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第一章 シンデレラ・シンドローム

 美咲が、祐希人に変わっている。

 目に光が戻った以外、和磨の表情はさして変わらなかった。「おかえり」とすげなく、言う。
「みーちゃんとなにか話していたの? 割り込んじゃってごめんね」
「……ああ、いいよ」
 祐希人は、からかわない。
「なんの話だった? いや、当てるよ。島崎さんのことだろう。助けてあげたいね、とでも話してたんじゃないの? 俺はやめたほうがいいと思うよ」
「はっきり言うよなあ、お前も」
「それよりいいなあ。俺もさ、みーちゃんに会ってみたいよ」
「やめとけ」
「みーちゃんと話したい。いつも、かーくんから口伝えでしか聞かされてないから」
「そんなこと考えるな。頭おかしくなっちゃうぞ」
「俺も大概おかしくなってる」
 整った祐希人の眉毛の片方がゆがんだ。「なのに、みーちゃんに会うことはできない。かーくんみたいに」
「最初に精神病棟に俺をぶち込もうとしたのはお前だろ」
「俺だって違う理由でそうなりかけた」
「でも俺みたいになってみろ、祐希人、お前、今度こそ死んじまうぞ」
 ジョッキの底に沈んでいた残りのビールを飲み干す。
「そうしたら俺は亡霊二人と父さんの介護をしながら余生を過ごさなきゃいけなくなるんだ。やってられっか」
「……そうだね」
 祐希人もウーロン茶に口をつけた。

 そのときだった。和磨の隣に強引に身体を入れてきた男がいたのは。そしてテーブルの端に置いてあったタッチパネルを、腕を伸ばして奪い取る。
「ようお前ら、昼から回転寿司とは優雅じゃねーか。こういうときは、俺も誘えよ」

「げ、葛西さん」
 苦虫でも食ったかのように盛大に顔を顰める祐希人に、痩身の男が「なんだテメエ祐希人、一週間ぶりの俺との再会なんだから、もっと喜べよ」と笑い飛ばしながら、勝手にメニューを漁っていた。「ほたてのバター焼きとカニの甲羅味噌焼きあんじゃねえか」と、手際よく注文する。「アルコールどこだ?」
「お前、すでにアルコール臭ぇんだけど! 洸介!」しっしっ、と手で振り払おうとする和磨のほうに葛西洸介は目もくれない。
「和磨も祐希人は、辛気臭ぇよな」べつなんの臭いもしないはずなのに葛西は鼻をつまんでみせる。「なあ、なんで俺を呼ばなかったんだよ? 俺は、いつだって奢られる準備ができてんだぜ。先輩に『奢ってて気持ちいい』と言わしめるほど、いい食いっぷりするぜ。だからお前らは今日、ラッキーだ。俺が、たまたま窓からお前らを発見したおかげで、俺のために金を使えるチャンスを手に入れた。しかも、寿司とはな! 久しく食ってねえんだ!」
「ユキ、帰るぞー」
「さようなら葛西さん」
「おいおいおいおい」
 葛西の足の上を通って行こうとする和磨の腕は、あえなく掴まれた。「貧乏な親友が腹すかせて死にそうだってのを見殺しにするとは、イイ度胸だな」
「お前は死なない。そういう生き物だ」和磨は断言する。
 がはははは!と葛西が歯を見せて破顔すると、店中に声が響いた。「そうだ、お前らがいる限り俺もまた死なない。これでも、俺、人に恵まれてるってェ自覚はあるんだ。お前らにも感謝してんだよ、いつも」
「だったら頻繁にうちに飯食いに来ないでくださいよ! こっちも食費かかってんですから! 最近、週一ペースじゃないですか!」
「今日もどうせ朝まで飲んでたんだろ? もういいだろ、帰れよ。劇場の時間大丈夫なのかよ」
「今日は休み。明日も休み。明後日も休み。こないだ水檸檬の沖田とライブ中に揉めて、いま軽く謹慎中」
「またか! もうお前劇場うつれよ、沖田さんと何回喧嘩してんだよ!」
「ところでよぅ」
 葛西は和磨の言葉を無視する。「さっきの夫人は誰だ」
 マジでめんどくさいヤツに絡まれたな、と和磨はげんなりした。そしてあえて、げんなりを顔に惜しみなく出す。「なんだよ、ウザがるなよ。フツーに気になるだろうが。美人だったなあ。どこであんな人と知り合えるんだ? アプリか?」
 葛西はむかしから綺麗な女性に目がない。先細った顎、青白い肌、鋭い目つき、人よりも多い歯、やけに毛先がツンツンとした黒髪のウルフカット。狼、というより小型のサメを擬人化したようなこの男は、和磨の高校時代からの友人である。今も和磨の後ろにまで腕を伸ばし、背もたれに深く身を預け、三秒前にここに来たとは思えないほど無遠慮にくつろぎ始めるこの傍若無人っぷり。これも、まったくもって変わらない。
 だが、この常軌を逸したモラルの無さとニヒルな感性がお笑いのセンスに活きており、テレビ出演などはまだまだ夢だが、所属漫才劇場のメンバーの中では比較的人気なほうらしい。葛西の貧乏生活を助けてやるのは、こいつの未来への投資だ。いつか売れたらその分、恩を返してもらう。という計らいで葛西にときどき飯を食わしてやっている自分はやはりお人好しなのだろうか?
