解し難いからと手元の駒を使いつつ説明していたのだが手元の駒ばかりが先行して口での説明が付随が追いつかなくなった。
気付けば駒ばかり動く。
それではいけないと何度も軌道修正するが今度は香子の頭が混乱して来たためタイムを申し込んだ。
零はそれを受けて大人しく待つ。
「あら、香子にお昼の準備を手伝ってもらおうと思ったんだけど」
台所から出て来た香子の母親は盤を見つめて動かない娘に頰に手を当て困っていた。
「ぼくがてつだいます」
香子は余程集中しているのか零が立ち上がっても反応を示さない。
そんな香子を見て手伝いが望めないと感じたのか香子の母親は零の申し出を受け入れた。
「じゃあお願いしようかしら」
駆け寄る零と共に台所へ戻る途中彼女は少し振り返ると盤を前に深い思考に入った娘を見て微笑んだ。
「こうしてると昔に戻ったみたいね」
「むかし、ですか?」
「そう、香子と歩が今の零君より少し大きい位。あの頃は毎日の様に二人して盤と睨めっこをしていたの」
暫く懐かしさに耽ていた彼女はふと我に返り昼食の準備に慌てた。
「あらいけない。私ったら今日はのんびりしてる時間はないのに」
普段は専業主婦として料理に掃除に、と殆どを家で過ごす彼女であるが今日は息子のが通う学校の用事で昼から出掛ける予定があった。
彼女は零に昼食に向けてのテーブルの準備を頼む。
テーブルにランチョンマットとスプーンとフォーク、グラスにと零は指示通りに並べていく。
最後に香子を呼ぶ様に言われた零は一瞬香子の思考の邪魔をして良いのかと思ったがあそこからはこちらが声をかけない限りずっとああしているという経験者の言葉により声をかける事にした。
「香子お姉ちゃん、お昼出来たよ。
ごはんいっしょに食べよ」
口元に手を添えて集中する香子の肩を叩いても反応がない。
零がその口元に添えられた右腕を引っ張ると済し崩しで体制がずれそこで香子はやっと零に呼ばれている事に気が付いた。
「何よ零」
無理矢理意識を向けさせられた香子の声色は少し苛つきや不満を含んでいた。
「香子。もうお昼だからそれは一旦止めてご飯にしましょう」
母親に言われて香子は時計を見る。
時計の針はとっくに天辺を過ぎていた。
それに驚いたのはそこまで集中していた香子自身で素直に「そうね」と答えて立ち上がる。
取り敢えず手を洗おうと台所の流しへ足を向けた香子は自分の足元で気まずそうにする零に気付いてその小さな零の頭を撫でた。
一度、二度では諦める事なく鳴り続けるインターホンの音に零は目を擦りベッドから降りると自室を出て玄関へと向かった。
一番奥にある零の子供部屋まで響く大きな音であるが後藤はまだ起きてないらしい。
しかし対局明け彼は何時もそうなので零は気にも止めなかった。
「ちょっとーまだ寝てるの?」
玄関に取付られた郵便受から声が聞こえる。
「香子お姉ちゃん!」
玄関扉の相手が不明確でゆっくりと近づいていた零であったが聞き知った声に慌てて扉に飛び付く。
「あら、その声零ね。
零、早く開けて頂戴。このままじゃ暑くてお化粧取れちゃう」
扉の向こうの香子に急かされて零は鍵を解錠しようと背伸びするが子供の零に扉の鍵は遠くやっとの思いで一つ解錠するがキーチェーン迄は手が届かない。
鍵の解錠の音に香子は扉を引くがまだキーチェーンかかる扉は彼女の顔の半分も開かなかった。
香子はキーチェーンを忌々しげに見つめながらこれでは零も開けられないと思ったのか彼女は零の父親である後藤の所在を尋ねる。
「後藤はどうしたの零。
あの人、昨日私が『今日は零の面倒を見る』ってメールを送ったから私が今日この時間に来る事を知ってる筈何だけど。
まさかもう仕事に行ったとかじゃないでしょうね」
後藤は子煩悩な男である。
なので幼い零を家に一人残して置いていくなんて事は天と地がひっくり返ってもあり得ない事なのだが約束の時間を過ぎているにもかかわらず今対応しているのが零一人となるとそのあり得ない事があり得てしまったのかと香子は思索する。
