籠の鳥は外に夢を見る
その日は宝物庫の虫干しを兼ねて解放される日であった。
戦の戦利品から献上品、図画に詩を認めた掛軸、金銀玉と輝く宝飾は曹魏の強大な勢力を象徴するかの様に東西南北地域様々な装飾が見れた。
それは幼く宝物の価値の分からぬ子供達の目を楽しませるに充分な物で子供達は挙って邸から抜け出し忙しなく文官女官が行き来する宝物庫に忍びこむ。
されど宝物を管理する者達からすれば幾ら主人の嫡子達と言えど宝物庫に忍びこみうっかり指輪の一つでも綺麗だからと持ち出されてはたまった物ではない。
そのため文官女官達は宝物庫に忍び込んだ主の子息子女を見つけては粗相のない様、丁重に慎重に邸へ戻ってもらうよう対応した。
そんな賑やかな宝物庫より奥の廊下を曹植は歩いていた素晴らしい詩が書かれた掛軸が見れると周りに唆されて皆と同じく邸を飛び出したのだがさっそく今回の宝物庫の警備を任された夏侯惇に見つかり逃げる道すがら他の兄弟達と離れ離れになったのである。
気付いたら見知らぬ廊下で、何とか宝物庫の方まで戻ろうと賑やかな声のする方へ歩いたのだが何故か宝物庫へ辿り着けない。
それどころか益々離れて行っているような気がして、次第に心細くなってきた曹植は瞳に涙を浮かべて鼻を啜った。
「兄上・・・」
曹植は兄弟で唯一、宝物庫に忍び込む事を止める様に言った兄の事が恋しくなった。
目付きが鋭く何時も難しい顔をした兄はこの日は特に難しい顔をして宝物庫に忍び込もうと逸る幼い兄弟達を諌めていた。
しかし、曹植も他の兄弟達同様に己に募る好奇心を抑えきれず飛び出した結果がこれである。
今更、あの時兄の言葉を聞いていれば良かったと遅い後悔をしながら歩き疲れた曹植はその場に蹲った。
そんな曹植の耳に音が入った。
何度か父親が開く宴会で耳にした音。
宴会では大人達が酷く酔いながら弾くので余りまともな音は聴いた事が無かったがそれは確かに古琴の音であった。
曹植は蹲る体勢から、無意識に床へ座り直すとそれから一曲、二曲。
最早何曲聴いていたのか自分で分からない程その場で何処からともなく聴こえてくる古琴の演奏に耳を傾けていた。
古琴の演奏は曹植に一人の寂しさを紛らわせ、暖かく、それでいて何処か寂し気な演奏でだった。
演奏が途切れた頃、意識を戻した曹植は辺りが薄暗くなっている事に気がつく。
もう日は西に沈みかかっており廊下から見える庭は暗い闇を落としていた。
その闇は見れば見る程不気味で曹植は唇を震わせる。
何処からともなく足音が聴こえた。
始めはだんだん近付いてくるその音に天の助けと喜んだ曹植であるが、果たしてこれは本当に誰かの足音なのだろうかと疑問を抱く。
今の今まで誰も通らなかった廊下なのに辺りが暗くなりだした途端聴こえる足音。
それを訝しむ曹植の頭に兄弟達から聴いた城を徘徊する人喰いの妖の話が思い出される。
この城には妖がいて、夜な夜なあっちこっち徘徊しては人を食べているのだと言う。
曹植は咄嗟に何処かへ隠れようと考えた。
身を隠して此方に向かって来るものが何なのか確認して人ならば隠れているのを止めれば良い。
もしも、もしも人では無かったのならそのまま隠れてやり過ごせば良い。
我ながら良い考えだと自画自賛を終えた曹植はさっそく身を隠そうと立ち上がるのだが、そのままよろめいて床へと転んだ。
曹植自身の体感はそれ程でも無かったが実際は長い時間同じ姿勢で古琴の演奏を聴いていた曹植の体は血の流れが滞り、特に足は明らかにおかしな向きに縺れても痛みを感じない程に痺れ切っていた。
しかしこのまま床に転んでいる訳にもいかない曹植は何とか立ち上がろうとするのだが痺れた足は思うように動かない。
そうこうしている間にも足音が曹植の方へと近付いて来る。
辺りは既に暗く庭先は勿論、曹植から数歩先は完全なる闇に染まっていた。
その闇に浮かび上がる火の玉の様な物を目にした曹植は自分の心臓が驚いて飛び跳ねた衝撃に胸を押さえる。
足が動かないならばとせめてもの思いで体を丸めた曹植は早鐘を打つ自身の鼓動を聴きながら先程見た火の玉について考えていた。
考えるというより曹植の今の状態は恐慌である。
平時であればもう少し火の玉について考察出来たかもしれないが今の曹植は辺りの暗さと雰囲気に飲まれて火の玉を妖が出す怪火かそれに近い何かとしか思えずにいた。
最早、近付いて来る何かが妖の類としか思えない曹植はその何かが突然気が変わり、別の方へと歩いていかないかと淡い期待を抱くのだが無情にも足音は曹植のいる方へ向かって来る。
それどころか急に駆け足で駆けて来るので曹植はもう駄目だと諦めた。
今なら辞世の句も詠めそうだと自嘲気味な曹植に聞き覚えのある声が降って来る。
その声に恐る恐る顔を上げた曹植は自身を怪訝な顔で見下ろす曹丕の顔に瞳を潤ませて飛びついた。
「兄上!兄上!」
「植、なんだいきなり」
突然飛びついて来た曹植に曹丕は煩わしそうに付いて離れない曹植の体を離そうとするのだが曹植は離れなかった。
今来ただけで、それまでの曹植の心細さを知らない曹丕は離れろと言っても聞かない曹植にだんだん眉間の皺を険しくしていくのだが、曹丕の後ろで灯りを手に立っていた夏侯惇が不機嫌になりつつある曹丕を宥めた。
「こんな暗い場所にいたから怖かったんだろう。もう少し我慢してやれ」
そう声をかけたと同時に曹丕の胸の辺りで泣き出した曹植。
じんわりの湿ってきた胸元の不快感に頬を引くつかせた曹丕は後ろの夏侯惇を見上げて恨めし気に見つめた。
「・・・恨むぞ夏侯惇」
曹植に泣き付かてうんざりとしていた曹丕であるが泣きべそかく曹植を無理矢理引っ張って帰ろうとはせず、背中を撫でたり優しく叩いたりと意外にも面倒見の良さを発揮しつつ曹植が泣き止むの待った。
そうしている間曹植もただ泣き続けているだけではなく宝物庫で夏侯惇に見つかり、逃げ出してからの事を話した。
曹丕が興味を示したのは曹植が時間を忘れる程聴いていたと言う古琴の演奏であった。
古琴の演奏が聴こえたと曹植は言うが辺りは自分達以外には人っ子一人もおらず、此処までの道中も人に会いもしなければ気配すら無かった。
もっと言えばこの辺りは倉庫の奥に位置し、空き部屋が多くあっても不要な物が始末するのも忘れられしまい込まれた物置部屋があるぐらいである。
そんな場所で古琴の演奏が聴けると言うのは不思議な話で、曹丕は辺りを探索しようと迄言うのだがそれに反対したのは一刻でも早く温かな光のある部屋に帰りたい曹植と夏侯惇であった。
「嫌です兄上。こんな薄気味悪いところに何時迄もいたくないです」
「曹植も見つかったんだ。早く戻ってこの事を他の探している者達にも伝えねば」
曹丕は曹植の意見は置いておき夏侯惇の意見に疑問を持った。
確かに夕餉の時間になっても戻らない曹植を心配した卞氏の要請で夏侯惇を始め複数の武将と兵と女官達で曹植の捜索を行っていたが、夏侯惇の言葉は本来なら曹植が見つかってすぐに発せられるべき言葉であり曹植が泣き止むのを待って言うのは不自然であった。
それに曹丕は自身が曹植に泣きつかれている間に夏侯惇が細作と何やら遣り取りを行なっているのを知っていた。
