第一章 シンデレラ・シンドローム
絵里は箸を置いた。それから美濃部を見る。冗談を言っているにしては、美濃部の顔はぞっとするほど穏やかだった。
「最近の競馬場は馬とのふれあいコーナーがあったり、食事も充実していてね。カップルやファミリーでも楽しめるところが多いんだ。だからべつに馬券片手に熱狂したオッサンばかりがウロウロしているわけじゃない。お祭りみたいなものだと思えば、馬券を買わなくても楽しめるよ。どうかな?」
「それは一緒に同行するあなたの友達にも、わたしから軍資金を提供しろというお誘いかしら」
「ダブルデートの誘いだよ。勘違いしないでくれ」
新宿のとある屋上ビアガーデンは水曜日の晩にしては客が多かったが、夜が更けるにつれて次第に静かになっていった。平日ド真ん中のせいか羽目を外して悪酔いする者もおらず、みんなが陽気で楽しそうで、しかしただ一人絵里だけが、だんだんと目の前が暗くなっていく確かな底知れぬ失望に飲まれていた。
要は、こうだ。
今度の週末に美濃部とその友人、それと友人の妻と絵里で競馬に行こうというのだ。友人は保険会社の営業部長、妻はヨガインストラクター。夫妻と美濃部は同じ大学の同級生で、長い付き合いらしい。そこに絵里も入れてもらう。夫妻が、美濃部の最近の金の出所を知っているのなんてわからない。だが、これが女のカンというやつか、嫌な予感が絵里の体内を這いずるのだ。
「礼一さん。少しギャンブルを控えてくださらない?」
背筋を伸ばし、一つも口をつけないまますっかり泡の消えてなくなったビールに、テーブルの上で固く組んだ絵里の両手がぼんやり映る。
「わたしこれから引っ越しもあるのに、これ以上あなたに貸すのは苦しいわ」
「返済が遅れて本当に申し訳ない」美濃部が心から申し訳なさそうに眉尻を下げると、捨てられた子犬のように見えてしまうのは、惚れた弱みでしかないのだろうか。「でも、競馬は一攫千金が実際に起こる。今はまだ運が来ないだけだ。それまで待っていてくれると、約束してくれただろう?」
「一攫千金で100万わたしに返してからそのあとも、わたしにお金を頼るんでしょう? 堂々巡りだわ、そんなの」
「絵里……怒っているのか」
「そうよ」
と強気に放った声がふるえた。思い出す。鴫原と義母と叔父に尽くしたこの24年。自分は、誰かに「怒り」の感情を抱いたことがたぶんほとんどない。だってなんでも許してきた。鴫原が18年3カ月前に会社の後輩と不倫したときも。義母のわがままも。親戚に押しつけられた叔父の世話も。わたしは。
人への怒り方を本当は忘れている。
「怒ってるわ」
美濃部がなぜか微笑む。絵里は血の気が引いた。ああ、この人はやっぱり全部見抜いている……。
全部見抜いていて、やってるんだ。
「絵里、俺と別れたら君はどうするんだい」
その話を、美濃部のほうから切り出してくるのは予想外だった。
「美しい君のことだ。鴫原くんと結婚する前は、嫁ぎ先は引く手数多だったろう。僕も未だに信じられなくなるときがあるよ、君ほど素敵な女性とこの年齢で恋愛できるなんて。だけど君も48。しかも世間知らずのままの48だ。ここから一人で生きていくには、君にはハードルが高いんじゃないのかい」
ビアガーデンのかすかな賑わいが、だんだんと遠ざかっていく気がする。