零がお父さんはまだ寝ていると言いかけた所で玄関の扉は再び完全に閉められた。
香子は急な事に何事かと零の名を何度も呼びながらドアノブをガチャガチャと回す。
「今、扉のチェーンを開けるから大人しく待ってろ」
扉を閉めたのは後藤であった。
寝起きらしい彼は眉間に寄せながらチェーンを外す。
すると香子は勢いよく開けて玄関へと飛び込んだ。
「おっそいわよ。せっかくのお化粧が崩れちゃうじゃない」
「香子お姉ちゃんはおけしょうしなくてもきれいだよ」
「あら、生意気な事言うわね零。一体そんな言葉何処で覚えてきたのかしら」
ちらりと後藤を見上げる香子。
彼女の視線に自分は知らないという後藤であるが零と関わる人間は限られているのでその限られた人間の中でそのような事を言うのは彼ぐらいしかいない。
実際、後藤が妻に言っていた言葉を零は真似したのだがまさかその場面を見られていたとも思っていないので彼の供述はある意味正しい。
「ちょっとやだ。まさかその格好昨日のままなんじゃないの」
後藤が肯定する前から信じられないと顔を顰めて嫌悪を露わにする香子。
香子は零を引き寄せて後ずさる。
後藤の格好はというと昨日来ていたシャツにスラックス、寝起きであろうぼさぼさの髪に無精髭。
指摘された後藤は罰が悪そうに踵を返して二人の先を歩く。
「さっさとお風呂に入って着替えなさいよ。
あら、零ったらこんなところに寝癖なんか付けちゃって可愛い」
自分と零に対してこの差、と後藤は寝癖を気にして自分の髪を撫で付ける零を可愛い可愛いと構う香子に呆れつつ促されるまま浴室に入った。
何度か後藤の家にお邪魔した事のある香子は勝手知ったるでリビングダイニングに移動するとテーブルに保冷バッグを置き中身を取り出した。
タッパーに詰められたのは野菜やハム、卵がふんだんに挟まれた彩り鮮やかなサンドイッチで、香子はそれを食器棚から取り出した皿へと取り分ける。
その様子を机越しに眺める零に香子は着替えと朝の身支度を整えるよう伝える。
「さっきから気になってたけど零。あんた頬によだれの後付いてるわよ」
指摘されて思わず頬を触れば確かに涎が垂れて乾いたのかがさりとした感触がして零は慌てて洗面所にへと走った。
「朝食。勝手に準備したわ」
「すまん」
お風呂から上がり、髭も服装も整えた後藤がリビングダイニングに入るとテーブルにはサンドイッチとコーヒーが用意されていた。
後藤がついた席の向かい側ではこれを用意した香子と今まさにサンドイッチを食べようとする零が座る。
先ずはコーヒーを一口飲み、後藤は目の前のサンドイッチを観察した。
「因みにこのサンドイッチは」
「私が早起きして作ったものだけど」
香子の回答に驚愕した後藤は勢いよく立ち上がりサンドイッチを食べかけていた零に制止するよう言った。
というのも遡る事ほんの数日前の事である。
その日、後藤は同じ門下で兄弟子である幸田と同じ場所で仕事をしていてそのまま夕食でもと誘われた。
幸田の家に零を預かってもらっていたので仕事帰りに寄るつもりではあったのだが幸田からの夕食のお誘い。
始めは断っていたが幸田はそれでも熱心に誘い、後藤も幸田の家に帰る途中で零が寝てしまうとまた夕食を食べさせ損ね最悪入院中の妻に怒られてしまうと思った為結局誘いに乗る事にした。
その日の幸田家の夕飯は息子の歩リクエストで鳥の唐揚げに葉物野菜のサラダ、根菜の煮物であった。
後藤は幸田の横に、零は何時もの如く幸田の姉弟に取られ二人の間に座っている。
「今日の煮物は香子が手伝ってくれたんですよ」
幸田の妻は料理の途中で隣家の婦人に呼ばれて暫く台所から離れていたらしい。
その間、香子が煮物を仕上げてくれたのだと彼女はご飯をよそいながら嬉しそうに話した。
