義勇×炭治郎
今代の柱の中には夫婦で柱を拝命した者達がいる。
水柱 冨岡義勇
日柱 竈門炭治郎
炭治郎は始まりの呼吸として語り継がれてきた日の呼吸を鬼殺隊で唯一使える人物であり、今代で唯一怨敵鬼舞辻無惨を追い詰めた人物でもある。
水柱に嫁いだ為、本来であれば冨岡炭治郎と呼ばれるのだがそれではややこしいからと鬼殺隊で活動する際は旧姓である竈門を名乗っている。
そんな炭治郎には日柱という肩書の他に陰で密やかに囁かれている渾名がある。
鬼殺隊のお袋
その微笑みは人々を照らす日輪が如く暖かく、隊士も隠も平等に扱い慈しむ。
けれど、ただ優しいだけで無く何か間違った行いをすれば誰であろうと諭して叱る。
まさに鬼殺隊の母の様な人であった。
そんな彼女を妻に持つ水柱の冨岡義勇は炭治郎に比べて暗くは無いのだけれど明朗というには程遠く寡黙で鋭く、冠する水柱の名の如く流れる流水の様な人である。
常に冷静沈着、実力は歴代の水柱の中でも随一の実力を持ち、歴史の長い水の呼吸において新しい技も生み出した。
そんな二人を大抵の人はお似合いだと言うのだが、何故か彼らに近しい人程「冨岡に炭治郎は勿体無い」と言う者が多いので下級隊士達の間では鬼殺隊七不思議となっている。
閑話休題。
そんな鬼殺隊最強とも言える夫婦が住う水柱の屋敷は毎日、大変賑やかである。
夫婦二人に彼等の姉弟子と水柱の継子でもある弟弟子、加えて日柱の弟子が二人に街や山で拾って来たという幼子が二人。
総勢八人の大所帯である水柱の屋敷。
街の喧騒から離れ、辺りを竹に囲まれた屋敷は水屋敷の名に相応しく元は静かな屋敷であったがが今は絶え間なく楽しげな笑い声に満ち、時折聴こえる大きな汚い高音によって以前の厳かな静けさは見る影もない。
「炭治郎!!!!」と叫び声にも似た大きな声を上げた山吹色の髪の少年、善逸は声を聞きつけて縁側迄駆けて来た炭治郎に飛び付いた。
「どうしたんだ善逸、そんな大きな声を出して」
「あいつが、伊之助が俺を叩いて来るんだよ!」
助けてくれよ、慰めてくれよ、と炭治郎の胸にしがみついた善意は顔を涙か鼻水か分からぬそれで顔を濡らして訴える。
善逸が指差す先には大きな猪の頭に人間の小さな手足が飛び出た珍妙な生き物、もとい育ての親ならぬ猪の頭を被った伊之助が最近与えられたばかりの竹刀を振り回していた。
「なににげてるんだよわみそ!たんれんだ!はやくかたなをとれ!おれとしょうぶだ!しょうぶ!」
小さい体ながらに庭の真ん中で振り回す竹刀は勢いよく空を切り、ビュンビュンと音を立てるのでその音が聞こえる度に善逸は小さく悲鳴を上げて炭治郎に助けを求めた。
「無理無理無理!俺弱いんだ!いくら年下の伊之助相手でもあんなので叩かれたら俺死んじゃうよ!!」
「何を言ってるんだ善逸。お前は強い子だぞ」
よしよしと剣胼胝だらけではあるけれどそれでも女人らしい柔らかな炭治郎の手で頭を撫でられて善逸は表情を溶かす。
先程迄泣き喚いていたのが嘘だったかの様に炭治郎の手に己の頭を押し付けてもっと撫でてほしいと強請った。
それに応えて撫でてやれば伊之助が土に汚れた足のまま縁側に上がり炭治郎の背中に飛びつく。
「ずりぃぞもんいつ!もんじろう!おれもなでろ!」
伊之助がぐりぐりと炭治郎の背中に頭を押し付けるので伊之助には少し大きい猪の被りものはずるりと縁側の床へと落ちた。
そこから現れた美少女とも言える愛らしい顔を晒した伊之助を撫でやすい位置まで引き寄せた炭治郎は善逸同様に柔らかな青味がかった髪を撫で付けた。
「こらっ」