「俺は君を支えたい。愛したい。鴫原くんより、よっぽど俺のほうが君を理解しているつもりだよ。だから君にも、俺をもっと理解してくれたら嬉しいんだ。俺は君の愛情がほしい」
金も、愛情なのか。
「でもあなたはわたしと一緒になるつもりがないんでしょう」
「君自身も身をもって実感しただろうけど、結婚生活が長ければ長いほどお互いの嫌な部分も知り尽くして、関係は廃れていく。もちろんそうじゃない夫婦もいるけれど、ときめきはいずれなくなるんだ。妻はもう俺を愛しちゃいない。鴫原くんも君に対する感情はもうない。だけど俺と君は誰かを愛し、誰かに愛されることを諦めたくなかったんだ、この年齢になっても。だから俺たちは運命的に惹かれ合って――」
「孝道さんの中にわたしに対する感情がもうないって、どうしてあなたが言えるのよ!」
「不倫されたじゃないか、君も」
その言葉で頭が凍りつく。魔法にかけられたみたい。
18年と3カ月。そこまで、ちゃんと覚えている。なんて執念深いのだろうと自分でも呆れる。だが忘れられないのだ。裏切られたその事実を。それでも、女と会うことをやめてくれて、また家庭に戻ってきた夫のことを、最後は許した。「やっぱり孝道さんにはわたししかいないのだ」と信じたかった。
この24年の間に鴫原が毎年誕生日にプレゼントしてくれた靴たちは度々、絵里の足のサイズと違った。それを一度も言ったことがない自分も自分だ。けれど自分がときどきつらそうに歩く姿に鴫原がいつか気づいてくれると、期待した。そんなことを二十年以上続けていたなんてどうかしている。結局は鴫原を信じられていなかったのだ、ずっと。期待と、それ以上の失望が、鴫原の不倫が絵里の心にもたらしたものだ。
美濃部の言いなりになっているのは、もうあんな惨めな思いをしたくないからだ。美濃部は借金こそ滞納しているものの、ちゃんと愛情表現で返してくれて、忘れていた恋のときめきを思い出させてくれる。鴫原と愛し合っていたあの幸せな日々にまた浸らせてくれる。
こんなイタい女だ――わたしは。
「いいかい、絵里。俺となら幸せになれる」
だけどやっぱり違う。目を覚ませ。この人と幸せになんかなれない。誰かが頭の中で、警告する。
誰だ。
直子? 孝道さん? それとも?
「妻のことも子どものことも心配しなくていい。どうせ、妻も気づいているさとっくに」
じわじわと、身体の奥に穴を開けられていく。寒々しいものが穴を吹き抜けていくだけで、美濃部の言葉は、前のように絵里を内側から包み込んでくれない。潮が引くように、愛がゆるやかに剥がれ落ちていく。あんなに好きだった美濃部の柔和な笑みが今は絵里の心を脆い部分を揺さぶって突き崩そうとするものでしかない。
「あなた、わたしをどうしたいの……」
「そばにいてほしいだけさ、永遠に」
よく考えてみてくれよ。ニコリとして、美濃部が席を立った。「トイレに行ってくるから」
放心状態で取り残された絵里の目の前で、グラスの中のビールがあざ笑うみたいに小刻みにふるえる。顔に髪が貼りついて、取ろうとさわると、べたべたした。汗だ。指先が怖いくらい痺れている。自分がかいている汗が熱いか冷たいかも判別できない。ビールを飲む。喉がすぐにまた渇く。もう一口、二口飲む。また、また、渇くからもっともっと流し込む。グラにを空にした瞬間、噎せた。
息がうまくできないのは咳のせい? 酔いのせい?
