後藤零君
その日、後藤が息子である零を連れて会館に来るのは初めてであった。
車を駐車場に停めて後部座席に周ると零のシートベルトを外して抱き上げる。
チャイルドシートの側に置いた小さなリュックを手に取ると零に渡して車の扉を閉めて施錠した。
零は目の前に建つ茶色い外壁の会館を見上げる。
「ここがお父さんのしょうぎするところ?」
きらきら輝く瞳。
「お父さん勝つ?」
こてんと首を傾ける零の頭をガジガジと撫でて当たり前だと後藤は笑った。
会館の自動ドアを潜れば若い記者が数人立っている。
会館に入ってきた後藤に気付き彼等は後藤からのコメントを二、三貰おうと足を踏み出し固まった。
厳つい顔に鋭い眼差し。
強面で有名な後藤九段が幼児を抱えて会館に入ってきたのだ。
声をかけるべきか否か。
そうでなくても彼は気性が荒いと有名で若い記者達には声をかけるにはハードルが高い。
何も声をかけてこない記者を尻目に後藤は足を進めた。
「お父さん、お父さん」
大人しいと周りから評判の零が腕の中で暴れる。
小さな手で後藤の頬を叩き、「あれ、あれ」と鼻息を荒くして一画を指差す。
この子供が興奮する様なものがあったか?対局以外にと後藤は指差す方を見ればそこは会館の販売部でガラスのショーケースには将棋の駒や盤が所狭しと並べられていた。
後藤は成る程と理解する。
「盤!駒!」
「何だ零。お前自分の盤と駒が欲しいのか」
「ほしい!」
何時もは幼児らしくない無欲な子供であるが、とに将棋が絡むとこの様である。
きらきらと目を輝かせ両手を伸ばす零の姿に笑いを唆られながらも後藤は足を止めない。
耳元で遠ざかる盤と駒に零の不満の声が響く。
だが「駄目だ」と後藤はひと蹴り。
「あいつから零に何でもかんでも物を与えるなって言われてんだ」
あまり物を欲しがらない零におもちゃや絵本と際限なく買ってくる後藤に呆れた妻が一昨日言った言葉だ。
クレジットカードを取り上げられた彼の財布には今、万札が3枚しか入っていない。それだけあれば充分子供向けの将棋の盤も駒も買えるのだがこの男に妥協の文字は無かった。
買うなら脚付の盤に名匠作の駒であるが今の手持ちではそれらを買えない。
これを見越してのクレジットカード没収である。
諦めろとぐずり出した零の背中を叩きながら建物の奥に消える後藤。
そのやり取りを見ていた記者達はぽかんと口を開けて呆けていた。
「後藤九段が」
「お父さんしてる」
「何だ揃いも揃って」
記者の本分も忘れて傍観していた記者達を嗜めるのはトイレに行くとこの場を離れていたベテランの記者だった。
「先輩、ごご後藤九段が!」
「お父さんをしてました」
男の後輩に他社の記者達までも今の光景はどう言う事だと男に詰め寄る。
男は頭をかきながらも「知らんのか?」と逆に彼等に尋ねた。
「後藤九段が妻子持ちは勿論、子煩悩なのはこの業界で有名な話だぞ」
何たって子供が産まれるからとMHK杯の準決勝で振飛車を使い猛攻の末、同杯最短記録で勝利を納めた男なのだから。
男の言葉に若い記者達は驚愕の声を上げ、男は「勉強不足だな」と鼻で笑った。
会長室に入ってきた後藤に神宮寺は何らしくもなく騒いでんのと諌める。
騒いでいるのは自分ではない下にいた記者達だと申し開きをするが神宮寺は首を横に振り元はお前達が原因だねと言った。
「んで、そのお前の腕の中で丸まってるのが息子ちゃん?」
神宮寺が指差す先にはぐずぐずと鼻水を啜る音をさせながら小さく泣き震える黒い塊。
「何泣かしてんだよ」
「ちょっと下の売店で色々ありまして」
ふーんと言いながら神宮寺はその黒い塊をジロジロと見つめた。
後藤は零の丸まった背中を叩き声をかける。
「零、零」
「お父さんやー!」
「ぷぷっお父さん嫌われてやんの」
揶揄い笑う神宮寺に後藤は眉を寄せながら零の耳元でボソボソと声をかける。
すると零は鼻水と涙でぐしょぐしょの顔を上げて神宮寺の顔を見た。
暫く神宮寺の顔を見つめていた零ははっとして持っていた鞄からハンカチとティッシュを取り出し鼻を嚼み、涙を拭き後藤に自分を下ろすようせがむ。
先程までの赤ん坊の様な態度を急変させた零に何事かと神宮寺は見やる。
「後藤零です!4歳です・・・え、えっと神宮寺会長のファンです」
そう言うと真っ赤になった顔を手で隠し零は後藤の後ろへと隠れてしまう。
今度笑うのは後藤の番であった。
してやったりと笑みを浮かべた後藤に神宮寺自身の頭を掻いては尋ねる。
「何、お前。人を揶揄う為にこんな幼気な子に何を仕込んでんの」
大人気ないと顔を顰める神宮寺。
「いや。俺は何も仕込んで無いですよ」
後ろに隠れていた零を前に引っ張り出した後藤は屈んで零の頭を撫でる。
「こいつ俺の溜め込んでた対局のテープを見てすっかり会長のファンになっちまったみたいでして」
後藤が言うにそれは偶々だったらしい。
古い映像だった。
会長が会長職に着く前、神宮寺名人であった頃の対局を記録したテープ。