先程までの騒がしさはなりを潜め、心をほわほわさせる伊之助。
そんな伊之助の頭を竹刀で痛く無い程度に叩いたのは炭治郎の弟子として屋敷に住う時透兄弟の弟の方、無一郎であった。
「なにすんだよむじろー!」
「それ誰。まあ、僕の名前は良いとして師匠の名前位はちゃんと言える様になりなよ。もう赤ん坊じゃ無いんだからさ」
「ムキー!!!」
揶揄する様に言われた無一郎の言葉に伊之助は憤慨して飛び掛かる。
も、それをひらりと躱した無一郎に益々苛立ちを募らせた伊之助は野生の猪が如く声を上げて逃げる無一郎を追い掛けた。
そのまま鬼ごっこでもするかの如く消えてしまった二人に炭治郎は「元気だなぁ」と微笑ましげな感想を漏らした。
そんな炭治郎の意識を引く様に炭治郎の腕に抱えられたままの善逸は炭治郎の服の袖を引く。
「ねえ、炭治郎。今日はお休みでしょ?俺と一緒に「師匠が休みでも弟子のお前に休みは無いよ」」
まるで猫のように着物の襟を掴まれて宙ぶらりんになった善逸はそのまま炭治郎の腕から離され、床に下ろされた。
善逸は己の背中から感じる気配に恐る恐る振り向けば、先程伊之助に追われていた筈の無一郎。
かと思われたが眉間に寄せられた一本の皺に無一郎の兄、有一郎であると気付いた善逸は小さな悲鳴を上げてその場に飛び上がった。
というのも、善逸もそろそろ良い年だからと有一郎に嫌々引きづられて炭治郎の姉弟子主宰の地獄の修行にお呼ばれしたのだが未だ年が二桁と満たぬ善逸にも容赦のない修行内容に開始早々音を上げて道場飛び出したのだ。
そしてうろうろしていたところを竹刀を持った伊之助に捕まり、静止も虚しく容赦なく打ち込まれて炭治郎に助けを求め今に至る。
そして目の前には地獄の修行に己を放り込んだ張本人が立っていた。
「有一郎さん、もしかして俺を」
「もしかしなくてもお前を連れ戻しに来た」
瞳を潤ませての善逸の問いに無一郎と並んで愛らしいと街で評される笑みで答えた有一郎に善逸は本日最大の声量で悲鳴を上げて炭治郎に手を伸ばした。
善逸は地獄はもう嫌だと必死に炭治郎に助けを求めるのだが「折角真菰が修行をしてくれるのに逃げだすのは勿体ないぞ。頑張れ善逸!」と拳を握って応援してくれる炭治郎に善逸の希望は潰えた。
「今の声は善逸か?」
「錆兎!おかえり」
有一郎に引きづられて善逸の姿が見えなくなった所で入れ替わる様に錆兎が現れた。
昨晩から鬼狩りに出ていた錆兎であるがその姿は酷く泥に汚れていた。
錆兎はこのまま屋敷に上がっては屋敷を汚してしまうからと?屋敷に上がる前に庭の井戸で泥を流そうと思い庭に来たのだ。
その酷く汚れた姿に鬼かと炭治郎が尋ねれば錆兎は否と答える。
「帰り道の途中で沼に落ちた子供を見つけて咄嗟に服のまま助けに沼に入ってしまったんだ」
「どうりで肩に水草がついている筈だ」
炭治郎は肩に付いた水草を取ってあげるからと錆兎を手招く。
錆兎は取って貰わなくても自分で出来ると固辞したが微笑みを崩さない炭治郎に観念して近付いた。
炭治郎の手は肩に伸ばされ、錆兎の頭へも伸びる。
「偉いぞ錆兎。偉い偉い」
「子供扱いはよしてくれ炭治郎!俺は当たり前の事をしたまでだ!」
幼い伊之助や善逸、弟子の時透兄弟にする様に錆兎の頭を撫でる炭治郎。
「当たり前な事でも立派な事に変わりないぞ。それにこんな時じゃないと錆兎の頭も撫でられないからな」
良い子、良い子と頬を緩ませて己の頭を撫でる炭治郎の顔を見て錆兎も観念したのか、はたまた諦めたのか炭治郎の気が済むまで大人しくなった。
善意の悲痛は叫び声が未だ微かに広い屋敷の何処からか聴こえている。
