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第一章 シンデレラ・シンドローム

「どういう状況? これ」
 回転寿司屋に現れた祐希人は案の定、機嫌がよさそうではない。「まだ十時なんだけど」
「モーニング寿司」と和磨がイカの握りに醤油をかけながら答える。
「朝からごめんなさい」恥ずかしそうに会釈する絵里は、機嫌よさそうである。近くには空のジョッキ。
「いや、モーニングというよりブランチだろ」
「じゃあ、ブランチ寿司だな」
「かーくん説明して、ちゃんと」
「たまたま駅前で島崎さんと会ったんだよ。彼女がお酒飲みたいって言って、俺は腹が減ってたから、ここに来た。そんだけだって」
「和磨くんがわたしに付き合ってくれたの」
 家で寝ていた祐希人に公衆電話から連絡をしたのはもちろん、和磨だった。
「駅前の『やまだ寿司』で飯食うから、お前も来いよ。今日バイト午後からだろ?」「飯って、かーくん一人?」「いや、一人じゃない」「誰といんの」「来ればわかる」
 十円玉分の料金をいっぱいいっぱい使って和磨は弟を呼び出すことができた。和磨は携帯電話を持っていないという。「連絡取り合う人なんてそうそういないし。家族と職場はなにかあれば家電か、祐希人のスマホにかけてくるから」と本人は言うが、たぶん、理由はそれだけではない。
 彼の過去を一切知らない人間からしたら、天然記念物並みの変わり者だと思うことだろうが――。
「とりあえず座ったら? お前、目立つぜ」
 ガラガラの店内の隅で仁王立ちする長身のイケメンに、向こうの女性店員がちらちらと視線を寄こしている。祐希人が軽く微笑み返すと、女性が頬を赤らめ、奥へ立ち去って行った。
「相変わらず紳士ね、祐希人くん」タッチパネルで二杯目の中ジョッキを探しながら、絵里は感心する。
「違いますよ」食べ終えた皿を重ねながら和磨が弟を指差した。「こいつは自分のルックスの良さを、常に外に向けて試したいだけなんすよ。わかります? 女性にモテたいんじゃない。『女性の視線を奪う俺』を、実感していたいだけ。24時間365日」
「俺ナルシストなんです」
 恥ずかしげもなく、昨日の夕飯なんだった?と聞かれてカレーですと答えるみたいに、祐希人があっさり肯定するので、絵里も半ば唖然としながら「そうね」と頷く。
「女性に好意を持ってほしいとは思わないの?」
「持ってもらって構わないですけど、というか俺とコミュニケーションを交わした女性の半分くらいに結構本気で好きになられてしまうんですけど」
「ウソつけ」和磨が、身体を席の奥に詰める。
「ウソじゃない」祐希人は観念したのか、和磨のとなりにどっかり座った。絵里がタッチパネルを渡すと、ありがとうございます、と小さな声で言う。
「モテたい、とかそういうんじゃない。かーくんも言ったとおり、試したいだけです。自分がどれだけ魅力的な男なのかをね。だけど人間、ルックスだけで周りの人みんなを虜にできるわけではないでしょう。たとえ顔がモデルみたいに綺麗な人でも、素行が悪ければ、台無しじゃないですか。かといって、かーくんみたいに無愛想でいるのも宝の持ち腐れだし」
「俺だって、笑えばお前みたいな超絶イケメンだわ。お前の兄だぞ?」
「超絶、はない」
「お前さあ……」
「かーくんは盛りすぎなんだよ。作りが違うんだもの。かーくんはね、かっこいいっていうより、俺からすると、かわいいってカンジだから、カテゴリーがもう違う」
「ナチュラルにそういうこと言っちゃうから、お前、友達できないんじゃないの?」
 あはははっ、と絵里は二人のやり取りがおかしくって笑った。声を出して笑ったのなんて、結構久しぶりだ。
「つまりね」祐希人がタッチパネルをすばやく操作しながら、話し出す。「相手だって期待してるんですよ。あのイケメン、こっち振り向いてくれないかなって。俺にはわかります。そこで察して、ちょっとでも笑いかけてあげたほうが、結果として俺への印象はさらに良くなるわけですし、俺は笑っているほうがよりかっこいいんで。男を上げるも下げるも、日々の素行や言動次第。そうでしょ? まあきっと女性も同じですけどね」
 おや、と絵里は思う。
「だから相手が期待するような感情なんて、こっちにはありませんよ。正直女の子にあんまり興味ないですしね、俺。さっきのだって店員さんがこっちを見つめていたから、挨拶しただけ。挨拶は単純に、礼儀です。そしてそれ以上俺から相手に干渉はしません。俺は、俺の大事な宝物をただ周囲に自慢できれば、充分です」
 彼は、本当は、誰よりも他人を警戒する人なのではないか?
 それきり祐希人はあまりしゃべらなくなった。なんとなくそうなのではないかと勘付いていたが、人見知りの気があるみたいだった。代わりに和磨が、絵里に当たり障りのない話を振る。もともとの住まいはどこだったのか。生まれはどこか。兄弟や両親はどちらにいるのか。髪型とても似合っているが、なにか髪のケアはしているのか。家の換気扇の掃除って面倒くさくないっすか、なにか効率的な掃除方法あります?