「やめてよお母さん。恥ずかしいじゃない」
香子は居心地悪そうに言うが彼女はよほど嬉しいのか笑顔のままだ。
幸田は後藤にお酒を進め運転があるからと断るとだったら泊まっていけば良いと言った。その言葉に反応したのは子供達で幸田以上に二人は酒を進めてくる。
それも断り、子供達が幸田の妻に注意されたところでいただきますのあいさつ。
各々、料理に箸を伸ばす。
その日のメインをリクエストした歩とダイエット中だとサラダを取った香子の二人以外は先程話題に上がった煮物へと箸が伸びていた。
大人達はほぼ同時、零は煮物を香子に取り分けてもらっていたタイムラグで少し遅れて口に入れる。
「・・・どう?」
煮物の評価を気にして大人達を伺う香子。
咀嚼をしていた者達の眉は少しずつ下がる。
「香子、あなた一体何をいれたの」
「しょっぱいなこの煮物」
その煮物のしょっぱさはちょっとお醤油入れ過ぎちゃったのレベルをゆうに超えていた。
最早砂糖と塩を入れ間違えたレベルである。
母親と後藤の反応に香子は狼狽える。
「ちゃんとお母さんの言ってた分量通り入れたわよ!」
「姉ちゃんこれまじでしょっぱ過ぎ」
大人達の反応に興味本意で煮物に手を出した歩は呻くように言った。
弟の反応に香子は「みんな何よ!」と自分でも味を確かめようと煮物を口に放り込むのだが
「うえっ、しょっぱい」
あまりのしょっぱさに香子は口元を押さえ何とか無理やり飲み込んだ。
聞けば彼女は自宅で使う砂糖は三温糖と知らず調味料棚にあった塩を砂糖と勘違いして指示されていた分量を鍋に入れたらしい。
それを聞いた幸田の妻は娘にこれまで家事手伝いをさせて来なかった事を後悔し、歩はまるで漫画のような失敗をした姉に口を開け呆れていた。
「もう、なによ。しょうがないじゃない砂糖って言ったら普通白でしょ?!
三温糖なんて存在も知らなかったのよ」
弟の視線に耐えかねて香子は叫び両手で手を覆った。
幸田の妻は手伝ってくれた香子に申し訳なさそうにしながらも煮物の皿を下げ、個人が取り分けた煮物の乗った皿も回収していく。
「あら、あなた」
自分のお皿と後藤と歩が差し出したお皿を盆に乗せ、夫の皿も回収しようとしてその皿に乗っていた煮物が綺麗さっぱり無くなっている事に気が付いた。
「取り分けた煮物、全て召し上がってしまったんですか?」
「取り分けた物を残すのは忍びない。それにせっかく香子が手伝った煮物だから全部食べてしまった」
「・・・馬鹿じゃないの。あんな塩っからいもの食べて体を悪くしても知らないんだから」
「まあ、確かにしょっぱかったがそれ以外は悪くなかった。次は頑張りなさい」
「云われなくても!次はもうこんな失敗しないわ」
未だ顔を両手で覆ったままの香子は幸田に諭され最後は小さく「はい」と答えた。
彼女の素直さに後藤は少し驚き、幸田の妻が息を吐き安堵していた時、歩が声を上げる。
「零!もうやめとけ!ぺっしろぺっ!」
見れば頬を少し膨らました零が歩に揺すぶられていた。
「そんな塩っからいの食べたら体に悪いって姉ちゃんも言ってただろ?!」
「零ってばあの煮物まだ食べてたの?!早く吐き出しなさい」
歩の声に気付いた香子は悲鳴の様に叫んだ。
しかし零は頑として譲らず口をおさえて二人の言葉を聞き入れる気がない。
「おのこしはだめ」
あまりの塩辛さに零は涙を浮かべながらも「いやいや」と口の中の物を吐き出させ様とする二人に抵抗する。
それどころかまだ皿に残る煮物に手を伸ばす零に歩は零をおさえ、香子は皿を取り上げる。
「おのこしするのはわるいこなの」
「これは失敗作だから残して良いんだよ」
「みんな残してるでしょ。早く口の中に残ってるのも吐き出しちゃいなさい」
お残しする事に激しく抵抗する零に、何としても零の口の中に残る煮物を吐き出させたい香子と歩。
しまいには大人も参戦してお残ししないよう頑張ってる零が泣き出し収集のつかない展開となりその日の夕食は散々であった。