その遣り取りとはあくまで曹丕の想像であるが、曹植の捜索を行う者達に曹植発見の報を伝えるためだと考えるのが自然である。
ならば益々夏侯惇の発言はおかしい。
そして曹丕が気になっていたのは夏侯惇の様子であった。
古琴の話が出てから夏侯惇の視線は右往左往していた。
まさか自分の父親の右腕の様な男が暗闇を怖がる男とは思えず、かと言って何かを警戒しているという様子でもない。
結局、2対1で曹丕の意見は棄却されて卞氏が待つ邸へと戻る事になった。
帰りの道は夏侯惇の持ち灯りがあってもかなり暗く、暗闇に怯える曹植は曹丕の腕にしがみついた。
「離せ植。お前がそう付いては歩きにくいだろ」
「ですが兄上」
怖いのは怖いのだと曹植は曹丕に凄まれてもしがみつく腕から離れようとはしない。
自分の前で言い争いを起こす曹丕と曹植の兄弟に夏侯惇は痛む眉間を揉み解しながら二人を宥める。
「曹丕、お前が歩きにくそうなのは見て分かるが小さい弟のためだそう突き放すのは止めてやれ。曹植、お前が暗がりを怖がるのは分かったがあまり曹丕にくっつくな。そのままでは曹丕もお前も転んで怪我をするやもしれん」
じゃあ、と頭二つも三つも低い子供二人に見上げられどうすれば良いのか答えを求められる夏侯惇。
二人の問いに答えたのは夏侯惇ではなく幾つもの木簡を抱えて向かいから歩いて来た郭嘉であった。
「手を繋いだらどうだい?手を繋ぐだけなら曹植殿は兄君と離れず安心出来るし曹丕殿は腕の時よりは歩き易くなるだろう」
思わぬところからの返答にすかさず行動移したのは曹植で、曹植は曹丕の手を握ると満面の笑みを浮かべた。
対して腕の時よりは歩き易くなったものの多少の動き辛さの残った曹丕の表情は浮かないが、溜息を一つ吐くと諦めた。
「それで郭嘉はこんな所に何用だ」
抱える木簡から曹植を探していた様子も無く、郭嘉の進む先、曹丕達が来た所は前述の通り空き部屋と物置部屋ばかりで何もない。
曹丕に目的を尋ねられた郭嘉は笑みを浮かべると腰に下げた瓢箪を指差した。
「近頃、ゆっくりとお酒を飲む機会が無かったからね」
「それは自業自得だろう」
間髪入れず応えた曹丕に曹植は驚いた顔をしていたが郭嘉が何故、ゆっくりとお酒を飲む機会が無かったかの訳を知る夏侯惇は頭を押さえた。
未だ座学しか受けていない曹植と違い、兵士に紛れて訓練を受ける曹丕は兵士達の口から発せられる噂を耳にしていた。
その中で噂話によく上がるのが郭嘉で、いついつどこで郭嘉様が侍女を口説いていたと言うと別の兵士が俺は女官の腰に手を回していたのを見たと言うのだ。
するとやはりまた別の兵士が郭嘉と別の女性の事を話し、女性遍歴について噂を事欠かぬのが郭嘉なる人物であるが、特に近頃の話題と言えば今迄散々手を出して来た女性達が事ある毎に郭嘉の元に押し寄せて一体誰が一番愛しているのだと問い詰めるのだと言う。
その都度うまく躱す郭嘉であるが噂になった女性達に加えその容貌から勝手に本気になる者達も多く軍議等の業務時間を除いて常に郭嘉は女性達に詰め寄られていた。
そんな事情を知っていた曹丕に郭嘉は冷ややかな視線を向けられるが、郭嘉はそれを物ともせず寧ろ戯けて見せる。
「曹丕殿は辛辣だな」
そんな余裕の郭嘉に曹丕の表情は顰められた。
「たまには一人で呑むのも良いだろうとこんな所迄来たら君達に出会った訳さ」
「その木簡は何なんですか?」
郭嘉の持つ木簡に興味を寄せた曹植に郭嘉は一本の木簡を渡す。
開いた木簡にはずらりと漢詩が書き連ねられており曹植は勿論、横から覗いていた曹丕も思わず感嘆の声を上げる。
仲良く手を繋いだまま漢詩を読み耽る二人に溜息を吐いた夏侯惇が二人の間から手を伸ばし木簡を取り上げた。
「何をする夏侯惇」
「返して下さい!」
読みかけの詩を取り上げられ曹丕と曹植から非難を受ける夏侯惇であるが、その非難も物ともせず木簡を巻き直すと郭嘉へと返却した。
「此処で漢詩を読んでる場合じゃないだろう」
至極尤もな夏侯惇の言葉に曹丕も曹植も反論の余地は無かった。
「今日の所は早く戻った方が良い。先程卞氏を見かけたがそれはそれは曹植殿は勿論、探しに出て帰って来ない曹丕殿の事も心配されていたからね」
郭嘉の言葉が効いたのか木簡を諦めきれずにいた曹植は萎れた花のように大人しくなる。
「そろそろ行くぞ。曹丕、曹植」
「ああ」
「分かりました」
夏侯惇に背中を押されて歩き出した曹丕と曹植。
子供達の引率が板に付いた夏侯惇を郭嘉は笑みを浮かべて見ていれば、夏侯惇から鋭い視線が向けられる。
「貴様、今失礼な事を考えていただろう」
「いや、ただ武勇に優れた夏侯将軍に子守の才能もあった事に驚いただけさ」
肩を竦める郭嘉に夏侯惇は荒い鼻息を漏らしながら通り過ぎる。
ふと、曹丕と目が合った郭嘉は笑顔で手を振り見送るのだが見事に顔を逸らされてしまう。
三人の後ろ姿が見えなくなるまで見つめていた郭嘉は頬を掻きつつ自身を見ていた曹丕の目を思い出す。
「うーん。曹丕殿のあの目、完全に私を疑っていたね」
流石、殿の嫡子様だねとのんびりとした口調で一人呟いた郭嘉は木簡を抱え直し暗い廊下の奥へと進んだ。
曹植が見つかった場所より少し奥にその部屋はある。
辺りを空き部屋と物置き部屋に囲まれたその部屋は他の部屋の様に錠はない。
その部屋の扉を叩けば、扉の向こうから小さな足音が聴こえた。
「私だ。郭嘉だ。開けてくれるかい」
郭嘉が名を名乗れば返事が返って来て扉の向こうからごろりと閂の横木か何かであろうか重く硬い物が床に落ちる音が聴こえた。
朱色の扉が小さく郭嘉のいる方に向かって開き、小さな子供が狭く開かれたその隙間から覗いている。
「郭嘉先生こんばんは」
「はい、#bk_name_1#ちゃん。こんばんは」
郭嘉に#bk_name_1#と呼ばれた少女は嬉しそうに微笑むと郭嘉を部屋へと招き入れた。
先程、夏侯惇を茶化した郭嘉であるが己もなかなかこの子供の相手に板が付いて気がしてならない。
部屋へと入った郭嘉は念のためにと床に落ちた閂の横木を挿し直し施錠する。
その間に幼いながらにお茶の用意をしようとしていた#bk_name_1#を郭嘉は止めた。
「この間は果物を持ち込んで殿に叱られたからね。今日はこれを持って来たんだ」
郭嘉が掲げて見せたのは先程迄腰に下げていた瓢箪で、それを#bk_name_1#へと渡す。
瓢箪を受け取った#bk_name_1#は取り敢えず振ってみて瓢箪の中から聴こえる液体の揺れる音に頭を傾げた。
「郭嘉先生、これは何ですか?」
「瓢箪の頭の蓋を開けて中の匂いを嗅げば分かるよ」
そう郭嘉に言われて素直に実行した#bk_name_1#は暫く瓢箪の小さな口からの匂いを嗅いで顔を輝かせる。
「桃の匂いがします!」
瓢箪から漂う甘くみずみずしい香りに頬を綻ばせる#bk_name_1#に郭嘉は笑みを浮かべた。
前回、郭嘉がこの部屋に来た際、手土産に桃を持参し#bk_name_1#と共に食べたのだがそれが彼女の父親の耳に入ると彼は郭嘉に苦言を呈した。
曰く夕食の後にあまり物を与えるなと言っていたが郭嘉が想像するに本心としては自分の手土産よりも自分が用意した桃を#bk_name_1#がいたく気に入ったのが気に入らないのだろう。