整理がてらに古いものから片っ端に流していた内のそれを零はじっと見ていた。
今より皺の少ない彼が真剣な眼差しで盤を見つめ一手一手を指していく姿を静かに、微動だにせず。
長い長いその対局の記録が終わったと思ったら同時に零は動き出し後藤にひっついた。
そこから怒涛の質問タイムである。
あれは何?対局だ。
あの人は誰?神宮寺会長が名人だった時の映像だ。
名人って何?将棋が凄く強い奴。
お父さんも名人?・・・じゃない。
当たり前の事から答え難い事を一通り聞かれ零は言った。
「この人のたいきょくもっとみたい」
それから零は別のテープが再生されると食い入る様にテレビに映る神宮寺の対局を見つめた。
来る日も来る日も後藤やその妻にテープの再生をせがみ、テレビの前で正座をして対局を見つめる。
そして気付いたら
「零、お前が一番好きな棋士は?」
「神宮寺会長!」
立派なファンの出来上がりである。
後藤曰く現名人の宗谷や柳原棋匠も好きだがやはり一番は神宮寺らしい。
「神宮寺会長はお前がファンだと言うのを疑っているらしい」
自分の息子に何て事言うんだ。
神宮寺は心の中で叫ぶ。
後藤の言葉に零は明らかにショックを受けた顔で神宮寺を見上げ、神宮寺はその表情に思わず自身の苦しむ胸を掴む。
「お前がどれだけ会長のファンか知ってもらわないとな。お前は会長のどの対局が好きだった?」
誉め殺しというのはこの状況を言うのだろう。
後藤の言葉に見事唆された零は自分の好きな神宮寺の対局を語りに語った。
あの時の、あの手が、だけどあのタイトル戦のと語りは終わりが見えず。
要は神宮寺の指す将棋が全部好きらしい。
神宮寺は恥ずかしくて悶えた。
名人の座を降り、今の役職に就きかなり経つ。
昔を懐かしんでファンでしたと言う者はいるがあくまで過去系であり皆々今活躍しているプロ棋士達を応援している。
のにまさかこんな幼子にファンです何て言われるなんて
「後藤」
「何です会長」
「どうしたらお前からそんな可愛い子が出来るわけ」
「そりゃあ奥さんのおかげでしょうね」
奥さんの遺伝子と教育の賜物だとのいう後藤。
神宮寺はへなへなと床に屈み頭を抱える。
「お前って前から思ってたけど顔に似合わず愛妻家だよな」
しかも可愛い子を否定も謙遜もしないところをみて
「それであれだ。超がつく親馬鹿だ」
「どう致しまして」
褒めてねえよと唸る様に溢した会長に零は心配そうに側に駆け寄った。
「会長、だいじょうぶですか」
頭を抱えた神宮寺を見てどこか調子が悪いのではと思ったらしい。
丸まった神宮寺の背中を一生懸命背伸びして摩る零の姿に親馬鹿と自分で豪語する後藤の気持ちが神宮寺はちょっとだけわかる気がした。
この子本当に可愛い。
神宮寺は自身の背中を摩る小さな手を掴み引っ張ると零の小さな体を懐に収める。
「可愛い上に思いやりがあって零は良い子だなー!」
よしよしとテレビで繰り返し何度も見た憧れの人に抱きしめられた零は顔を真っ赤にして何とも言えぬ悲鳴をあげていた。
喜びと興奮とちょっとの羞恥心が零の中でぎったんばったん暴れている。
普段は落ち着き払う大人びた幼児だけに感情が顔へと全面に出た零のその表情は貴重で、後藤は零を助けるでもなく自身の携帯で写真を数枚撮るとその中で一番良い顔をしたものをタイトル【会長と初対面の零】として妻にメールを送った。
後藤の妻は人見知りの気がある息子が無事会長と対面出来るかずっと心配していたのだ。
この写真を見たら妻も安心するだろうと、一仕事終えた後藤はそろそろ零を神宮寺の腕から助けてやろうと思った時、部屋にノック音が響いた。
「失礼します。会長、後藤九段の対局の時間が差し迫ってるんですが、まだお見えにならないんです。
記者の人達は会館に入って来るのを見たと言うんですが」
そこで部屋に入ってきた事務員は三拍程止まり「いた!!!」と叫んだ。
「もう駄目じゃないですか会長!今から対局がある人をこんな所に留めちゃ」
事務員は幼児を抱きしめる神宮寺とそれを静観する後藤の図に狼狽えも見せず、取り敢えず会長を責めた。
「えー!俺が悪いの!?今回は後藤が俺に用事があって此処に来たんだぜ」
「それでも会長なら対局がある人間をギリギリまで留めないでください」
さすが海千山千奇人変人が集まる将棋会館の事務員である。
会長に言葉を返すと階下の記者達の様に後藤に臆する様子もなく「九段、早く行きますよ!」と事務員は後藤の背中を部屋の出入り口へ押す。
余程対局迄の時間がギリギリらしい。
事務員に誘導されるがままの後藤は一度振り返ると零に向かって「すぐに戻って来るから良い子にしてろ」と声をかけた。
零はその言葉に大きく頷くと小さく手を振って後藤を見送った。
ぱたりと締まった扉を零は寂しそうにしながら神宮寺に肩を叩かれる迄暫く見つめていた。
「ほら、零。父ちゃんはすぐ帰って来るって言うしそれまで俺と待ってような」