鼻の頭から雫が人中まで伝い、口に入った。絵里はしばらく口を両手で覆い、そのまま額までを拭くように強くてのひらで擦った。そうしてテーブルに右手をつく。どこかに体重を預けていないともう無理だ。
向かいの椅子がガタッと後ろに引かれた。絵里は、顔を上げられない。少しでも首を動かして目の前の現実を直視しようものなら、
「俺は、よく考えた」
ぼわぁ、と声が脳に反響する。
「あなたの財産もあなたの生活状況もあなたの過去も今も未来も、俺には本来関係ない。だけどあなたは俺よりもお人好しだ。すべて失って、そんで新しい人生を手に入れようとしたのに結局なんにも手に入れられず終い」
ゆっくりと、絵里が濡れた睫毛を上げる。
「美咲に似てるんすよ。でもね、美咲は、だから死んだんですよ。俺より優しく正義感が強かったから、感情に呑まれて、余計な首突っ込んで、殺された」
和磨の両目は月夜の湖畔のように澄んでいて、薄い色をしている。これだ。この目だ。透明に見えて底の知れない。穏やかなのか怒っているのか楽しんでいるのか悲しんでいるのかわからない――もしかしたら全部かもしれない。
美濃部が座っていた椅子にもたれかかり、どうでもいい雑談をするときみたいな力の抜け方で、腕を突然上げ、目の前のグラスをテーブルから振り落とした。美濃部が飲んでいたビールのグラスだ。
がしゃん、と耳を劈く音が響く。
「俺はもうそんなの見たくない」
和磨の声はまるで遠くからこちらへ迫り来る地鳴りだ。身体の奥から、湧き上がり、ふるえながら、テーブルに吐き出される。
「人の心も身体も好き放題に壊そうとするヤツを許してはおけない。島崎さん、このあいだ俺はアドバイスを誤りましたよ。あの男、あなたの恋人ならば島崎さんの心も身体も生活もぜんぶ考えてあげて、あなたのことを優先すべきなんじゃないかって言いましたけどね、そうすべきはあなた自身です。あなたが一番、あなたを守れていない。だからあんな男に依存しなくちゃいけなくなったんですよ」
17も年下の青年が、情けないかっこ悪い48の女をどんな顔して見つめているのか、すべての物の輪郭がなくなってぼろぼろになった視界では不明瞭だ。
「でも、あなただって本当はそのことに気づいていたはずだ。だからきっと自分を立て直せます。俺たちと違って」
「違わない。和磨くんと祐希人くんこそ、絶対に幸せになれる人よ。幸せにならなきゃいけないのよ、あなたたちは」
そもそもどうしてこのビアガーデンにいるの、まさか尾けてきたの、と人のことは言えないが、そう訊ねようとした絵里の声を遮って「それなら」と和磨が言った。
「ほんとにうちの家政婦になって、一緒に変えてくれないっすか」椅子から背中を離し、身を乗り出す。「祐希人のことを」
「最近の競馬場は馬とのふれあいコーナーがあったり、食事も充実していてね。カップルやファミリーでも楽しめるところが多いんだ。だからべつに馬券片手に熱狂したオッサンばかりがウロウロしているわけじゃない。お祭りみたいなものだと思えば、馬券を買わなくても楽しめるよ。どうかな?」
「それは一緒に同行するあなたの友達にも、わたしから軍資金を提供しろというお誘いかしら」
「ダブルデートの誘いだよ。勘違いしないでくれ」
新宿のとある屋上ビアガーデンは水曜日の晩にしては客が多かったが、夜が更けるにつれて次第に静かになっていった。平日ド真ん中のせいか羽目を外して悪酔いする者もおらず、みんなが陽気で楽しそうで、しかしただ一人絵里だけが、だんだんと目の前が暗くなっていく確かな底知れぬ失望に飲まれていた。
要は、こうだ。
今度の週末に美濃部とその友人、それと友人の妻と絵里で競馬に行こうというのだ。友人は保険会社の営業部長、妻はヨガインストラクター。夫妻と美濃部は同じ大学の同級生で、長い付き合いらしい。そこに絵里も入れてもらう。夫妻が、美濃部の最近の金の出所を知っているのなんてわからない。だが、これが女のカンというやつか、嫌な予感が絵里の体内を這いずるのだ。
「礼一さん。少しギャンブルを控えてくださらない?」