何時もで有れば男ならばと軟弱を許さない錆兎であるが山彦の様に叫び続けている善逸に何かあったのかと珍しく心配する様子を見せた。
炭治郎が事情を説明すればここにはいない善逸に向けて錆兎は同情の表情を浮かべていた。
「真菰の修行か。うん、それは悲鳴も上げたくなるな」
しかしそれは仕方なしと同情はしても修行は善逸の為になる事なので錆兎は止める気もないし、そもそも止まらない。
「おやつにみたらし団子が作ってあるから折を見て道場へ持って行ってくれないか?」
「任された。炭治郎の作るみたらし団子は美味いから俺も楽しみだ」
「久しぶりに作ったらあまり期待しないでくれ」
それこそ昔の炭治郎は己の刀を担当する刀鍛冶のご機嫌取りに何本ものみたらしを作りはしたが今は刀を紛失、破壊の回数が減った事と、忙しさも相まって久しい。
上手く作れるか心配な炭治郎に対し、炭治郎手製の団子が食べられると聞いて任務に疲れ少し草臥れていた錆兎の表情は明るい。
髪の毛にこびり付いた泥が固まり切る前に水浴びをしてくる錆兎とはそこで別れた。
「さてと」
炭治郎は善逸が叫ぶ前までいた厨へと戻ろうと廊下を歩いた。
何時もならば食べ盛りを多く抱える炭治郎は献立に頭を悩ますのだが、今日の献立は既に決まっている。
夫である義勇の好物、鮭大根である。
義勇と炭治郎は夫婦であるが、夫婦である前に柱であった。
鬼殺隊士達の上に立つ柱業というのは兎に角任務が多い。
それこそ新人であった時の様な休み休みに西へ東へ、という事は無くなったが手強い敵も多く、一人の鬼の首を討ち取るだけでも時間はかなりかかった。
そんな忙しい柱に夫婦で務めているものだから共に食事と言うのは勿論の事、結婚をしてそれなり経つというのに炭治郎手製の暖かな夕食を義勇に食べさせるというのは両の手で数えて指が余る程である。
そんな稀な日が今日であった。
義勇は昨晩、長期の任務を終えて帰って来ており、炭治郎の任務も明日からという事で珍しく休みが被った為炭治郎は張り切っていた。
余程の辺境でない限り隊士達は藤の家にお世話になる為食事に困る事は無いが義勇は炭治郎の旦那である。
少しばかり火加減が得意な己の料理を暖かい内に食べてもらいたい。
という訳で炭治郎は早朝から市に赴き新鮮な鮭に大根、その他食材を買い込むと下拵えをしていた訳であるが先程の善逸の声で中断していた。
早く準備を再開しなければ、と慌てて廊下を歩いている所に声を掛けられた。
義勇である。
丁度、夫婦の寝室前で声を掛けられた炭治郎はまだ眠っている筈の義勇に何か欲しい物でもあったのかと襖を少し開けてそろりと入った。
義勇が少しでも沢山眠れる様にと側の雨戸を閉めている為寝室は薄暗い。
どうやら先程の声は義勇寝言であったのか、布団に包まった義勇は未だ目蓋を閉じて寝息を立てていた。
「義勇さん、お疲れ様です」
義勇を起こさぬ様小さな声で呼んだ炭治郎は布団から出ていた義勇の右頬に唇を落とすと慌てて己の顔を離した。
自分は一体、今、何をしたんだ。
いくら夫とはいえ、寝込みを襲うなどとははしたないと炭治郎は思わぬ己の行動に酷く混乱していた。
その為義勇の匂いがあからさまに変わった事も、寝ている筈の義勇の手がそろりと炭治郎の手に忍び寄っている事にも気付かずにいた。
「炭治郎」
「どうしたんだ真菰」
襖の向こうから聞こえた姉弟子である真菰の声に立ち上がった炭治郎は声量を控え目に、呼びかけに応えると寝室の襖を挟んで応対した。
炭治郎の鴉が明日の任務に変更が出たとかで伝えに来たらしい。