「はい、うわぁぁっ」
零の細い腰を掴んだ神宮寺はそのまま高く天井に向けて抱え上げた。
暫く零の体をくるくる回しそのまま来客用のソファーに降ろす。
これで少しは元気が出ただろうと零の様子を覗き見ればさっきので目を回したらしく首を揺らしていたがあまり表情は変わらなかった。
神宮寺は困った。
後藤が珍しく困っていたので恩を売るのに子供を対局の間だけ面倒見てやるなんて言ったががこの後どうすればいいかなんて思いつかない。
何時もは回りの早い頭も今は完全に制止していた。
ネタギレだ。
いや、元々ネタなど無かった。
子供みたいな大人達の面倒は会長職に就いてから嫌という程見させられているがリアル幼児の面倒などほとんど見た事がない。
奨励会に通う子供でさえ小学校に入学をしている。
しかも大体の子供はさっきので大喜びをし、はしゃぎそうだが様子を見る限りそうでもない零の姿に当てが外れた神宮寺はジャケットの胸ポケットから自身の携帯を取り出し事前に後藤から送られていたメールを開く。
後藤がこの日の為にと零の扱い方をメモして送ってくれていたのだ。
神宮寺は画面に移された小さな文字を目を細めて読み上げる。
「何々、将棋に関する事をさせる」
以上であった。
神宮寺は声にならない声を上げ携帯を床へと投げそうになった。
その間も零は椅子に大人しく座りながらちらちらと神宮寺の様子を伺っている。
あまりのおざなりな内容に思わず自身の携帯を放り投げたくなったがちょっと待てよと踏みとどまる。
現役を引退して暫く経つ自分のファンだと言った子供なのだ。
あながちあのメールも冗談ではないのかもしれない。
神宮寺は机の引き出しを引っ張るとと一冊の本を取り出し。
所属の棋士が監修したという詰め将棋の本の検本を手に零の隣に腰を降ろす。
さっきほどではないが頬を赤らめた零に神宮寺は頬を緩ませた。
「零は詰将棋出来るか?」
ちょっと幼児には難しいかもしれない。
首を横に振られたらそうだ将棋を基本のルールから教えよう。
第2案も浮んだ所で零の返事を伺えば意外にも首を縦に振られた。
それもそうかと神宮寺は思う。
この目の前の子供はA級棋士の愛息子なのだ。
将来的に将棋をさせる気がなくとも将棋のいろはぐらいは教えているかと納得した。
詰将棋の本は始めは詰将棋初心者向けのもので初級編から始まり中級迄の問題が記されている。
神宮寺は机の端に置いた盤を引っ張り問題の駒を並べた。
並べ終わると零が頭を突き出し盤を覗き込む。
「▲3二銀△1二玉▲2三と迄」
悩む間も無く出た答えに神宮寺は感心し、次の問題を出した。
1ページ2ページと問題が次々に消化されていく。
神宮寺は舌を巻いた。そこそこあった問題はあっさりと零に解かれてしまったのだ。
「零はもしかしてこの本読んだ事があったのか」
神宮寺が手に持つのは監修した棋士から直接貰った検本内の一冊であるがこの本は既に発売済みのものであるため、書店行けば買い求める事も可能だ。
しかし零は頭を横に振った。
零の返答に「そうか」と呟いた神宮寺は零を抱き上げ自身の膝の上に座らせ頭を撫でる。
「しっかし凄いな。凄いぞ零」
何たって百幾つもあった問題をあっさり全て解いてしまったのだ。
よーしよしと頭を撫でれば零はふにゃりと頬を緩ませくすぐったそうに身を捩りながらも享受する。
「あーくそ可愛い。何だよこの生き物は」
「会長」
「んーどうした?」
「僕、お父さんのたいきょくがみたいです」
遠慮するべき所なのに我儘を言っている自覚があるのか零の言葉は最後尻窄みであった。
はなから諦め顔であるもちょこっとの期待を瞳に含ませ神宮寺を見上げる零。
そんな零を可愛いと未だ撫でていた神宮寺は「よし」零を抱き上げ立ち上がった。
「側じゃ見れないが見にいくか対局」
零を抱いたまま会長室を出ると何時もの棋士達が集まっているだろう部屋に向かった。
「どうだ。後藤の様子は」
入り口の襖を開け、手を振って入って来た神宮寺に部屋に集まっていた三角、松本、横溝は挨拶をしかけて固まる。
「か、会長その腕の子供は?」
誰ですか、と震える声で尋ねたのは三角。
彼の問いに何か思いついたのか意地の悪い笑みを浮かべる神宮寺。
「こいつは俺の孫だ」
「えー!お孫さんですか?!」
「あんまり似てないな」
驚いて大きな声を出したのは松本で、横溝は神宮寺の言う事をあまり信じていないのか独り言の様にやはり似ていないと溢し子供をまじまじと観察し頭を傾げる。
その間、神宮寺の腕の子供もとい零は神宮寺と三角達を交互に見つめ困り果てていた。
突然の孫扱いであるがこの二人には当然血縁関係はない。
神宮寺としてはお馴染み三人組をちょっとからかってやろうと思い出た言葉であるが、勿論神宮寺の思い付きで始まった事なので事前の打ち合わせもない。
その為零はこの状況にどう反応すればいいのかほとほと困り果てている。
そんな零を救ったのは三人組より奥に座っていた柳原であった。