#bk_name_1#の父親、曹孟徳は事ある毎に彼女の一番でなければ気が済まない男なのである。
郭嘉は愉快で仕方がなかった。
乱世の奸雄と呼ばれる男が実は幼い娘のご機嫌を取ろうと日夜あれこれ贈り物を繰り返しているのだ。
そんな曹孟徳の姿を諸国の諸侯や民達が見たらどういう反応をするだろう。
親しみを持たれ少しは好感度が上がるかも知れない。
「郭嘉先生?」
甘い桃の香りを堪能した#bk_name_1#は一度立ち、用意仕掛けて出したままにしていた湯呑みを二つ盆に載せて戻ってきた。
それを机の上に置くと#bk_name_1#は郭嘉の横に移動し腰を下ろす。
湯呑みに注がれた半透明の液体は瓢箪から出るとよりその匂いを強めた。
その香りを楽しむ#bk_name_1#の髪を指で梳きながら郭嘉は飲む様に勧める。
一口含み、うっとりという風に表情を蕩けさせる#bk_name_1#に郭嘉は充足を得る。
表立って競っている訳では無いが前述通り曹操は自分が持参する土産が#bk_name_1#の中で一番でなければ気が済まず、郭嘉はそんな曹操の土産より喜ぶ物を与えて#bk_name_1#が喜び曹操が悔しがるのが楽しくて仕方がなかった。
「凄く美味しいです郭嘉先生」
「それは良かった」
前回贈った桃を#bk_name_1#がとても気に入っていたと夏侯淵を通し聞いていた郭嘉はまた#bk_name_1#の部屋へ行く際に持って行こうと同じ産地の桃を用意していたのだが曹操に苦言を呈されて急遽、郭嘉は桃を侍女に絞らせたのだった。
これならば飲むだけで食べていない。
屁理屈ではあるが#bk_name_1#はとても美味しそうにその桃の果汁を飲んでいる。
「さあ、それを飲み終えたら今日も勉強を始めようか」
#bk_name_1#は城の奥の奥でひっそりと暮らしている。
他の子息子女達の様に母親を主人する邸でなく、誰にも忘れられた様な静かな場所、実は曹操の私室と庭を挟んでという立地にその部屋はある。
この空き部屋を二部屋使い改築された部屋には郭嘉が使った扉とは別に小さな扉がある。それは中にも外にも鍵はなく曹操の私室の庭と繋がっており#bk_name_1#が、もしくは曹操が、互いに会うために使う扉であった。
そしてその扉は#bk_name_1#と郭嘉が初めて出会った扉でもある。
その当時、将達は自分達の大将である曹操がおかしいと口々に噂をしていた。
それまで気の許す将の誘いであれば宴席に顔を出してくれた曹操が最近はめっきり現れなくなった。
初めは曹操の気分を害す様な事でもしてしまったのかと顔を青ざめさせる将達であったが誘いを断れる者が増えるとその心配はなくなった。
その代わりに出回った噂は曹操に新しい愛妾が出来たのでは?という物だった。
皆は一様にその噂を気にした。
曹操が入れ込む愛妾とはどれほど美人なのか純粋に興味がある者、娘孫を曹操に嫁がせたいが為に噂の真相が気になる者、何処からか噂を耳にした夫人達に何度も尋ねられ憔悴する者。
理由は様々であるが皆が皆、噂の真偽を確かめたくて仕方が無かった。
けれど下手に曹操本人に探りを入れてあらぬ疑いをかけられてはたまったものでは無く噂を気にする者達は噂の真偽に日々、悶々としていた。
「それで私に間者の真似をしろと言うのですか」
郭嘉は執務室に尋ねて来た荀彧に気の無い返事をした。
今や将だけでなく文官や兵士達に迄広がった曹操の新しい愛妾の噂であるが郭嘉はまったくと言っていい程興味が無かった。
確かに酒宴の席に現れる事は減ったが元々参加自由な宴であり、曹操の参加が必要と求められる様な宴席にはしっかりと参加していた。
その他、執務にも影響が出ている訳でも無く、郭嘉はどうしてこうも皆が曹操のいるのかいないのか不確実な愛妾を気にするのか理解に苦しむ。
「確かに殿は執務をしっかりこなしておりますがそれだけです。執務を終えると何処かへ消えて眠りに着くまで戻って来ません」
「それで自分の所へ通いにも来ない殿に怒った夫人達に噂の真相を調べる様迫られた訳ですか」
近頃、曹操が夫人達の住まう邸に通っていない事は郭嘉も知っていた。
それに加えてこの根も葉もない噂である。
夫人の中には噂を鵜呑みにし、邸から出て文官や女官を捕まえては愛妾の正体を聞き出そうとする者もいるらしく、昨日も気の弱そうな文官が興奮した夫人に怒鳴られているのを遠目に目撃していた。
夫人達の差金である事が図星らしい荀彧は額を抑えて深々と溜息を吐く。
お疲れらしい荀彧に郭嘉は情けをかけて訳を聞けば荀彧は郭嘉が先日見た勇猛果敢な夫人の直談判を受けたらしくやれ、噂の愛妾はどんな人物か、なぜ夫人である自分達に挨拶がない、知らない分からないと言うがもし殿と噂の愛妾殿の間に子が生まれたら今の状況から後継者問題は必須。貴方方はどうお考えか?
その慎ましやかな口から放たれる言葉は連弩の如くとは荀彧と同じ場にいた者の一人、賈詡の言葉である。
「夫人の対応をした君には同情するが後継者問題、それに関しては最もだ」
曹操の子息は多く、その中で官吏達が注目しているのは文武両道の曹丕と詩の才能がありそれを曹操にも気に入られている曹植。
幼いながらも二人に対する周囲の期待は高く、水面下であるが既に双方を支持する官吏も現れている。
既に官吏の支持が二手に分かれていると言うのに対抗馬が増えてはいよいよ袁家を笑ってはいられない。
「噂が噂ならば幸運だし真実であれば我々も先を見据えて手を考え無くてはならない。それには先ず噂の真偽を確かめるのが必要だ」
「それで私は議論を肴に殿に大酒を飲ませて噂の真相を確かめろって?」
「君ならば聞き出せる確率は高い」
「それならもっと適材の人間がいる。夏侯惇殿や夏侯淵殿はどうだろう」
彼等ならば酒も必要ないだろうと郭嘉が尋ねると荀彧は難しい顔をした。その表情からは既に彼等に打診したのは確かで断られたのも荀彧の様子からは分かった。
「夏侯惇殿や夏侯淵殿は多分だけど噂の真偽を知っている」
けれど彼等は荀彧の打診を断るばかりでそれ以上話は聞いてはくれなかった。
「あの二人に聞いてしまった以上、きっと我々が噂の真偽を探っているのは殿に知られている。けれど普段からそういう噂に興味を持たない君ならば」
「殿の警戒も薄いから聞き出せる確率は高いと、」
郭嘉の言葉に荀彧は頷いた。
今度溜息を吐いたのは郭嘉であった。
手持ち無沙汰を紛らわす為に持っていた乾いた筆を机に置き、自身も机に枝垂れかかる。
「確かに後継者問題は重要であるが未然に防ぐ事は不可能だ。噂が誠と仮定して愛妾が殿にいるとしようそれで私達は如何する。愛妾が女児を産む様に彼女の周りを囲んで祈祷でもするのかい?」
呪いで産まれてくる子供の性別は決められないし主君の血を引く子供を流させる訳にもいかない。
結局、如何も手出し出来ない以上後継者問題は後手に回るしか無かった。
そうであれば郭嘉も噂を真相を確かめる必要もないし噂を暴いて何か旨味を得るわけでもない。
それなのに何かあった時の代償は遥かに大きい。
話を引き受けてはくれなさそうな郭嘉に荀彧は考えて来ていた最終手段を使う事を決めた。