炭治郎の鴉は己を炭治郎の師と称するだけあって厳しい。
あまり待たせてはその鋭い嘴に突かれて任務前に生傷だらけにされてしまう。
それだけは勘弁だと慌てて炭治郎は寝室を飛び出した。
それを笑顔で見送った真菰は視線を寝室の義勇へと移す。
「義勇もまだまだ若いから仕方ない事だけどこの屋敷には小さな子供が沢山いるんだからせめて昼間に盛るのは止めてね」
その真菰の言い草は心外だと義勇は体を起こした。
ちょっと目を覚ましたら側に炭治郎がいて、珍しく可愛らしい事をして来たのでこれは据え膳食わぬは男の恥、と手を伸ばし掛けただけである。
それも手が触れる前に炭治郎が離れてしまった為、未遂である。
「あー!はんはんはおりがおきてやがる!おれとしょうぶしろ!!!」
猪突猛進!と真菰の横を抜け、義勇の腹目掛けて突撃してきたのは伊之助であった。
「駄目だよ伊之助、水柱の人は疲れてるから寝かしてやってくれって炭治郎が言ってただろ」
戻って来いと真菰の後ろに隠れて顔だけを出した善逸は怯えた声で義勇の腕の中で暴れる伊之助に声を掛けた。
「え、冨岡さん起きたの?」
「だったら稽古つけてもらおうかな」
と聴こえる声は姿が見えないが時透兄弟の声である。
「ほらね?」
真菰は続々出てきた子供達にほら見た事かと言わんばかりに両手を開き、頭を傾げて見せた。
子供達に囲まれ、腹に伊之助の頭突きを受けて「ねえねえ」と双子に頬を突かれてやられ放題の義勇は右手で顔を覆った。
「駄目だって、炭治郎に叱られるよ」
唯一、善逸だけは未だ真菰の側を離れず訴えるが誰も彼の言葉は聞いていない。
そして鴉との話を終えて戻って来た炭治郎が思わず起きている義勇とそんな彼を囲む子供達を見て大きな声を上げたので完全に義勇の目は覚めてしまう。
「駄目だろお前達、義勇さんを起こしちゃ」
「炭治郎、良い。気にするな」
義勇はそうは言ったが炭治郎に見つかって善逸も含む子供達は蜘蛛の子を散らす様に退散してしまう。
「炭治郎」
にこにこと微笑む真菰に手招かれて炭治郎は真菰の側へと寄る。
真菰は炭治郎の耳に顔を寄せるとこそこそと義勇に見せ付ける様に、偶に二人して義勇の方を見ながら内緒話をしていた。
義勇はそれを何なんだと思いながら布団を畳んで、しまい、雨戸を開けた。
真菰と内緒話をしていた炭治郎の顔はみるみる赤くなる。
「じゃあ、そう言う事だから」
話を済ました真菰は片手を上げて再び道場方へと消えた。
義勇は未だ顔を赤くしたままの炭治郎に声を掛けると、炭治郎はあからさまに肩を震わせ、反応して見せた。
一体、どうしたのか尋ねれば炭治郎は俯き、割烹着の裾を握った。
益々訳が分からず再度尋ねると炭治郎は一度辺りに人がいないのを確認してから義勇の耳に唇を寄せる。
「真菰が今日は子供達を連れてカナエさんの所に泊まりに行くから二人で楽しんでくれって」
「だが、錆兎が」
いるではないかと言いかけたが義勇は己が継子である錆兎が今晩は同期である不死川と共に岩柱である悲鳴嶼の所へ修行をしに行く事を思い出した。
それは泊まりがけでそのまま明日は悲鳴嶼の所から次の任務地に行くとも聞いている。
だがそれでも炭治郎は明日から任務である。
楽しむも何も精々二人で夕食を摂るぐらいだろうと思ったら炭治郎が義勇の浴衣の袖を引いた。
「俺、さっき鴉から任務の日取りの変更を受けまして、それで、その」
歯切れの悪い炭治郎に義勇はてっきり任務が前倒しになったのかと思ったが違った。
炭治郎は少し、熱の篭った声で任務が明後日に伸びた事を義勇に告げた。
水柱 冨岡義勇