その事を思い出していた後藤に香子は意地悪な笑みを浮かべた。
「嘘よ。これはお母さんが作ったサンドイッチ。
それに私もそう何度も砂糖と塩を間違えたりしないわよ」
心外だわと鼻息荒くさせる香子。
「早く食べちゃいなさいよ。時間ないんでしょ」
壁に掛けられた時計を見て確かに時間は無いと後藤は席に戻りサンドイッチに手を付けた。
朝食を手早く済ませ、後藤はジャケットに鞄、零に水筒と念のための着替えを詰めたリュックを持たせ三人は部屋を出る。
後藤が車の鍵を開けると香子は後部座席を開けて零をチャイルドシートに座らせ、香子が続いて乗り込む。
後藤も運転席に乗り込み車を発進させる。
「そういえばお前こっちに結構来るけど彼氏は良いのか」
桐山の妻と幸田の妻、それに後藤の妻三人による家族のプライバシーも何もあったものではない『棋士の妻の会』という恐ろしい情報網が存在する。
それによると香子は大学に入ってから新しい彼氏が出来たというのだが大学が休み、休講となると後藤の携帯を時にインターフォンを鳴らし零、零、零である。
妻は入院、自分も働く身で預ける所がない後藤としては(本人には決して言わないが)香子の存在はかなりありがたい。
が、此方に気を使うあまり彼女の私生活が台無しになってしまうのは後藤の本意でない。
後藤の妻と親しくしていた彼女の事なので変に気を使い彼氏の誘いも断り無理して此方まで来ているのではと思った後藤であるが
「ああ、あんな男とっくに別れたわ」
それは杞憂であった。
「本当にうっざい男だったわ。ちょっと付き合ってあげたら調子に乗って偉そうに人のする事に口を出してきて」
ルームミラーに映る香子はよっぽどその元彼氏との事は嫌な思い出なのか忌々しげに表情を歪めて話す。
「休みの日もしつこく遊びに行こうだの誘ってくるし。
誘いを断ってたら最後は自分と零どっちが大切なんだって」
「そりゃあ零だろ」
「でしょ!」
車内には子煩悩な後藤と話をよく分かっていない当事者の零のみだったので香子の発言を突っ込むものはいなかった。
同意した後藤に香子は前のめりになり彼の共感を得た事で少し表情を和らげていた。
「香子お姉ちゃん」
「何よ零」
「なんのおはなししてるの?」
盛り上がる二人に話がついていけない零は頭を傾げて香子に尋ねる。
「あんたとこれからもたくさん遊んであげるって話よ」
端的に言えばである。
香子の言葉に零は大きな瞳を瞬かせて「本当?」と尋ねた。
「本当よ本当。零は今日は何して遊びたい?」
「えっとね。しょうぎしたい」
「そんなの何時もしてるじゃない」
「ちがうの」
「違うって何よ」
意味がわからないと言う香子に否定の意味を込めて首を振るう零の代わりに後藤が説明する。
「零は詰め将棋じゃなくて対局がしたいらしい」
幸田家に零が行って遊ぶと言ったら将棋であり将棋と言っても詰め将棋。
これを零に教えたのは子供達ではなく幸田に桐山、後藤の大人達であった。
事の始まりは後藤が幸田と桐山に零が初めて喋った時の事を話していた時だ。
後藤はその日、赤ん坊の零を胸に抱きながら将棋雑誌を読んでいた。
丁度その号は詰め将棋の特集を組んでいて内容も専門家監修もありプロ棋士である後藤を悩み唸らせる程に難しい問題が揃っていた。それでもだいたいのものは解けたが最後に一問だけどうしても解けないものがあった。
ああでもないとこうでもないと幾つもの手を考え時には口に出し頭の中将棋盤で指してみるも上手くいかない。
気になり苛つき悶々する後藤の胸の上で彼と共に雑誌の図を見ていた零ははっきりした口調で「6七角」と呟いたのだ。それに驚きつつもそのまま駒を進めれば今まで悩んでいたのが嘘の様にするすると解けてしまう。
唖然とする後藤。
だがそばにいた妻の「もしかして今のが零が初めて喋った言葉?」という呟きに愕然とした。