「徳ちゃん、そこの三人を揶揄うのは良いけど腕の子供が困ってるよ。
あれだろその子、階下で記者達が騒いでた噂の息子だろ」
「朔ちゃんネタバレ早いよ」
つまんないと言わんばかりに口を尖らせた神宮寺は腕に抱いていた零を畳の床へと降ろす。
「ほれ、零。ついでだ自己紹介しとけ。みんなお前の父ちゃんの同僚だから」
床へ降ろされた零は所在なさげに辺りを見渡しすぐに神宮寺の足の後ろに隠れてしまう。
先程自分に自己紹介した時の勢いはどうしたのだと神宮寺は頭を傾げるが、先程の勢いは憧れの神宮寺を目にして興奮していたから出来た事でありこれが元来の零の姿なのであるが神宮寺はそれを知らない。
何とか自分の後ろから引っ張り出すが零は神宮寺の足にしがみつく。
「誰もお前を取って食いはしねえよ」
だからほら、と頭を撫でて促すが神宮寺の足にひっつく力が強まるだけだった。
そんな零を見かねてか、松本は立ち上がると零の前に膝を付き手を差し出した。
「俺は松本一砂。お前の父ちゃん?と同じ棋士だ」
よろしくなと笑えば零の顔を占めてした不安の色が失せていく。
その様子に安堵の息を吐き続いたのは三角と横溝で順に軽い自己紹介をする。
「俺は三角龍雪。気軽にスミスって呼んで」
「横溝奥泰だ。よろしく」
恐る恐るという風に松本が差し出した手を握った零は意を決したのか口を開く。
「あ、あの、後藤零です。いつも父がおせわになっております」
ぺこりと頭を下げる零。
一拍二拍と間が出来た所で神宮寺はそっと零の耳を自身の手で塞いだ。
その瞬間、各々から出た驚愕の声が部屋いっぱいに響いた。
「後藤って、俺棋士で後藤の名字の人って1人しか知らないんだけど?!」
「俺もだよいっちゃん。え、後藤って後藤九段しかいないよね。
って事はこのちっちゃい子後藤九段の息子さん」
「MHK杯事件で子供がいるとは知っていたが」
「ていうか後藤九段の息子さんにこんな気安く接しちゃって良いの。後で怒られない?」
「気安くしたのはいっちゃんだけだから!俺等は只自己紹介しただけだから!」
三角の言葉に横溝は強く頷き、松本はスミスの裏切り者と彼に泣きつく。
そんな三者三様に騒がしい彼等を鎮めたのは今までテレビから視線を外さなかった柳原だった。
五月蝿いと叱られ黙る三人組であるがまだ落ち着きは取り戻せないらしい。
大元の原因であろう神宮寺はそんな彼等を放置すると零の背中を押して柳原の隣に行くよう誘導した。
「お前さんが後藤の息子か。俺は柳原朔太郎だよろしくな」
三人組に向けた厳しい声とうって変わり優しい穏やかな声で零に接する柳原。
零は神宮寺に続き2番目に好きな棋士である柳原の登場に頬をほんのり染めて惚けていた。
「徳ちゃん、この子顔を赤くしてぼんやりしちゃってるけど大丈夫?熱あるんじゃない」
柳原は零の頬に自身の手を当てるがそれが熱なのか子供体温で温かいのかいまいち分からない。
神宮寺は零がこうなった理由は先程身をもって知ったので柳原には「大丈夫だから」と言い惚けたままの零の肩を叩いた。
「おら、零。お前が言い出したんだろ父ちゃんの対局が見たいって」
気が付いた零は机に置かれたテレビを見つめる。
やっと落ち着いたのか三人組もテレビの映像を見つめ検討用に並べた駒を動かしていく。
「今、どんな感じ」
「良くはないね」
「何やってんの後藤の奴」
「相手がよく研究して来たんだろうね。始まってからあいつらしい将棋をさせてもらえないのよ」
頭上でそんな会話が飛び交うが零は構わずテレビの画面を見続ける。
零がやっとテレビから視線を逸らしたのは相手が一手指した時、その一手を手元の盤で再現していた三角の声だった。
「これは」
「かなり厳しいな」
横溝は自身の顎に手をやりあの手この手と考えるが何れもぱっとしない上、場所によっては敗着の一手である。
後藤の息子がいるのだから希望のある事も言ってあげたいが考えつく次の手は何れも微妙だ。
神宮寺や柳原同じ気持ちらしく黙々と検討する一手が口から漏れるが唸るばかりだ。
「たく、後藤奴いいとこ見せろよ」
思わず悪態つく神宮寺。
誰にとは言わずもがなである。
当の零はテレビから検討用の盤へと視線を移し盤上を見つめていた。
行儀よく正座していた零は膝立ちになると身を乗り出し盤へと手を伸ばす。
「あああっ駄目だぞ零君。それはおもちゃじゃないんだ」
松本は盤へと伸びた小さな手を止め様とするが零の方が早かった。
ぱちりと駒を指す音が響く。
零が指した手を見て神宮寺と柳原は感心した様な声を、三角と横溝は成る程と納得する声を溢す。
もう先はないと思っていた盤に一筋の道が出来上がる。
テレビの向こうの後藤も長い思考を終えて一手指す。
それはまさしく今、零が指した手であった。
そこから流れが変わった。
その一手を皮切りに形成が見事に逆転したのだ。
流れに乗って一気に攻める後藤、相手は賢明にそれを防ごうとするが勢いは増すばかり。