日柱 竈門炭治郎
炭治郎は始まりの呼吸として語り継がれてきた日の呼吸を鬼殺隊で唯一使える人物であり、今代で唯一怨敵鬼舞辻無惨を追い詰めた人物でもある。
水柱に嫁いだ為、本来であれば冨岡炭治郎と呼ばれるのだがそれではややこしいからと鬼殺隊で活動する際は旧姓である竈門を名乗っている。
そんな炭治郎には日柱という肩書の他に陰で密やかに囁かれている渾名がある。
鬼殺隊のお袋
その微笑みは人々を照らす日輪が如く暖かく、隊士も隠も平等に扱い慈しむ。
けれど、ただ優しいだけで無く何か間違った行いをすれば誰であろうと諭して叱る。
まさに鬼殺隊の母の様な人であった。
そんな彼女を妻に持つ水柱の冨岡義勇は炭治郎に比べて暗くは無いのだけれど明朗というには程遠く寡黙で鋭く、冠する水柱の名の如く流れる流水の様な人である。
常に冷静沈着、実力は歴代の水柱の中でも随一の実力を持ち、歴史の長い水の呼吸において新しい技も生み出した。
そんな二人を大抵の人はお似合いだと言うのだが、何故か彼らに近しい人程「冨岡に炭治郎は勿体無い」と言う者が多いので下級隊士達の間では鬼殺隊七不思議となっている。
閑話休題。
そんな鬼殺隊最強とも言える夫婦が住う水柱の屋敷は毎日、大変賑やかである。
夫婦二人に彼等の姉弟子と水柱の継子でもある弟弟子、加えて日柱の弟子が二人に街や山で拾って来たという幼子が二人。
総勢八人の大所帯である水柱の屋敷。
街の喧騒から離れ、辺りを竹に囲まれた屋敷は水屋敷の名に相応しく元は静かな屋敷であったがが今は絶え間なく楽しげな笑い声に満ち、時折聴こえる大きな汚い高音によって以前の厳かな静けさは見る影もない。
「炭治郎!!!!」と叫び声にも似た大きな声を上げた山吹色の髪の少年、善逸は声を聞きつけて縁側迄駆けて来た炭治郎に飛び付いた。
「どうしたんだ善逸、そんな大きな声を出して」
「あいつが、伊之助が俺を叩いて来るんだよ!」
助けてくれよ、慰めてくれよ、と炭治郎の胸にしがみついた善意は顔を涙か鼻水か分からぬそれで顔を濡らして訴える。
善逸が指差す先には大きな猪の頭に人間の小さな手足が飛び出た珍妙な生き物、もとい育ての親ならぬ猪の頭を被った伊之助が最近与えられたばかりの竹刀を振り回していた。
「なににげてるんだよわみそ!たんれんだ!はやくかたなをとれ!おれとしょうぶだ!しょうぶ!」
小さい体ながらに庭の真ん中で振り回す竹刀は勢いよく空を切り、ビュンビュンと音を立てるのでその音が聞こえる度に善逸は小さく悲鳴を上げて炭治郎に助けを求めた。
「無理無理無理!俺弱いんだ!いくら年下の伊之助相手でもあんなので叩かれたら俺死んじゃうよ!!」
「何を言ってるんだ善逸。お前は強い子だぞ」
よしよしと剣胼胝だらけではあるけれどそれでも女人らしい柔らかな炭治郎の手で頭を撫でられて善逸は表情を溶かす。
先程迄泣き喚いていたのが嘘だったかの様に炭治郎の手に己の頭を押し付けてもっと撫でてほしいと強請った。
それに応えて撫でてやれば伊之助が土に汚れた足のまま縁側に上がり炭治郎の背中に飛びつく。
「ずりぃぞもんいつ!もんじろう!おれもなでろ!」
伊之助がぐりぐりと炭治郎の背中に頭を押し付けるので伊之助には少し大きい猪の被りものはずるりと縁側の床へと落ちた。
そこから現れた美少女とも言える愛らしい顔を晒した伊之助を撫でやすい位置まで引き寄せた炭治郎は善逸同様に柔らかな青味がかった髪を撫で付けた。
「こらっ」
先程までの騒がしさはなりを潜め、心をほわほわさせる伊之助。