「貴方が殿から噂の真偽を確かめて頂いた暁には費用は私達持ちで酒宴を開きましょう」
名酒に、料理、珍味にお酒の酌は街でも有名な妓女達を呼ぶと荀彧は言う。
何処からの情報か郭嘉が以前から飲みたいと思っていた名酒も取り寄せようと言う荀彧の提案に郭嘉はにやりと笑った。
荀彧の読み通り曹操は郭嘉の誘いに簡単に乗った。
荀彧達に用意させた上等なお酒を手土産として持ち込み、曹操が手配したつまみを食べながらあれやこれやと曹操と議論した。
曹操の私室で行われた酒盛りは郭嘉と曹操のみでまるで昔の頃の様だと郭嘉は笑みをこぼした。
曹操も同じ事を考えていたらしく昔話がより二人にお酒を進めた。
一体どれだけ、どれだけの量の酒を飲んだのか酒を飲んでいい気分の二人は顔を真っ赤にして酷く酔っていた。
既に郭嘉が持ち込んだ酒は始めの内に無くなっており、侍女達が頃合いを見ては新しい酒を持ち込んでいるのだがそんな彼女達が思わず顔を顰める程に多量の飲酒を行なっていた。
最早何の為に曹操と差しで酒盛りをしていたのか忘れかけていた郭嘉は手にした杯に酒を注ぎながら音がほしいと思った。
曹操の私室には立派な庭があるが酒を飲んでいると古琴や二胡の音が欲しくなる。
しかし残念ながら曹操の私室には古琴は置かれていない。
郭嘉は古琴も持参するべきだったかと、風で木々が揺れる音を聴きながら杯の酒をちびちびと舐めた。
庭に風が吹き、庭の木々が揺れた。
酒で火照った体には風の冷たさが心地よく、風に吹かれていた郭嘉の耳に微かであるが欲していた古琴の音が入る。
それは宴席でよく奏でられる曲で、誰か気を使って演奏してくれているにしては音が少し遠い。
音は庭の向こうから聴こえるが、郭嘉の記憶が正しければ庭の向こうは使われていない空き部屋や物置が並ぶ区画である。
一体誰が演奏しているのか気になった郭嘉は酒を片手に立ち上がると古琴の音を頼りに庭の奥へと進む。
庭の木々の中に進めば進む程遠くに聴こえていた古琴の音がよく聴こえた。
「あ、まただ」
古琴を奏でる人物は奏でる曲に苦手な箇所があるらしく、繰り返し聴こえてくる古琴の音はある小節まで来ると毎度不協和音とも言える何とも嫌な音を響かせていた。
生い茂る木々を抜けるとそこは高い壁で、古琴の音はその向こうから聴こえる。
いつもならそう執着しないのだが今日のか
郭嘉は古琴を奏でる人物が誰なのか気になっており、今は目の前の壁をどう越えるか悩んでいた。
壁は一切の凹凸はなく塗り固められており壁を登るには難しく見えた。
しかし、ここで上手い事梯子が出て来るわけも無く、と辺りを見渡していた郭嘉は壁に作られた小さな扉を見つける。
その扉の存在に疑問を感じながら木造りの扉に触れると郭嘉側同様に向こう側にも鍵はかかっていないのか油が切れた金属の音と共に扉は開いた。
腰を折り、小さな扉を潜れば月の明かりの下少女が古琴を奏でていた。
色々疑問がある。
曹操の私室と空部屋の裏庭を繋ぐ扉は緊急時の避難用かと考えたが初めかそれを見越して作ったにしては新しく、隠す様子もなかった。
よくよく見れば扉の側の茂みは獣道の様な跡があり、それは曹操が頻繁にあの扉を使っていた事になる。
件の噂の大半は曹操が私室で愛妾を囲っている様な話であったが私室は郭嘉が少し見た限り誰か曹操以外の者が住んでいる様子も、男女のあれこれの気配も無かった。
外の見張りにも気付かれないよう茂みに隠された扉とその先にいた琴を奏でる少女に郭嘉は自身の顎を撫でる。
「殿の女性の好みが変わった?」
先程から何度か聴いた嫌な琴の音が辺りに響く。
先程迄はそこで終わらず曲を最後まで奏でていたが郭嘉がここに来るまで繰り返し途切れる事無く聴こえていた。
見た目から曹操の息子である曹植と同じか彼より少し幼そうな少女は集中が切れたのか古琴の弦から指を離してその手を膝へと下ろす。
疲れかそれとも上手くいかない自分の演奏にか溜息一つ吐いた少女と郭嘉はそこで漸く目が合った。
少女の大きな瞳は郭嘉を捉えるとそれはもう瞳を零さんばかりに大きく開かれる。
器用にもその場で少しばかり飛び上がると少女はそのまま自身の側に合った岩に身を隠した。
その姿がまるで人馴れしていない子猫の様で郭嘉は思わず笑みを零す。
少女が子猫ならばそこらに生えている狗尾草をもぐか煮干しでもちらつかせお引き寄せるのだが生憎少女は子猫では無いしそもそも煮干しで釣られるとも思えない。
郭嘉はそんな餌の代わりに置き去りにされた古琴を指差す。
「私が古琴を教えてあげようか?」
少女は郭嘉の出した餌にあっさり食いついた。
少女は瞳を輝かせて岩影から出て来るとご丁寧に頭迄下げて「よろしくお願いします」と言った。
餌を出したのは郭嘉であるがあっさりし過ぎて少女に危機感と言うものがあるのか少し疑う。
しかし少女はそんな郭嘉に構わず古琴を動かして地面に敷いた敷物に郭嘉の座れる場所を作っていた。
「どうぞ郭嘉様」
ぽんぽんと空いた場所、少女の隣に郭嘉は腰を下ろす。
少女に名を呼ばれて郭嘉は内心驚くがそれを顔には微塵も出さず、少女に何故自分が郭嘉だと分かったのか尋ねる。
郭嘉を見上げた少女は微笑む。
「お父様が言ってたとっても凄い軍師様と同じ特徴だったから」
もし違ったらどうしようかと思ったと言う少女の言葉を聴きながら郭嘉は自身の耳が熱を持つのを感じた。
恥ずかしいと感じながらも嫌な気分では無い。
それどころか気分は高揚している。
自分が少女の言葉に照れている事に気付いてまたそれに照れる郭嘉は自身の感情を抑えるのにいっぱいいっぱいで少女の言う「お父様」という言葉を聴き流していた。
もしその言葉を深く掘り下げていれば郭嘉もあんな事になる事は無かったが今更言っても遅い。
郭嘉の頬の薄皮を切る切らないという至近距離で落とされた剣は金属独特の冷気を放っていた。
その冷気に当てられてかはたまた剣を突き立てた相手の殺気に当てられてか郭嘉の酔いは急速に醒めていく。
「郭嘉よ。最後に言い残す事は無いか?」
剣呑な視線で見下ろす曹操に郭嘉は両手を掲げて見上げるしか無かった。
暫く少女に古琴の手解きをしていた郭嘉は喉が渇いた事を零した。
あくまでも小さな独り言であったのだが少女は耳が良かったらしく何か飲み物を用意してくると立ち上がった。
郭嘉は勿論少女を止めたがお客様に何もお構い出来ていないのはいけないと少女は譲らず
そのまま何処かへ駆けて行ってしまう。
残された郭嘉は古琴に触れていたのだがそこに曹操の登場である。
自分と同じくあんなにも沢山飲んだというのに現れた彼には酔いの色もなくしっかりとした足取りで郭嘉の側まで来ると帯刀していた剣を手に取り振り下ろした。
そして先程の問いに戻る。
言い残すより郭嘉は曹操に何故自分がこんな目に遭っているのか問いたくて仕方が無かった。
少し前迄共に酒を飲んでいたと言うのに今は斬り殺されそうな状況に流石の郭嘉も困惑する。
「お父様?」
この剣呑な雰囲気に似つかわしくない声が響く。
お茶を用意するのに必要な茶器を一通りお盆の上に載せて戻って来た#bk_name_1#がききょとりと大きな瞳を瞬かせて曹操を見ていた。