 だが、葛西は、飯以外の要求をしない。「ダチに現金は借りないってのが俺のポリシー」らしい。
「美咲の事件のとき、俺を助けてくれた人だ。さっきの女性は」
 仕方ないので正直に話す。「電車の中にいた乗客だったんだよ。久しぶりに会う機会があって」
「ほーん」葛西は、なんともいえないトーンの間延びした声を出す。絵里が置いていった、空になったジョッキと、丁寧に皿に置かれた割り箸をチラリと一瞥して、「この時間から一杯やるとは見た目に反して豪快だねぇ」と八重歯を口の中で鳴らす。
「哀愁漂う雰囲気にも色気があった。ご夫人になにか悲しいことでもあって、それでこんな午前中からお前らと飲んでいた」
 今度は、パチンと指を鳴らす。「とか?」
 この観察眼。
 そこまで、絵里の去り際の姿だけで見抜けるのが、葛西の怖いところだ。
 こいつに打ち明けてみようか、和磨は悩んだ。しかし他人の事情を本人不在の場で勝手にしゃべるのは気が引ける。自分だって――まあ事件に関しては身の回りはおろか全国で一時期話題になってしまったが――自分たちの事情を勝手な憶測や解釈を交えて話されるのは、虫唾が走る。
 だけどどうしても気になることが一つあるのだ。
「洸介」
 自分が葛西の名を発しただけで祐希人の全身の毛が逆立ったのを、和磨は察する。自分が今からなにを話そうとするのかが、弟にはわかるのだ。だが、構わなかった。
「他言無用の、軽い相談がある。お前そういうのは守ってくれるだろ?」
「俺はこう見えてダチは大事にするんだ」
 すっ、と声の音量を落とす葛西の顔いっぱいに、好奇の色が広がる。和磨は、むかし彼の付き合いでパチンコに連れていかれたことがあるが、スロットのスリーセブンを狙うときの顔と今の顔はよく似ている。「現金は借りない。秘密は守る。裏切らない。代わりに食わせてもらう。ポリシーだ」
 だから葛西洸介は和磨の知り合いで唯一、美咲の事件を深くまで知っている人物となった。
「お前確か、お金は親と金融機関から借りてんだよな? まだパチンコやってんの?」
「たまにな。茉里奈がやめちまったから、前ほどじゃなくなった。その代わり競馬を最近始めた。そうだ、こないだ伝説級に勝ったんだぜ、なあ。俺の神話聞くか?」
「いや、ギャンブル全般やめればいいのに」店員が運んできた葛西の注文の品を、祐希人が代わりに受け取る。
「茉里奈さんに金借りて、ギャンブル行ったことってある?」
「そういうヤツに見えんのか、俺が? 心外すぎる」
「あの夫人は、付き合っている男に金をむしり取られている。それもすげえ多額の」
「ンだそりゃ……最低な男だな。しかもあんな美人から。そいつは死ぬべきだ」知らない相手に対して平気でそこまで言い切るのが葛西の無神経なところであり、時に気持ちのいいところである。「なるほど和磨、お前、あの夫人が心配なんだな?」
「俺は、べつに干渉する必要ないって言ってるんです」祐希人の語気が強い。「なのに、かーくんは往生際が悪い」
「悪いオンナじゃないんだろ?」
「いいえ、不倫したんです。ダブル不倫。島崎さんは、結果それで旦那と離婚して、家も追い出された。それなのに懲りずに不倫相手から離れられなくて、金まで貢いでいる。もう、放っておけばいいんですよ、あんな人は」
「だけど和磨としては恩があるから放っておけない、ってわけか。和磨はこうなると頑固だぜ。コテでも動かない」
「テコだろ」
「そうとも言う」
「そうとしか言わねえ」
 祐希人だけは黙って、テーブルの一点をじっと見下ろす。それから「わかりますよ」と、つぶやいた。
「みーちゃんのこと気にして、忘れないでくれて、心の清らかな人だってのは俺でもわかりますよ。島崎さんだけじゃなく、男側も島崎さんを離したくないのは、ただ金を搾り取りたいからってだけじゃないと思う。あんなに優しい人、なかなかいない。かーくんが救いたいと思う気持ちも、理解できるよ。でもね、俺はやっぱりまだ信用し切れないです。俺ああいう人に裏切られたことあるんですよ。ああやって……上手に笑顔を操れる人は」
 自分の顔を、祐希人はさわる。ほとんど掴んでいるみたいに、強く。
「こわいよ」
「え、それお前もじゃ……」と遠慮なく言い放った葛西の太腿を強くつねったのは和磨だった。葛西は、空気を読んで、悲鳴を飲み込んだようだ。
「ユキ、島崎さんとそいつは違うよ」