そんな伊之助の頭を竹刀で痛く無い程度に叩いたのは炭治郎の弟子として屋敷に住う時透兄弟の弟の方、無一郎であった。
「なにすんだよむじろー!」
「それ誰。まあ、僕の名前は良いとして師匠の名前位はちゃんと言える様になりなよ。もう赤ん坊じゃ無いんだからさ」
「ムキー!!!」
揶揄する様に言われた無一郎の言葉に伊之助は憤慨して飛び掛かる。
も、それをひらりと躱した無一郎に益々苛立ちを募らせた伊之助は野生の猪が如く声を上げて逃げる無一郎を追い掛けた。
そのまま鬼ごっこでもするかの如く消えてしまった二人に炭治郎は「元気だなぁ」と微笑ましげな感想を漏らした。
そんな炭治郎の意識を引く様に炭治郎の腕に抱えられたままの善逸は炭治郎の服の袖を引く。
「ねえ、炭治郎。今日はお休みでしょ?俺と一緒に「師匠が休みでも弟子のお前に休みは無いよ」」
まるで猫のように着物の襟を掴まれて宙ぶらりんになった善逸はそのまま炭治郎の腕から離され、床に下ろされた。
善逸は己の背中から感じる気配に恐る恐る振り向けば、先程伊之助に追われていた筈の無一郎。
かと思われたが眉間に寄せられた一本の皺に無一郎の兄、有一郎であると気付いた善逸は小さな悲鳴を上げてその場に飛び上がった。
というのも、善逸もそろそろ良い年だからと有一郎に嫌々引きづられて炭治郎の姉弟子主宰の地獄の修行にお呼ばれしたのだが未だ年が二桁と満たぬ善逸にも容赦のない修行内容に開始早々音を上げて道場飛び出したのだ。
そしてうろうろしていたところを竹刀を持った伊之助に捕まり、静止も虚しく容赦なく打ち込まれて炭治郎に助けを求め今に至る。
そして目の前には地獄の修行に己を放り込んだ張本人が立っていた。
「有一郎さん、もしかして俺を」
「もしかしなくてもお前を連れ戻しに来た」
瞳を潤ませての善逸の問いに無一郎と並んで愛らしいと街で評される笑みで答えた有一郎に善逸は本日最大の声量で悲鳴を上げて炭治郎に手を伸ばした。
善逸は地獄はもう嫌だと必死に炭治郎に助けを求めるのだが「折角真菰が修行をしてくれるのに逃げだすのは勿体ないぞ。頑張れ善逸!」と拳を握って応援してくれる炭治郎に善逸の希望は潰えた。
「今の声は善逸か?」
「錆兎!おかえり」
有一郎に引きづられて善逸の姿が見えなくなった所で入れ替わる様に錆兎が現れた。
昨晩から鬼狩りに出ていた錆兎であるがその姿は酷く泥に汚れていた。
錆兎はこのまま屋敷に上がっては屋敷を汚してしまうからと?屋敷に上がる前に庭の井戸で泥を流そうと思い庭に来たのだ。
その酷く汚れた姿に鬼かと炭治郎が尋ねれば錆兎は否と答える。
「帰り道の途中で沼に落ちた子供を見つけて咄嗟に服のまま助けに沼に入ってしまったんだ」
「どうりで肩に水草がついている筈だ」
炭治郎は肩に付いた水草を取ってあげるからと錆兎を手招く。
錆兎は取って貰わなくても自分で出来ると固辞したが微笑みを崩さない炭治郎に観念して近付いた。
炭治郎の手は肩に伸ばされ、錆兎の頭へも伸びる。
「偉いぞ錆兎。偉い偉い」
「子供扱いはよしてくれ炭治郎!俺は当たり前の事をしたまでだ!」
幼い伊之助や善逸、弟子の時透兄弟にする様に錆兎の頭を撫でる炭治郎。
「当たり前な事でも立派な事に変わりないぞ。それにこんな時じゃないと錆兎の頭も撫でられないからな」
良い子、良い子と頬を緩ませて己の頭を撫でる炭治郎の顔を見て錆兎も観念したのか、はたまた諦めたのか炭治郎の気が済むまで大人しくなった。
善意の悲痛は叫び声が未だ微かに広い屋敷の何処からか聴こえている。
何時もで有れば男ならばと軟弱を許さない錆兎であるが山彦の様に叫び続けている善逸に何かあったのかと珍しく心配する様子を見せた。