そしてとうとう攻めの流れを防ぎ損ねた相手が頭を下げて投了を告げた。
テレビをひたすら見つめて流れを追っていた各々は安堵の息をつき歓声をあげる。
後藤の勝利を喜ぶというよりは息子が見てる対局でよく勝った。
父親の面目がたって良かったという雰囲気だ。
松本や神宮寺は零の頭をわしゃわしゃとかき混ぜる様に混ぜる様に撫でた。
「零君のお父さん勝ったぞ」
「良かったな零。お前の父ちゃん頑張って勝ったぞ」
もはや揉みくちゃに近い状態で髪はぼさぼさ眼鏡はズレるわであるが嬉しそうな顔を向ける彼等につられる様に零も笑った。
「お、やっと笑った」
やっぱり子供は笑顔が良いねと肩頬を手で押さえながらい三角は微笑む。
「対局終わったから後は感想戦が終わるのを待つだけだ。お前の父ちゃん後少しで戻ってくるからもう暫くの辛抱な」
「まあ、これでも食べろ。食ってる間に戻って来るだろ」
柳原は自身の持っていた歌舞伎揚げの封を開けて零に差し出した。
貰っていいのか判断出来ず視線を彷徨かせる零に神宮寺は「貰っとけ」と言うのでお言葉に甘えて袋から一枚歌舞伎揚げを取る。
「遠慮深い子供だな。もっと食べても良いぞ」
「んじゃ、ありがたく頂きます」
「ごっつあんです!」
「ほら、こいつら位遠慮なしでもいいぞ」
横から歌舞伎揚げを持っていく三角と松本を指差し柳原は歌舞伎揚げを進めるが零は首を横に振る。
「僕、お母さんとおかしは1日1個ってやくそくしてるのですみません」
少食のきらいがある零の事を考えた母親が言った約束事である。
その約束をして以来零は食べるのがケーキでも小さな飴でも必ず約束の一個を守っている。
「お母さんとの約束じゃあ破る訳にはいかないよな」
うんうんと頷く神宮寺に柳原は歌舞伎揚げを勧める手を引っ込める。
余る歌舞伎揚げを狙うのは三角と松本だ。
「柳原さん安心して下さい零君の分は俺たちが責任を持って食べるんで」
「ちょうど対局明けでお腹空いてたんですよ」
「お前らはもっと遠慮を覚えた方が良いぞ」
呆れてため息を溢しながらも柳原は歌舞伎揚げを袋ごと彼等に差し出す。
美味い美味いと食べる2人の横で相変わらずテレビを見ていた横溝が声をあげた。
「え、後藤九段どうしたの。まだ感想戦も始まってないのに」
困惑する横溝につられて皆がテレビの画面を見れば先程まで確かに座っていた場所に後藤の姿がなかった。
いるのは対局者がいなくなり困った様子の相手の棋士のみ。
何処に言った?トイレ?
いや、まさかと呟いたのは誰だったのか。
彼等の背後。部屋の扉の向こうから後藤の大きな声が聞こえた。
「零!零何処だ!!!」
零を探して徘徊しているのだろう。
後藤の零を呼ぶ大きな声に混ざり事務員が懸命に対局室へ戻るよう説得する声が聞こえる。
父親が自分を探す声に何の疑いもなく零は喜色を浮かべ立ち上がるがそれからの行動を神宮寺が止めた。
「零、お前の父ちゃんまだ仕事が残ってるからもうちょっとだけ待っててくれる?」
彼の顳顬辺りがヒクヒクと動いているがそれ以外は孫に優しく微笑むおじいちゃんの顔だった。
零が頷くのを確認するとその頭を一撫でして柳原に預ける。
柳原は膝の上に座らせた零に検討したまま放置された盤を指差し将棋でもするか?と尋ねた。
先程より大きく頷く零に満足気な柳原は盤をこちらに寄せて駒を並べ始める。
零もそれに倣い、駒を並べる作業に夢中になった所でちらりと柳原は神宮寺にアイコンタクトを送った。
ーあの親馬鹿を対局室に押し戻してー
ー任せとけってー
さっきまでの孫デレおじいちゃん顔は何処へやら肩を回しながら険しい顔をして出ていく神宮寺。
そんな彼の後ろ姿まで見送り、三人組はテレビに視線を戻すと暫くして普段より厳しさを三割増しの顔をした後藤が席へと戻ってきた。
「なんかさ」
淡々と始まる感想戦。勝った筈の後藤は何故かイラついていてその苛つきを隠そうともせずおおっぴらにしている。
何時もならこんな険しい顔をした後藤を見て怖い人だなと恐れる面々であるが
「分かるよいっちゃん。言いたい事はすんごく分かる」
「こんな恐い顔してるけど息子思いのいいお父さんだよな」
このテレビに映る顰めっ面の男は感想戦をほっぽりだして自分を待つ息子の所へ行こうとしたのだ。
しかし神宮寺に押し戻され今の状況である。
「もう、俺今日からどんな顔して後藤九段の顔を見たら良いのやら」
「本当それだよ。気が緩むと生暖かい目で見ちゃいそう」
そうじゃなくても顔が緩んでしまいそうで困ると横溝は自分の顔を平常時に戻そうと揉んだ。
同じく口角の位置を直そうと口許を揉んでいた三角はちらりと将棋を始めた柳原と零を見遣る。
「しかし子供ってのは偉大だね」
人をああまでも変えるのだ。
偉大でその影響力が恐ろしいと呟いた。
テレビの向こうで行われた感想戦は意外にも時間が掛かった。
周りからよく恐れられる後藤であるがその棋風や無頼漢な雰囲気が逆に好きだ憧れると言う者も確かに存在する。