戦の戦利品から献上品、図画に詩を認めた掛軸、金銀玉と輝く宝飾は曹魏の強大な勢力を象徴するかの様に東西南北地域様々な装飾が見れた。
それは幼く宝物の価値の分からぬ子供達の目を楽しませるに充分な物で子供達は挙って邸から抜け出し忙しなく文官女官が行き来する宝物庫に忍びこむ。
されど宝物を管理する者達からすれば幾ら主人の嫡子達と言えど宝物庫に忍びこみうっかり指輪の一つでも綺麗だからと持ち出されてはたまった物ではない。
そのため文官女官達は宝物庫に忍び込んだ主の子息子女を見つけては粗相のない様、丁重に慎重に邸へ戻ってもらうよう対応した。
そんな賑やかな宝物庫より奥の廊下を曹植は歩いていた素晴らしい詩が書かれた掛軸が見れると周りに唆されて皆と同じく邸を飛び出したのだがさっそく今回の宝物庫の警備を任された夏侯惇に見つかり逃げる道すがら他の兄弟達と離れ離れになったのである。
気付いたら見知らぬ廊下で、何とか宝物庫の方まで戻ろうと賑やかな声のする方へ歩いたのだが何故か宝物庫へ辿り着けない。
それどころか益々離れて行っているような気がして、次第に心細くなってきた曹植は瞳に涙を浮かべて鼻を啜った。
「兄上・・・」
曹植は兄弟で唯一、宝物庫に忍び込む事を止める様に言った兄の事が恋しくなった。
目付きが鋭く何時も難しい顔をした兄はこの日は特に難しい顔をして宝物庫に忍び込もうと逸る幼い兄弟達を諌めていた。
しかし、曹植も他の兄弟達同様に己に募る好奇心を抑えきれず飛び出した結果がこれである。
今更、あの時兄の言葉を聞いていれば良かったと遅い後悔をしながら歩き疲れた曹植はその場に蹲った。
そんな曹植の耳に音が入った。
何度か父親が開く宴会で耳にした音。
宴会では大人達が酷く酔いながら弾くので余りまともな音は聴いた事が無かったがそれは確かに古琴の音であった。
曹植は蹲る体勢から、無意識に床へ座り直すとそれから一曲、二曲。
最早何曲聴いていたのか自分で分からない程その場で何処からともなく聴こえてくる古琴の演奏に耳を傾けていた。
古琴の演奏は曹植に一人の寂しさを紛らわせ、暖かく、それでいて何処か寂し気な演奏でだった。
演奏が途切れた頃、意識を戻した曹植は辺りが薄暗くなっている事に気がつく。
もう日は西に沈みかかっており廊下から見える庭は暗い闇を落としていた。
その闇は見れば見る程不気味で曹植は唇を震わせる。
何処からともなく足音が聴こえた。
始めはだんだん近付いてくるその音に天の助けと喜んだ曹植であるが、果たしてこれは本当に誰かの足音なのだろうかと疑問を抱く。
今の今まで誰も通らなかった廊下なのに辺りが暗くなりだした途端聴こえる足音。
それを訝しむ曹植の頭に兄弟達から聴いた城を徘徊する人喰いの妖の話が思い出される。
この城には妖がいて、夜な夜なあっちこっち徘徊しては人を食べているのだと言う。
曹植は咄嗟に何処かへ隠れようと考えた。
身を隠して此方に向かって来るものが何なのか確認して人ならば隠れているのを止めれば良い。
もしも、もしも人では無かったのならそのまま隠れてやり過ごせば良い。
我ながら良い考えだと自画自賛を終えた曹植はさっそく身を隠そうと立ち上がるのだが、そのままよろめいて床へと転んだ。
曹植自身の体感はそれ程でも無かったが実際は長い時間同じ姿勢で古琴の演奏を聴いていた曹植の体は血の流れが滞り、特に足は明らかにおかしな向きに縺れても痛みを感じない程に痺れ切っていた。
しかしこのまま床に転んでいる訳にもいかない曹植は何とか立ち上がろうとするのだが痺れた足は思うように動かない。
そうこうしている間にも足音が曹植の方へと近付いて来る。
辺りは既に暗く庭先は勿論、曹植から数歩先は完全なる闇に染まっていた。
その闇に浮かび上がる火の玉の様な物を目にした曹植は自分の心臓が驚いて飛び跳ねた衝撃に胸を押さえる。
足が動かないならばとせめてもの思いで体を丸めた曹植は早鐘を打つ自身の鼓動を聴きながら先程見た火の玉について考えていた。
考えるというより曹植の今の状態は恐慌である。
平時であればもう少し火の玉について考察出来たかもしれないが今の曹植は辺りの暗さと雰囲気に飲まれて火の玉を妖が出す怪火かそれに近い何かとしか思えずにいた。
最早、近付いて来る何かが妖の類としか思えない曹植はその何かが突然気が変わり、別の方へと歩いていかないかと淡い期待を抱くのだが無情にも足音は曹植のいる方へ向かって来る。
それどころか急に駆け足で駆けて来るので曹植はもう駄目だと諦めた。
今なら辞世の句も詠めそうだと自嘲気味な曹植に聞き覚えのある声が降って来る。
その声に恐る恐る顔を上げた曹植は自身を怪訝な顔で見下ろす曹丕の顔に瞳を潤ませて飛びついた。
「兄上!兄上!」
「植、なんだいきなり」
突然飛びついて来た曹植に曹丕は煩わしそうに付いて離れない曹植の体を離そうとするのだが曹植は離れなかった。
今来ただけで、それまでの曹植の心細さを知らない曹丕は離れろと言っても聞かない曹植にだんだん眉間の皺を険しくしていくのだが、曹丕の後ろで灯りを手に立っていた夏侯惇が不機嫌になりつつある曹丕を宥めた。
「こんな暗い場所にいたから怖かったんだろう。もう少し我慢してやれ」
そう声をかけたと同時に曹丕の胸の辺りで泣き出した曹植。
じんわりの湿ってきた胸元の不快感に頬を引くつかせた曹丕は後ろの夏侯惇を見上げて恨めし気に見つめた。
「・・・恨むぞ夏侯惇」
曹植に泣き付かてうんざりとしていた曹丕であるが泣きべそかく曹植を無理矢理引っ張って帰ろうとはせず、背中を撫でたり優しく叩いたりと意外にも面倒見の良さを発揮しつつ曹植が泣き止むの待った。
そうしている間曹植もただ泣き続けているだけではなく宝物庫で夏侯惇に見つかり、逃げ出してからの事を話した。
曹丕が興味を示したのは曹植が時間を忘れる程聴いていたと言う古琴の演奏であった。
古琴の演奏が聴こえたと曹植は言うが辺りは自分達以外には人っ子一人もおらず、此処までの道中も人に会いもしなければ気配すら無かった。
もっと言えばこの辺りは倉庫の奥に位置し、空き部屋が多くあっても不要な物が始末するのも忘れられしまい込まれた物置部屋があるぐらいである。
そんな場所で古琴の演奏が聴けると言うのは不思議な話で、曹丕は辺りを探索しようと迄言うのだがそれに反対したのは一刻でも早く温かな光のある部屋に帰りたい曹植と夏侯惇であった。
「嫌です兄上。こんな薄気味悪いところに何時迄もいたくないです」
「曹植も見つかったんだ。早く戻ってこの事を他の探している者達にも伝えねば」
曹丕は曹植の意見は置いておき夏侯惇の意見に疑問を持った。
確かに夕餉の時間になっても戻らない曹植を心配した卞氏の要請で夏侯惇を始め複数の武将と兵と女官達で曹植の捜索を行っていたが、夏侯惇の言葉は本来なら曹植が見つかってすぐに発せられるべき言葉であり曹植が泣き止むのを待って言うのは不自然であった。
それに曹丕は自身が曹植に泣きつかれている間に夏侯惇が細作と何やら遣り取りを行なっているのを知っていた。
その遣り取りとはあくまで曹丕の想像であるが、曹植の捜索を行う者達に曹植発見の報を伝えるためだと考えるのが自然である。