炭治郎が事情を説明すればここにはいない善逸に向けて錆兎は同情の表情を浮かべていた。
「真菰の修行か。うん、それは悲鳴も上げたくなるな」
しかしそれは仕方なしと同情はしても修行は善逸の為になる事なので錆兎は止める気もないし、そもそも止まらない。
「おやつにみたらし団子が作ってあるから折を見て道場へ持って行ってくれないか?」
「任された。炭治郎の作るみたらし団子は美味いから俺も楽しみだ」
「久しぶりに作ったらあまり期待しないでくれ」
それこそ昔の炭治郎は己の刀を担当する刀鍛冶のご機嫌取りに何本ものみたらしを作りはしたが今は刀を紛失、破壊の回数が減った事と、忙しさも相まって久しい。
上手く作れるか心配な炭治郎に対し、炭治郎手製の団子が食べられると聞いて任務に疲れ少し草臥れていた錆兎の表情は明るい。
髪の毛にこびり付いた泥が固まり切る前に水浴びをしてくる錆兎とはそこで別れた。
「さてと」
炭治郎は善逸が叫ぶ前までいた厨へと戻ろうと廊下を歩いた。
何時もならば食べ盛りを多く抱える炭治郎は献立に頭を悩ますのだが、今日の献立は既に決まっている。
夫である義勇の好物、鮭大根である。
義勇と炭治郎は夫婦であるが、夫婦である前に柱であった。
鬼殺隊士達の上に立つ柱業というのは兎に角任務が多い。
それこそ新人であった時の様な休み休みに西へ東へ、という事は無くなったが手強い敵も多く、一人の鬼の首を討ち取るだけでも時間はかなりかかった。
そんな忙しい柱に夫婦で務めているものだから共に食事と言うのは勿論の事、結婚をしてそれなり経つというのに炭治郎手製の暖かな夕食を義勇に食べさせるというのは両の手で数えて指が余る程である。
そんな稀な日が今日であった。
義勇は昨晩、長期の任務を終えて帰って来ており、炭治郎の任務も明日からという事で珍しく休みが被った為炭治郎は張り切っていた。
余程の辺境でない限り隊士達は藤の家にお世話になる為食事に困る事は無いが義勇は炭治郎の旦那である。
少しばかり火加減が得意な己の料理を暖かい内に食べてもらいたい。
という訳で炭治郎は早朝から市に赴き新鮮な鮭に大根、その他食材を買い込むと下拵えをしていた訳であるが先程の善逸の声で中断していた。
早く準備を再開しなければ、と慌てて廊下を歩いている所に声を掛けられた。
義勇である。
丁度、夫婦の寝室前で声を掛けられた炭治郎はまだ眠っている筈の義勇に何か欲しい物でもあったのかと襖を少し開けてそろりと入った。
義勇が少しでも沢山眠れる様にと側の雨戸を閉めている為寝室は薄暗い。
どうやら先程の声は義勇寝言であったのか、布団に包まった義勇は未だ目蓋を閉じて寝息を立てていた。
「義勇さん、お疲れ様です」
義勇を起こさぬ様小さな声で呼んだ炭治郎は布団から出ていた義勇の右頬に唇を落とすと慌てて己の顔を離した。
自分は一体、今、何をしたんだ。
いくら夫とはいえ、寝込みを襲うなどとははしたないと炭治郎は思わぬ己の行動に酷く混乱していた。
その為義勇の匂いがあからさまに変わった事も、寝ている筈の義勇の手がそろりと炭治郎の手に忍び寄っている事にも気付かずにいた。
「炭治郎」
「どうしたんだ真菰」
襖の向こうから聞こえた姉弟子である真菰の声に立ち上がった炭治郎は声量を控え目に、呼びかけに応えると寝室の襖を挟んで応対した。
炭治郎の鴉が明日の任務に変更が出たとかで伝えに来たらしい。
炭治郎の鴉は己を炭治郎の師と称するだけあって厳しい。