今回の対局相手は正にそれだった。
しかも熱狂的な、が付く。
相手は後藤が憧れるあまりこの対局の為、後藤の事を調べに調べ研究し尽くした。
だから対局があれ程混戦したのだろうとは零との対局を終わらせ松本と交代した柳原の見解である。
感想戦である筈なのに相手が喋るばかりで後藤はもはや相槌すらしない。
後藤の分も喋り、彼を賞賛しまくる対局相手を尻目に後藤は完全に上の空だ。
結局、感想戦が終わったのは松本に続き三角、横溝。
そしてもう一度柳原と零が将棋を指しているいる時だった。
部屋の外から何やら言い争う声が聞こえるかと思いきや襖が勢いよく開かれ疲れた様子の後藤が、その後ろに神宮寺が付いて入ってきた。
「ほら、父ちゃんが帰って来たぞ」
深い思考に入っていた零は柳原の言葉に引き戻され振り向く。
と、同時に後藤が零を抱き上げていた。
「零、悪かったな。かなり遅くなって」
抱き上げた零のお腹に顔を埋めながら抱き締める後藤。
その光景を必死に見ないとする三人組はあちらこちらに視線を逸らし、柳原は頬杖を付いて呆れている。
「寂しくなかったか?」
「ううん。さびしくなかった。
神宮寺会長やみんなが僕と遊んでくれたの」
だから大丈夫だったという零の言葉に後藤は今まで一人にしていた零の事で頭がいっぱいで周りにまで頓着する余裕は無かったが今やっと自分達と神宮寺以外の人間を認識した。
視認した柳原や三角達の姿に後藤少し気まずそうにしながら零を畳の床へと降ろす。
「あとね。あとね」
零はその翡翠の瞳をキラキラと輝かせ興奮気味に口を開く。
「お仕事してるお父さんすごくかっこよかった!」
そう言うと両頬に手を当ててちょっと照れた表情を見せた零に後藤は勿論他の者達も深い息を吐き出す。
皆々が同じ事を考えていた。
何だこの可愛い生き物は
自分で言って何照れているんだと各々が各々の心の内で叫ぶ。
「お父さんおつかれさま」
今度は零が後藤に抱き着く番だった。
屈んだままだった後藤の首元に抱きつき頭をぐりぐり擦り付ける零の背中を後藤は慣れた手つきであやす様に叩く。
幾分、零と接して気持ちが落ち着いてきたのか部屋に入ってきた時の厳しい表情はない。
今ここにいるのは父親の後藤正宗だ。
世間の親馬鹿、孫馬鹿に見られるデレデレな顔では無かったが普段見られる後藤表情からは程遠い緩んだ顔をしていた。
そんな解けきった表情をうっかり様子を伺おうとして見てしまった横溝は自分の表情筋までもが緩んでしまいそうで、頑張れ俺の表情筋!頼むから耐えてくれ!と心の中で叱咤していた。
「・・・零?」
暫く静かだった部屋に小さな寝息が聞こえた。
後藤は身体を離して見れば気持ち良さそうに眠る零の姿。
「流石に一日中将棋三昧だったから疲れたんだろう」
完全に眠りに落ちてしまった零の姿に神宮寺は笑っていた。
「お前と別れてからずっと詰将棋してたし、その後、お前の対局の観戦だろ。
感想戦の間もずっと朔ちゃん達と将棋してたみたいだし」
ほれ、と神宮寺が指した指の先には途中で放置された駒と盤がある。
納得した後藤は零を抱き直して立ち上がる。
「こいつ、眠ると何しても起きないんでこのまま帰ります」
「おう、そうしろ。零の鞄は会長室に置きっ放しだから忘れんなよ」
「今日はありがとうございました」
頭を下げた後藤の肩を神宮寺は笑いながら叩くが声は眠る零に配慮してなのか小さめである。
「困ったらまた連れてきて良いぞ。
こいつらも子供の面倒見るの上手いって分かったしな」
こいつらと括られた三角達三人組は向けられた後藤の視線に思わず身を正し頭を下げた。
「悪かったな。対局明けにガキの面倒見させて」
ばつが悪そうに頭を掻く後藤に三人はそんな事無いと頭を振るう。
「零君大人しくて良い子でしたよ」
「面倒見る程手もかからない子でしたし」
「また将棋を指そうって約束したんでまた連れてきて下さい!」
松本の言葉に他の二人はうんうんと頷く。
三人の言葉に安堵でもしたのか眉間に寄っていた皺が綻びて「そうか」と微笑むので直視した三人は胸を押さえた。
三人同時の事だったので後藤はまた眉間に皺を寄せて怪訝な顔をする。
「後藤。お前もう帰れ!零も疲れてるんだからさっさと家に帰って寝かせてやれ」
「ああ、そうさせてもらいます」
柳原に礼を述べる後藤を神宮寺はぐいぐいと後藤を部屋から追い出した。
残された三人は肺に溜めていた息を吐き出す。
「あの顔は反則でしょ」
「なにあの嬉しそうな顔」
「もう駄目。これから後藤九段の顔をまともに見れる気がしない」
横溝は額を押さえながら天井を仰ぎ見、松本は身体を畳の上に放り出し倒れ、三角は両手で目を覆い項垂れると、三人はやはり三者三様の反応を見せていた。
そんな三人組は放って疲れた様子で柳原の横に腰を下ろした神宮寺は深々と疲労を含んだ息を吐く。
そんな彼に柳原は労わり言葉をかける。
「もうやだ。あいつの親馬鹿っぷり」