「………」
「俺さ、島崎さんが不倫した理由、旦那との関係が冷めただけじゃない気がしてるんだよ。本人はもう気づいてんだよとっくに。今の関係はもはや損のほうが多いって。でも、頑なにやめない。ただの意地にしては、なんらかの執念深さすら感じる」
「元旦那もよぅ、不倫してたんじゃねーの?」
 箸の先につけたカニ味噌をなめながら葛西が核心を突いた。
 そう。
 和磨も同じ考えである。
「そうすると事情がちょっとばかし変わってくるかもな。互いの同意もなく、夫人が勝手に他の男ンところにいっちまったのなら、まあ夫人が責められるだろう。でもよ、元旦那も不倫してて、仕返しに夫人も不倫して、そんで夫人だけが責められて一方的に家を追い出されたっつー場合は、旦那も結構クソ野郎だよな。旦那が大人しくしてりゃ、夫人もムカついて仕返ししなかっただろうにな」
「でも不倫は不倫でしょう」祐希人は、にべもない。「どんな理由でも許されることじゃない。立派な裏切り行為だ」
「それはそうなんだよなあ」
「仕返し」
 舌がすばやく動いた。ほとんど無意識だった。それをつぶやいたと同時に、頭の中に、火が灯った感覚があった。
 ただの明るい火ではない、青く熱い、激しい炎。
「もしそうなら、島崎さんは今どんな気持ちなんだろうな、本当のところ。好きだった旦那に裏切られて、不倫して復讐して……すっきりしてんのかな?」
 そうとは思えない。だから、そんなことはもうあの人にやめさせるべきだ。
『中途半端に情を残したまま相手に仕返ししたところで、結局傷つくのは自分なんだよね。このままじゃ島崎さんの心、自滅しちゃうかもね』
 と、頭の中の美咲が腕を組みながら頷いている。
『でもさ和磨、あんたがこれ以上首突っ込む必要ないのよ本来は。関係ないじゃん、全部島崎さんの事情なんだから。いくらあたしたちのことをたくさん気にかけてくれていても、あの人不倫したんだよ。たとえ、元旦那にマジでむかし不倫されてて、その仕返しだとしても、おんなじことしちゃったら島崎さんも最低男たちと同類じゃん。ま、その制裁が、今なんだろーけどね』
「制裁が続きすぎなんだよ。もうべつに充分だろ。元旦那や不倫相手は、ここまでの目に遭ってるか?」
 和磨の淡白なつぶやきを、葛西は独り言と認識したのだろうか、それとも「会話」の返しだと気づいているのか。特になにも感じちゃいないのか。注文パネルをまた手元に引き寄せている。
「島崎さんは捉われる必要のないことに捉われてる」
 かかとを踏んだままのスリッポンで床をこする。これで歩くのはいい加減つらい。だが、島崎さんも似たようなもののはずだ。あの人のシルバーのパンプスは時々かかとがパカッと外れているのだ。
 たぶんサイズが合っていない。
 女性の靴はよくわからないけれど、新しい靴ぐらい買ったっていいはずなのに、あのシルバーのパンプスを履き続けているのは、なんらかの意地としか思えない。男に定期的に金を提供できるほどの財産はあるにも関わらず、つらくても、捨てない。買い替えたりもしない。いくら高価で綺麗な靴だとしたって、合わない靴を気取った顔して無理やり使い続ける気持ちが和磨にはわからなかった。だから、自分も真似してみた。
 それでわかったのは、「ただただつらい」――ということだけだった。
 つらいけど、見栄を張り続ける。それしか、独りぼっちになった彼女にできることはないのかもしれない。
 島崎絵里は穏やかそうに見えてどこか執念深い部分があるのではないかと読み取ったのも、そこからだった。元旦那への未練を、不倫男へ必要以上に(というかもはや間違った方向に)尽くすことで、忘れようとしている。かつて電車で獣のように狂って咆え続けた俺を、抱きしめ、落ち着かせようとしてくれた人が。自分たち家族のことを忘れられないあまり、後をつけてきてまで美咲の墓に手を合わせようとした人が。
「俺は確かにお人好しなのかもしれないけど」
 祐希人がテーブルの上で組んでいた両手に力を込め、ふるわせている。
「あの人を頭っから見捨てる理由が見つからないんだよな、俺には」
「和磨ァ」
 向かいの葛西が呼んだ。見えない手を使って親友の肩を掴み、強引に引き寄せるかのようだった。
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