あまり待たせてはその鋭い嘴に突かれて任務前に生傷だらけにされてしまう。
それだけは勘弁だと慌てて炭治郎は寝室を飛び出した。
それを笑顔で見送った真菰は視線を寝室の義勇へと移す。
「義勇もまだまだ若いから仕方ない事だけどこの屋敷には小さな子供が沢山いるんだからせめて昼間に盛るのは止めてね」
その真菰の言い草は心外だと義勇は体を起こした。
ちょっと目を覚ましたら側に炭治郎がいて、珍しく可愛らしい事をして来たのでこれは据え膳食わぬは男の恥、と手を伸ばし掛けただけである。
それも手が触れる前に炭治郎が離れてしまった為、未遂である。
「あー!はんはんはおりがおきてやがる!おれとしょうぶしろ!!!」
猪突猛進!と真菰の横を抜け、義勇の腹目掛けて突撃してきたのは伊之助であった。
「駄目だよ伊之助、水柱の人は疲れてるから寝かしてやってくれって炭治郎が言ってただろ」
戻って来いと真菰の後ろに隠れて顔だけを出した善逸は怯えた声で義勇の腕の中で暴れる伊之助に声を掛けた。
「え、冨岡さん起きたの?」
「だったら稽古つけてもらおうかな」
と聴こえる声は姿が見えないが時透兄弟の声である。
「ほらね?」
真菰は続々出てきた子供達にほら見た事かと言わんばかりに両手を開き、頭を傾げて見せた。
子供達に囲まれ、腹に伊之助の頭突きを受けて「ねえねえ」と双子に頬を突かれてやられ放題の義勇は右手で顔を覆った。
「駄目だって、炭治郎に叱られるよ」
唯一、善逸だけは未だ真菰の側を離れず訴えるが誰も彼の言葉は聞いていない。
そして鴉との話を終えて戻って来た炭治郎が思わず起きている義勇とそんな彼を囲む子供達を見て大きな声を上げたので完全に義勇の目は覚めてしまう。
「駄目だろお前達、義勇さんを起こしちゃ」
「炭治郎、良い。気にするな」
義勇はそうは言ったが炭治郎に見つかって善逸も含む子供達は蜘蛛の子を散らす様に退散してしまう。
「炭治郎」
にこにこと微笑む真菰に手招かれて炭治郎は真菰の側へと寄る。
真菰は炭治郎の耳に顔を寄せるとこそこそと義勇に見せ付ける様に、偶に二人して義勇の方を見ながら内緒話をしていた。
義勇はそれを何なんだと思いながら布団を畳んで、しまい、雨戸を開けた。
真菰と内緒話をしていた炭治郎の顔はみるみる赤くなる。
「じゃあ、そう言う事だから」
話を済ました真菰は片手を上げて再び道場方へと消えた。
義勇は未だ顔を赤くしたままの炭治郎に声を掛けると、炭治郎はあからさまに肩を震わせ、反応して見せた。
一体、どうしたのか尋ねれば炭治郎は俯き、割烹着の裾を握った。
益々訳が分からず再度尋ねると炭治郎は一度辺りに人がいないのを確認してから義勇の耳に唇を寄せる。
「真菰が今日は子供達を連れてカナエさんの所に泊まりに行くから二人で楽しんでくれって」
「だが、錆兎が」
いるではないかと言いかけたが義勇は己が継子である錆兎が今晩は同期である不死川と共に岩柱である悲鳴嶼の所へ修行をしに行く事を思い出した。
それは泊まりがけでそのまま明日は悲鳴嶼の所から次の任務地に行くとも聞いている。
だがそれでも炭治郎は明日から任務である。
楽しむも何も精々二人で夕食を摂るぐらいだろうと思ったら炭治郎が義勇の浴衣の袖を引いた。
「俺、さっき鴉から任務の日取りの変更を受けまして、それで、その」
歯切れの悪い炭治郎に義勇はてっきり任務が前倒しになったのかと思ったが違った。
炭治郎は少し、熱の篭った声で任務が明後日に伸びた事を義勇に告げた。
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