「しかしよく素直に対局室に戻ったね。てっきり一度零君の顔を見せにこっちに連れて来るかと思ったよ」
そうすれば後藤は息子の顔を見て満足して対局室に戻るかと思ったのだが、彼はこの部屋に来ず素直に対局室に直帰したのだ。
「一体如何やったの?」
「ちょっと魔法の言葉をな」
「魔法の言葉?」
何だそれは、と柳原は首を傾げた。
神宮寺が慌てて後藤元に行った時、彼は対局室に戻る様説得する事務員も構わず廊下を徘徊する幽鬼の如くであった。
始めて来る場所に留守番させている息子が心配故の行動であるのだろうが、その感情が表に出なさ過ぎてパッと見は人里に降りてきた凶悪な鬼である。
きっと神宮寺の感想は外れていない。
だって彼の強面にそこそこ慣れている筈の棋士達が恐怖の色を浮かべて遠巻きに観ているのだから
だったらこの鬼に向かう俺は桃太郎か。
お供の三匹は何処だ。
あの部屋にいる三人組か。
いや、あいつらは駄目だ。
こんな奴の顔を見たら即敵前逃亡だ。
と勝手に神宮寺は想像して失礼にも戦力外通知をするが、これは目の前の親馬鹿に疲れた脳が勝手に現実逃避をしようとしての事なので仕方ない。
神宮寺は腹を括り、後藤の首根っこを掴んだ。
「お前、一旦対局室に戻れ」
彼の返事は否であった。
息子の事が心配だ。
感想戦はするが一度息子の顔を見たい。
そう言う後藤に神宮寺は言葉を返す。
「零の奴は大人しくお前の対局見てたし今は朔ちゃんが面倒見てる」
特に変わった様子もないし心配する様な事はないからとりあえず戻れ。
対局者が片方いなくなった部屋の方が心配で神宮寺は促すが後藤は頑なに動かない。
如何しても息子の顔を一目見たいらしいのだが神宮寺にはこの対局で疲れきった男が愛息子を前に一目見てすぐに対局室に戻るとは思えなかった。
神宮寺はこれ以上徘徊させまいと後藤の首根っこを掴んでいるが年は十以上離れている上、来たる息子の運動会、父兄参加の競技で若い父親達に負けまいと空いた時間を見つけてはジムに通う様になったというこの男に勝てる筈がなかった。
後藤の足が息子のいる部屋へ向く。
駄目だ。なんとしてもこの男を対局室に戻さなくては
未だ遠巻きにこちらの様子を伺うだけの者達を恨めしく思った神宮寺に妙案が浮かんだ。
「お前、これ以上駄々こねんならあの綺麗な奥さんにバラすぞ。
お前が息子可愛さに仕事サボってるって」
後藤の動きが止まった。
油の切れたブリキの様に振り向き、何か言いたげな目をしている。
神宮寺は何の縁か後藤夫婦が夫婦になる前から知っている。
初対面はいつだったか思い出せないがデート中に出くわしたのでないか。
結婚式には勿論出たし、今彼が思いかける子供が産まれた時にも彼女に直接出産祝いを渡した。
それなりに付き合いがあるから彼女が今の後藤の行動を見てどんな反応をするか容易に想像出来た。
後藤もそのよく回る頭で考えているのだろう。
暫く動きを止めていた後藤は観念したのか足を対局室に向けた。
「いやー奥さん様様だね」
ありがたいと盤の側に置かれた駒を弄る。
側の盤には零が眠ってしまい中断となった駒達が並ぶ。
それを思わず見て考察してしまうのは棋士の性なのか。
「・・・何だこの滅茶苦茶な駒の進み方」
攻めたいのか守りたいのか指針などあったものでもない優柔不断とも言える駒の並び様。遊び駒だらけの盤に神宮寺は顔を顰める。
同じ事を思っていた柳原は苦笑いを浮かべた。
「徳ちゃんが後藤の所に行った後、あの子と将棋を指してみたんだけどね」
棋士である彼等が並んでいても浮かばなかった妙手。
それを指した子供の手前に期待して柳原は将棋を誘った。
子供も嬉々と受け入れ慣れた手つきで駒を規定の位置に並べるので勿論将棋は出来ると思っていた。
どの位の腕前なのか測りたかったので先手は譲るが手加減なしで始めた。
のだが、おかしいのは始めからであった。
子供は整然と並べられた駒を前に固まっていたのだ。
棋匠のタイトル持ちである柳原に今更緊張しているのかと周りは思うが子供にその様な様子は見られない。
「もしかして零君は駒の進め方が分からないのではないか」
零の彷徨う視線からそう推察した横溝。
いやいやまさかと三角がその推察を否定する。
そこで大きな声を出したのは零の様子を見守っていた松本であった。
「零君、歩兵は斜めには進めないよ」
「駄目なんですか?」
松本の大きな声に驚いた零は肩を引っ込めながら頭を傾げた。
ちょっと大きいらしい黒縁の眼鏡が頭の動きに合わせてずれる。
「え、」
と声を漏らしたのは三角か横溝か、はたまた柳原かも知れない。
この幼子の発言は四人にとって衝撃だった。
思う理由は違えど四人共零は将棋がさせると当たり前に思っていたのだ。
「それもそうだよな。零君はまだこんなに小さい子供だもんな」
様子のおかしい大人四人に感じるものがあったのか表情を暗くさせ出した零の頭を三角がポンポンと優しく撫でる。
そうだ。自分達の認識がおかしかったのだ。