ならば益々夏侯惇の発言はおかしい。
そして曹丕が気になっていたのは夏侯惇の様子であった。
古琴の話が出てから夏侯惇の視線は右往左往していた。
まさか自分の父親の右腕の様な男が暗闇を怖がる男とは思えず、かと言って何かを警戒しているという様子でもない。
結局、2対1で曹丕の意見は棄却されて卞氏が待つ邸へと戻る事になった。
帰りの道は夏侯惇の持ち灯りがあってもかなり暗く、暗闇に怯える曹植は曹丕の腕にしがみついた。
「離せ植。お前がそう付いては歩きにくいだろ」
「ですが兄上」
怖いのは怖いのだと曹植は曹丕に凄まれてもしがみつく腕から離れようとはしない。
自分の前で言い争いを起こす曹丕と曹植の兄弟に夏侯惇は痛む眉間を揉み解しながら二人を宥める。
「曹丕、お前が歩きにくそうなのは見て分かるが小さい弟のためだそう突き放すのは止めてやれ。曹植、お前が暗がりを怖がるのは分かったがあまり曹丕にくっつくな。そのままでは曹丕もお前も転んで怪我をするやもしれん」
じゃあ、と頭二つも三つも低い子供二人に見上げられどうすれば良いのか答えを求められる夏侯惇。
二人の問いに答えたのは夏侯惇ではなく幾つもの木簡を抱えて向かいから歩いて来た郭嘉であった。
「手を繋いだらどうだい?手を繋ぐだけなら曹植殿は兄君と離れず安心出来るし曹丕殿は腕の時よりは歩き易くなるだろう」
思わぬところからの返答にすかさず行動移したのは曹植で、曹植は曹丕の手を握ると満面の笑みを浮かべた。
対して腕の時よりは歩き易くなったものの多少の動き辛さの残った曹丕の表情は浮かないが、溜息を一つ吐くと諦めた。
「それで郭嘉はこんな所に何用だ」
抱える木簡から曹植を探していた様子も無く、郭嘉の進む先、曹丕達が来た所は前述の通り空き部屋と物置部屋ばかりで何もない。
曹丕に目的を尋ねられた郭嘉は笑みを浮かべると腰に下げた瓢箪を指差した。
「近頃、ゆっくりとお酒を飲む機会が無かったからね」
「それは自業自得だろう」
間髪入れず応えた曹丕に曹植は驚いた顔をしていたが郭嘉が何故、ゆっくりとお酒を飲む機会が無かったかの訳を知る夏侯惇は頭を押さえた。
未だ座学しか受けていない曹植と違い、兵士に紛れて訓練を受ける曹丕は兵士達の口から発せられる噂を耳にしていた。
その中で噂話によく上がるのが郭嘉で、いついつどこで郭嘉様が侍女を口説いていたと言うと別の兵士が俺は女官の腰に手を回していたのを見たと言うのだ。
するとやはりまた別の兵士が郭嘉と別の女性の事を話し、女性遍歴について噂を事欠かぬのが郭嘉なる人物であるが、特に近頃の話題と言えば今迄散々手を出して来た女性達が事ある毎に郭嘉の元に押し寄せて一体誰が一番愛しているのだと問い詰めるのだと言う。
その都度うまく躱す郭嘉であるが噂になった女性達に加えその容貌から勝手に本気になる者達も多く軍議等の業務時間を除いて常に郭嘉は女性達に詰め寄られていた。
そんな事情を知っていた曹丕に郭嘉は冷ややかな視線を向けられるが、郭嘉はそれを物ともせず寧ろ戯けて見せる。
「曹丕殿は辛辣だな」
そんな余裕の郭嘉に曹丕の表情は顰められた。
「たまには一人で呑むのも良いだろうとこんな所迄来たら君達に出会った訳さ」
「その木簡は何なんですか?」
郭嘉の持つ木簡に興味を寄せた曹植に郭嘉は一本の木簡を渡す。
開いた木簡にはずらりと漢詩が書き連ねられており曹植は勿論、横から覗いていた曹丕も思わず感嘆の声を上げる。
仲良く手を繋いだまま漢詩を読み耽る二人に溜息を吐いた夏侯惇が二人の間から手を伸ばし木簡を取り上げた。
「何をする夏侯惇」
「返して下さい!」
読みかけの詩を取り上げられ曹丕と曹植から非難を受ける夏侯惇であるが、その非難も物ともせず木簡を巻き直すと郭嘉へと返却した。
「此処で漢詩を読んでる場合じゃないだろう」
至極尤もな夏侯惇の言葉に曹丕も曹植も反論の余地は無かった。
「今日の所は早く戻った方が良い。先程卞氏を見かけたがそれはそれは曹植殿は勿論、探しに出て帰って来ない曹丕殿の事も心配されていたからね」
郭嘉の言葉が効いたのか木簡を諦めきれずにいた曹植は萎れた花のように大人しくなる。
「そろそろ行くぞ。曹丕、曹植」
「ああ」
「分かりました」
夏侯惇に背中を押されて歩き出した曹丕と曹植。
子供達の引率が板に付いた夏侯惇を郭嘉は笑みを浮かべて見ていれば、夏侯惇から鋭い視線が向けられる。
「貴様、今失礼な事を考えていただろう」
「いや、ただ武勇に優れた夏侯将軍に子守の才能もあった事に驚いただけさ」
肩を竦める郭嘉に夏侯惇は荒い鼻息を漏らしながら通り過ぎる。
ふと、曹丕と目が合った郭嘉は笑顔で手を振り見送るのだが見事に顔を逸らされてしまう。
三人の後ろ姿が見えなくなるまで見つめていた郭嘉は頬を掻きつつ自身を見ていた曹丕の目を思い出す。
「うーん。曹丕殿のあの目、完全に私を疑っていたね」
流石、殿の嫡子様だねとのんびりとした口調で一人呟いた郭嘉は木簡を抱え直し暗い廊下の奥へと進んだ。
曹植が見つかった場所より少し奥にその部屋はある。
辺りを空き部屋と物置き部屋に囲まれたその部屋は他の部屋の様に錠はない。
その部屋の扉を叩けば、扉の向こうから小さな足音が聴こえた。
「私だ。郭嘉だ。開けてくれるかい」
郭嘉が名を名乗れば返事が返って来て扉の向こうからごろりと閂の横木か何かであろうか重く硬い物が床に落ちる音が聴こえた。
朱色の扉が小さく郭嘉のいる方に向かって開き、小さな子供が狭く開かれたその隙間から覗いている。
「郭嘉先生こんばんは」
「はい、#bk_name_1#ちゃん。こんばんは」
郭嘉に#bk_name_1#と呼ばれた少女は嬉しそうに微笑むと郭嘉を部屋へと招き入れた。
先程、夏侯惇を茶化した郭嘉であるが己もなかなかこの子供の相手に板が付いて気がしてならない。
部屋へと入った郭嘉は念のためにと床に落ちた閂の横木を挿し直し施錠する。
その間に幼いながらにお茶の用意をしようとしていた#bk_name_1#を郭嘉は止めた。
「この間は果物を持ち込んで殿に叱られたからね。今日はこれを持って来たんだ」
郭嘉が掲げて見せたのは先程迄腰に下げていた瓢箪で、それを#bk_name_1#へと渡す。
瓢箪を受け取った#bk_name_1#は取り敢えず振ってみて瓢箪の中から聴こえる液体の揺れる音に頭を傾げた。
「郭嘉先生、これは何ですか?」
「瓢箪の頭の蓋を開けて中の匂いを嗅げば分かるよ」
そう郭嘉に言われて素直に実行した#bk_name_1#は暫く瓢箪の小さな口からの匂いを嗅いで顔を輝かせる。
「桃の匂いがします!」
瓢箪から漂う甘くみずみずしい香りに頬を綻ばせる#bk_name_1#に郭嘉は笑みを浮かべた。
前回、郭嘉がこの部屋に来た際、手土産に桃を持参し#bk_name_1#と共に食べたのだがそれが彼女の父親の耳に入ると彼は郭嘉に苦言を呈した。
曰く夕食の後にあまり物を与えるなと言っていたが郭嘉が想像するに本心としては自分の手土産よりも自分が用意した桃を#bk_name_1#がいたく気に入ったのが気に入らないのだろう。
#bk_name_1#の父親、曹孟徳は事ある毎に彼女の一番でなければ気が済まない男なのである。