夫婦はそれまで幾度となく子供が初めて何を喋るのか楽しみにしていたのだ。
しかしまさか初めて発した言葉は「6七角」。
「ママ」や「パパ」呼びを期待していただけに衝撃は凄まじく「6七角」の原因であろう後藤に対する妻の視線はとても鋭いものであった。
幸田と桐山にはその時の妻がどれ程冷たい表情をしていてとても恐ろしかったという話をしていたのだが、流石というべきなのか最早職業病というべきなのか幸田が食い付いたのは赤ん坊の零が詰め将棋を解くきっかけを作ったという事だった。
幸田はそばに置いていた将棋雑誌を手に取り幸田の姉弟と桐山の娘と一緒に居間でテレビを観ていた零を呼んだ。
居間では零が居間から出る事に不足を訴える姉の声が聞こえるがそれから暫くして零は大人三人のいる和室に表れた。
後藤が己の膝を叩くと零は嬉々として組まれた足の間に収まる。
「零君はこれ解けるかい」
幸田が開いて差し出したのは奇しくも何時ぞやと同じ雑誌の詰め将棋の特集であった。
流石に無理だろと後藤は思ったし桐山もきっと同じように思っていた。
その証拠に幸田が零に詰め将棋の問題を見せてからずっと苦笑いを浮かべている。
後藤も零が初めて喋った言葉で問題解けた時はうちの子は天才かと心の内で盛り上がりもしたが後々冷静になって考えてみればぶつぶつと側で言葉を溢していたのを反復しただけなのだと納得していた。
それに後藤は零に一度も将棋に関した事を何一つ教えていない。
唯一と言えば撮り溜めのテープ整理をきっかけに対局のテープを見ているぐらいである。
だから急に詰め将棋の問題を出されてもこの幼い息子は分からないだろうと思ったその時、零は後藤の想像を良い意味で裏切った。
はっきりと確かな声で零は解答したのだ。
それには後藤も桐山も、問題を与えた幸田も目を丸くさせて驚いた。
幸田は零の解答が正しい事を伝えると次のページをめくり新しい問題を提示した。
零はそれもあっさり答え、幸田がページをめくり零が答え、が雑誌の問題がなくなるまで続いた。
「零君はどうして答えが分かるんだい」
後藤からは何も教えていないと聞いた桐山が尋ねる。
零は桐山の質問に頭を傾げて答えた。
「きもちわるいの」
その言葉に後藤は調子が悪いのかと聞くがそう意味ではなく
「ほかのとこにこまがくるときもちわるいの。だからそうじゃなくなるこまとばしょをえらんだの」
大人達には零の言葉が理解出来なかった。
理解は出来ないが幼い零が詰め将棋が出来ると分かると今度はどれだけ出来るのか気になる大人達。
家中の詰め将棋の本を掻き集め、解きやすい様にと将棋盤を持ち出し駒を並べて零がどれだけ解けるのか見極めようと問題を出した。
それに幸田の姉弟が加わり、零本人も詰め将棋の問題を出されても嫌な顔もしないものだからそれは定番となった。
この事があり幸田家で零と将棋となると
=詰め将棋となったのだが
「零、あなた将棋指せるの?」
今回は詰め将棋でなく対局の将棋がしたいらしい。
「一応この前、会館に連れて行った時に習ったらしいんだがな出来る出来ないと言えば出来ないな」
零はきちんと駒の進みを理解出来ていない。
「駄目じゃない」
「そこでだ。香子、お前が将棋を教えてやれ」
香子の「はぁっ?!」という声と同時に車は幸田家に到着した。
動揺しながらもチャイルドシートから降りようとする零を手伝う香子。
運転席から降りた後藤がチャイルドシート側の扉を開けると零が車の外に出てしまうので香子も慌てて車を降りる。
「私、人に将棋を教えた事なんてないいんだけど」
「それはプロの棋士も棋匠も無理だったから期待にしてねえ」
暗に教え方が下手でも構わないと言われている様で香子は顔をむっとさせる。
「まあ、それ以来将棋がしたいって大変だからこいつが満足するまで付き合ってくれ」
零の頭をなでた続きで自分に伸びてきた後藤の手を香子は払いのけた。