 弟に無愛想だと言わしめた彼が、なぜ美容師をやっていけるのか、その理由がわかった気がした。気がつけば和磨になんでも話している自分がいた。絵里が酒の勢いで早口になり始めると、男二人は静かに聞き役に回った。そういうところは今まで付き合って来た男性たちに通ずるものがあった。が、あまりに年齢がかけ離れている者同士、男だとか女だとか気にせず屈託なく会話できるのが、絵里には楽だった。
 むかし、当時まだ中学生だった二十歳下の甥っ子を連れて遊びに行くことがままあったが、あの感覚に似ている……いや、身内じゃない他人だからこそ、自分をもっと解放できる。
「島崎さんって」食後の味噌汁をすすったあとで、和磨が言った。「割と普通の人なんですね」
「え?」
「すいません、悪く言ってないです。ただ笑い方とか、喋ってる感じとか、意外とお金持ちの人っぽくないなって」
「おしとやかじゃなかった?」
「少々、お転婆なところがおありのようだと、思いました」前髪の隙間から覗く和磨の目も冷たくもなく、あたたかくもない。ただ、夜の海のように静かで神秘的だ。「でも俺たち庶民なんで、あまり品がよすぎてもビビっちゃうんで」
「わたしは世間知らずの、ただの女よ」ハイボールを飲み干した。グラスの下のほうが酒が濃かった。絵里が豪快にグラスを置く様を祐希人が首を引っ込めながら、凝視していた。
 確実に酔っている自覚はある。
 午前中から、ふしだらだ、と鴫原だったら注意されたかもしれない。美濃部だって愛人のこんな素行、良くは思わないだろう。美濃部は、鴫原に嫁いだ『お嬢様』の絵里しか知らない。見せていない。
 ここではそう咎められることもない。抱かれること以外で、自分を受け入れてもらえたのは、一体いつぶりだろう。
「島崎さん……」
 祐希人がそっと目を上げる。
「島崎さんってば」
 自分の顔をさわると、火照っている。
「電話来てます、さっきから」
 少し大きくなった祐希人の声が耳を通り抜けると、さあっ、と涼風が額を撫でたときみたいに頭が冴えてきた。続いて、あの喜びと不安がない交ぜになったものが腹の奥底で疼く。スマホがブルブルとテーブルを叩いていた。画面には美濃部礼一の名前だ。
「出なくていいんですか」
 祐希人は、探るような目つきだ。
「出なくていいっすよ」
 和磨がストローでウーロン茶をかき混ぜる。カララ、と音が鳴る。
 絵里は、兄のほうの言う通りにした。
 十五秒ほどでバイブレーションが止み、代わりにラインが一通来た。念のため確認すると、眩暈でもないのに視界がぐにゃりと歪んで暗くなった気がした。年明けに二十万借りられないか。なるべく早く返す。妻にはとてもお願いできない、君だけが頼りなんだ。今度こそは一発逆転を狙うよ、そうして君を安心させるから。
「あの人、賭け事が好きなの」
 昼時が近くなり、少しずつ客が増え始めている。さっきの女性店員が店内を歩きながらまた祐希人に見惚れている。
 微笑み返した祐希人の顔は女性店員から逸らした瞬間に真顔に戻る。
「奥さんには秘密にしているのよ、休日に友達と競馬やボートレースへ出かけていること。むかし、お金の使い方で奥さんと離婚寸前まで揉めたらしくてね。どうしてもバレたくないんですって。でも家のお金を勝手に使いまくるわけにはいかないでしょ?」
「それって」祐希人が口を薄開きにし、唖然とする。「島崎さん、それは」
「わかってるわよ。それでも支えてあげたくなっちゃうの。だってあの人かわいそうな人でしょ? 仕事でそれなりの役職に就いて、収入だって良いはずなのに、その収入でも追いつかないくらいにお金使って遊ぶことが大好きなの。50過ぎてもよ? 信じられないくらいに大人げないって思うわ、わたしも。でも、その勢いみたいな……会社ではまじめにこなしてるくせに、本当は欲望に忠実なところ。理性的なフリして理性のタガが外れたみたいに遊ぶところが、なんか子どもみたいで、見てるこっちがスカッとしちゃうの。だから彼の自由にさせてあげたいの。そういう人間なのよわたしは」
「もしかして相手は、元の旦那さんとは真逆のタイプですか」祐希人が問う。
「そうかもしれないわね。孝道さんと、そして」絵里は、垂れた横の髪を耳にかける。「わたしとも」
「ああ、なるほど」頬杖をつきながら、和磨の指が、唇をさわっている。「自分たちがまじめで堅実に家庭を築いてきたから、自由奔放すぎる男につい心惹かれてしまった、と」
 祐希人が低い声で切り込んだ。「いくら貢いだんですか」
「内緒よ」
「言えない額っつーことですか」
「あなたたちはわたしみたいになっちゃダメよ」