きっとあの妙手は子供の第六感とかそんなまぐれなものだろう。そうだそうだと大人達は各々に胸を占める違和感を見て見ぬフリをする事に決め込み趣旨を変えて零に将棋の基礎を教える事にした。
「まあ、結局教えるまでいかなかったけどね」
彼等はプロの棋士である。
どの駒がどの方向に進むなど考えずとも指が勝手に正しい方向へと動く。
決して忘れていない。先程松本は零が指した歩兵の誤った動きを指摘した。分かっている。分かっているのだが指が駒を掴むと先行して勝手に動き、口での説明が追いつかない。じゃあ先ずは口頭の説明からにしようという提案で説明を始めてみたが幼児には難しかった。
解説が上手い面白いと評判の横溝の説明に零は只々呆然としていた。
口を開けて目を何度か瞬かせて、よく分からないと顔に出ていたがそれを言葉に出さなかったのは零の優しさだろう。
零の反応にこれはいけないとやはり駒を動かしながら説明しようとしたのだがだんだん駒を動かしていた彼等もよく分からなくなってくる。
「将棋のゲシュタルト崩壊だ」
これは危ない良くないとなり、柳原の「鯛も鮃も食うた者が知るというだろう」という言葉で先ずは零におかしくても良いから駒を進めさせて間違っていたら訂正を、合っていたらそのまま進めようと言う事になり
「それがこの結果」
見事に攻めも守りもあったもんじゃない盤上の完成である。
「成る程。しっかしおかしいな詰め将棋は出来たんだけどな」
初心者向けの本一冊分を全問解答したのだ。
それにあの妙手は只の子供の思いつきとは神宮寺には思えなかった。
「それにあの盤を見つめてる時のあの顔。
どっかで見たことがあるんだよな」
赤信号で車を停めた後藤はルームミラー越しに後部座席で気持ち良さそうに眠る零を見て安心した。
今朝は今の表情とは真逆で大きな翡翠の瞳に涙を溜めて不安気に後藤を見ていた。
後藤の妻であり零の母親である彼女に病気が見つかってから定期的な検診と治療を行なっていたが入院迄は行かなかった為、時勢で入れる保育所が見つからない零は日中をほぼ母親たまに父親と過ごしていた。
しかしその彼女が春の中頃に体調を崩して入院。
入院が決まった時、一番に問題になったのは保育所に行っていない零の日中の面倒を誰が見るかであった。
先の理由で入所可能な保育所は中々見つからず、夫婦共に身近に頼れる親戚がおらず。
だが後藤の兄弟子である幸田やその友人の桐山が零を預かると名乗りをあげてくれたのでどうにかなっていたのだが今日は後藤も対局、幸田家も桐山家も都合がつかず。
幸田の娘で零を可愛がっている香子が大学を休んで零の面倒を見ると申し出たが流石にそれはまずいと後藤が断り、後藤の妻がこの時の為にと入院前に探してくれていた託児所に零を預ける事になった。
しかし人生初の託児所。
知らない大人に背後から聞こえる沢山の子供の声に人見知りの零は涙を浮かべた。
察しが良く手がかからないと周りから評価を受けた子供である。
決して不安に負けて泣き喚く事は無かったが後藤の服を掴む小さな手だけは離れる素ぶりがなかった。
保育師が零の肩を掴み優しくゆっくりと後藤の服を掴む零の手を外そうとする。
指が一本ずつ離される度に零の瞳には涙が溜まる。
最後の一本が外されようとした時後藤は思わず零を抱き上げていた。
不安で顔を真っ青にしている我が子を見ていられなくなったのだ。
そのまま今日は預ける事をやめると保育師に告げた後藤は踵を返すと車の後部座席に零を降ろし携帯を胸ポケットから取り出して神宮寺に電話をかけた。
事情を話し、子供を会館に連れて行く事を許してほしいと頼むとあっさり神宮寺から了承され、対局中子供の面倒を見てやるとまで彼は言った。
聞けば以前幸田から後藤の事情を聞かされていてもしかしたらこのような事も起きるかもしれないと相談されていたのだとか。
幸田に対して勝手な事を、と溢しながらも兄弟子の気遣いをありがたいと思った。
しかも後藤自身は不本意であるが零が一番好きな棋士一位である神宮寺が面倒を見てくれるとなれば先程の様な表情は見なくて済むかもしれない。
電話を終えて本物の神宮寺に会えると零に言えば先程の泣き面は何処へやら目を輝かす現金な愛息子に後藤は安心した。
それから会館に赴き対局は思ったより長引くは感想戦は相手の独壇場で終わらないはで散々な一日であった後藤であるが今も後部座席ですやすやと眠りにつく零の姿に幾分癒された。
「しまった」
後藤は零に夕飯を食べさせていない事を思い出す。
妻との約束で三食食べる零の写真を送る約束をしているのだが零が眠ってしまった今、何をしても起きない零に夕飯を食べさせるのは不可能である。
それは結局、神宮寺の告げ口がなくとも彼女に叱られるという事で、後藤は信号が青に変わる迄項垂れるのであった。
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