郭嘉は愉快で仕方がなかった。
乱世の奸雄と呼ばれる男が実は幼い娘のご機嫌を取ろうと日夜あれこれ贈り物を繰り返しているのだ。
そんな曹孟徳の姿を諸国の諸侯や民達が見たらどういう反応をするだろう。
親しみを持たれ少しは好感度が上がるかも知れない。
「郭嘉先生?」
甘い桃の香りを堪能した#bk_name_1#は一度立ち、用意仕掛けて出したままにしていた湯呑みを二つ盆に載せて戻ってきた。
それを机の上に置くと#bk_name_1#は郭嘉の横に移動し腰を下ろす。
湯呑みに注がれた半透明の液体は瓢箪から出るとよりその匂いを強めた。
その香りを楽しむ#bk_name_1#の髪を指で梳きながら郭嘉は飲む様に勧める。
一口含み、うっとりという風に表情を蕩けさせる#bk_name_1#に郭嘉は充足を得る。
表立って競っている訳では無いが前述通り曹操は自分が持参する土産が#bk_name_1#の中で一番でなければ気が済まず、郭嘉はそんな曹操の土産より喜ぶ物を与えて#bk_name_1#が喜び曹操が悔しがるのが楽しくて仕方がなかった。
「凄く美味しいです郭嘉先生」
「それは良かった」
前回贈った桃を#bk_name_1#がとても気に入っていたと夏侯淵を通し聞いていた郭嘉はまた#bk_name_1#の部屋へ行く際に持って行こうと同じ産地の桃を用意していたのだが曹操に苦言を呈されて急遽、郭嘉は桃を侍女に絞らせたのだった。
これならば飲むだけで食べていない。
屁理屈ではあるが#bk_name_1#はとても美味しそうにその桃の果汁を飲んでいる。
「さあ、それを飲み終えたら今日も勉強を始めようか」
#bk_name_1#は城の奥の奥でひっそりと暮らしている。
他の子息子女達の様に母親を主人する邸でなく、誰にも忘れられた様な静かな場所、実は曹操の私室と庭を挟んでという立地にその部屋はある。
この空き部屋を二部屋使い改築された部屋には郭嘉が使った扉とは別に小さな扉がある。それは中にも外にも鍵はなく曹操の私室の庭と繋がっており#bk_name_1#が、もしくは曹操が、互いに会うために使う扉であった。
そしてその扉は#bk_name_1#と郭嘉が初めて出会った扉でもある。
その当時、将達は自分達の大将である曹操がおかしいと口々に噂をしていた。
それまで気の許す将の誘いであれば宴席に顔を出してくれた曹操が最近はめっきり現れなくなった。
初めは曹操の気分を害す様な事でもしてしまったのかと顔を青ざめさせる将達であったが誘いを断れる者が増えるとその心配はなくなった。
その代わりに出回った噂は曹操に新しい愛妾が出来たのでは?という物だった。
皆は一様にその噂を気にした。
曹操が入れ込む愛妾とはどれほど美人なのか純粋に興味がある者、娘孫を曹操に嫁がせたいが為に噂の真相が気になる者、何処からか噂を耳にした夫人達に何度も尋ねられ憔悴する者。
理由は様々であるが皆が皆、噂の真偽を確かめたくて仕方が無かった。
けれど下手に曹操本人に探りを入れてあらぬ疑いをかけられてはたまったものでは無く噂を気にする者達は噂の真偽に日々、悶々としていた。
「それで私に間者の真似をしろと言うのですか」
郭嘉は執務室に尋ねて来た荀彧に気の無い返事をした。
今や将だけでなく文官や兵士達に迄広がった曹操の新しい愛妾の噂であるが郭嘉はまったくと言っていい程興味が無かった。
確かに酒宴の席に現れる事は減ったが元々参加自由な宴であり、曹操の参加が必要と求められる様な宴席にはしっかりと参加していた。
その他、執務にも影響が出ている訳でも無く、郭嘉はどうしてこうも皆が曹操のいるのかいないのか不確実な愛妾を気にするのか理解に苦しむ。
「確かに殿は執務をしっかりこなしておりますがそれだけです。執務を終えると何処かへ消えて眠りに着くまで戻って来ません」
「それで自分の所へ通いにも来ない殿に怒った夫人達に噂の真相を調べる様迫られた訳ですか」
近頃、曹操が夫人達の住まう邸に通っていない事は郭嘉も知っていた。
それに加えてこの根も葉もない噂である。
夫人の中には噂を鵜呑みにし、邸から出て文官や女官を捕まえては愛妾の正体を聞き出そうとする者もいるらしく、昨日も気の弱そうな文官が興奮した夫人に怒鳴られているのを遠目に目撃していた。
夫人達の差金である事が図星らしい荀彧は額を抑えて深々と溜息を吐く。
お疲れらしい荀彧に郭嘉は情けをかけて訳を聞けば荀彧は郭嘉が先日見た勇猛果敢な夫人の直談判を受けたらしくやれ、噂の愛妾はどんな人物か、なぜ夫人である自分達に挨拶がない、知らない分からないと言うがもし殿と噂の愛妾殿の間に子が生まれたら今の状況から後継者問題は必須。貴方方はどうお考えか?
その慎ましやかな口から放たれる言葉は連弩の如くとは荀彧と同じ場にいた者の一人、賈詡の言葉である。
「夫人の対応をした君には同情するが後継者問題、それに関しては最もだ」
曹操の子息は多く、その中で官吏達が注目しているのは文武両道の曹丕と詩の才能がありそれを曹操にも気に入られている曹植。
幼いながらも二人に対する周囲の期待は高く、水面下であるが既に双方を支持する官吏も現れている。
既に官吏の支持が二手に分かれていると言うのに対抗馬が増えてはいよいよ袁家を笑ってはいられない。
「噂が噂ならば幸運だし真実であれば我々も先を見据えて手を考え無くてはならない。それには先ず噂の真偽を確かめるのが必要だ」
「それで私は議論を肴に殿に大酒を飲ませて噂の真相を確かめろって?」
「君ならば聞き出せる確率は高い」
「それならもっと適材の人間がいる。夏侯惇殿や夏侯淵殿はどうだろう」
彼等ならば酒も必要ないだろうと郭嘉が尋ねると荀彧は難しい顔をした。その表情からは既に彼等に打診したのは確かで断られたのも荀彧の様子からは分かった。
「夏侯惇殿や夏侯淵殿は多分だけど噂の真偽を知っている」
けれど彼等は荀彧の打診を断るばかりでそれ以上話は聞いてはくれなかった。
「あの二人に聞いてしまった以上、きっと我々が噂の真偽を探っているのは殿に知られている。けれど普段からそういう噂に興味を持たない君ならば」
「殿の警戒も薄いから聞き出せる確率は高いと、」
郭嘉の言葉に荀彧は頷いた。
今度溜息を吐いたのは郭嘉であった。
手持ち無沙汰を紛らわす為に持っていた乾いた筆を机に置き、自身も机に枝垂れかかる。
「確かに後継者問題は重要であるが未然に防ぐ事は不可能だ。噂が誠と仮定して愛妾が殿にいるとしようそれで私達は如何する。愛妾が女児を産む様に彼女の周りを囲んで祈祷でもするのかい?」
呪いで産まれてくる子供の性別は決められないし主君の血を引く子供を流させる訳にもいかない。
結局、如何も手出し出来ない以上後継者問題は後手に回るしか無かった。
そうであれば郭嘉も噂を真相を確かめる必要もないし噂を暴いて何か旨味を得るわけでもない。
それなのに何かあった時の代償は遥かに大きい。
話を引き受けてはくれなさそうな郭嘉に荀彧は考えて来ていた最終手段を使う事を決めた。
「貴方が殿から噂の真偽を確かめて頂いた暁には費用は私達持ちで酒宴を開きましょう」