背筋を伸ばし、一つも口をつけないまますっかり泡の消えてなくなったビールに、テーブルの上で固く組んだ絵里の両手がぼんやり映る。
「わたしこれから引っ越しもあるのに、これ以上あなたに貸すのは苦しいわ」
「返済が遅れて本当に申し訳ない」美濃部が心から申し訳なさそうに眉尻を下げると、捨てられた子犬のように見えてしまうのは、惚れた弱みでしかないのだろうか。「でも、競馬は一攫千金が実際に起こる。今はまだ運が来ないだけだ。それまで待っていてくれると、約束してくれただろう?」
「一攫千金で100万わたしに返してからそのあとも、わたしにお金を頼るんでしょう? 堂々巡りだわ、そんなの」
「絵里……怒っているのか」
「そうよ」
と強気に放った声がふるえた。思い出す。鴫原と義母と叔父に尽くしたこの24年。自分は、誰かに「怒り」の感情を抱いたことがたぶんほとんどない。だってなんでも許してきた。鴫原が18年3カ月前に会社の後輩と不倫したときも。義母のわがままも。親戚に押しつけられた叔父の世話も。わたしは。
人への怒り方を本当は忘れている。
「怒ってるわ」
美濃部がなぜか微笑む。絵里は血の気が引いた。ああ、この人はやっぱり全部見抜いている……。
全部見抜いていて、やってるんだ。
「絵里、俺と別れたら君はどうするんだい」
その話を、美濃部のほうから切り出してくるのは予想外だった。
「美しい君のことだ。鴫原くんと結婚する前は、嫁ぎ先は引く手数多だったろう。僕も未だに信じられなくなるときがあるよ、君ほど素敵な女性とこの年齢で恋愛できるなんて。だけど君も48。しかも世間知らずのままの48だ。ここから一人で生きていくには、君にはハードルが高いんじゃないのかい」
ビアガーデンのかすかな賑わいが、だんだんと遠ざかっていく気がする。
「俺は君を支えたい。愛したい。鴫原くんより、よっぽど俺のほうが君を理解しているつもりだよ。だから君にも、俺をもっと理解してくれたら嬉しいんだ。俺は君の愛情がほしい」
金も、愛情なのか。
「でもあなたはわたしと一緒になるつもりがないんでしょう」
「君自身も身をもって実感しただろうけど、結婚生活が長ければ長いほどお互いの嫌な部分も知り尽くして、関係は廃れていく。もちろんそうじゃない夫婦もいるけれど、ときめきはいずれなくなるんだ。妻はもう俺を愛しちゃいない。鴫原くんも君に対する感情はもうない。だけど俺と君は誰かを愛し、誰かに愛されることを諦めたくなかったんだ、この年齢になっても。だから俺たちは運命的に惹かれ合って――」
「孝道さんの中にわたしに対する感情がもうないって、どうしてあなたが言えるのよ!」
「不倫されたじゃないか、君も」
その言葉で頭が凍りつく。魔法にかけられたみたい。
18年と3カ月。そこまで、ちゃんと覚えている。なんて執念深いのだろうと自分でも呆れる。だが忘れられないのだ。裏切られたその事実を。それでも、女と会うことをやめてくれて、また家庭に戻ってきた夫のことを、最後は許した。「やっぱり孝道さんにはわたししかいないのだ」と信じたかった。
この24年の間に鴫原が毎年誕生日にプレゼントしてくれた靴たちは度々、絵里の足のサイズと違った。それを一度も言ったことがない自分も自分だ。けれど自分がときどきつらそうに歩く姿に鴫原がいつか気づいてくれると、期待した。そんなことを二十年以上続けていたなんてどうかしている。結局は鴫原を信じられていなかったのだ、ずっと。期待と、それ以上の失望が、鴫原の不倫が絵里の心にもたらしたものだ。
美濃部の言いなりになっているのは、もうあんな惨めな思いをしたくないからだ。美濃部は借金こそ滞納しているものの、ちゃんと愛情表現で返してくれて、忘れていた恋のときめきを思い出させてくれる。鴫原と愛し合っていたあの幸せな日々にまた浸らせてくれる。
こんなイタい女だ――わたしは。
「いいかい、絵里。俺となら幸せになれる」
だけどやっぱり違う。目を覚ませ。この人と幸せになんかなれない。誰かが頭の中で、警告する。
誰だ。
直子? 孝道さん? それとも?