「しょうがないわね。零が将棋したいって言うのに断るわけにはいかないわ」
深々と息を吐きながらも了承した香子に後藤は「悪い」と後藤は声をかける。
「じゃあ、零。行って来るからな」
後藤は屈んで零の視線に合わせる。
暫しの別れの挨拶に零の翡翠色の瞳が潤んだ。
「お父さんいってらっしゃい」
泣くまでいかないが寂しさの色を纏い先程迄の元気は何処へやら小さく手を振るう零に後藤は胸を締め付けられる思いだった。
正直、離れがたいと感じる後藤に香子は冷めた視線を向ける。
「一体、このやり取り何回するつもりよ」
香子が分かるのはこのやり取りを幸田家に零を預けられる時は毎度しているという事だ。
その証拠に先程家の前を通った近所の老婦人が「今日は零君いるのね」と話してもいないのにそう言いながら通り過ぎて行った。
何時もしているやり取りなのに何故こんな今生の別れの様に出来るのか香子理解出来なかった。
「もう、後藤!あなた時間ないんでしょ。
さっさと仕事に行きなさいよ」
ほらほらと香子は無理やり後藤を立たせて車へと追いやる。
「零は私と将棋するんでしょ。
ほら、もう一度元気に挨拶しなさい」
将棋という言葉を聞いた零は現金であった。
さっきまでの憂いた表情は何処へやら。
片腕を上げるろ大きく振り「お父さんいってらっしゃい。おしごとがんばってね」と言った。
我が子ながらその態度の変わり様に後藤は苦笑いを浮かべて手を振り返すしかなかった。
「じゃあ、仕事が終わったら連絡頂戴。
行くわよ零」
香子腕を引かれた零は少し振り返りまた小さく手を振った。
零が香子に連れられ幸田家に入って行く迄を見守ると後藤は車に乗り込みエンジンを掛ける。
後藤は香子手を引かれながらも此方に向かって小さく手を振る零を思い出しながらもまだ始まってもいない対局に早く終わらせようと表情を普段の何割増しにも険しくして後藤は決意した。
「ただいま」
「おじゃまします」
香子に続いて零も挨拶をすれば奥の部屋から香子の母親がぱたぱたと駆けてくる。
「おかえり香子。零君もいらっしゃい」
脱いだ靴を揃えて玄関の端に寄せていた零は笑顔で迎えてくれる香子の母親に恐縮しながら頭を下げる。
「サンドイッチごちそうさまでした。
すごくおいしかったです」
そう朝食のお礼を言うと彼女は頬を緩めて「お粗末様です」と返してくれる。
「もう!玄関で喋らないで部屋に入りましょうよ」
何時迄も動かない二人に業を煮やした香子は左手で零を右手で母親の背中を押し進めた。
「盤と駒を取ってくるわ」
リビングに入るなりそう言って廊下に出て行ってしまう香子。
零が所在なさげになっていると香子の母親はソファに座る様に勧めた。
彼女は台所へと入り飲み物の準備をする。
テレビには彼女が気を使ってつけてくれた子供向けの番組がやっていた。
妙にリアルな顔付きの人面機関車達がテレビ画面の中でどったんばったんと大騒ぎをしている。
零はそのキャラのリュックを持っているので現在進行形で勘違いされているが零はこの番組があまり好きではない。
リュックも後藤が独断と偏見により買ってきたもので零の趣味でも(もっと言えば後藤の妻の)趣味ではない。
リュックの絵柄と違い彫りが深くリアルな相貌でやりとりをする機関車達に零は思わず側のクッションを引き寄せ抱きしめる。
「ほら、零。将棋するわよ将棋」
自室から盤と駒を持ってきた香子はソファーに座る零の足元にそれらを置いてテレビに気付いた。
「何よこれ見てるの?違う?じゃあ音が邪魔だから消すわよ」
零が首を横に振るのを確認して香子はリモコンを手に取りテレビの電源を落とした。
床に腰を下ろし駒を並べ出した香子に零も慌てて駒を並べる。
「何だ駒の並べ方は知ってるのね」
「このまえ、お父さんとしょうぎかいかんにいったときにおぼえたの」
「へー凄いじゃない。そういえば零は誰に将棋を教えてもらったの?」