 財布から出した五千円札を兄弟の前に差し出すように置き、立ち上がる。「まじめに堅実に生きていたほうが、刺激は少なくとも幸せに暮らせたのかも、って後になって気づくことになるんだから」
「まあ島崎さんみたいには、ならないっすね」和磨が苦笑いを浮かべる。
「そうよね」絵里も笑う。その声に力はない。
「もう行っちゃうんですか。まだお昼なのに。もっと飲みたいんじゃないんですか」
「若い男の子たちと久しぶりにたくさんお話できて、嬉しかったわ。おばさんはおばさんの日常に戻らないとね。ねえ和磨くん、祐希人くん」
 こんな人生でも、この子たちよりはまだ恵まれているはずだ……なんて。
「あなたたちはどうか幸せになって」
 その考えこそが、本当の幸せ者のすることじゃないのだろう。わたしは一生こうやっていくのだろうか。
 孝道さん、わたしどこで間違ったのかしらね。



 物思いに耽るようなぼんやりとした目をしていた祐希人が、店を出て行く絵里の姿が消えたのを確認して、「トイレ行ってくる」と席を立った。はあ、と短いため息を残して。
 一人、和磨はまた頬杖をつく。
 祐希人のいない向かいの席に、目をやった。
「どう思う?」
 訊ねる。
「どうって」
 答える者がいた。それは、女だった。先ほどまで祐希人がいた場所に腕を組んで堂々と座っているのだ。
「あたしに相談するまでもないでしょ? あの人を救ってあげたいんじゃないの、和磨は?」
 ふわふわとカールのきいたロングヘアを胸元まで垂らしている。健康的に焼けた小麦色の肌の上で楽しそうに動く、形のいい桃色の唇が、祐希人によく似ている。「悪いヒトじゃなさそうだもんね。ユキは気に入らないみたいだけど。世間知らずそうだし。でも、いくらお金持ってるからってずっとホテル暮らしなんて悲しすぎんじゃん? 引っ越すって言ってたけど、そうしちゃったら不倫相手にとってますます都合がよくなるだけだよ。ま、島崎さんもそれを承知の上でやってんのかもしんないけど。女側が離れられなくなっちゃってるパターンだわ、ありゃ」
「俺、浮気って経験したことないから、ああいう人たちの気持ちわかんないけど」
「あたしだってわかんないよ」ずい、と身を乗り出してくる女の顔が、急に真剣になった。「あんた、まさか浮気する人間の気持ちを『自分で覚えよう』としてないよね? あれは覚えたところで、なんもいいことないからね? つか、あんたの性格じゃできないに決まってんのよ」
「そもそも彼女いねえから」と答えたあとで、今はマッチングアプリなどで簡単に女性と出会える機会が得られることに気づく。祐希人にルックスは劣るが、適当に彼女を二人作って浮気ごっこをするぐらい、俺でもやろうと思えばやれるかもしれない。そうすれば二人の男を愛してしまった絵里の心境が少しくらいは理解できるのか……。
 いや、今回は無理そうだ。
 なぜなら絵里の不倫は、そんな単純な理由だけじゃない気がする。
「だけど、島崎さんがあんまり楽しくなさそうなのは、感じる」
「そうだねー。島崎さんももう意地じゃない? だってさ、いま不倫相手を失ったら」
 さっき祐希人に見惚れていた女性店員が今度はハッとした様子で、和磨を遠巻きに眺める。
「ひとりぼっちになっちゃうもんね」
「ひとり、か」
 店員は逃げるように裏へ引っ込んだ。
 だが、仮に自分が島崎絵里に男と別れるよう説得し、破局させることができたとして、だ。金を与えてまで不倫相手に依存し続けているあの女性がはたして、その後一人で生活できるのか。正直、あぶなっかしい。おそらく生粋のお嬢様育ちで、主婦としては完璧でも、すぐに一人で自立できる感じには思えない。
 旦那もいない、子どももいない、両親も――。
「やっぱマジで家政婦になってもらっちゃう?」
 美咲がにんまりする。
「でもさ、万が一島崎さんを引き取るとするじゃん? さすがにお互い恋愛対象じゃないとはいえ、女性側は気まずい部分もあるっしょ。その代わり、あの汚い部屋をどうにかしてくれると思うけど。あたしも掃除って嫌いだったからさー、お母さんが死んじゃう前のピカピカの我が家、たまには見てみたい気するよね」
「電車の中での恩もある」和磨が小さくつぶやく。「祐希人には言ってないけど、あの人、事件の日に電車で俺を支えてくれたうちの一人だった」
「よく覚えてんだねぇ。あたしが殺されたてホヤホヤってときに」
 和磨の目の色が濁っていく。
「あのときから、お母さんに似てるって思ってたの?」
「そういうわけじゃない」
「ウソつけぇ、あははははっ」
「おい美咲」
「だって、じゃなきゃさあ、あのとき島崎さんにあんなこと言わない――」

「かーくん」
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