「妻のことも子どものことも心配しなくていい。どうせ、妻も気づいているさとっくに」
じわじわと、身体の奥に穴を開けられていく。寒々しいものが穴を吹き抜けていくだけで、美濃部の言葉は、前のように絵里を内側から包み込んでくれない。潮が引くように、愛がゆるやかに剥がれ落ちていく。あんなに好きだった美濃部の柔和な笑みが今は絵里の心を脆い部分を揺さぶって突き崩そうとするものでしかない。
「あなた、わたしをどうしたいの……」
「そばにいてほしいだけさ、永遠に」
よく考えてみてくれよ。ニコリとして、美濃部が席を立った。「トイレに行ってくるから」
放心状態で取り残された絵里の目の前で、グラスの中のビールがあざ笑うみたいに小刻みにふるえる。顔に髪が貼りついて、取ろうとさわると、べたべたした。汗だ。指先が怖いくらい痺れている。自分がかいている汗が熱いか冷たいかも判別できない。ビールを飲む。喉がすぐにまた渇く。もう一口、二口飲む。また、また、渇くからもっともっと流し込む。グラにを空にした瞬間、噎せた。
息がうまくできないのは咳のせい? 酔いのせい?
鼻の頭から雫が人中まで伝い、口に入った。絵里はしばらく口を両手で覆い、そのまま額までを拭くように強くてのひらで擦った。そうしてテーブルに右手をつく。どこかに体重を預けていないともう無理だ。
向かいの椅子がガタッと後ろに引かれた。絵里は、顔を上げられない。少しでも首を動かして目の前の現実を直視しようものなら、
「俺は、よく考えた」
ぼわぁ、と声が脳に反響する。
「あなたの財産もあなたの生活状況もあなたの過去も今も未来も、俺には本来関係ない。だけどあなたは俺よりもお人好しだ。すべて失って、そんで新しい人生を手に入れようとしたのに結局なんにも手に入れられず終い」
ゆっくりと、絵里が濡れた睫毛を上げる。
「美咲に似てるんすよ。でもね、美咲は、だから死んだんですよ。俺より優しく正義感が強かったから、感情に呑まれて、余計な首突っ込んで、殺された」
和磨の両目は月夜の湖畔のように澄んでいて、薄い色をしている。これだ。この目だ。透明に見えて底の知れない。穏やかなのか怒っているのか楽しんでいるのか悲しんでいるのかわからない――もしかしたら全部かもしれない。
美濃部が座っていた椅子にもたれかかり、どうでもいい雑談をするときみたいな力の抜け方で、腕を突然上げ、目の前のグラスをテーブルから振り落とした。美濃部が飲んでいたビールのグラスだ。
がしゃん、と耳を劈く音が響く。
「俺はもうそんなの見たくない」
和磨の声はまるで遠くからこちらへ迫り来る地鳴りだ。身体の奥から、湧き上がり、ふるえながら、テーブルに吐き出される。
「人の心も身体も好き放題に壊そうとするヤツを許してはおけない。島崎さん、このあいだ俺はアドバイスを誤りましたよ。あの男、あなたの恋人ならば島崎さんの心も身体も生活もぜんぶ考えてあげて、あなたのことを優先すべきなんじゃないかって言いましたけどね、そうすべきはあなた自身です。あなたが一番、あなたを守れていない。だからあんな男に依存しなくちゃいけなくなったんですよ」
17も年下の青年が、情けないかっこ悪い48の女をどんな顔して見つめているのか、すべての物の輪郭がなくなってぼろぼろになった視界では不明瞭だ。
「でも、あなただって本当はそのことに気づいていたはずだ。だからきっと自分を立て直せます。俺たちと違って」
「違わない。和磨くんと祐希人くんこそ、絶対に幸せになれる人よ。幸せにならなきゃいけないのよ、あなたたちは」
そもそもどうしてこのビアガーデンにいるの、まさか尾けてきたの、と人のことは言えないが、そう訊ねようとした絵里の声を遮って「それなら」と和磨が言った。
「ほんとにうちの家政婦になって、一緒に変えてくれないっすか」椅子から背中を離し、身を乗り出す。「祐希人のことを」