どうせ零の面倒を押し付けられたC級の棋士あたりだろうと思いながら尋ねた香子であるが零の口から出た名前に思わず吹き出す。
「柳原棋匠」
「あと、三角さんと横溝さんと松本さん」と零は指折りながら他三名の名も上げるが一人目の名前が豪華過ぎて耳に入らなかった。
「そう言えば後藤の奴言ってたわね」
香子が車を降りる際後藤の「それはプロの棋士も棋匠も無理だったから期待にしてねえ」という言葉。あの時は聞き流していたが確かに棋匠も無理だったと言っていた。
「因みに教えてくれた人達はどんな様子で教えてくれたの?」
「うーんうーんっていいながらおしえてくれたよ」
「棋匠が唸りながら」
先程迄は零にしっかり将棋の指し方を教えて後藤を驚かせてやろうと一人息を巻いていた香子であるがだんだんとその意気込みは何処へやら出来る気がしなくなって来ていた。
「と、取り敢えず指すわよ!」
「はい!」
自分を鼓舞する様に大きな声で言った香子につられて零も元気よく返事をした。
それから先ずは将棋を指す前の礼儀から教えて簡単にルールを説明した。
ルールは既に説明を受けていて理解もしていたのでおさらい程度にさっさと済まし本題である駒の説明に入った。
のだが、香子は唸っていた。
「えっと、ちょっと待って」
一人、沈思に耽る香子。
あーでもないこーでもないと彼女は手元の駒を動かしながらぶつぶつと呟く。
口で説明しては理解し難いからと手元の駒を使いつつ説明していたのだが手元の駒ばかりが先行して口での説明が付随が追いつかなくなった。
気付けば駒ばかり動く。
それではいけないと何度も軌道修正するが今度は香子の頭が混乱して来たためタイムを申し込んだ。
零はそれを受けて大人しく待つ。
「あら、香子にお昼の準備を手伝ってもらおうと思ったんだけど」
台所から出て来た香子の母親は盤を見つめて動かない娘に頰に手を当て困っていた。
「ぼくがてつだいます」
香子は余程集中しているのか零が立ち上がっても反応を示さない。
そんな香子を見て手伝いが望めないと感じたのか香子の母親は零の申し出を受け入れた。
「じゃあお願いしようかしら」
駆け寄る零と共に台所へ戻る途中彼女は少し振り返ると盤を前に深い思考に入った娘を見て微笑んだ。
「こうしてると昔に戻ったみたいね」
「むかし、ですか?」
「そう、香子と歩が今の零君より少し大きい位。あの頃は毎日の様に二人して盤と睨めっこをしていたの」
暫く懐かしさに耽ていた彼女はふと我に返り昼食の準備に慌てた。
「あらいけない。私ったら今日はのんびりしてる時間はないのに」
普段は専業主婦として料理に掃除に、と殆どを家で過ごす彼女であるが今日は息子のが通う学校の用事で昼から出掛ける予定があった。
彼女は零に昼食に向けてのテーブルの準備を頼む。
テーブルにランチョンマットとスプーンとフォーク、グラスにと零は指示通りに並べていく。
最後に香子を呼ぶ様に言われた零は一瞬香子の思考の邪魔をして良いのかと思ったがあそこからはこちらが声をかけない限りずっとああしているという経験者の言葉により声をかける事にした。
「香子お姉ちゃん、お昼出来たよ。
ごはんいっしょに食べよ」
口元に手を添えて集中する香子の肩を叩いても反応がない。
零がその口元に添えられた右腕を引っ張ると済し崩しで体制がずれそこで香子はやっと零に呼ばれている事に気が付いた。
「何よ零」
無理矢理意識を向けさせられた香子の声色は少し苛つきや不満を含んでいた。
「香子。もうお昼だからそれは一旦止めてご飯にしましょう」
母親に言われて香子は時計を見る。
時計の針はとっくに天辺を過ぎていた。
それに驚いたのはそこまで集中していた香子自身で素直に「そうね」と答えて立ち上がる。
取り敢えず手を洗おうと台所の流しへ足を向けた香子は自分の足元で気まずそうにする零に気付いてその小さな零の頭を撫でた。