名酒に、料理、珍味にお酒の酌は街でも有名な妓女達を呼ぶと荀彧は言う。
何処からの情報か郭嘉が以前から飲みたいと思っていた名酒も取り寄せようと言う荀彧の提案に郭嘉はにやりと笑った。
荀彧の読み通り曹操は郭嘉の誘いに簡単に乗った。
荀彧達に用意させた上等なお酒を手土産として持ち込み、曹操が手配したつまみを食べながらあれやこれやと曹操と議論した。
曹操の私室で行われた酒盛りは郭嘉と曹操のみでまるで昔の頃の様だと郭嘉は笑みをこぼした。
曹操も同じ事を考えていたらしく昔話がより二人にお酒を進めた。
一体どれだけ、どれだけの量の酒を飲んだのか酒を飲んでいい気分の二人は顔を真っ赤にして酷く酔っていた。
既に郭嘉が持ち込んだ酒は始めの内に無くなっており、侍女達が頃合いを見ては新しい酒を持ち込んでいるのだがそんな彼女達が思わず顔を顰める程に多量の飲酒を行なっていた。
最早何の為に曹操と差しで酒盛りをしていたのか忘れかけていた郭嘉は手にした杯に酒を注ぎながら音がほしいと思った。
曹操の私室には立派な庭があるが酒を飲んでいると古琴や二胡の音が欲しくなる。
しかし残念ながら曹操の私室には古琴は置かれていない。
郭嘉は古琴も持参するべきだったかと、風で木々が揺れる音を聴きながら杯の酒をちびちびと舐めた。
庭に風が吹き、庭の木々が揺れた。
酒で火照った体には風の冷たさが心地よく、風に吹かれていた郭嘉の耳に微かであるが欲していた古琴の音が入る。
それは宴席でよく奏でられる曲で、誰か気を使って演奏してくれているにしては音が少し遠い。
音は庭の向こうから聴こえるが、郭嘉の記憶が正しければ庭の向こうは使われていない空き部屋や物置が並ぶ区画である。
一体誰が演奏しているのか気になった郭嘉は酒を片手に立ち上がると古琴の音を頼りに庭の奥へと進む。
庭の木々の中に進めば進む程遠くに聴こえていた古琴の音がよく聴こえた。
「あ、まただ」
古琴を奏でる人物は奏でる曲に苦手な箇所があるらしく、繰り返し聴こえてくる古琴の音はある小節まで来ると毎度不協和音とも言える何とも嫌な音を響かせていた。
生い茂る木々を抜けるとそこは高い壁で、古琴の音はその向こうから聴こえる。
いつもならそう執着しないのだが今日のか
郭嘉は古琴を奏でる人物が誰なのか気になっており、今は目の前の壁をどう越えるか悩んでいた。
壁は一切の凹凸はなく塗り固められており壁を登るには難しく見えた。
しかし、ここで上手い事梯子が出て来るわけも無く、と辺りを見渡していた郭嘉は壁に作られた小さな扉を見つける。
その扉の存在に疑問を感じながら木造りの扉に触れると郭嘉側同様に向こう側にも鍵はかかっていないのか油が切れた金属の音と共に扉は開いた。
腰を折り、小さな扉を潜れば月の明かりの下少女が古琴を奏でていた。
色々疑問がある。
曹操の私室と空部屋の裏庭を繋ぐ扉は緊急時の避難用かと考えたが初めかそれを見越して作ったにしては新しく、隠す様子もなかった。
よくよく見れば扉の側の茂みは獣道の様な跡があり、それは曹操が頻繁にあの扉を使っていた事になる。
件の噂の大半は曹操が私室で愛妾を囲っている様な話であったが私室は郭嘉が少し見た限り誰か曹操以外の者が住んでいる様子も、男女のあれこれの気配も無かった。
外の見張りにも気付かれないよう茂みに隠された扉とその先にいた琴を奏でる少女に郭嘉は自身の顎を撫でる。
「殿の女性の好みが変わった?」
先程から何度か聴いた嫌な琴の音が辺りに響く。
先程迄はそこで終わらず曲を最後まで奏でていたが郭嘉がここに来るまで繰り返し途切れる事無く聴こえていた。
見た目から曹操の息子である曹植と同じか彼より少し幼そうな少女は集中が切れたのか古琴の弦から指を離してその手を膝へと下ろす。
疲れかそれとも上手くいかない自分の演奏にか溜息一つ吐いた少女と郭嘉はそこで漸く目が合った。
少女の大きな瞳は郭嘉を捉えるとそれはもう瞳を零さんばかりに大きく開かれる。
器用にもその場で少しばかり飛び上がると少女はそのまま自身の側に合った岩に身を隠した。
その姿がまるで人馴れしていない子猫の様で郭嘉は思わず笑みを零す。
少女が子猫ならばそこらに生えている狗尾草をもぐか煮干しでもちらつかせお引き寄せるのだが生憎少女は子猫では無いしそもそも煮干しで釣られるとも思えない。
郭嘉はそんな餌の代わりに置き去りにされた古琴を指差す。
「私が古琴を教えてあげようか?」
少女は郭嘉の出した餌にあっさり食いついた。
少女は瞳を輝かせて岩影から出て来るとご丁寧に頭迄下げて「よろしくお願いします」と言った。
餌を出したのは郭嘉であるがあっさりし過ぎて少女に危機感と言うものがあるのか少し疑う。
しかし少女はそんな郭嘉に構わず古琴を動かして地面に敷いた敷物に郭嘉の座れる場所を作っていた。
「どうぞ郭嘉様」
ぽんぽんと空いた場所、少女の隣に郭嘉は腰を下ろす。
少女に名を呼ばれて郭嘉は内心驚くがそれを顔には微塵も出さず、少女に何故自分が郭嘉だと分かったのか尋ねる。
郭嘉を見上げた少女は微笑む。
「お父様が言ってたとっても凄い軍師様と同じ特徴だったから」
もし違ったらどうしようかと思ったと言う少女の言葉を聴きながら郭嘉は自身の耳が熱を持つのを感じた。
恥ずかしいと感じながらも嫌な気分では無い。
それどころか気分は高揚している。
自分が少女の言葉に照れている事に気付いてまたそれに照れる郭嘉は自身の感情を抑えるのにいっぱいいっぱいで少女の言う「お父様」という言葉を聴き流していた。
もしその言葉を深く掘り下げていれば郭嘉もあんな事になる事は無かったが今更言っても遅い。
郭嘉の頬の薄皮を切る切らないという至近距離で落とされた剣は金属独特の冷気を放っていた。
その冷気に当てられてかはたまた剣を突き立てた相手の殺気に当てられてか郭嘉の酔いは急速に醒めていく。
「郭嘉よ。最後に言い残す事は無いか?」
剣呑な視線で見下ろす曹操に郭嘉は両手を掲げて見上げるしか無かった。
暫く少女に古琴の手解きをしていた郭嘉は喉が渇いた事を零した。
あくまでも小さな独り言であったのだが少女は耳が良かったらしく何か飲み物を用意してくると立ち上がった。
郭嘉は勿論少女を止めたがお客様に何もお構い出来ていないのはいけないと少女は譲らず
そのまま何処かへ駆けて行ってしまう。
残された郭嘉は古琴に触れていたのだがそこに曹操の登場である。
自分と同じくあんなにも沢山飲んだというのに現れた彼には酔いの色もなくしっかりとした足取りで郭嘉の側まで来ると帯刀していた剣を手に取り振り下ろした。
そして先程の問いに戻る。
言い残すより郭嘉は曹操に何故自分がこんな目に遭っているのか問いたくて仕方が無かった。
少し前迄共に酒を飲んでいたと言うのに今は斬り殺されそうな状況に流石の郭嘉も困惑する。
「お父様?」
この剣呑な雰囲気に似つかわしくない声が響く。
お茶を用意するのに必要な茶器を一通りお盆の上に載せて戻って来た#bk_name_1#がききょとりと大きな瞳を瞬かせて曹操を見ていた。
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